2003
         5月の動き

                                 過去の動き

2003.5.31(土)

 山原のあちこち(数ヶ所)の畑にたわわに実った黍(マージン)を見かけた。山原のは収穫までもう少し先かな。特に今帰仁村のは、収穫までまだ間がありそうだ(下の画像)。立ち寄った本部町渡久地の市場には黄色い粒のはいった八重山産(竹富)だというマージンが袋に入れて並べてあった。すでに収穫されているようだ。

 本部町具志堅や備瀬のは収穫が間近のようだ。具志堅のは穂に袋がかぶせてあり、台風対策だろうか。

 『西村外間筑登之親雲上農書』(道光18年:1838)に「黍の作り方」がある。現在の黍作りにあっているか心もとないが掲げておく(『日本農書全集』34:現代語訳の一部)。

    きびは12月から1月までに二尺間隔で穴を掘って撒き、水肥をかけて
    薄く覆土して押さえる。二、三寸になったころ二本立てにし、その他は
    間引いてしまう。同時にヘラ?で除草をし、間に小豆を播く。きびを刈り
    取ったら小豆を土の中へうない込んで、あつまいもを植えつける。

    雑穀のうちでも、きびは収量が多く、さつまいもの倍ほどの収入になる
    ものだから、手広く作るべきである。そうすれば、盆や正月に使う分も
    用意でき、余ったものを売れば家計がうるおうことはいうまでもない。     
   
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  ▲今帰仁村今泊ネクン原にある黍畑と実った黍(マージン)(2003.5.31)


2003.5.29(木)

 
昨日、今日と各地を動いていると、あちこちで知人に合います。悪いことはできませんね。ハハハ。玉城村、知念村、大里村、そして本部町、今帰仁村。。。どこどこ回ったのだろうか。頭がクルクル回ってとうとうダウン。

 台風の接近。備瀬の浜で海の彼方を眺めていた二人のおばあ。「アガリカジだから、逃げていくさ。大したことないさ」と。「追い払って下さいね」というと、「うん、うん」と答え、そしてうなづきながら大笑いしています。台風よ、しっしっ。

  (鬼がいない間、のびのびお仕事していますか? お二人さん)


2003.5.27(火)

 昨日今日と夏空です。暑さに弱い方はきついかな。からりと晴れた夏が好きな方もいる。それ好き好きというものでしょう。暑いと言っても、涼しい顔でやっています。

 運天のトンネルができる前の道(坂道)と上間商店、上間商店の女主人の撮影をする(うし○の助手でござんす)。お陰で上間商店のイカを買占め、さらにぜんざいまでおごってもらいました(おごりだっただろうか? 勝手に決めていますが!)。

 明日から、ものを見たり撮影したり、あるいはHPでの博物館づくりのいくつものヒントを与えてくれた人物(二人)がやってくる。少し、大和人の視点を通して沖縄をみてみようと考えている。どのような視点で見ればいいのか、動きの中で学びたいと思っている。二、三日、少し大きく動いてみる。どんなものが見えてくるのか・・・。結論はネコの視点かもネ。ハハハハ

 さて、晴れると外に出かけるがの常というか、クセになっている。何度も行っているはずであるが、昨日は田港・屋古・塩屋、そして稲嶺の御嶽までいく。

 田港の御嶽の中の祠に21基の香炉がある。銘の刻銘されたのが数基あり「奉寄進」は読めるが年月日や寄進者名の判読が困難である。

 田港の御嶽は国指定の文化財である。御嶽の途中はアタイグヮー(小さな畑)である。今でもナスダー(苗代)と呼ばれ、一帯はかつて苗代や水田であったという。田港の御嶽から流れ出る水は、灌漑用水に利用している。石灰分が多いので飲み水には適さないのだという。

 トウモロコシやプチトマト(ミニトマト?)、キュウリ・ナスなどが実をつけている。カボチャは、まだ花をつけている状態であった。田港で生まれ、北大東島や関東などで仕事をしたという90歳の前田翁とユンタクすることができた。

 前田翁は一門で「今帰仁上り」の行事があるのか、戦前の仲宗根や今泊や今帰仁グスクのことなどよくご存知であった。塩屋から舟で屋我地に渡り、そこから運天へ。運天港で上陸して仲宗根へ行ったという。「仲宗根のことをプンジャー」、「旅館もありよった」などと今帰仁に詳しい。

 田港の集落に入っていくと、家と家の間の突き当たりにカー(湧泉)が二つ確認できた。一つはメーダガー、もう一つはハーナカジョーガーである。今では使われていないため、水が枯れている。ほとんど土砂で埋まっている。

 最近落成した新築の田港公民館があり、隣接してウンガミのときのハーリー(田印)が二艘置いてある。鍛冶屋の図像のある祠。図像は年々ほころびて小さくなる。プーチウガンが行われる限り、新しい図像に差し替えるにちがいない。同祠のフイゴと金床(カナカ)、それに金槌などが静かに置かれている。

 沖縄はほとんど鉄を産出しない。グスクが機能していた時代、鉄の多くは大和から輸入したであろう。鉄の移入は農耕の生産高をあげたことであろう。と同時に、まだゆるやかではあるがクニの統治や支配関係にも影響を及ぼしていったに違いない。そんな思いにふけての大宜味村田港ゆきであった。

 屋古と塩屋は改めて紹介する予定。

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▲大宜味村田港の御嶽の中のイビナー(お宮)の祠と内部にある香炉(21基)

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  ▲田港のナスダー(苗代)、今では小さな畑となっている。90歳になる前田翁

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    ▲鍛冶屋にまつわる図像と大きな箱はフイゴ、左側に金床


2003.5.25(

 明日(月)は恒例の休館日です。雨ですね。骨休みにしましょうかね。

 今日もお疲れ様でした。午後から昨日の続きの大工仕事でした。どうにか、片付いたかな? 雨で外がまだじゃ。

 最初に宿泊する方は要注意。天井から金槌が落ちてくるかもよ。道具を二、三屋根裏に忘れたようだ。もう、あがって取ってくる元気がありません。ハハハ。

 それで今日の中身は終わりです。雨でも山原は楽しいもんだよ。ではでは。

 雨の中、どこかのグループ楽しそうに歩いていました。歴文にも来館。一人留守番のうし○さんもご苦労さんでした。


2003.5.24(土)

 
一日雨。毎年やってくる学芸員実習の学生達が使う一軒家の天井板(ベニヤ)がボロボロ。それで午後から天井の板を剥がして張替えをする。大工もせんといかんのだ。昨年は台風で停電や水道などでダブルトリブルと回りに大部迷惑をかけてしまった。今年はそういうことがないようにだね。台風が来ないように願っておこう。(とは言っても、職員には、いつもご苦労かけてしまう。感謝) 明日、明後日で張り終らないと利用する二人の来客に間に合わないのだ。手伝わそうか。そうしよう。ハハハ

 天井張りは、もう少し残っている。狭い屋根裏にもぐって釘を打つのは大変である。そと脚立の登り下り。一枚張っては眺め「吹き抜けの方がいいね。屋根瓦が見えて!」と、ひとり意味のないことをつぶやいている。

 昨日、文化財の宮城くんから運天の絵図のカラーコピーの提供があった(二枚)。一枚は運天の様子、フランス艦船に対応した琉球側の首里王府の役人や家来、番所役人?などの服装などを知る貴重な資料である。この資料の提供は「運天の歴史」議論を深めるものである。有り難いですね。感謝。

 「フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究」(研究者代表 赤嶺政信 琉球大学)に掲載されている写真資料のカラーコピーである。コピー資料の方が鮮明である。
 
 カラーコピー資料は1846年6月の運天及び運天港のようすである。これより以前の1816年バジル・ホールが運天の様子を丁寧に文字で描写している。がこのように現在と比較してもわかるように、写実的に絵で描かれると当時の様子が一目瞭然である。後方の稜線や二本の道筋は現在でも確認できる。数件の茅葺屋根の家、海岸のコバテイシ、番所の門らしきもの、右手のサバニ、左手に見えるのは船着場か。『幕末日仏交流記』(フォルカード神父の琉球日記:中央文庫)やバイジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(春名徹訳:岩波文庫)、それと『琉球と為朝』(菊池幽芳)などの運天の記録と合わせてみると、もっと読み込みが可能である。


            ▲1846年当時の運天及び運天港の様子


▲現在の運天及び運天港の様子(2003.5.27)


2003.5.23(金)

 
自分達が拝んでいる拝所のこと。 先祖のこと。お墓のこと。修学旅行のこと。あれこれと答えられるもの、答えの見えない質問などが多いこと。レファレンスするのは歴文の重要な業務であるが、それには限界がある。

 いい質問にはいい答えで!意地悪な質問にもいい答えをモットーにしていますが・・・時には、逆鱗に触れる問い合わせも。噛み合わないやりとりの後味の悪さよ・・・・職員三名で顔を見合わせて・・・ハハハですね(今日のことではありません。念のため)

  (原稿校正に集中できる時間がなくいらだっていますのじゃ。
   今日で一ランドほぼ終るなり)

    (本日は書込みナシなり)


2003.5.22(木)

〔今帰仁村湧川をゆく〕
 
湧川(ワクガワ)は今帰仁間切の他の村名とは趣のことなった響きがする。それは単なる湧川という音の響きではないような気がする。それは私の単なる錯覚なのかもしれないと思ったりもする。そのことを村の歴史の薄さであったり、人の生活の痕跡を残した遺跡の少なさ、あるいは寄留人の比率の高さであったりするのかもしれない。もう一つは、村名の語義を紐解いていくとき、地形であったり位置であったりする。ところが湧川はそうではないのである。1738年まで今帰仁間切に湧川の村が存在していなかったのである。

 1750年代以前は今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子であった。1713年の『琉球国由来記』に今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子である。これまで確認できた資料からすると1750年頃以降の今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上となってくる。まだ仮説としているのだが、1738年に湧川村の創設のとき地頭代に使っていた湧川を新設村名にして、以後地頭代を古宇利親雲上としたのではないか。そのために地理的な語義に由来した地名ではないことが、他の村名と趣を異にしているのかもしれない。

 今帰仁村の湧川は1738年に創設された村(ムラ)である。新しく創設された村のため、他の村とは異なった歴史を歩んでいる。現在の湧川の地一帯に我部・松田・桃原・振慶名があり、1736年に羽地間切域に移動させられた。羽地間切(現在名護市)の呉我は今帰仁村の呉我山にあった村である。

 湧川に1738年に創設された村であるが御嶽や神アサギがある。御嶽のイベに登る手前にイビヌメーがあり、祠が建てられている。タキヌウガンがなされたとみえ、イビの方は掃除がされていた。石と香炉が置かれている。

 御嶽の麓には湧川ヌルドゥンチの祠がある(写真B)。現在は人は住んでいないが、三組の火神が祭られている。タキヌウガンやワラビミチなどの時、ヌルドゥンチに神人達が集まりウガンをする。

 ムラガーはムラ(集落)の共同井戸である。「湧川 村内之共同井戸 簡易給水装置
第一貯水槽」とある。昭和12年頃の整備かと思われるが未確認(写真C)。
 
   (工事中)

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 @イビヌメーから頂上部のイベへ        A頂上部のイベの様子

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    B湧川ヌルドゥンチの祠                  C湧川のムラガー

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     D湧川のスーガー(塩川)            E石切り場の跡

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        Fメーダウタキ               Gガブガー(掘り込んだ井戸)

2003.5.21(水)

 電話回線の基盤や受話器などの取替えで、一日中三、四名の作業員が出入り。いつ完了するかわからないので、とうとう外出する。作業は19時半に終了しました。それでも、なんだか不安あり。これまでいろいろトラブルあり、信用落としていますからね。

〔今帰仁村湧川をゆく〕
 湧川ゆきは6月中旬に「平和学習」を小学生と湧川小学校の先生方をふくめてやることになっている。そのため、湧川にある戦争あるいは平和とかかわる場所や遺跡を確認したくて。小学生たちに「戦争と平和」を自分のものとして考える時間をつくりたい。湧川という地で、一人ひとりが戦争と向かいあってもらうために、いくつかのキーワードを探しに・・・・。

 ・湧川での戦争への流れ
 ・湧川からも伊江島・読谷飛行場建設
 ・運天港(特攻隊)の陣地構築
 ・防空壕堀り(ウタキの斜面や家の近くの森など)
 ・防空演習(竹やりや消火訓練など)
    ↓
    ↓
 ・収容所へ(収容所での生活)
 ・収容所から帰村
 ・慰霊塔の建立(昭和31年)
 ・南海の塔の建立

などを通して、戦争と平和を自分のテーマとして一人ひとりが考える機会にできればと企画している。

 今日は慰霊塔に刻銘されている233名の湧川の方々の名前、その後ウタキの斜面にある防空壕(数基)を確認してきた。気の重い重いテーマであるが、口癖のよう言っているテレビ画面の向こうの出来事ではなく、「自分が今そこに、何故人間として存在できているのか!」を戦争を通して考る機会にしたい。

 昨年は仲宗根政善先生のひめゆりや先生の著書を通して「戦争と平和」を考えたが、日々の生活の中で自分の問題として捉えることができるようになっただろうか。その時だけでなく。北山高校の生徒達よ。
    
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▲湧川の慰霊塔(昭和31年建立)     ▲233名の戦没者の名前が刻銘

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  ▲ウタキの斜面の防空壕の口       ▲防空壕の内部、隣の壕との連絡口


2003.5.20(火)

 梅雨の中休みか。今日は日が射し青空がみえる。今年の梅雨は雨が降ったとおもったら、晴れ間となる。夏空が青くすっきりと抜け気持ちよい。もう少し雨があっていいのだが。明日は長寿学園の皆さんがやってくる。90名余の方々が。二年間ほど講座を持ったことがあったような・・・?!。記憶が定かではない。私の方が先輩方よりも危ないワイ!

〔名護市仲尾次をゆく〕
 名護市仲尾次をゆく。 かつては羽地間切仲尾次村である。今帰仁村にも仲尾次がある。「琉球国高究帳」や「絵図郷村帳」に中城村と登場する。『琉球国由来記』(1713年)には中尾次村、その後の乾隆二年帳(1737年)には仲尾次村とある。仲尾次村は真喜屋ノロの管轄である。仲尾次の集落の南側に神アサギやウプヤーやニガミヤー、ウェーマタガーなどの拝所がある。

 今帰仁村にも仲尾次がある。羽地間切の仲尾次村同様、中城から仲尾次に改称された。久米島の中城間切は仲里間切となるが、中城間切はそのまま中城間切である。

 仲尾次の集落はナカグスクやウイグスクのある故地から移動してきた伝承をもつ。現在地に移動した時期は近世中頃かと思われるが、移動した地の後方(南側)の山手にウプウガーミを設け、ウガーミを腰当にし、その麓から海岸に向って集落が発達している。故地にあるグスクは集落の西の方に見ることができる。故地にあるグスクの中腹と頂上部に石で囲んだ小さな祠がある。中腹の祠の側が焼けており、最近火事でもしたのでしょう。ウガンする方々、線香の火の後始末はしっかりしないと(何の為のウガンですかね)。

 仲尾次の神アサギあたりから集落の中を歩いてみると、道幅の小さい道がいく筋にも走っている。馬車道だったのであろう。その頃は、その道幅でよかったのであろう。もちろん、車が交差できる道幅ではない。ところどころ整然と交差していない場所がある。かつての集落プランの面影を見る思いがする(メモ書きより)。

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  ▲山手から仲尾次の集落。海は羽地内海    ▲中央部がナカグスクのある森

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   ▲グスクの中腹の石の祠。火事!     ▲グスクの頂上部にある石の祠(イベ?)

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  ▲公民館と広場と松のある森            ▲仲尾次の神アサギ


2003.5.17(土)

    日(所用)・月(休館)と、このページ書き込みありません。

 
シトシトと雨が降っている。山野や回りの草木は生き生きとしている。歴文の屋上から今帰仁グスクとクボウヌウタキを眺めてみた。モヤがかかりくっきりと見えるのは近くの木々の葉や歴文の赤瓦屋根。屋内で仕事していると、雨や木々の息吹に気づきません。
 昨日、今泊集落で見つけた福木の花、そして路面に散っているかわいい黄色い花。福木の花の落下がしばらくつづくでしょう。掃き集めるのは、シマのあばあ達の日課かな。
      (先日行った「ムラ・シマ講座」二紙(沖縄タイムス・琉球新報)に
       掲載されています)

 これから(19:30)「某字誌」の編集会があります。多分飲み会でしょうね。「今日は飲むぞ!!」とすごんでも、せいぜいコップ一杯なり。体が受け付けませんのだ。ハハハ
  
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      ▲館の屋上から眺めた今帰仁グスク(左)とクボウヌウタキ(右)

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    ▲今泊集落の福木に花がついていた。路面に福木の花が散っていました。


2003.5.16(金)

 
梅雨に入ったけど天気はくもり。昨日の雨で山や回りの木々は緑深くいきいきとしている。気持ちいいので、ちょっと集落まで足をのばしてみた。福木の花の時期で、黄色小さな花が道路に散っていた。

 17世紀初頭まで今帰仁グスクの前方にあった今帰仁村(ムラ)の集落が海岸に近い場所に移動している。今帰仁村(ムラ)の集落部分は現在の今泊の西側半分だとみられる。現在、ハタイ原で発掘調査がスタートしている。そのハタイ原域にあった集落がどの範囲まで広がり、そしてどのようなプランになっていたのか。現在の地籍図から見ると、碁盤状といわれているような方形状の区画ではないので、城下へ移動したときに碁盤(方形)状の区画がなされたのであろう。

 集落が碁盤状といわれる方形状であったのか。それとも塊状であったのか。あるいは不規則な形だったのか。ハタイ原にあった集落がどのようなプランになっていたかは、移動後の集落のプランがほぼ方形状なので、その起源について考える手がかりとなりそうである。(現在のハンタ原とハタイ原の地籍からすると方形状ではないので、移動時に計画的に区画された可能性がある)。

 城下に移動した集落が方形状に区画されていると見ると、17世紀初頭に方形状の集落の区画があったと考えることが可能となってくる。今帰仁グスク前方の集落のあったハンタ原とハタイ原の集落のプランの形式によっては、いろいろな議論ができそうである。
 今帰仁村(ムラ)に限定して言うならば17世紀初頭には方形の集落のプランの出現をみることができそうである。今帰仁グスク前方のハンタ原とハタイ原に方形状の集落が確認できたなら、方形状の集落の出現は17世紀以前の古い時期にさかのぼることもできそうである。果たしてどうであろうか。

 現在の今泊の集落プランをもう少し丁寧に見る必要がありそうである。移動してからの集落が、どう展開していったのか。今帰仁グスクの前方にあるトゥムヌハーニー火神の祠や今帰仁ノロ火神の祠、そして阿応理屋恵ノロ火神の祠などが、移動したとき、集落のどのような場所に移ったのか。さらに神ハサギや旧家などの位置を含めてみると、そこに法則性が見出されるのか。なかなか興味深いものがありそうだ。
 
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     ▲道や福木で方形に区画された集落が見られる

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    ▲集落移動の根拠とされる応理屋恵ノロドゥンチの祠とその内部


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 ▲祠の内部にある位牌(左が順治十五年)    ▲今泊のシルバマ(白浜)


2003.5.15(木)

 
午前中、諸志の字誌の件で2名の委員の方が来館。これからの進め方のことで。一軒一軒の記録の集約で足踏みしているところ。原稿と写真が集まってきたようで、それをどう整理していくか。土曜日にその検討会を開催の相談。きっと飲み会になるでしょうね。
 四時半頃、湧川小学校の教頭先生と宮城先生が来館。来月の「平和学習」についての大まかな打ち合わせをする。

 午後から兼次小学校の4年生がやってきた。今日のテーマは民話や伝説。子ども達に民話や伝説をどう自分のものにしていけるか。その手法を石野さんと検討。急きょ、今帰仁グスクにまつわる伝説を子どもたちに自分のものとして、クラス全体のものとして表現してもらおうと(石野さんに通して朗読してもらった)。

   @石切と北谷菜切(チャタンナーチラー)(築城の話)
   A今帰仁御神(乙樽のはなし)
   B北山騒動
   C北山の滅亡と千代金丸

 この伝説は今帰仁グスクの築城から滅亡までの物語である。ここではその伝説が史実かどうかの議論の場ではなく、子ども達が今帰仁グスクの築城から滅亡までのストーリーをまず理解してもらうこと。そして、この物語を分担し、紙芝居にして全員で物語を形にしていく。自分が担当した場面を絵にして表現する。

 具体的に出てくる今帰仁グスクや石垣、あるいは志慶真乙樽の碑や墓、滅亡のとき切ったと言うイベ。北谷菜切と千代金丸の刀を写真で確認し絵にする。志慶真村や志慶真川など現場の確認をしながら全員が分担した部分だけでなく、いつも物語の全体の流れを自分のものにしていく。

 今日生徒に配った資料は、長いものではないので全員が発表できるところまでできれば一生の宝物になるにちがいない。次第に原稿を持たないでのミニ発表会をしていくのもよい。
 少なくとも、20名余の生徒一人ひとりが自分が描いたパネルを手に、体育館の舞台で次々と立って読み上げていく。それも山や谷を作りながら・・・。最後は舞台いっぱいに自分のパネルを持って一直線に並ぶ。全校生徒や父母の拍手を浴びる・・・・・一学期の総合学習はそれで充分だと思いますよ。担任の先生!

 そんなことをイメージしながらの授業でした。子どたちも北谷菜切や千代金丸の写真をみながら眼を輝かしていました。やはり、最後はこの物語を自分のものにできたこと、そしてクラスみんなで完成させたという満足感が大事・・・・。どんな結末になるか楽しみじゃ。(それは、私の勝手な希望と夢)

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         ▲兼次小4年生が民話・伝説の学習(総合学習)

.....
   ▲石野さんが朗読        ▲歴文前のヤマモモが色づいています


2003.5.14(水)

 午前中は村内の教頭先生方の研修会があった。いつもご苦労をなさっているので、パッと天底のタキヌウガンの会場へ案内。普段、板ばさみの教頭先生方ですから気晴らしをかねて!(とは言っても、中身のある総合学習の研修でしたよ)

 午後2時から天底(アメソコ)のタキヌウガン(アブシバレー)に参加してきた。二時に村の人たち(約30名)が神アサギの庭に集まってきた。今日のタキヌウガンの参与観察記録を簡単に報告する。(新城さんと松田さんから、いろいろとご教示いただいた。それは本報告に収録する予定)。ターガミ(田神)はシチャウガンでした。

 村の人たちが揃うと、まず根神屋(ニガミヤー)に向う。今日ウガン(御願=祈り)をしているのは新城栄一さん。供え物は区長と書記さんが手伝う。

@神アサギ
 村の人たちが午後2時に神アサギに集まる。

Aニガミヤー(根神屋)
 根神屋の祠にはいてウガンをするのは新城さん。線香(平線香)に火をつけたり、泡盛と神酒(ミチ)とお米を供える準備をするのは区長と書記。参加者の数の線香に火をつけると村人に一本づつ渡し、また集めて祠の中の新城さんが火神の前の香炉に線香を立てる。合図をするとみんなで手を合わせてウガン(祈り)をする。前方に女性、後方に男性が座って祈りをする。ニガミヤーが済むとヌルドゥンチの祠へ。

Bヌルドゥンチ
 ヌルドゥンチは、かつて天底ノロの住宅。供え物はニガミヤーと同じように線香・泡盛・神酒・お米である。区長が線香に火を付けてみんなに一本づつ配り、再びあつめて祠の中の新城さんが四ヶ所の香炉に分けて立てる。手を合わせてウガンをする合図をすると参加者も手を合わせる。ニガミヤーやヌルドゥンチでの神酒のウサンデーはなかった。ヌルドゥンチでのウガンが済むと御嶽(ウタキ)へ。

Cウタキ(ウイウガンともいう。オミヤ)
 ウタキは森になっていて、頂上部のイベまで綺麗に草刈がなされていた。ウタキの中の途中から神人を掌っている新城さんと区長、そして女性の参加者が階段を登ってイビの祠まで。男性はウタキの途中まで行き、そこでウガンをする。そこから奥は男子禁制の場として入ることを慎む。イベの祠からウガンの合図があると下の方で待機している男性たちも手を合わせてウガンをする。

Dシチャウガン
 
アミスガーの近くの森。ウタキのウイウガン(上のウタキ)に対してシチャウガン(下のウタキ)という。そこはターガミ(田神)でない。その森の中にコンクリートの祠がある。そこでも他の拝所と同様、線香・泡盛・神酒・米が供えられる。そこでのウガンが終ると神アサギに戻る。

E神アサギ

 神アサギのナー(庭:広場)にゴザが敷かれ、そこで車座になって飲みもの(ビール・お茶など)・オードブルが出される。かつては重箱にご馳走をつめ、区長の報告のあと談笑しながら飲んだり食べたりする。今日のウガンが通ったのかポツリポツリの雨になりかけたので神アサギから公民館に移動(私はそこで退散するなり)。
   (神アサギで天底のアブシバレーとタキヌウガンを中心に説明)

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   @神アサギに集まり出発     A根神屋で線香に火をつける

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B根神屋に向ってウガンをする    Cヌルヤーの祠に向ってウガンをする

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   Cウタキに向って進む     Dウタキの中程でウガンをする男性たち

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 Eシチャウガンでのウガン     F神アサギでご馳走を前に談笑をする


2003.5.13(火)

 
午前中会合。午後からも来客が続きヘトヘトなり。今日も更新できず。カウントも000001のままなり。ごめんなさい。訪ねてきてくれた方々。開き直って笑うしかありませへん。・・・ネットさん。利用者から怒られぱなっしかもしれませんが。頑張って!ハハハハ

 明日は午前中「教頭研」あり。中身とコースはこれから思案するなり。その前に明日は旧暦4月14日でアブシ(ムシ)バレーの日。15日のところもある。字(ムラ)によってはタキノウガン(嶽の御願)をする。天底が14日にタキヌウガンをするので説明をして欲しいとの依頼が先日あり。少し整理して臨むことにする(『今帰仁村史』参照)。以下の予備知識を頭にいれて臨むが、できるだけ天底の方々から教えを請うことにする。

〔天底のアブシバレー〕と〔タキヌウガン〕
 天底のアブシバレーは旧暦の4月14日か15日に行われる。タキヌウガンは亥(ゐ)の日に行われていたようだ。今年の旧暦4月14日がゐの日にあたるため、ムシバレーとタキヌウガンをまとめたのかもしれない。天底からタキヌウガンだからと連絡があったのでゐの日だから、今年はアブシバレーとタキヌウガンを一緒にやる形なのかもしれない。ムラ人達にとって休息日でもあった。

〔天底のアブシバレー〕
 アブシバレーが行われる旧暦の4月5月は稲の結実のころである。本来アブシバレーは田の草を除き、畦の草を刈り、虫(特にイナゴ)を駆除し豊作を祈願する祭祀であったであろう。古宇利島(今でも行っている)や今泊などでは害虫を集めて海に流す行事があった。
 その日はインジュミをつくったという。インジュミは大麦を煎って石臼で粉にし、それに黒糖を混ぜ、おわんや皿などに入れてユシン木の葉をサジがわりにして食べたという。アブシバレーの日にはマーパラセー(馬走らし)があり、会場は仲原馬場・天底馬場・親泊馬場がる。相撲もやったようだ。マーウイの会場では俄か店ができ、
   ・雑炊飯(ジューシーメー)
   ・カーカシドーフ(乾燥豆腐・焼き豆腐)  
   ・クルアミグァー(黒飴小)
   ・シルアミグァー(白飴小)
   ・松葉菓子(松葉の形をした焼き菓子)
   ・グンジューピャーガー(一厘菓子)
のようなものがでたという。(インジュミや雑炊飯はわかるが、他のものは知りません)

 食べ物の他に、つぎのようなものが売られたという。
   ・指輪
   ・ベル
   ・オージナ(扇子)

〔天底のタキヌウガン〕
 このタキヌウガンに天底の多くの方々が参加するという。天底の神アサギに集まり、神アサギの中に神人が座り、アサギに向って右側の一段下がったところに男衆、左側に女性が座る。
 現在は区長がムラの行政の報告をし、持参した重箱のご馳走を食べながら昔話や世間話をする場になっているようだ。

 さあ、あすの天底のタキヌウガンがどう行われているか。楽しみじゃ。


2003.5.11(

 月曜日は休館です。骨休みしましょうかね。

〔企画展の準備作業スタート〕
 母の日のため、おばあ達の来館者が多い。お昼頃、本部町具志堅のおばあ達が数名やってきた。しめしめ。今年の夏、具志堅の集落やシニグなどの調査を予定しているので、「具志堅のどこですか?」と訪ねてみた。「ミージマだよ。フプシマ(大島)から分かれた」という。また、現在の具志堅は具志堅・上間・真部の三つのムラが合併している認識は今でも持っているようだ。

   「神人のおばあいませんか?」
      「神人はいないね」
   「シニグの踊りする方いませんか?」
      「若い時にはね、踊っていたよ」

 逆に、「シリガー知っているね。ウプガーは?」

と、おばあ達に試験をされてしまった。具志堅をどんな切り口で見せていこうか。そろそろ調査や企画展の準備にかかるとするか。おばあ達の来館が、「企画展に本腰入れるぞ」と、決意表明をさせられたようなもんだ。そのような後押しがないと、なかなか進みません。今日は決意表明のみ!やはりおばあ達のためにやらんといけませんね。

   「今年の夏、調査に行きますから、よろしく」
   「具志堅の展示会しますのできてよ」

 本部町具志堅調査は今帰仁グスクを抱える今泊で欠落している祭祀が具志堅では今でも行われているということ。そして今まで今泊をイリンシマと位置づけてきたが今帰仁グスクを視野にいれたとき、現在の本部町(間切)は今帰仁間切のうち。そう見ると今泊と具志堅が中心となる。方言や祭祀や人の交流など、今泊は兼次より本部町の具志堅と密接な関わりがありそうだ。

 今回の調査・研究の成果が結果としてどう出てくるのか、それは重要なことであるが、また楽しみでもある。

 神戸・広島・東京、そして地元の学芸員実習をするみなさん、展示企画はスタートします。ときどき「動き」を見ておいてください。皆さんは仕上げの場面からの参加になると思いますので。それから金沢のきみも。

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    ▲上空からみた本部町具志堅の様子        ▲来館した具志堅のおばあたち


2003.5.10(土)

 
午前9時集合。開講式は運営協議会委員長の仲尾次先生に一言激励の言葉をいただいて、企画する方は早速中身の説明からスタート。館内での説明を短めにして外へ。
  ・親川(ウェーガー)
  ・ハンタ道
  ・ミームングスク(見物城)
  ・(ちょっと横道へ)
  ・トゥムヌハーニーの火神の祠(ホコラ)
  ・阿応理屋恵ノロ火神の祠(ホコラ)
  ・今帰仁ノロ殿内火神の祠(ホコラ)
  ・今帰仁グスクの石垣(略)
の順で回った。距離にして1km足らずであるが、結構な中身を持つコースである。

 親川の果たしていた若水汲みやハーウガミなど村人達との関わり。親川を水源にした、かつての苗代や水田地帯があったこと。今帰仁グスクへの登り口や降り口など。

 ハンタ道は今帰仁グスクへの主要道路であったこと。大正13年に新しい道路ができ、また車が出てきてグスクへの道筋が変わり、そのため利用されなくなる。再び、歴史の道の遺跡として見直されてきた。その途中にあるミームングスクは、それが使われていた時代をよみがえらせる役割、もちろん見晴らしのいい場所であり、立ち止まり過去へタイムスリップできる場所でもある。
 
 ミームングスクから今帰仁グスクの方へ目をやると、一帯がハンタ原と名づけられたことがよく理解できる。親川から今帰仁グスクにいたる志慶真川沿いはハンタ原と呼ばれ、80mから100mの崖(崖のことをハンタやパンタという)が続く。その崖に因んで先人達はハンタ原と名づけたのであろう。

 ハンタ道を登りきったところで、大正13年に開通した道路と合流し今帰仁グスクの前方へといく。その道路を境にして左手はハンタ原、右手がハタイ原である。ハタイ原の地名は集落の主要部分に名づけられる。かつてハタイ原に今帰仁村の集落があった場所である。近世の初期に麓に移動する。今帰仁グシク前方にあった集落があった痕跡としてあるのがトゥムヌハーニーの火神の祠(ホコラ)や阿応理屋恵ノロ火神の祠や今帰仁ノロ殿内火神の祠などである。火神の祠はかつてノロさん達の住居であったのであるが、引越ししたものの屋敷跡に火神の祠を残し、その一族は今でもお参りを毎年のように行っている。

 そのような火神の祠を通して、かつてあった集落の痕跡を確認し、一帯に民家をいくつも描き集落をどのようにイメージしていくか。ここで行われる祭祀だけでなく今帰仁グスクとの関わり、さらに集落プランを組み立てる重要な手がかりとなる。阿応理屋恵ノロ火神は今帰仁グシクの今帰仁按司(監守)との関わり、さらには北山監守の首里引き上げとも関わってくる。運天の大北墓や今泊の津屋口墓なども。

 ときどき歴文にやってくる槙一朗くん。いつもはアンマのくっつき虫。出かける前に、「今日はアンマは先生、しんくんは生徒。がんばったら画像で出そうね」と約束。ノートもしっかり書いて,、報告もしてくれました。ご褒美のデビューです。

 もりだくさんのコースでしたが、参加者の皆さんご苦労さんでした。タイムス、新報の記者さん最後までご参加くださってご苦労さんでした。

 (子ども達へ向けの説明は「ムラ・シマ講座」の方で説明してあります)

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▲仲尾次先生が泳いだ話や苗代の話など・・・ ▲ハンタ道の途中で一服

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▲今年は頑張るぞ(槙一朗くん)  ▲石積みがのこっているミームングスク

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▲トモヌハーニーの火神の祠で       ▲さあ、報告の時間ですよ。


2003.5.9(金)

 
天気よし。先日、諸志区長と約束してあった今帰仁村諸志の山釜(ヤマガマ)原にある墓の確認調査へいく。区長の案内で諸志集落の山手(南側)にある山釜原へ。水タンク近くまで道路整備がなされている最中であった。
 緑化木畑の手入れのためか、ガマ近くまで草が刈られ道が開かれていた。森に入っていくと琉球石灰岩の岩が見えてきた。その下の方にガマがあり、そこが墓に利用されている。前面は石を積みあげて閉じてあったのであろう。現在は半分以上の石が崩れ落ち、内部がみえる。そこに二基の厨子甕が壊れ人骨がはいている。有頚の厨子甕である。蓋部分は墓の外にあり、岩の下に落ちている。蓋の二片が確認できた。銘書は記載されていない。香炉か花生けにでも使ったのか、器(磁器)の一部があった。近年に拝みされた跡形がみられない。岩の崩れも大分前にあったようだ。区長は「一帯に人骨が散乱していた」と聞いているという。
 一帯は土地改良や道路などの計画は今のところないという。拝みする人もいないようだし、そのままの状態でいいのではと・・・。「もし気になるようでしたら、ウガンをして開いた墓を閉じてもいいと思いますよ」と。

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  ▲諸志の山釜のガマの墓      ▲ガマに作られた墓の内部(人骨あり)

 その後、うし丸さんの業務日誌で報告があるようにハンタ道へ。先日来たときには結構草が繁茂していたので草刈りがてら行ってみたら、ハンタ道のすべてが綺麗にされていた。ハブの隠れる場所はなし。感謝。明日のコースは何度いってもいいもんだ。みんなが喜ぶのを見つけました。楽しみに!おいしいかな?ムラ・シマ講座の準備はOKです。

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▲ハンタ道(今帰仁グスクへの道)   ▲ミームン(見物)グスクからの眺め

2003.5.8(木)
 
 落雷の後遺症がまだ続いている。午前中、電話やファックスなどの基盤の取替えなどでNTTさんがやってくる。どこからどこまでが電力会社、どこからが電話局なのか。素人にはわかりにくいですね。自然災害のとき、責任の所在はどこにあるのか。保険で対応できるのか、年限は?リースなのか、買取になっているのか。使ってきたものにとっても、その区分がわかりません。説明を受けても・・・・

 インターネットはプロバイダーの都合なのか、こっちのパソコンの故障なのか・・・・それも不明(その間、連絡も受け付けずじまい)。結局はプロバイダーのリニュアルのため休止中であった。何の予告もなし。カウントも1でストップしたままで何日か。ラッキーと喜んだ方もいましたが。容量オーバーだと思い、あれもこれもといくつも消去しました。・・・パソ姫よご苦労様でした。

 今になってドコモから電話があり、「歴文あたりに電波が届くようにする計画はありません」と。サミットのとき、「電波が届くようになります」と売り込んでいましたがね。歴文一帯はドコモの携帯はつながりません。それで何名かは、別の会社のに買い替えました。すでに。屋上に上ったり、外にでないとつながらないようではね。時々、お客さんからグチが聞こえてきます。ドコモさん。

 午後からT新聞社の取材あり。「米国支配時代の遺跡」がテーマ。5.15に合わせての特集?のようだ。いろいろなところに話題が展開したので、内容は省略。なかなか手ごわいテーマなり。切り口のヒントをいくつも得たとのことでしたのでホっ。いい記事書いて欲しいものです。
 
 うし丸さんとコズさんは、ムラ・シマ講座の準備。開講式もあるが、早速フィールドにでる。ハンタ道をゆく、まさに今帰仁グスクと前方にあった今帰仁ムラの集落の痕跡を訪ねる歴史コースである。草が繁茂している場所があるので、またハブの出現もありそうだから下見しておかないといけませんのだ。そういえば明日の午前中、諸志のガマ確認調査があります。忘れないように!

      今帰仁ミャークニーと宮古とどうつながるのか?(土曜日来館)
      墓についての問い合わせ(日曜日来館)
      小学生達がムラ・シマについて調査したい(日曜日来館)
      天底:タキヌウガンを14日(水)に変更して実施(現場で説明)。

などなど。電話でのやりとりなのであるが頭の中はクルクル回転。グタッ! 
原稿校正が午前10時でストップしているなり。目もまわってきました。今日は、これで終わりじゃ。(グチっぽくなってしまった。たまにはあるさ。ハイ)


2003.5.7(水)

 
連休明けは気が重い。腰を上げるのに時間がかかる。また、休み明けはあれこれスケジュールが入る。今年の連休は、前半は伊平屋島。後半は一日は家でブラブラしたかったのであるが、買い物に出かけたら、つい名護市源河まで走っていた。そのまま戻るには、「まだ時間があるなぁー」一時間半ばかり・・・。ちょっと集落に入ってみようかと。まず、今では村名の消えた瀬洲村へ。さらに源河まで足を運んでみた。瀬洲は現在名護市の源河に吸収されているが、近世にあった村である。

〔瀬洲・源河をゆく〕
 
『琉球国由来記』(1713年)に瀬洲村に源河之嶽があり、源河村に上城嶽、野国ニヤ嶽、源河神アシアギ、源河巫火神がある。瀬洲村には源河之嶽と掟神火神と瀬洲村神アシャゲがある。源河村と瀬洲村の両方に神アシアギがあり、源河ノロの管轄となっている(『琉球国由来記』で御嶽の部分で真喜屋ノロの管轄としている部分があるので注意を要する)。現在、源河に神アサギがない。昭和2年にクーグシクに拝所(お宮)をつくり統合してしまったようだ。お宮の内部で瀬洲と源河の拝所は区分している。

 瀬洲村跡は源河の東側の山の麓に細長く集落(メーガーと呼ばれているようだ)が展開している。そこが瀬洲村の故地から移動してできた集落である。故地の近くに瀬洲嶽(シーシウタキ)があり、その名残りをかろうじてとどめている。瀬洲村の源河村への合併の時期は今のところはっきりしない。明治13年の「県統計概表」に瀬洲村は見えない。また明治15年頃の『羽地間切神拝所』に「瀬洲内神火ノ神と瀬洲嶽」は出てくるが村名と神アサギは出てこないので、そのころにはすでに統合されていたのであろう。もう少し現場の踏査が必要だ。

 
瀬洲から源河のウーグシクまで登る。お宮のあるクーグスク(小グスク)はウーグスク(大グスク)に対する呼び方のようだ。そこには源河ウェーキ(豪農)の屋敷が残っている。前方は道路に沿って円形に石積みされ、門口の石積みは、ずれないように結構工夫をこらしている。石はほとんどが海石(珊瑚石灰岩)である。石積みのブタ小屋があり、屋根部分はアーチ型に削った石積みとなっている。

 源河ウェーキは国頭地方一、沖縄の三大ウェーキの一つだといわれている。明治14年11月上杉県令一行が羽地間切から大宜味間切への途中、源河ウェーキで小休止している。「国頭地方、第一の金満家」と表現している。

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    ▲源河の集落。右側の川は源河川     ▲源河ウェーキの屋敷の石積みの一部

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▲源河ウェーキの門の石垣        ▲同家のブタ小屋(ウヮンプル)の跡

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     ▲同家の勝手口の門          ▲瀬洲集落のカー(前湧泉?)


2003.5.4(

 
「おもろさうし」(第14巻46 No.1027)に、次のような古謡がある。その中の「せりかく」は今帰仁村の勢理客、「うむてん」も同じく今帰仁村の運天のこと。そして「かつおうたけ」(嘉津宇岳:標高約448m)は現在は本部町伊豆味に位置している。1665年以前は今帰仁間切のうちの嘉津宇村(近世になって村を移動)にあった山である。嘉津宇村のあった場所は今でも古嘉津宇と呼ばれている。

 一 せりかくの のろの   (勢理客の ノロの)
     あけしの のろの    (蝉の ノロの)
     あまくれ おろちへ   (天雨 降ろして)
     よるい ぬらちへ    (鎧を 濡らして)
  又 うむてん つけて    (運天に 着けて)
     こみなと つけて    (小港に 着けて)
  又 かつおうたけ さがる (嘉津宇岳に 下る) 
     あまくれ おろちへ   (天雨 降ろして)
     よろい ぬらちへ    (鎧を 濡らして)
  又 やまとの いくさ     (大和の 戦さ)
     やしろの いくさ     (山城の 戦さ)

 「かつおうたけ」(嘉津宇岳)は麓から、あるいは遠方からいつも眺めている。六合目あたりに駐車場があるので、そこまで車で何度か来ているが、頂上部まで登ることはなかった。今回は意を決しての登頂であった。
 頂上部は古生代石灰岩を中心とした岩石からなるが、ケイ岩や粘板岩も見られる。駐車場から頂上部まで結構な勾配と岩場である。若者や元気者にすれば、あるいは本土の山登りを経験した方々にとってはかわいいものかもしれない。国頭村辺戸の阿須森や今帰仁村今泊のクボウの御嶽より険しい。登り口に杖が数本置いてあった。登った経験のある方が「どうぞ」と親切心からに違いない。遠慮なく使わせてもらった。ありがたや。ありがたや。

 頂上には、すでに豊見城市から来たという一家?が記念撮影で大声をあげているのが聞こえた。タイマーにしているようだが、どうもタイミングがうまくいかないようだ。「シャッターを押してくれますか」とお願いされた。今度は私に「記念に撮ってあげますよ」と。「では、ではお願いします」(画像に入れるか迷っています。上等に写っていたら・・・。先日新聞のコラムに顔写真が掲載された。すると「誤魔化していますね」ときた。それは10年前の若い頃の写真でした。気持ちは今も昔も変わりません)。

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 ▲豊見城市からきた一家?(頂上にて)   ▲「気持ちは今も昔も一緒ですよ」

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 ▲嘉津宇岳からみた今帰仁方面      ▲嘉津宇岳からみた名護市街と名護湾
 
2003.5.2(金)

  5月3日(土)公休日のため休館です。館の展示は骨休み!!

 午前中、村内の天底小学校(3・4・5・6年)、名護市の屋部小学校(6年)がやってきた。今日は両小学校とも総合的学習を兼ねた遠足である。

 屋部小学校の6年生は沖縄のグスクを中心に話をした。世界遺産に登録された五つのグスクについて少し勉強してきたようだ。今帰仁グスクと三山のこと。そして身近な屋部川の話。18世紀中ごろ、蔡温が三司官を勤めていた頃、首都を首里から名護に移すとか、屋部小学校の前を流れる屋部川から羽地内海に運河を開削する議論があった。それが実施されていたら・・・。

 現在、屋部川中流の白銀橋まで整備されている。もし運河がそこを通っていたら、また首都が首里から移っていたら・・・そんなことを思い浮かべながら眺めて欲しいね・・・などなど。自分達が住んでいるマチをどうつくっていくべきか。

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            ▲現在の屋部川の下流域

 天底小学校は学芸係の石野さんが説明。生徒達はしだいに道具を通した話にひきつけられていく。ノートにスケッチをしたり、道具のなまえをかいたり、聞いた話を書き込んだり。生徒達は楽しそうに夢中になっている。道具一つひとつから、先人達の知恵を学んでいく姿はいいもんだ。

 常設展示は10年ほとんど変わりません。見るたびに新鮮さを覚え、あるいは発見やおもしろさを見つけることができたなら、あなたはそれだけ成長しているのです!!!(館長の結びのことばでした)


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           ▲歴文の第二・三展示室で(天底小3、4年生)


2003.5.1(木)

5月がスタート。沖縄の島の集落は赤瓦屋根の家と石積み、そして青い海がよく似合う。言葉はいりません!!!(伊平屋村歴史民俗資料館、地形図ありがとうございました。このページご覧のようで。休館でしたので玄関から覗きましたよ。いい感じでした)
  
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     ▲野甫の屋敷の石積み(布積み)      ▲田名の赤瓦屋根の家(修理中)

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     ▲島尻の集落の中              ▲野甫の漁港からの眺め


       ▲島尻の水田地帯

〔伊平屋村田名をゆく〕


 4月29日(火)伊平屋村田名(ダナ)をゆく。田名は伊平屋島の北側に位置し、島の北半分の面積をしめる字(アザ・ムラ)である。田名は我地村と田名村、そして久里村の三つからなるという。『琉球国由来記』(1713年)には田名村だけしか登場してこない。すると三村の合併はそれ以前ということになる。
 久里村跡は久里原貝塚あたりを指しているようだが、近世の田名村に統合されたとするには、発掘された遺物からみて時代幅が大きすぎるので躊躇せざるえない。久里村はタビナ井泉の水を利用していたという。
 我地名村跡も発掘調査の成果が得られていないが、村跡だったという場所にイシチナ井泉(別名我地名の井泉)がある。このカーは9月9日に清掃をしカーウガンを行っているようだ。
 三つの村の合併があったという認識は祭祀の神役にも反映している。田名村から伊平屋ノロ、久里村から天ノロ、我地名村から安里ノロがそれぞれでるという。

 田名村の歴史の展開は、集落の前面に広がる水田と田名川の氾濫や潮害、田名グムイ(湿地帯)の開発と密接な関わりをもっている。

 現在田名の神アサギは失っているが、昭和2年調査の『宮城真治民俗調査ノート』に「ノロ以下の神職がアサギの庭に集まってくる」とあり神アサギの存在を示している。旧公民館敷地にあったようだ。アサギ庭では今でもウンジャミのとき船を模してフナウクイをしている(神アサギについては「伊平屋の神アサギ」で報告予定)。

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▲「奉寄進 明治十四年5月吉日」の銘 ▲田名城(ウッカーの山)の途中にある祠
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 ▲シンジャ井泉(学校井戸ともいう)      ▲元田名屋(田名神社)


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   ▲元田名屋の内部の様子       ▲袋にウンジャミの時使う馬の鞍