2003年
         2月の動き

                                 過去の動き
2003.2.28(金)

 明日古宇利島の字誌の集まりがある。これまで関わってきたこともあって出席する。その会議資料として10名の方々の原稿の割付をしてみた。島のことをこよなく愛し、島の将来についても深く考えている。私などよそ者が、島の方々をそっちのけで「ああだ、こうだ」と泡を飛ばしている姿はこっけいに見えてくる。主役は島の方々なのだから。

 『古宇利誌』は島の人たちのよりどころとなる内容であり、また島の将来を考える指針となる意見でもある。さらに島の人たちの思いの詰まった袋であり、大事な知恵袋でもある(研究者の論文ではないのです)。

 内容について、『古宇利誌』が完成する前に島の人たちの目で確かめ、不足分は補い、さらに膨らまして欲しい。それで明日は、さしあたり二編分(約50頁分)配布する予定である。内容についての報告は、明日の集まりの結果しだいなり。


2003.2.27(木)

 奄美大島の南側に位置する加計呂麻島(瀬戸内町)や徳之島・沖永良部島・与論島などを、以下の言葉をキーワードにして分布をおさえてみた。もし、これらの言葉が古琉球から現在に至り、そして生活の中に生きているのであれば、文化の波及について興味深い姿が幾重に見えてきそうである。
   ・アシアゲ
   ・古琉球の辞令書
   ・ノロ(ノロコメ)関係資料
   ・グスク
   ・シニグ
   ・おぼつ山(御嶽?)
まだ、資料整理ができていないのでどんな結果がでてくるのかわかりません。でも一度はやってみるべき作業である。3月の中旬までには結果がだせるかも。


2003.2.26(水)

 名護博物館から竹茅を頂いてきた。高倉の屋根を修復し、その余りである。約150束位と思われる。高倉の屋根に350束程必要としたという。今帰仁グスクの券売所とグスク公園の東屋の屋根の修復に使う予定である。

 今年の夏には崎山の神ハサギの屋根、国頭村安田の神アサギも葺き替えると聞いている。茅葺き屋根をふく職人も数少なくなり名護市も国頭村奥間の太田孝全氏にお願いしたようだ。また屋根を葺く竹茅は東村で調達したという。小型トラック二台分。福井さんと与那嶺くんが運んでくれた。ご苦労さん。

 
...


...

[高 倉]
 名護市博物館の敷地にある高倉は国頭村謝名城の民家にあったものだという。高倉がいくつも集まったのを群倉(ブリグラ)と呼んでいる。名護大兼久や羽地の呉我や仲尾次や羽地などにもブリグラがあったようだ。奄美大島の大和浜には今でも群倉がある。
 名護博物館の学芸員の山本さんと「倉の中にどのように保管したのだろうか」とあれこれ意見を述べ合った。「俵にして保管したのだろう」「ニキブックを敷いてその上に穀物を広げたのではないか」「それではあまり保管できないしな」などなど。私達の世代には経験のない時代のものである。

 館に戻って調てみると、私達の出し合った意見とはどうも異なるようだ。『山原―その村と家と人と―』(宮城真治)によると「稲は稲束のまま貯えることを常」とするとあった。

 高倉の足を高くして床を敷いてあるのはネズミの被害防止。ブリグラが民家から離れた場所に設置するのは火災よけ。高倉の扉(入り口)は一枚の厚い板木。それにかんぬきの大きな耳をつくり、かんぬきに大きなクサビを小槌で打ち込む、開けるときにもコンコンと叩かないとクサビがはずれないように工夫してあるという。それは「盗難防止なのだ」という。う〜ん、なるほどとうなずくことしばしば。いろんな工夫に知恵を働かしている。

 

2003.2.25(火)

 火曜日はやはり多忙だ。二組の来客で一日の業務が終わり。そういう時は、お客にはニコニコ。職員にグチがいく。すまんこっちゃ。明日も朝から会議。そして3時にはお偉い方がやってくる。それも大事な業務のうち。ネクタイの準備せんといかんのか!忘れないように。気持ちよくお迎えしましょうかね。村民がお世話になっていますからね。ハイハイ

 今朝からこの新しいパソコン。更新ができませぬ。プロバイダーさんに連絡すると担当の職員が休みとか。どこがダメなのかむさったわかりません。更新ができないと書き込みする気になりません。自分のずぼら加減がよくわかりました。今日は中身の書き込みありません。

 「動き」を楽しみしているとの大井川の下流域のシーカヤックさんからの伝言あり。ありがとうございます。昨日(月)はどこもいかず。いただいた野菜で料理。「おいしい。おいしい」の同居人達の弁。「週に一回(月曜日)作るからおいしいのだぞ」と。一番の料理長は「いや、いや日々作ってくれたら、ウデも上達するし、ますます美味しいのがいただけます」ときた。「イヤイヤ。そうすると我家の家計は赤字だらけになります」と言って逃亡するなり。


2003.2.23(

 月曜日は休館です。のんびり休みましょう!!

 
曇り空の一日。墓墓・・・と続いたので墓はしばらく頭から外しておきたい。

 少し気分転換に奄美大島の加計呂麻島を机上で散歩してみましょうかね。加計呂麻島は奄美大島の南側に位置し、瀬戸内町に属している。机上とは言ったのであるが、沖縄県博物館協議会が瀬戸内町で開催されたとき(平成10年10月5日から8日)加計呂麻島を訪ねている。

 平成10年10月5日、みんなより一日早めに奄美に入り、瀬戸内町の油井の八月祭を見た記憶がある。大雨の中、瀬戸内町郷土館の学芸員をしている町氏が空港まで迎えにきてくれたことが思い出される。数名のメンバーがその祭りをみるために1日早めにくるだろうと思っていたら私一人だった。大雨の中、曇った窓ガラスをふきながら(クーラーの壊れた車だった?)工事中の道を二時間余りかかった。ほんとに今でも感謝していますよ。町さん。その時のノートがあるはずだが・・・。時の写真アルバムはありました。

 ノートは見つかりませんがアルバムから記憶jをたどってみましょうかね。平成10年10月5日「油井の豊年祭」を見学している。他の博物館のメンバーは翌日に瀬戸内に入るとのこと。一人参加となった。来賓席に招かれて恐縮してしまった。やはり仕事柄座って見学とはいかず撮影と記録とりに動いています。

 八月踊りにはひょうきんな仕草があり、面をかぶっての踊りであった。到着前に綱引きや大和相撲は終わっていた。綱引き・土俵入り・前相撲・稲刈り・稲すり・米つき・力めし・観音翁の土俵見回り・ガットドン(赤ふんどし)・玉露加那(タマツユカナ)が行われた。その日は大雨で演目のいくつかは体育館の中で行われた。あいさつを求められコメントを述べたが覚えていません。

 加計呂麻島に渡ったのは7日である。諸鈍・呑之浦・須子茂・木慈などのムラをまわった。一つ一つのムラについては、ノートを発見してから整理するとして、神アサギはなかなか興味深くみることができた。沖縄でいうウタキがオボツ山や神山となり、ノロ屋敷などもあり山原の集落形態に近い印象を持つことができた。

 神アサギの建物は山原の建物と赴きが異なる部分がある。屋根が高く現在のは床が敷かれている(大宜味村の根謝銘グスクの神アサギに近い)。古い茅葺屋根の神アシャゲは沖縄の古い神アサギとよく似ている。傍にはアサギナーに相当する広場があり加計呂麻では土俵が設けられたところがあった。加計呂麻島には神アシャゲとは別にトネヤと呼ばれている建物がある。気になる施設である。

 薩摩の琉球侵攻後、与論島以北は薩摩の領地に組み込まれ、砂糖の生産から米作に切り替えさせられている。祭りそのものが大和的だなという印象が強く残っている。「油井の豊年祭」をみながら、しきりに琉球と薩摩の歴史や文化の「くさび論」を頭で展開していたように思う。一度では集落の地理的空間がほとんどつかんでいない。再度訪ねたい島である。 

..
  ▲武名の神アシャゲ(『かけろまの民俗』)    ▲瀬戸内町で(平成10年10月)


  ▲これは加計呂麻島の神アサギ。大宜味村の謝名城の神アサギの
    作りに似ている。


 当時にはすでに神アサギや古琉球の辞令書や祭祀用具(勾玉・衣装など)について下調べをすすめていた。『かけろまの民俗』や「奄美大島の村落構造と祭祀組織―加計呂麻島須子茂のノロ制度―」(ヨーゼフ・クライナー)などで。

 それらの報告で加計呂麻島にも神アサギ(アシャゲ)があることは知っていたし、須古茂の古琉球の辞令書や衣装や勾玉なども是非見たいと思っていた。沖縄本島北部の神アサギと、どんな関わりがあるのか、また集落における沖縄での「ウタキ―神アサギ―集落」の軸線は、加計呂麻の集落ではどうなっているのか。目で確かめたかった。

 シニグなどの祭祀を含めて「北山文化圏」が奄美の南側の加計呂麻島あたりにまで及んでいるのではないかと仮説の線引きをしたことがある。ノロ制度については1429年に三山(北山・中山・南山)が統一された後の統一国としての影響の被さりであるが、それがまた薩摩の琉球侵攻後どのような変遷をたどっていったのか。薩摩に組み込まれながら、400年という歳月が間もなくjやってくるのであるが古琉球的なものが今にどれほど伝えているのか。

 昨日、糸満市の金城氏は「薩摩の琉球侵攻400年が間もなくやってくる」が、ぼつぼつ手をけないとなと呟いておられたぞなもし。地域史のみなさん。


2003.2.21(金)

 22日は館を留守にします。留守番よろしく。うし丸どの。

 明日の報告の準備。墓シンポジウム。報告だけなら自分のペースで。その後のシンポジウムまで考えると頭が痛いですね。なるようになるで行きましょう。これから準備にかかります。どんな報告になるのか。
 墓をみていると、各家庭にはそれぞれの事情があるように、墓にも一言で結論づけられるようなものではないということ。墓の持ち主は家系や血筋を確認したくなるでしょう。私は血筋や家系がどうということも関心があるが、中がどうなっているのか、誰がはいているのか。葬るときに一族がどんな判断をしたのか、そこに関心がある。「三十三回忌になるとイケに骨をこぼす」と言われているが、実のところこぼすことを、ある時期から止めているのではないか。三十三回忌をきちっと済ませたにも関わらず厨子甕からお骨をこぼすことなくある。(イケにこぼした古い墓はあることはある。厨子甕の再利用も非常に少ない)。

 今帰仁村のこれまでの墓調査をみていると、どうも17世紀中頃に墓の様式に大きな変化があったのではないか。17世紀後半頃から銘書が見えてくる。それと銘書に漢字表記の村名が登場し、さらに間切役人の役職が墨字で書かれるようになってくる。村名や間切役人(地頭代や夫地頭、首里大屋子・掟など)に漢字があてられるのは1713年の『琉球国由来記』からである。もちろんそれ以前に漢字が充てられたであろうが。

 17世紀中頃の『琉球国高究帳』では村名はまだひらがな表記が主である。どうも二つの資料の間、つまり17世紀後半頃、厨子甕に間切名や村名や役職名を記載(銘書)するようになったのではないか。そんなことをこれまで関わってきた墓調査を踏まえながら、銘書には死去年月日もあるが洗骨日を記載したのもある。墓の向きも法則性が見出しにくいのは、墓を作る人の生まれ年が判断とされているのであれば、墓の向きがバラバラでいいわけである。といったことを報告の一部にできればと考えている。これは思いつき、明日はレジュメに沿って報告しましょう。しかし、これまでレジュメに沿って報告したことはほとんどありませんね。

 
他の地域の報告が聞けることを楽しみに参加することにしよう。報告の全体像がまだまだみえてきません・・・・。夢の中でまとめましょうかね!では、では


2003.2.20(木)

 
これから(晩7時から)「渡喜仁の字誌」の編集会議なり!
 資料(『議事録』)の準備ができているので、委員の方々と読み合わせと確認、そして出来事に関わる話題を提供してもらうことになります。どんな話が飛び出すのか楽しみじゃ。では、時間なり。


2003.2.19(水)

 
突然、東京からの来客あり。いつもの通り早々と館から退散なり。

[渡喜仁の議事録]
 
雨模様の天気。渡喜仁の昭和42年から昭和53年までの「議事録」を起こしている。私が東京で生活していた頃のことである。復帰以前、復帰後の沖縄を議事録を通してムラの動きを追ってみるのもいい。

 その頃、今帰仁では売店や道路改修、電気が一般家庭に点灯開始、物価上昇につき百ドルアップ、学校体育館の建設の寄付金などについて、区の議事として話し合われている。

 今帰仁村の渡喜仁では、家庭に電気がつくようになったのは1969年7月1日である。当日、日付の議事録に「字民喜びに湧く、記念すべき日である」と。議事録の年号の記載が西暦から昭和の年号に、ドルから円になっている。昭和48年は祖国復帰と言われる沖縄の世代わりであった。「議事録」の記載の中に沖縄全体の動きが読み取れる。しかし、ノホンとしていると、「字誌」の出来事として記事を見逃してしまいそうである。

  歴文にとって貴重な出来事でもムラ・シマ(字)にとって、あるいは人によってはどうでもいい場合もある。「字誌」の場合は、過去の出来事や記録を整理していく作業が多いが、その拾捨選択は「次の次の世代に何を記録として残していけばいいのか。そして、伝えていくか。次の世代への贈り物」としての記録集でありたいと常々考えている。と、同時にムラの方々にとって読みやすさ、誇りも大事である。

 渡喜仁の「議事録」は戦後の渡喜仁の動きの柱となる記録である。それを、どう読みやすく編集していくか。ムラの先輩方から、いくつも知恵を授かっているところ。ありがたいもんです。研究者のアドバイスもありがたい。字誌は自分達の手で、自分達が学びながらつくっていくもの。編集のお手伝いじゃ(早く手放したいもんです)。
 



2003.2.18(火)

 
火曜日が歴文にとって最も忙しい日。午前中、浦添市で22日の「近世墓シンポジウム」の報告の確認と進め方の打ち合わせ。トンボ帰りで2時から今帰仁グスクの整備委員会。晩もあるが体力的に続かずパスです(失礼しました)。

 昨日は一日ぶらりゴロゴロする予定であった。ところが、ゴロゴロして9時、10時と時間が過ぎていくと体が腐ってくる感じ。どこでもいいから、それ行け!!
 結局行ったコースは、大宜味村塩屋・屋古・田港に行き、東海岸に回り東村の平良・川田(先日勾玉の件があったので)へ。さらに北上し国頭村の安波まで。

 安波は国頭村の一つで太平洋側に位置する字である。斜面に発達したシマンナハ、分家筋でできたメーダ(前田)とフクジ(福地)、離れたところに寄留人でできたチュラサク(美作)の集落からなる。シマンナハ集落は斜面に発達し、旧家や神アサギやソージガーなどの拝所があり、山原の古い集落形態を保っている。斜面に位置した集落は昭和30年代までほとんどが家が茅葺屋根であったが、今では茅葺屋根の家は一軒もない。

 安波は昨年大きく変貌した。シマンナハの集落の中をヌルドゥンチまで車が通る道がつけられ、神アサギがコンクリートから赤瓦葺きに、そしてミーヤー(新屋)や上之屋(ウヘー)、アサギナーからヒナバンタにかけて、さらにソージガーなどが整備された。かつての落ち着いた風情が大分失われている。

 安波はウンジャミとシニグが交互に行われている。これまで安波のウンジャミもシニグも部分的にしかみていず、参与観察記録はまだつくっていない(隣の安田とほぼ同時進行で行われているため)。ハナバンタにいくと80歳近い一人のおばあがベンチに腰掛けていた。「安波川の流域はたんぼがあり、その後はキビになり、だあ今は草ボウボウさ。そしてよ、あの引っ込んだところがあるさね。そこに山原船が風よけにとまっていたよ。もっと昔はよ、ムラの下まで船がきよったてよ」など、しばらくゆんたくをした。「家はすぐそこだからよ。遊びにきてよ」と。集落の一番上の家で帰りながら表札をみると「宮城ナエ」とあった。

 「おばあ、ウンジャミやシニグの時、ここも使うの?」と尋ねると、「うん、私も神人(カミンチュ)しているから知っているさ」と。「昔はよ、ヌルは安田まで行ってきよったさ。もっと昔、ヌルは安田から安波に移ってきたってよ」と。
 「おばあ、神人していますよね。神アサギにある梯子であがったのですか」
 「今は歳とって梯子ではあがらんさ」などなど。去年まで使っていた一段あがった神アサギにのぼるのに使っていた木の梯子はヌルドウンチの後ろに置かれていた。「今年のシニグにはきますね」と別れをつげた。安波のおばあとゆんたくできただけで満足じゃ。もちろん、安波の墓地地域も歩いてみた。サキシマスホウの木のある一帯や御願橋の上流部のナンザンバカ(南山墓)とヌルバカのある一帯も(「安波をゆく」で報告)

..
▲安波川からシマンナハの集落をみる ▲アサギナーからメーダ(前田)集落をみる

...
▲新しくつくられた神アサギと梯子     ▲上之屋の隣の家の門(空き屋敷)

..
  ▲上之屋の中にある位牌          ▲ヌーガミにある祠


2003.2.16(

 月曜日は休館です。いい休日をお過ごし下さい。・・・


 来週は「墓・墓・墓・・・」に没頭します。後生の世が近いのかな!「あの世は、いい世ですが、ずっと寝ていないといけないそうです。それで退屈するとのこと。この世は苦労もあるが、今の世が楽しくいいのだそうだ。だから長生きしないといけませんよ」とのあの世の先輩方からのメッセージでした(墓の企画展より)。なるほど、長生きしないといけませんね。

  ぐずついた雨模様の天気が続いています。そのせいでもないでしょうが、奄美が気になっています。

[ちょっとしたメモ書きなり]
 奄美の祭祀が気になっていたので少しばかり資料をかじってみた。特にノロが関わる祭祀。1609年薩摩の琉球侵攻後、1614年に与論島以北を政治的に琉球から切り離される。切り離されながら特に祭祀の面で根強く引きづっているのがみられる。
 1609年あるいは1614年まで琉球王国の領域として辞令書の発給を受けていた。奄美には三十三君の一人「大阿母(大あんさりー)」が置かれていたが、因みに北山(山原)域は今帰仁阿応理屋恵(オーレー)が管轄していた形跡がある。

 与論島や沖永良部島のシニグは沖縄本島北部の辺戸や安田などはシニグとウンジャミが隔年ごとに行われている。その面で共通性が見出せる。祭祀の中身でも共通性が見い出すことができそうだ。シニグやウンジャミ、そしてノロ制度は古琉球から引き継がれていることは紛れもない事実である。それがどこまで遡っていけるか。三山統一後のことか(辞令書は1500年代以後である)。それとも三山の時代の痕跡と見ることができるのかどうか。そのあたりは言語や他の祭祀、あるいは神アサギの分布、グスク、歴史など被せて考える必要がありそうだ。そのあたりは、集中して資料整理をしなければならない(近々まとめる予定)。まだまだ、見通しはたっていませんのじゃ。来月行われれるシンポジウム「山原とは?」に関わってくるテーマである。

[与論島一円を大阿母が支配)
 ノロと関わる祭祀の中の旧暦7月に行われるシニュグがある。与論ではウンジャン(海神祭)と隔年で行っている。
 
[沖永良部一円を大阿母が支配]
 沖永良部にはシニグ堂の地名やシニグ祭などがあり、シニグ祭は隔年行われるようだ。
 

2003.2.15(土)

 
昼間、少し晴れ間があったがまた雨。しとりしとりの一日。朝早くから来客あり。古宇利の字誌の件で競り市帰りに古宇利掟が館にやってきました。字誌の「目次」と「くるす会」の名簿を受け取りに。それに次回の字誌の日程調整で。古宇利掟は「駈けずり回っている鶏」の印象があります。まさか酉生まれではないでしょうね。急いで渡す資料探し。探している最中、別の来客。資料はみつけることができていたので、しめしめ。
 急ぎ足で去っていった後の静けさよ。おおお、そんなことを書いた後が恐ろしい。チョコでも届けにきたかと思っていました。ハハハ

 「仕明地調綴」(明治21年)の字(小字、原)と現在のを比較してみた。村によっては七割ほど合致するが、屋我地島の我部・屋我・済井出・饒平名の四つの村では2割程度しか合致しない。資料の性格にもるものであろうが、明治j21年から明治36年にかけて小字(原)の大幅な組み換え(統廃合)がなされているようだ。
 今帰仁間切の平敷村でその結果をみることができるが、羽地間切地域ではどうなのか確認してみる必要があった。結論として「大幅な小字(原)の編成替えがあった」ということ。(明治21年と同36年の小字(原)の比較表は4頁ほどあるので省略)。小字地名は村(現在の字名)について、検討されなければならない。場所を特定したところで論をたてなければ砂上の楼閣となってしまう可能性が大である。そういった意味もあり地名の範囲特定や変遷は重要である。地名の指し示す場所や土地の特定は、机上の論や語義論に終始しないためにも有効である。
   

  ▲『仕明調帳』(明治21年)

2003.2.14(金)

 
羽地間切の「仕明地調綴」(明治21年)がある。綴りがあるのは羽地間切の真喜屋村・済井出村・源河村・稲嶺村・仲尾次村・田井等村・親川村・伊差川村・我部祖河村・古河知(古賀治)村・呉我村・我部村・饒平名村・屋我村である。仕明地の数量的な分析はできないが、そこに登場してくる字(現在の小字)がいくつも出てくる。それを明治36年以後(現在の小字)と比較してみる必要がある。明治21年時期と明治36年後と同一か、あるいは明治36年の土地整理で小字の統合整理がなされたのか。
 一覧表の整理中なので結論は明日にもわかるかな。期待としては明治21年と明治36年では異なる結論が出て欲しいのであるが結果どうか。これまでのところ明治21年と同36年では同一の可能性が大である。果たして結論は?

 時間がないので結論の結果は明日にでも。「緊急です。帰ってこーいよ!」コールが響いています。ではでは。急げ!!


2003.2.13(木)

 
2月の10日を過ぎたら若者の来館が目立ちます。テストが終わり一段落といったところか。昨年9月に学芸員実習をしたT子さんがやってきて紅葉饅頭をお土産に。広島からはいつも紅葉饅頭。もみじ饅頭じゃないといけないようになっているようだ。まだ、沖縄かな?今日は天気がいまいち。館の窓口で旅している姿をみていると海外?に出かけたくなります。もう少し暖かくなったら離島にでも!

 2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表の記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介します。北山城主末裔については久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもあります。
 大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。
・・・・」
とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。

 もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う (Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?の問い合わせあり)。


2003.2.12(水)
 
 本部町の崎本部までいく。本部半島から粟国島が見えるということを聞いていたので眼で確かめたかったこと。崎本部の集落後方にエージモー(合図森)があり、そこに首里と今帰仁に向かって遥拝する香炉が設置してある。何故だろうか。きっと寄留してきたという意識と歴史を刻み込んで証にしておきたいに違いない。
 崎本部の集落は標高50m近い斜面から海岸線沿いの兼久地に展開している。山原の集落の展開の一つのモデルになるムラとみていい。伝承としては本部大腹が住んだという場所もあるようだ(崎本部のムラについては「ムラ・シマをゆく」で紹介)。
 夕日の沈む地平線の西の彼方に粟国島が見えないか、目を凝らして見続けたが確認できなかった。しかし「瀬底島の南に小高き台地あり俗にサンケー毛と称す。南は恩納の諸邑及び残波岬に相対し、西は遥かに粟国、渡名喜、慶良間の諸島を臨み、後方に伊江、水納の二島を控え・・・・」(『沖縄県国頭郡志』412頁)にあり、粟国島が見えることがあるのだ。
 
 「崎本部農村公園」(エージモー)に次のような説明文があったので紹介しましょう。気に入った。
 
  我が心のふるさとエージモー
    崎本部の集落は、イナガー・グシクー・
   ヤマンガーなどの山々で囲まれ、前方に
   海原が広がっている。エージモーにのぼ
   ると、眼下に瀬底島と、その右後方に伊
   江島が見え、左に目を転ずると、残波岬
   から恩納岳にかけての稜線が展開し、さ
   ながら一福の絵のような美しい風景であ
   る。
    エージモーには各門中ごとのウコール
   (香炉)が安置されている。旧暦五月十五
   日のウマチー(神御願)の日には、こぞっ
   てエージモーにのぼり、首里や今帰仁に
   向ってウトゥーシ(遥拝)の祈願をする。
    二○世紀初頭以来、崎本部から多くの
   先輩たちがハワイや南米に渡った。また、
   フィリピンや南洋群島に、大阪、和歌山
   など他府県に、出稼ぎに行った人々も多
   い。村に残った家族は、エージモーにの
   ぼって松葉を燃やしながら、即興の歌で
   別れを惜しみ、沖合いを過ぎ去る船を見
   送ったものだという。
      一九九九年九月二十日崎本部区 

..
 ▲崎本部の斜面の集落の様子            ▲兼久地の集落(旧道)  

..
 ▲エージモーから粟国島方面をみる    ▲今帰仁グスクへの遥拝の香炉  



2003.2.9(

  珍しく歴文の連休。10日(月)11日(火)と休館です。展示物もホッ一息かな!お疲れ様でした。パソ姫もうし丸も。
  明日はリーフレット用の館内の撮影があります。お願いします。休館ですが、あれこれ日程が詰まっていますね(私は休みますので伸び伸びやってくださいませ)。ハハッハ

 暖かい朝です。動くと汗ばんできます。昨日の「沖縄の地名」のシンポジウムの報告が頭にこびりついています。久しぶりにシンポジウムに顔を出しました。「沖縄の地名」に関わった研究者が一堂に集まると圧巻。また沖縄県地域史協議会の代表経験者が揃うと、それまた地域史の重みを実感させられた(それだけ歳を重ねたということか。老いもじわりじわり・・・)。

 帰りは山原(やんばる)のメンバーのアッシー。車中「山原とは?」と名桜大の中村教授の山原論。しきりに私の山原論を挑発。3月に「山原とは?」をテーマにシンポジウムを企画中のようだ。その企画に乗って欲しいとの依頼でした。歴文のムラ・シマや今帰仁グスクなど北山の歴史研究の根幹に関わるテーマでもあるので避けて通るわけには行きませんね。ハハハ

 「沖縄県の地名」のシンポジウムでも問題あるは課題としてあったのがムラ・シマレベルの小地名でした。「沖縄県の地名」は近世の村(ムラ)レベルの村名の地名が主で小字や小地名の項目に及ぶものではなかった(主な墓や山や文化財的なグスクなどは含まれている)。小地名は地域史や字誌ではあたりまえにやっていることで、それがまだ全県的に集約されていないということであり、議論のたたき台となる共通の資料整理ができていないということなのでしょう。

 これまで小地名の調査や収集は大分なされています。例えば『久米島の地名』や各字誌などがあります。全県となると膨大な量です。イメージしてみると項目だけで個人名の電話帳が何冊分かでしょう。さあ、誰がやるかということでしょう。意義を見出し人生かけてやる人物が出てきませんかね。


2003.2.8(土)

 午後から那覇へ。「沖縄県の地名」(平凡社)シンポジウムあり。参加するなり。

■仲宗根の大城家の墓
 大城家(ハンゼークヤー)の墓は仲宗根のアハンナ原にあった。新中学校建設のため移動をよぎなくされた墓の一つである。この亀甲墓には25基の厨子甕が入っていた。岩盤を掘り込んで前面は漆喰を施してある。入口こはシルヒラシに使う琉球石灰岩が二個平行に置いてあった。
 墓室の右手の中段あたりを掘り込んで別室が設けてあり、その室は「道光二十三年癸卯十月二十九日建立/世代元祖骨移葬此所」と墨書され、日記によると、この墓に入っている人たちより、先の元祖が祭ってあるようだ。道光30年から平成4年まで銘書の厨子甕があり、近世末から現在まで使われていた墓である。厨子甕の銘書は別表で紹介予定。

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    ▲大城家の亀甲墓(アハンナ原)       ▲大城家の墓の厨子甕(銘あり)


           ▲大城家の日記


2003.2.7(金)

 修復に出す文書の選び出し。今回は戦後すぐの地籍図を20枚ほど。戦前の地籍図が戦災で失ったため、今帰仁村では昭和21年8月から三ヵ年かけて、各字の土地の位置・面積・筆界・土地所有権者の確認を行った。その時、土地所有権委員を選定し、委員の立会いのもと土地測量をして図面を作成した。
 検縄のとき縄がゆるく実際の面積と合わず、やり直したり、税金逃れのため台帳の面積を少なくしたため、後にトラブルがおきたり、でたらめ測量だとうわさが流れたり、戦後処理にまつわる話題がいろいろある。その図面とセットになるのが「一筆限帳」「名寄帳」である。

 
夕方から「近世の墓シンポジウム」のレジュメの準備に入る。レジュメができあがると、報告や講演の準備はほぼ完了なのであるが。レジュメの締め切りが二週間も十日も前だと困ってしまう。それだけ間があると忘れて、もう一度作り直すことになるからである。前日にレジュメをつくって翌日に報告や講演をすることがほとんど。あのイ〜ヤな緊張感も短くてすむわけだ(それは自分勝手な逃げなのですが)。そんなこと言っても始まりません。早くレジュメを仕上げないとU市の担当者は困るでしょうね。ただ今、奮闘中!!

 さて、そのレジュメ作成の準備?をこれからしましょうかね。
私に与えられたテーマは「今帰仁の墓調査報告―三、四の事例―」とでも仮にしておきましょうか。

(以下工事中なり)

   今帰仁の墓調査報告―三、四の事例―(仮案)
   
はじめに
    ・今帰仁の古墓の分布とムラ・シマ
    ・今帰仁按司一族と大北墓
    ・中城ヌルドゥンチ(宮城家)の墓
    ・近世初期を反映した池城墓
    ・仲宗根の大城家の墓
    ・謝名の湧川家の墓
   おわりに

 限られた時間なので、仮にそうしておきましょう。明日には大分入れ替えがあるでしょう。これから中身について少し整理します。

今帰仁の古墓の分布とムラ・シマ
 例えば古墓の分布ですが、図で示すと以下のように海岸べり・崖ふち・川沿いの下流・離れ島・集落から離れた窪地などが主。それは近世から墓地の規模や場所の制限があり、そのため平坦地を避けた崖や海岸べりの断崖地などに古墓がまとまっています。また、集落からある程度離して造っています。「島別れ」や「暗黙の境界線」が見られます。その境界線の崩れが今帰仁村では昭和35年頃から始まった火葬が大きく葬制を変えていることがわかります。その辺の話。


     ▲今帰仁村の古墓の分布図

■今帰仁按司一族と大北墓
 
運天にある大北(ウーニシ)墓は別名按司墓ともいい、今帰仁グスクで監守を勤めた第二監守時代の今帰仁按司とその一族を葬った墓のこと。そこに葬られている今帰仁按司とアオリヤエは今帰仁グスクの歴史と不可分の関係にあり、北山監守と今帰仁アオリヤエの役割を紐解く手がかりを与えてくれる墓である。
 一世(尚真王の第三子)の尚韶威(みやきせんあんし まもたいかね)は北山監守を勤めるが亡くなると首里の玉陵に葬られている。越来王子(尚真王の第四子、こゑくのあんしまさふろかね)も玉陵に葬られている。越来王子一族の墓の調査に関わったこともあり、その比較でみていくと興味深いものが見えてくる。
 大北墓は18世紀初頭まで今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあったが、崩壊したため運天に移したという。
 大北墓に葬られている今帰仁按司の首里引き上げと今帰仁アオリヤエとの関わりについて報告の予定。
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▲大北墓の図(具志川家家譜より)    ▲運天にある大北墓(ウーニシバカ)

■中城ヌルドゥンチ(宮城家)の墓
 それもなかなか興味深い墓である。中城ノロは宮城家とは別にノロ墓に葬られていること。また宮城家一族の墓には誌板(板に銘や死亡年月日や洗骨日などが墨字で記されている)が10本余りあり興味を引く。ノロ家には古琉球の辞令書が戦前まで残されたり、伝世品の勾玉や水鳥の三彩やノロが乗る鞍などがあり、祭祀の役職を持つノロ(女性)ともう一方の男方の職業や役割が見えてきやしないか。そのあたりの報告になろうか。また、宮城家の墓の誌板が確認されてから墓調査で厨子甕の中の副葬品や誌板まで気配りする手がかりを与えた墓であった。

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  ▲宮城家の厨子甕に入っていた誌板と移葬された厨子甕

■近世初期を反映した池城墓
 

      ▲池城墓(イチグスクバカ)の外形(1670年)


       ▲池城墓(イチグスクバカ)の内部の様子

■仲宗根の大城家の墓



 以下は明日にでもまとめましょうかね。レジュメは、しばしまたれよ!


2003.2.6(木)

 時々、ある時代をイメージするとき人口やムラの規模を念頭に入れて考えなければならない場合がある。十分吟味された数字なのか心もとないが、人口の数字を掲げておきましょう(『琉球共産村落之研究』  田村 浩著)。
   ・1260年代(英祖王)     3,4万人?
   ・1400年代(尚巴志王)   7,8万人?
   ・1637年(寛文14)       11万1596人
   ・1716年(蔡温の頃)      20万人
   ・1879年(明治12)       31万540人

 蔡温の頃の人口増加が元文検地や山林政策、そして村移動など国家レベルの政策がとられる。電気やガスのない時代、つまり自給自足で生活を賄える沖縄の人口は20万人ということになろうか。もう少し後の明治12年の31万人と考えてみてもよかろう。各年代の沖縄の人口を押えた上でムラ・シマの歴史を見ていく必要があろう。近世のムラ・シマは明治13年の「統計概表」の戸数と人口が比較できる基本資料となろう。

 因みに戦後の沖縄県の人口の推移は下の通りである。
   ・昭和25(1950)年  70万人
   ・昭和50(1975)年 100万人
   ・平成2(1990)年  122万人
   ・平成12(2000)年 131万人

 昼前から天気が回復。陽が射すとポカポカ陽気。そうなると、デジカメ手にムラ・シマ散歩である。Fマートでサンドウッチとチキン二本、そしてミルクコーヒを買い込んで本部町の具志堅へ。具志堅のハサバマ(新里より)・集落内・神ハサーギ・フプガーなどを回ってみた。(詳細は「ムラ・シマをゆく」で紹介予定)

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  ▲ハサバマ(新里よりの海岸)          ▲集落内の石積みの囲い
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  ▲具志堅の茅葺屋根の神ハサーギ     ▲いつも水をたたえたフプガー


2003.2.5(水)

 今日の書き込みはナシです。少し疲れ気味。体調整えます。
 

2003.2.4(火)

 
今日は冷えています。このごろ三寒四温のサイクルで寒さと暖かさが繰り返しています。今日は曇り空の底冷えのする日。

 昨日はプライベートで沖縄市まで。「ちょっと待ってて」とハイ。沖縄市の知花グスクへ。上り口を見つけるのにクルクル回り。「見つけた」 車を置いて上ったのは裏側の上り口だったようだ。最近できたのか、もう一つりっぱなコンクリートの手すりのある階段があった(後で気づいたのだが、修復した大きな亀甲墓への入り口だった)。「グスクへの登り口にしては風情がないな」と独り言。もう一つの階段を上ることにした。入り口はブロックの階段、次第に石と古木の根の張った道。
 グスクへの上り口ではなさそうであったが、風情がいいので進んでみた。すると崖の中腹に古い墓が。説明板があり「鬼大城賢勇(雄か)の墓」とかの説明。墓の傍に石碑に「夏氏大宗墓」とあり、また「大清咸豊三年歳次癸丑十一月吉日」とよめる。咸豊三年(1853)に建立された碑のようだ。どうも古くはここに墓があったようであるが康煕五十五年(1716)に越来間切の宮里村に移した。その時、銘のない厨子甕を残してきたとの伝えあり。宮里の方の墓が修復せざる得なくなり墓の場所としては余りよくなかったようだ。それで、もともとの墓のあった知花の方が風水がよいということで、再度知花に墓をつくりかえたのが「夏氏大宗墓」のようだ。
 大体グスクの後方や崖ぷちにグスクと関わる按司達の古墓を見ることができる。じっくりと石碑の刻字を読みたいのだが・・・・。古墓に後ろ髪を引かれる思いで、曲がりくねった木の根の張った細い道筋をあがってみた。

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    ▲鬼大城賢雄の墓(左側の崖)と「夏氏大宗墓」の碑(1853年建立)

 
知花グスクは琉球石灰岩の孤立した形の丘陵上にある。「ちはな」(知花)の地名は「地の鼻」、「もっとも高い所」の意味があるようだ。丘陵地の中腹あたりに崩れた琉球石灰岩が残っており、野面積みの石垣があったのであろう。頂上部は展望台になっているが急勾配である。頂上の展望台から沖縄本島中部地域が一望できる。さらに東側に太平洋、西側に東シナ海が見渡すことができる。

 知花グスクの正面の上り口に左側の一段高い所に「殿内毛?」がある。石の祠があるがイベなのか、それとも火神の祠か。その左手の奥に小さな洞窟がある。奥の方が明るいので抜け出ることができるか(メモ)。麓にある建物『沖縄市史』(第二巻 文献資料にみる歴史)の411頁の図に「神アシャギ」とあるが、それは『琉球国由来記』(1713年)の「知花之殿」のことではないか(確認必要あり)。

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         ▲知花グスクの麓の一段あがったところにある祠



2003.2.2(

  3日(月)は休館日です。いい休日を

 沖縄県いきいきふれあい財団の「沖縄歴史探訪講座」で、歴文・今帰仁グスク・今帰仁ヌンドゥンチ(簪・勾玉)・赤墓・崎山の神ハサギ・池城墓・運天港・大北墓・百按司墓など。久しぶりの黄金コース。参加者はいい歴史散歩をしたようだ。ここちよい気持ちでお帰りの様子。今帰仁ノロi家で本物の水晶玉や勾玉、そして簪がみれるというのはラッキーですね。


2003.2.1(土)

 旧正月なり。今帰仁グススの桜や御願の様子をみてきました。今帰仁グスクへ上る道筋は満開です。グスク内の数本も満開。例年通り揃っての満開状態はなさそう。でも来週あたりまで見ごろかな!
 旧正月で今帰仁グスク内の火神の祠の中で御願(ウガン)している方々がいました。何を願ったのでしょうかね。神人というよりユタさんでしたね。カラウカーの水はほとんど枯れています。ここニ、三日雨がなければ、カラウカーの水量はほとんどありませんので、今年は少雨かな。かつては、カラウカーの正月の水量で吉凶を占ったというが(今では行われていない)。

 今日は旧正月なので、近くのカーや井戸で若水取りをしただろうか。例えば、今帰仁村の今泊では元旦の立御願として(『今泊誌』)、
    「早朝火の神に御願をし、次にトバシリ(表座敷)からクバの御嶽
    に御花(米)・御合水(泡盛)・仙香を供えて遥拝し、新年の御願
    をして一家の健康と繁栄を祈願し、更に御先祖の霊に御願をす
    る。それが終わると一家揃って朝食をいただき新年を祝った」
という。また次のような古歌もあるようだ。
       新たまる年に炭と昆布かざて
         心から姿 若くなゆさ

  城下の旧正の御願の様子もみてこないといけませんね。


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   ▲今帰仁グスクへ道筋の桜並木          ▲ただ今、満開中です

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  ▲グスク内の歌碑の前の桜       ▲今帰仁グスクの大隅(ウーシミ)の城壁

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           ▲今帰仁グスクの大隅(ウーシミ)の城壁

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▲今帰仁グスクのカラウカー(旧元旦)   ▲祠の中で御願をしています