2003年
         月の動き

                               過去の動き

2003.4.30(水)

 28日29日と伊平屋島へゆく。十数年ぶりの伊平屋島ゆき。今回はムラや集落の成り立ちを確認しておきたいということ。我喜屋と島尻に神アサギがしっかり残り、田名・我喜屋・島尻には水田が広がっている。稲作がまだ行われていることが、祭祀にどのように影響を及ぼし継承されているのか。そのことを膚で感じとることができればと胸のうち考えていた。

 28日(月)午前11時の便で伊平屋島へ。天気晴、波穏やか。しかし、もやっているのですっきりした天気ではなかった。船の旅は約1時間20分。

 伊平屋と野甫の二つの島からなり、近世には田名・我喜屋・島尻・野甫の四つの村があり、明治43年頃に田名から分区した前泊がある。前泊は田名から分区はしたものの地籍は戦後になって分離する。現在5つの行政区からなる。

 船上から伊平屋島の山並みを確認することができる。島に向って左手から阿波岳・賀陽山・腰岳・アサ岳・後岳・タンナ岳がある。島尻は阿波岳と賀陽山、我喜屋は賀陽山と腰岳、田名はアサ岳と後岳の間に発達している。我喜屋・島尻・田名の三つのムラは北側に高い山(御嶽?)を瀬に、集落は南側に展開している。その前方に水田が広がっている。我喜屋・島尻・田名の三つのムラは集落の前方に水田を抱えたムラである。野甫は野原の多い島で畑作と漁を中心のムラである。

 家の囲いは、かつて主に石積みであった。ブロック塀に変わりつつあるが、赤瓦屋根の家とフェーラ石を積み上げた屋敷囲いに伊平屋島のたたずまいをみることができる。石垣に使っている石はフェーラ石と呼ばれ、浅瀬にできた珊瑚石灰岩である。フェーラ石を二列(二重)にして積み上げてあるのが目立つ。ターチ積み(二重積み)と呼んでいるようだ。沖縄本島とは異なった積み方である。また石を切って積み上げたのもあり、布積みもみられる。ケンチ積みもあるようだが確認できなかった。

 我喜屋・島尻・野甫、そして田名の順で歩いてみた。詳細について「伊平屋をゆく」で報告の予定である。歩いての印象をメモ程度に。

@伊平屋村我喜屋
   我喜屋は前泊から西の方に位置する。集落の後方に腰岳の連山
   が連なり、その麓に集落が展開している。四度の移動伝承を持つ
   集落で、現在の集落地は四番目だという。神アサギや旧家の跡は
   三度目の移住地の内村にある。またそこにはマーガー(真井泉)
   と呼ばれる湧泉もある。
   我喜屋の水田の広がる一帯はトゥマイやナートゥダーと呼ばれ、
   かつては港(泊)であったことに由来しているようだ。
   現在の集落は兼久地に立地し、ムラ名の我喜屋はガンジャと呼ば
   れ、潟(干潟)に由来するという。
          ※上里と内村(ウチムラ)は別か?マーガーとウチムラ
            ガーも別?(確認のこと)
   
   稲作地帯ということでもないだろうが、水田と丘陵地との境目あたり
   に土地君と見られる三体の像が祭られている。

   集落から水田を通り故地の内村に向う途中右手にマーガーが見えて
   くる。その側に小さな祠があり、それも土地君だろうか。神アサギに至
   るの途中にガジャ(我喜屋)殿内とあんな殿内の小さな赤瓦屋根の祠
   が平成11年に建立されている。

   神アサギ(県指定)は四本の石柱で高さ70cm位である。しゃがん
   で入るというより腹ばいにならないと入れないほど低い。屋根は茅
   葺きで結びは藁縄を使い、中の材木はほとんどチャーギを使ってい
   る。土の上にウル(珊瑚)がまかれている。香炉やタモト木なし。

   ほとんどの水田が水を切ってあった。稲は根づきこれから成長の時
   期にさしかかっているはずなのに。田に水を流し込んであげたい気分
   であった。それで聞いてみた。「田んぼ水がありませんが…」「今は
   ちょうど根の分割時期で、水を控えることで病気になりにくい…」と
   説明をいただいた。なるほど。土地君の祈りだけではダメなのだ。
   神アサギの屋根の低い理由を「神人が衣装を着替える場所、あるい
   は休憩する場所なので低くしてある」という。

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▲我喜屋は赤瓦屋根の家が目立つ  ▲上里にある我喜屋の神アサギ【柱4本)

   
A伊平屋村島尻
 伊平屋島の南西側に位置し、細長い島の南西はずれにあるので名づけられた村名であろう。我喜屋が親元で、そこから別れてきたムラだという認識がある。移動伝承を持つムラであるが、『琉球国由来記』(1713年)頃にはすでに移動している。独自の神アサギを持ち柱は8本あり我喜屋の4本より多く、勢いのあるムラであったにちがいない。我喜屋より人口や石高が少し低い程である。ノロ管轄は我喜屋ノロが島尻村まで管轄している。

 島尻にシニグモーがある。「土地改良で今の場所に移転してのですよ」とバーキを担いで農作業にでかけるおばあの話。また、「シニグモーには昨年生まれた男の子たちが、女の子は下のアサギの方に集まってくるよ」と。

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   ▲島尻の神アサギ(石柱8本)       ▲移設された現在のシヌグモー

B伊平屋村野甫
 野甫は伊平屋島と離れた小島である。現在は橋が架かり交通は便利となっている。現在、橋の架け替えがなされている最中であった。橋が架かっている近くに集落が島の南側に展開している。後方に野甫神社があり、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる五つの御嶽の一つ。野甫ノロの管轄。

 集落から離れたところにウフマガーと呼ばれる井戸がある。ウフマガーは大きな、あるいはりっぱな井戸ということか。深さ5m近くある掘りぬきの井戸のため釣瓶をつかって水を汲みあげた痕跡がある。塩分を含んでいたようだ。

 集落の前方の海は見事であった。おいしいものをずっととって置きたい気持ちにさせるちゅら海であった。今回、二度も・・・

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  ▲野甫の集落から眺めた海       ▲珊瑚で積み上げた石積み(?積み)

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▲集落から離れた場所に掘られているウフマガー(井戸)と屋敷の珊瑚の石積み


C伊平屋村田名


▲上空からみた田名の集落の様子『ふるさと飛行』より


D伊平屋村前泊
  大分夕暮れが迫っていたのであるが、前泊にある役場の後方の虎頭山に登ってみた。八合目まで車が登る。そこから前泊の集落を撮影した。前泊は昭和25年まで地籍上は田名の一部であったが分区し、現在に至る。
 屋取(ヤードゥイ)集落としての歴史は明治12年の廃藩置県にさかのぼるようだ。首里や那覇、あるいは伊是名島からの移住者で形成されたという。明治43年に田名から行政上は分区はしたが、地籍上は未分離のまま続いたという。



▲虎頭山の展望台から前泊の集落をみる

 (工事中)



2003.4.27(

  月・火と歴史文化センターは休館です。ちょっと、伊平屋島まで!
   楽しい休日を。では、では

 午前中、今帰仁村崎山の神ハサギの屋根の茅下ろしがあった。5月24日頃に屋根の葺き替えをする予定。しばらく骨組みの実測をしたり材料を確かめ、調達することになる。動かないのは8本の石柱(約90cm)である。今回学ばなければならいのは、屋根の構造や名称、道具、そして材料などである。さらに目に見えない理屈と技術である。それは言葉や図でいくら説明されても理解できないところがある。

 神ハサギは、しばらくあばら骨状態で置かれる。その間神アサギの議論が深まればいいと思っている。但し、便利社会に流されるような、あるいは後ろ向きの話ではなくてである。この状態で置いてありますので是非見てください。なかなか見るチャンスがありません(葺き替えは5月24日頃です)。

...
         ▲屋根の茅をおろした状態の崎山の神ハサギ


 明日は旧暦の3月27日である。午後から今泊の親川(ウェーガー)から今帰仁グスクに登るハンタ道(旧道:大正時代まで使われていた)まで行く。明日が1609年の薩摩軍が今帰仁グスクを焼き討ちにした日である。おそら親泊(現在の今泊)の海岸から、親川の側を通るハンタ道を通り今帰仁グスクに攻め入ったに違いない。親泊海岸からちょんまげ姿の薩摩武士が銃や刀を手にハンタ道(石の凸凹道)を馳せ登り、一気に今帰仁グスクまで。
 そこで激しい戦闘を予測していたであろう薩摩軍。ところが今帰仁グスクまで攻め入ったものの、すでに抜けの殻だった。「戦わずして宝物が手にした」と表現している。・・・・・戦うべきだったのか、戦わずして逃げた方がよかったのか・・・・(その出来事が、今帰仁の歴史の転換のきっかけとなる。二つの村の移動、今帰仁監守一族の城下へ、さらに首里へ引き上げ、今帰仁間切を二つに分割するなど)

...
       ▲親川の側からグスクへ登るハンタ道


...
   ▲薩摩の軍勢もここで一服。振り返って海の方を見たかもしれない


2003.4.26(土)

 
世間はゴールデンウィークが始まっている。こちらは楽しい土・日出勤。来週の月・火は待望の連休。骨休みしたいが、「伊平屋島ゆき」を予定している。今日から少しばかり地理空間を頭にいれ、鳥になったり、ネコの低い姿勢、あるいは時という時間の流れで伊平屋島の田名・我喜屋・島尻・野甫・前泊のムラ訪ねてみたい。

 伊平屋島に行ったのはいつだっただろうかと計算してみると、もう15年余りも訪れていない。それではな。やはり、行くべきだ。歴文に伊平屋の足跡や写真を残しておかねば・・・・

 午後から浦添市の指導員の研修があり、歴史文化センターと今帰仁グスクまで。晩はベルパライソで懇親会があるようですがパス。体力が続きません(あしからず)。今日は天気がパッとせず、今帰仁グスクから伊平屋島は見えませんでした(残念)。今帰仁グスクの下の御嶽(ソイツギノウタキ)は伊平屋島への遥拝場所だと言われているが、どうだろうか。


2003.4.25(金)

 
急ぎの用事ができ(那覇まで)、書き込みは明日です。では、では。



2003.4.24(木)

 
5月から11期目の「ムラ・シマ講座」がスタートします。各小学校を回って生徒の募集をかけました。校長先生にお会いし趣旨やこれまでの成果、そして今年の方針などを説明して生徒達が参加するよう呼びかけてもらいました。早速、参加したいと数名の方々から声がかかりました。今年は、大分来そうな気配。7、8回継続して参加できる方々に来て欲しいですね。

 午後からうし丸さんと運天の聞き取りの補足調査。92歳になる上間ナツおばあを訪ねました。うし丸さんが7年前に調査した記録を『なきじん研究』に収録する原稿の確認と補足でした。午後2時過ぎに訪ねたら家の前の草取りをしていました。手を休め話をしてくれました。

 ナツおばあは今帰仁村運天に生まれ、昭和16年(28歳)に満州開拓団で満州に渡っています。話の中身は戦前の沖縄での稲作や運天のトンネル、家の周りにあるカー(夫婦湧泉)のことなど。さらに満州での出来事を語ってくれています(生の記録は『なきじん研究』12号でどうぞ。近々発刊)。92歳にして記憶の確かさと謙虚さには頭がさがります。
   「本ができたら届けますね」と声をかけると
   「字書けたら、いっぱい書いて残したいのにね」と。
   「今日撮った写真も入れましょうね」
   「じょうとうに撮れているからね」と。
 調査場面を画像に収めましたので紹介します。ちょっとした歴文の調査風景です。

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  ▲上間ナツおばあ(92歳)の話を聞く   ▲今でも糸を紡ぐ


2003.4.23(水)

 
午後から数件の来客が続いた。そのような日は「一日何をしたんだろう」と。すると俄然外に出たくなる。今朝、「シーブイがあるので来て欲しい」との電話をいただいていた。来客が続きすっかり忘れていたのを思い出して城下まで。シーブイは石の塊のこと。「これおもりかね?こっちの道直しているときに出てきたよ」と。いただいてきた。おもりに使ったものか、それとも珊瑚を割ったり網の重しに使ったりする石もあるが、これはどうも秤の錘に使った石のようだ。おむすび型?をし、上部に紐を通す穴がある。石灰岩で重さは約3.4kgある。

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          ▲秤の錘(オモリ)に使った石

 
夕方、ちょっとの時間集落に入ってみると、今泊の馬場跡で自転車に乗って遊んでいる小学生に声をかけてみた。ピカピカの一年生だという。仲宗根いっし君と仲宗根ゆうと君だと名前を教えてくれた。おばあが通る姿もあったが、なかなかシャッターが押せなかった。それで二人がポーズをとってくれた。二人ともなかなかの元気もの。

 少し立ち止まってみると、いつもと異なる風景のように写る。同じ場所に動かずにあるのだが、新鮮に見えてくるのは見る側の気持ちの変化なのであろう。通るたびに気になる神ハサギや石積みの屋敷囲いであったりするのだが、消火栓に気づき、少年達の声が聞こえたりするとふとふり向いてしまう。

 シャッター切れなかったが、石垣の前の通り(馬場跡)を杖をつき、ゆっくり歩いているおばあ。その風景をボーと眺められるのは、いつも贅沢だと思う。そのことを昼間来館したS紙のA記者に話したばかりであった(脳裏に残っていて城下に下りたのかも・・・)。

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      ▲今泊のフプハサギ         ▲消火栓と石積みの屋敷囲い

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  ▲神ハサギと石垣の前で仲宗根いっし君とゆうと君(兼次小学校1年)


2003.4.22(火)

 
二、三日前からアカショウビンの声が聞こえる。歴史文化センターのほんの近くで鳴いている。例年より早いような・・・

 学芸員実習の学生達の申し込みがあり、その返事を大学宛に送付しているところである。現在5名、一人保留中。8月の中旬に10日から2週間の期間。今年は台風がきませんように!

〔弁カ嶽をゆく〕
 昨日、首里鳥堀町にある弁カ嶽までゆく。目的は火立毛の痕跡が確認できないかである。弁カ嶽は首里城の東方約1kmに位置し、頂上部分が標高165.7mである。頂上部に香炉がいくつか置かれ、今でも拝みにくる人たちがひっきりなしのようだ。首里や那覇のマチ、首里城などを眼下に眺めることができる。また東に太平洋、西に東シナ海が広がる。

 眺めからすれば、弁カ嶽は遠見台のもってこいの場所である。首里城・那覇港・慶良間島、東側に太平洋、南側に久高島などが見渡せる。御嶽には数多くの香炉と「奉寄進」と刻銘された香炉もあり、航海安全の祈願がなされたに違いない。それだけなく、大嶽は久高島への遥拝、小嶽は知念村の斉場御嶽(セーファウタキ)への遥拝場所としての役割を果たしている。

 首里の都の風水と関わる冕嶽(弁カ嶽のこと)・虎瀬・崎山嶽の一つの御嶽でもある。弁カ嶽には大嶽と小嶽があり、両御嶽の祭祀とも首里大あむしられが掌っている(『琉球国由来記』1713年)。

 弁カ嶽への関心は1644年に烽火の制が敷かれ、各地に遠見台が設置される。連絡網は弁カ嶽(首里王府)に知らせるネットワークである。例えば、沖縄本島の西海岸は伊是名→古宇利島→大嶺原(具志堅)→伊江島→(瀬底島)→座喜味→弁カ嶽へと繋いで知らせる。その最終場所が弁カ嶽の火立毛であった。どんな場所なのか・・・・「奉寄進 玉川王子・・・」の香炉があり・・・・。

 ・1519(正徳14)年に大嶽の前に石垣と石造りの門を建立する。
 ・1543(嘉靖22)年に弁カ嶽に松を植え、参道を石畳道に改修する。
         拝殿を創建する(1543年か)。
 ・1644(順治元(1644)年から正月・5月・9月に国王が詣でるようになる。
 ・1778(乾隆43)年に種子島の船頭が鳥居を建立する。
 ・1800(嘉慶5)年に冊封副使の李鼎元が弁カ嶽で遊ぶ。
 ・1853年ペリー一行が内陸探検のとき弁カ嶽あたりを訪れているようだ。
 ・1944(昭和19)年に日本軍が弁カ嶽に陣地を構築するために石を使う。
 ・1945(昭和20)年攻防戦で国宝に指定されていた石門が破壊される。
 ・1954(昭和29)年にハワイの一心会と鳥堀町の奉仕でコンクリート造り
         の門をつくる。
 ・弁カ嶽は形から航海の目印となる。
 ・弁カ嶽の北東約100mに位置する場所に火立毛があった。

 
昨日、確認できなかったが「火立毛」(『金石文―歴史資料調査報告書X―』沖縄県教育委員会)の碑があるようだ(下の拓本)。

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▲弁カ嶽の門〈現在はコンクリート)   ▲戦前の弁カ嶽(『琉球建築大観』より)

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▲頂上部から首里・那覇のマチを眺める    ▲弁カ嶽の頂上部の様子

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  ▲門の左手に香炉がいくつも...   ▲頂上部への細い坂道


 
 ・・・山□□□□・・・・
  ・・・・艘・・・・・
  一日二艘
  異国  □□□
  □  一日
    □□親雲上
    安波茶親雲上
    □村渠親雲上

磨耗しているようで、一部の文字が判読されている。採択は阿波根直孝氏。


2003.4.19(土)

 
初夏のような天気。平成13年8月28日に行った調査を整理する。大方、公にしてあるが「沖縄県国頭村安田のシヌグと祈り」として収録するため。安田のシヌグを振り返ってみると、シヌグやウシデーク、あるいはウンジャミなどが、今年もやってくるのかと、緊張感と気持ちの高ぶりを覚える。今年は、どこの調査になるのか(本部町具志堅の予定)。あと、どれだけ調査ができるか、あせりもある(体力的に)。一軒一軒しっかり、自分の目で確認しておこうと考えている。


  ▲シヌグが始まるのを待つ神人        ▲神アサギに準備された神酒


    ▲安田の海岸で禊をする            ▲これから山へいく親子

2003.4.17(木)

 
今日は初夏ような陽気。それに旧の3月16日なので潮がよくひいていた。昨日の夕暮れ時大きな月がでていた。撮影したのは9時頃なので満月ではあるが上の方に位置し小さなまんまる月でした(ボケ月でしたので画像はボツ)。

 潮がひきリーフが浮き上がっていたので海岸まで。画像に人影が小さくて見えませんが結構人がでていました(それでも30人ほど)。入道雲のある本格的な夏空ではありませんが、夏はもうすぐですよ。(何故か写真がみな斜めなり)

 7時半から『渡喜仁の字誌』の編集会議。時間です。それ急げ!!

 (工事中)

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2003.4.16(水)

 本部町健堅の帰り、渡久地のマチを通り市場でカツオを仕入れてきた。先日、うし丸さまが「本部町で初カツオがとれたんですね」と新聞の記事を見ながら、食べたそうに声をかけてきた。そう言われると・・・上司として願いをかなえてあげないわけにはいきません。それで天気も回復してきたので健堅の調査をしながら帰りに、渡久地のマチの魚屋さんに寄りカツオを仕入れてきました。三人の姫たちの今日の夕食はカツオの刺身でしょう。きっと。私も食べました。コリコリした歯ごたえと旬の味。美味しかった(カツオに睨まれ、シャッター切れませんでした)。

    (夕方、山形県酒田市から中学生がやってきた。先生方と
     委員会の職員との顔合わせ。そして明日、明後日の行程
     の確認、打ち合わせがありました。)

〔本部町健堅をゆく〕
 本部町健堅(けんけん)までいく。健堅の対岸に瀬底島がある。その間、約600mの海峡は瀬底二仲(シーク・タナカ)と呼んばれ、台風時などに船が風を避けるため停泊した場所でもある。現在は本部新港として伊江島、あるいは与論・沖永良部・奄美大島などを経由する大型汽船が寄稿する港でもある。健堅から対岸の瀬底島に瀬底大橋が架かっている。

 健堅の集落は東側の山手から西側の海岸への斜面に発達している。ムラウチ(一班)は下の写真の中腹に見えるブルーの建物(健堅分校の体育館の屋根)より上の方である。そこには御嶽・神アサギ・ムラヤー・旧家などがあり、ムラの発達は御嶽を背にして発達している。
 
 海岸沿いに浜崎とカキバルの集落が発達している。それらの集落は寄留人と大浜からの人たちで形成している。ムラウチ集落がもともとの健堅の人たちで他の集落は寄留人や、特にカキバルは大浜からの人たちが移り住んでいるという。

 山手にもう一つ集落がある。そこは健堅の石川(2班)で、イッチャファ(石川)と呼ばれる。集会所の近くに宇座茂神社があり、昭和5年月21日(旧7月26日)に改築されている。

 健堅は本部ノロ(崎本部)の管轄である(『琉球国由来記』(1713年)。本部ノロが祭祀を管轄していた村(ムラ)は崎本部村・健堅村の二つの村である。御嶽の中にイベがあり、『琉球国由来記』(1713年)に登場するイシャラ嶽のことか?神名はワカマツノ御イベとなっている。イベの祠の中に香炉があり、古い香炉に銘が彫られているが磨耗して判読ができない。コンクリートの香炉に「土地役場」(?)と記されている。

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   ▲瀬底大橋からみた健堅の集落    ▲健堅の御嶽(イシャラ嶽?)のイベ

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  ▲健堅の神アサギ(新しい場所)     ▲石垣の残る屋敷跡(ムラウチ集落)


2003.4.15(火)

 
予期しない来客があった。墨絵を描かれる金城美智子さんである。新聞や浦添美術館での作品展について知っていた。浦添美術館での作品展のチラシを2月に手にしていたし、何枚も持ち帰ってきていた。
 「白と黒の墨絵」の中に見る生き方は、奄美の田中一村とだぶってくることたびたびである(どこがと、金城さんに怒られそうですが)。浦添美術館での今回の作品展は金城さんの最後の作品展だったようだ。私自身、金城さんの作品展に足を運んだことは一度もない(すみません)。

 それと、金城さんの作品は仲原馬場の墨絵しか見ていない。それもポスターやチラシで。一点の作品しか見ていないが、そこには金城さんの生き様と妥協を許さない厳しさが滲み出ているように思う。限られた時間と肉体と闘っている姿と未来を見つめているまなざしが熱く伝わってくる。

 山原ゆきは、歴史文化センターの隣にあるクボウの御嶽とプトゥキヌイッピャを訪ねること、それから国頭村辺戸の安須森(アスムイ)までいく目的のようだ。。クボウヌ御嶽やプトゥキヌイッピャの話になったのだが、金城さんは久高島のクボウの御嶽の将来が非常に気になるようだ。

 「仲原馬場の墨絵」が話題となった。「まだ、行き場所が決まっていないのですよ」と。「あの松並木に学ぶことがたくさんあります。松並木を見ることは、200年、300年の将来を考えることです」と私が話すと、目頭を熱くする姿がありました。きっと、仲原馬場の墨絵に託した思いが脳裏を駆けめぐったにちがいない。

 40分程の時間だったのだが、一言一言ありがたいメッセージをいただいた思いでいる。今日はじめてお逢いしたのであるが、ありがたいメッセージありがとうございました。近く外国に行かれるようですが、無理されずに。


2003.4.14(月)

 日曜日の夜中というより日曜日の午前一時頃。歴史文化センターに落雷があり、電話回線にカミナリが忍び込んだようだ。それで、電話や火災報知器などが不能状態が続いている。日曜日にはダメで、これから部品の交換である。うまくいくかどうか。うまくいけば電話が使えるのだが・・・。昨日、今日電話が鳴らないので静か。しかし、電話がないと仕事になりませんね。

 交換が午後4時頃からなので、それまで本部町辺名地まで足を運んでみた。先日(3月27日)ノートを開いて辺名地を整理してみたのであるが、やはり足で確認して置きたいことがいくつかあった。と同時に10日に初カツオ漁があったとうし丸さんから教えられていたので豊漁祈願があったかもと。

 徳用丸の船主は大浜である(昭和22年に辺名地から分区)ので豊漁祈願などの祭祀は辺名地と一緒に行っている。神アサギの側に豊漁祈願の旗が一本立ててあった。辺名地公民館にいた書記さんに「最近ウガンがあったのですか」と聞いてみると、「初カツオの水揚げがあったのですよ。大浜の漁師さんが立てたのですよ」と(大雨のため画像に収めることができなかった)。

 「豊年祭はありますか?」と訪ねると「昔はあったといいますよ。今はやっていませんね。豊年祭の衣装が台風で飛ばされてしまったので、どこか名護?あたりでやっているとか・・・。川に流したという人もいるようです」と。「川に衣装を流したなら復活させんといけませんね。きっと、台風で吹き飛ばされたのでしょう」と半分冗談で答えておいた。

 神アサギの隣りの祠には麦が供えられていた。拝所の中には「本部按司・・・」の香炉(三基)、扇、火神、麦が供えられていた(以前は稲も)。神アサギの屋根裏には神酒(カシミキ)をつくる木の樽とポリバケツの容器が置かれていた。

 タキサン(御嶽)の側にある湧泉(カー)あり、そのカーも含めて御嶽としているのだろうか。カーに左縄(今はビニールの縄)が何回も張り巡らされている。毎年新しい縄を張っているのであろう。カーの前の香炉(ブロック)はイビとみたてている?

..
  ▲本部町辺名地の神アサギ(雨の日)     ▲辺名地のタキサンの側のカー

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  ▲辺名地神アサギの側の拝所の内部    ▲供えらた扇と麦穂



2003.4.12(土)

 
午前中原稿校正と割付、三編のうち二編分の原稿渡し(140頁)。明日から三編の編集に入ります。午後から新中学校の完成祝いで案内係。参加者はじめ役場職員の皆さん、ご苦労様でした。

 今日も、書き込みありませんのじゃ。では、明日。



2003.4.10(木)

 
一日中、原稿校正と写真割付作業なり。本日、書き込みナシ。二、三日、続きそう。ああ、おでんが食べたくなった!!ちょと、コーヒータイム。残業中。



2003.4.9(水)

 
新年度がスタートすると、あれこれ更新の調査ものが多く、書き込みを怠けています。

 今日は今帰仁村謝名にいく。謝名は「山原のムラ・シマ」を見ていく視点を形成してくれたムラである。大島(プシマーやウプシマ)集落の後部に御嶽(ウタキ)があり、御嶽を背に南斜面に集落が発達している。御嶽に昭和9年に建立された「謝名神社」(お宮と呼んでいる)がある。お宮の内部に火神と刀、そして軍配の形(名称不明)をしたのが置いてある。

 集落の中央付近に神アサギがあり、アサギミャーに昨年バンク(舞台)が建設された。バンクは五年マーイ(満四年)で行われる豊年祭の舞台として使われる。これまでは豊年祭になると舞台を組み立てて行っていた。謝名にはアヤーチ(操り獅子)と呼ばれる獅子舞(県指定の文化財)がある。今年の豊年祭は、新築されたバンクで行われる。

 御嶽(ウタキ)にあるお宮は「謝名神社」と記された碑がある。後ろに「昭和九年竣工」と書かれている。また、大和の神社式の鳥居があり、神社=ウタキにしていった時代、当時の時代が反映している。御嶽そのもは複合遺跡になっていて貝塚時代の土器片、グスク時代の土器、三山鼎立していた頃のものと見られる中国製の青磁や白磁などが見られる。

 大島(ウプシマ)集落の下方に前田原があり、昭和30年代まで稲作が行われていた。神アサギは昭和35年頃、茅葺き屋根から現在のセメント瓦葺きになった。周辺には火神を祭った祠が数件あり、謝名村の中心部として機能していた時代がうかがえる。

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    ▲謝名の神アサギ         ▲アサギミャーに建てられたバンク

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 ▲ウタキにある謝名神社(お宮)     ▲お宮の内部にある祭祀道具


2003.4.6(

  月曜日は休館です。庭の草刈りなり!心臓大丈夫かな!

 
ピシ(干瀬)は白波がたっているが、内側のイノーは穏やか。そんなには多くないが、今帰仁村今泊のシルバマ(白浜)で潮干かりをしている人たちの姿があった。入れものをのぞいて見ると小さなアサリや魚など。大した収穫ではなかったようだ。子供達は今日の夕食のおつゆにするのだと満面を浮かべていた。

 ピシ(干瀬)まで行った人たちは、サザエやタコなど採れたかな?海鏡やモリを持ち、腰あたりまで浸かっての潮干がりだから、きっと「海の幸」にめぐりあえたでしょう。

 私は浜辺を歩くのみ。シーミー(清明祭)の季節、先祖の墓参りをしている一門の人たちの姿もみられた。

..    ▲今帰仁村今泊のシルバマ(白浜)     ▲潮がひいたのでボツボツピシへ

...
         ▲私はただ海岸からただピシを眺めるだけ!


     ▲「アサリちょっと獲れたよ!」と子供たち


2003.4.5(土)

 
日が射してきたので出勤途中、今帰仁村内の崎山・仲尾次・与那嶺の海岸、山手に上って兼次の古島から海を眺めてきた。兼次古島の遺跡も・・・。さらに今帰仁グスクを兼次側からみてきた(今帰仁グスクの本丸郭と志慶真郭の間は工事中。難工事のようだ)。
 昨日は雨模様のため潮干狩りができなかったようだ。今日の空模様は、まあまあだ。しかし風が強くリーフは白波がたっている。この分だと潮干がりは危険でしょうね。特に俄か漁師は。昨日の浜下り(ハマウリ)が行われた痕跡を訪ねてみたが確認できなかった。それで、今朝撮った画像をお届けしましょう。東京では桜が満開、沖縄ではもう初夏がやってくる。

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     ▲与那嶺の長浜の海岸         ▲仲尾次の海岸(満潮時)

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  ▲与那嶺の海岸(満潮時)               ▲崎山の海岸

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   ▲アロエベラの花        ▲海岸に広がるグンバイヒルガオ

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       ▲今帰仁グスクを東側からみる(工事中)


2003.4.4(金)

 昨日の緊急事態は、全くプライベートな出来事でした。メールや電話下さった方、心配かけました。

 さて、旧暦三月三日沖縄では「浜下り」なのですが残念ながら今日は雨模様。カメラぶら下げてリーフまで行く予定がパーになりました。
 三月三日はご馳走を持って浜辺に行って、潮水に手足を浸して不浄を清め、健康を祈願する行事だという。
 干潮時にはリーフまで干上がるため、俄か漁師たちが潮干がりでサザエや蛸など採る。御願(ウガン)も行われる地域もあったでしょう。明日晴れたら、海岸べりを歩いてみよう。御願の痕跡が残っているかもしれない。
 天気がよければ、おすそ分けがあっただろうに!(残念じゃ)

 今日は一日150頁の原稿出しをした。明日から原稿校正と割付、そしてタイトル付けが待っている。メドがつきそうだ(気を緩めるな)。ではでは。


2003.4.3(木)

 本日書き込みナシです。緊急事態コール!



2003.4.2(水)

 午後から村内の小中学校の教職員の人事異動の辞令交付。その後、初めて今帰仁村に赴任する先生方を案内。20名ほど。二時間足らずなので、運天・新中学校・乙羽岳・歴史文化センターのコース。今帰仁グスクは別の機会に。何名かは今帰仁の魅力にとりつかれたに違いない。ご苦労様でした。


 午前中、廃校となった兼中学校に立ち寄った。まだ片付いていない職員室に始業や終業などを合図した鐘が大事にとってあった。「どこにいくかわからないので、歴文に・・・・」(前S校長先生)ということで歴史文化センターに保存することになった。いつまで使われたのか確認していないが、チャイムになる直前まで使われていたのであろう。
 鐘には「寄贈 字与那嶺 松田太助 子息一同」と彫られている。寄贈の経緯について、まだ聞くことができそうだ。
 
 胴部に桜とペンを模し、その中に兼次校の「兼」の文字をかたどった校章が描かれている。1962年10月から、どれだけ打ち鳴らされたのであろうか。鐘の音で授業の始まり、終わり、あるいは朝会や下校時などが告げられ、行動したのであろう。この鐘が打ち鳴らされた頃に兼次中学校に通ってきた方々にとって記憶に残っているであろう。

 兼次中学校は昭和23年に兼次小学校に中等学校を併置して「兼次初中等学校」としてスタートする。昭和27年に兼次小学校、兼次中学校に改称する。さらに昭和47年に兼次小学校と兼次中学校が、それぞれ独立する。そして、兼次中学校は新今帰仁中学校に統合され平成15年3月で廃校となる。この鐘が寄贈され、鳴らされていた頃は、まだ小学校と併置校の時代である。

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  ▲兼次中学校の鐘           ▲校章の下に「1962ー10」とある


  ▲打ち鳴らされた跡が残っている
   

2003.4.1(火)
  
 4月は新年度のスタートの月。「歴文の動き」も新しい動きにできるか。なかなか変えることは難しい。今のスタイルが楽なのじゃ。しばらく、前年度の「閉め」の業務となります。

 収蔵庫から『経済振興五ヵ年計画』(今帰仁村)書を取り出してきた。A4版で263頁余。この計画書のデータは1955年から1959年に至る数値である。内容の詳細について、ここで紹介できないが、『新今帰仁村史』の発刊があるならば、資料編に収めるべき貴重な内容である。人口・産業・土地利用・麦類・大豆・茶などの生産高や将来の人口増加や生産目標などを示している。

 その一部の「文化」面を紹介する。
   戦後は米国文化の刺激を受けてあらゆる角度から急速度に文化
   面は発達しつつある。
   1.ラジオ
     戦前本村にはラジオを聴取する家庭は僅か18戸に過ぎなかっ
     たが、親子ラジオの設置によって現在(昭和34年)は1000戸に
     普及している。
   2.新聞雑誌
     新聞の購読部数は戦前100部であったが、現在では300部であ
     り、約3倍に増え、その他月間雑誌(文芸春秋・家の光・婦人雑
     誌・其他)の購読者も戦前に比較にならない程多くなっている…
   3.文化施設
     ・公民館
       現在のところ、六ケ部落に設置をみているが、将来は全部落
       に設置すべく、その準備を進めつつある。
     ・映画館
       戦前本村には娯楽施設がなく、名護町まで出かけて行ったの
       であるが、現在では仲宗根に映画常設館が設置され、連夜上
       映しているが、観覧者も日を追って増加の傾向にある。   

 「文化」面の記事の一部をみるだけでも当時の今帰仁の様子が手に取るようにわかる。『経済振興五ヶ年計画』の全内容に目を通してみたいものだ。
 1954年12月の今帰仁村の人口は13,531人である。因みに現在の人口は9,600人である。娯楽の少ない時代13,300人で映画館が成り立っていたということか。

 紙の酸化が激しいため保存処理もしなくてはならない。手袋とマスクをしての扱いになりそう。ゴホン。ゴホン。

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▲『経済振興五ヶ年計画』(自1955年至1959年)今帰仁村の表紙と記事の一部


今帰仁村のワラビ細工









上から布(ぬの)積み 
中は野面(のづら)積み
下は相方(あいかた)積み(亀甲積み)