2003
         6月の動き

  企画展  ムラ・シマ講座                    過去の動き

2003.6.29(

  月は休館日です。

 
写真整理と来客の対応。撮り残しの写真撮影におわれるが、至ってのんびりと。
急用ありで、書き込みナシです。では、では

2003.6.28(土)

 昨日は沖縄県地域史協議会に参加。今回は首里城公園管理センターが受け入れ。ごくろうさまでした。そして運営員の方々も。企画から開催までの大変さは身をもって体験してきましたので。新しい体制で、頑張ってもらいましょう。

 さて、今日は一日写真整理。100枚まできましたので、後30枚じゃ。ボツボツ攻めにはいります。最後の攻めが、なかなか飛び越すことができないハードルがあります。気を緩めずにですね!一気に飛び越したいもんじゃ(何の写真? なんでしょうか)

〔首里城をゆく〕メモ
 首里城ゆきは久し振りです。足元の今帰仁グスクとは趣が異なります。平成の首里城を歩きながら、今帰仁グスクが全面発掘がなされ、そこに建物を建てる事になったとしたら? 1609年の薩摩軍の焼き討ち直後に建物が再建されたのであろうか。基壇のある時代の建物、その後、そして薩摩軍の焼き討ち直前など、いろいろ時代を想定しながら今帰仁グスクの建物のことが駆け巡っていました。

 今帰仁グスクの建物についての絵図などの資料が今のところ皆無なので、復元することは不可能に近いでしょう。復元というより、建物をつくるというなら、まったくといっていいほどの新建築物になるでしょう。

 今帰仁グスクも城壁の修復をしてきています。城壁の工事が一通り終るまでには、20年30年はかかるでしょう。首里城の整備の様子を伺っていると、今帰仁グスクでも学際的な研究がなされるべきだと実感させれました。復元するにあたり18世紀の首里城を基本としているようです。今帰仁グスクは首里城と関係なくあったわけではないので、その影響なども考える必要がある。第一、第二尚氏でも監守という役人を首里から今帰仁グスクに派遣し、その一族が監守を務めているし、今帰仁監守(按司)と今帰仁阿応理恵とも首里王府と密接な関わりを持っているのであるから。

 首里城の説明を受けながら、今帰仁グスクを被せながら見たり聞いたりしていると、なかなか面白いものじゃ。今帰仁グスクの発掘調査の成果が得られないと机上の議論にすぎないが、まずは今帰仁グスクの正殿(本丸ともいう)・北殿・南殿の位置関係を首里城との対比で見ていくと、今帰仁グスクの正殿の向きや規模などの変遷をいくつか想定していくのも面白い。ただし、発掘調査の成果を踏まえない机上の議論にすぎないが、比較研究を進めておく必要があるだろうと考えている。それは夢ですね。

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     ▲首里城の正殿(2003.2.27)       ▲首里城の南殿と番所(2003.2.27)


2003.6.26(木)

 夏至が過ぎた頃から南風がバーバー吹いている。カーシフェーやカーシカジー(夏至風)というようだ。また低気圧でも発生したのかな?と思っていると、「今頃、よく吹くカーシフェーだよ」と、先輩方はさりげなく言う。
   
〔シニグ・ウンジャミ・ウプユミの分布〕
(企画展メモ)
 シニグ・ウンジャミの分布は非常に興味深い。シニグ・ウンジャミ・ウプユミがが本部半島から奄美にかけて分布する。それが何を意味しているのか。その意味解きが、すでになされているにちがいないが、「北山文化圏」(仮説)との関わりで、みていくことができるのではないかと考えている。三つの祭祀の重なりも、そう単純なものではなさそうだ。

 例えば、今泊(今帰仁村と親泊村の合併で今帰仁ノロ管轄)では旧暦の7月の盆明けに行われる祭祀がある。
   ・ウーニフジ(旧盆明けの戌の日)
   ・ウプユミ(ウンジャミ・城ウイミともいう)(旧盆明けの亥の日)
   ・シマウイミ(ムラウガミともいう)(旧盆明けの子の日)
このようにウプユミ(大折目・ウイミ)とウンジャミなどの呼び方がある。日ごとに祭祀の中身が異なっているのかもしれない。一日、一日の祭祀は内容が異なり、呼称も異にしていたのが、呼び方を一つにした地域、今泊のようにウーニフジ・ウプユミ(ウンジャミ)と名称をとどめている地域、国頭村安田や安波などのようにシヌグとウンガミが隔年行っている地域、今帰仁村中部地域(玉城ノロと中城ノロ管轄村)ではウプユミと呼ばれている。今帰仁村古宇利島や大宜味村塩屋あたりではではウンジャミ(ウンガミ)の呼び方で残っている。

 シニグ・ウンジャミ・ウプユミ(奄美のウフンメ)の分布を押さえていく作業は、祭祀の中身を見ていく作業でもある。すでに、いくつか結論(仮説)が出されているが、「北山文化」圏の視点での仮説が導き出せるかもしれない(詳細調査の分布図作成予定)。

 
     小野重朗著作集『南島の祭り』135頁参照

2003.6.25(水)

 連休一日目はは恩納村山田から北上して恩納まで。そして二日目は国頭村塩屋から謝敷・宇嘉・奥・安田までゆく(調査報告はゆくゆく)。デジカメで撮影した画像が印刷物に使えず、撮り直しで。

 暑さに負け、途中の売店であずきバーを食べながら。三本食べたうち、二本があたり。そして夕方5時過ぎ、安田から与那に抜ける横断道路の途中で「やんばるクイナ」と遭遇。昨年の学芸員実習の学生達も、そこでヤンバルクイナとの出会いがあった。見たのは助手席でウトウトしていたアッコ、そして私。他は後部座席でみな寝ていたような。よく出没するところなのでしょう。私のヤンバルクイナとの遭遇は、これで6回目。
   ・大国林道入り口付近
   ・奥から安田へ向かう途中
   ・安波小中学校から東村に向かう途中
   ・安田から与那への途中(大国林道口より与那より)(3回)

 駆け足のムラ・シマまわりであった。しかし恩納村山田と国頭村謝敷と宇嘉、そして奥のムラは車を降りて歩いてまわる。車を止めて集落内を歩くには、結構勇気がいると思う。それは私一人だけかもしれない。

 奥の集落ではおばあ達に話を伺うことができた。
  (工事中)

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▲大宜味村津波あたりから本部半島をみる   ▲リュウゼツランが天に・・・

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     ▲国頭村謝敷の集落              ▲国頭村奥の集落の様子

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 ▲国頭村奥小中学校の側にあるイカリ   ▲国頭村安田の神アサギ(今年修復予定)


2003.6.22(

 24(月)は慰霊の日、「戦争と平和」を考えます。歴文は休館です。そして24日(火)は振り替え休館となります(申し訳ありません)。水曜日にお会いしましょう。

 二週間ほど、あれやこれやの目白押しのスケジュールであった。やっと抜け出ることができたかな。午後から夕方まで草刈りで汗を流し、ビールの一杯でも飲みたい気分である。夕涼みがてら、節々の痛い老体をひきずりながら屋上に上ってみた。いつもの風景であるが、涼しい風が吹き、夏空がまた一段と美しい。緑深い山もいい。山が見え、今帰仁グスクが見え、緑の中、そして夕空や夏空などがあり、贅沢な空間で仕事ができると感謝している。

 歴文の展望台(?)から本部町具志堅のマンクラヤマ(馬の鞍)が見える。夏至の夕日はマンクラヤマの右手に鉄塔があるが、鉄塔の右手に夕日が沈む。冬場はマンクラ山あたりに確か沈む。歴文から見た春分・夏至・秋分・冬至の夕日の沈むポイントを観測しておくのもおもしろいかもしれない。ちなみに今日は夏至である。書き込む元気がなかったのボケーとしに上がってきたのである。(偶然にも夏至なり)。日ごろの行いがいいのかもしれない。誰も褒めませんので、自分を褒めてあげましょう。「いい勘していますね」と。たまには。ハハハ(バカモノめですね)

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 ▲歴文からみたマンクラヤマ(馬鞍山)    ▲歴文からみた夏至の夕日の位置

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 ▲歴文からみた今日のクボウヌウタキ         ▲夏至の夕日もいい


2003.6.21(土)

 
URLの変更のため、不安定状態。メールなどが戻ってくるし、19日のまま更新されずの画面の方々もいらっしゃるでしょう.。申し訳ありませんね。

 午後の便で古宇利島へ。字誌の編集会議である。今日は、以下の三編である。門中(一門)と屋号は特に配慮を必要とする。第三者には編集することができないところがある。それだけ慎重さと気配りが必要だということ。島に渡るたびに、そこは間違っている、そこは直して欲しいと編集した私は言われかねない。そうならないための編集会議である。次第に足が地についた編集会議になってきた。

 前回配布した「溜池と井戸」と「回想」も丁寧な校正がはいている(真っ赤か。トホホホ・・・。編集者泣かせ)。それは有り難いことである。そのために、土台となる原稿を島の方々に校正していただいているのである。

    ・古宇利の小字(原名)
    ・古宇利の門中(一門)
    ・集落と屋号

 前回の溜池や井戸にも原稿に入っいなかった話がつけ加えられ、伝承や民話の編にはいる話題がいくつもでてきた。有り難いものだ。編集者冥利に尽きます。小字(こあざ)のところでは、「雨底原」(アマミジャフ)について話題が展開した。古宇利島の頂上部(上原集落一帯)である。島の方々の生活体験からすると、「高いところにある凹」に落ち着いた。もちろん「天底」地名にも及んだ。小地名(ショウチメイ)については、次の話題なのであるが海岸の地名やキータティファーイやアサギマガイなど。原石なども・・・。

 島の方々の話を聞いていると、屋号や小地名がふんだんにでてくる。それは人や場所を特定するところから話がはじまる。そんな印象を持っている。場所(地名)や人物がわからないと話はチンプンカンプン状態である。三割程度理解できたかな?である。それが方言での会話だと、それはそれはムサっとお手上げです。

 活字で見ていた古宇利島が、島の方々の生の声を通して知る事のおもしろさ。ことばで表現できないほど有り難いものがある。外から見ればアホだと思うかもしれないが。いつも贅沢な仕事だと内心・・・・。ハハハ

 編集会議が終わり、楽しみの港まで島散歩である。サブセンターから港までいくのに古い墓をみ、海岸沿いに新しい道が工事中、旧道沿いの福木やアコウの木などが、変貌していく古宇利島の過去の風景を彷彿させてくれるのであろう。漁港から港あたり一帯の風景を記憶にとどめる手がかりになりそうだ。

 集落にちょっとはいていくと石積みの屋敷囲い、何をしていた家だろうか?今日の編集会議で話題になったスントーヤー(村頭屋)だろうかと思いはせながらの帰途であった。

 原稿を配布したので帰りの手荷物は軽くなったが、これから一年半の字誌発刊までの苦難の道を思うと重たい重たいお土産を肩に担いでの乗船であったの〜。島の編集員の方々、そして古宇利区長どのよ。

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    ▲2003.6.21の古宇利島         ▲漁港から港にかけての道路工事

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    ▲新道が左側の下方で工事中、旧道?沿いの福木とアコウの老木

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    ▲港からみた旧桟橋・ウンナヤー・中森の御嶽、島の南斜面のナハバイの集落


2003.6.20(金)

 
一日、「沖縄県近代遺産総合調査(建造物等)で村内の御嶽・湧泉・神ハサギなど20箇所を踏査する。県教育長文化課仲座氏と都市科学研究所の前原氏。一年間の回るのを一日で。ヘトヘトなり。まとめて報告する予定なり。今日の書き込みはナシ。

 明日は古宇利の字誌で島に渡る。原稿の準備は明日の午前中にでもしましょう。間に合うかな。

 このHPのURLが変わりました。
   http://www.reki.user.tontonme.ne.jp/

となりました。つながるかどうか。
  
2003.6.19(木)

〔具志堅のウプユミ〕
(旧暦7月21日に行われる)メモ
 具志堅のウプユミを時間と場所の流れで見ていく。そのために祭祀が行われる場所を近日中に確認しておきたい。ウプユミは旧7月21日に行われる。1922年に「本部町具志堅のシニグ」調査は比較研究ができる貴重な資料である(『沖縄祭祀の研究』所収)。本調査及び予備調査にあたって活用させていただきたいと思う。

  
@ウーニフジ(御船漕ぎ)     (旧暦7月19日)
  Aウプユミ(大弓)          (旧暦7月21日)
  Bトン・トト・トン(シルガミ)   (旧暦7月23日)
  Cヰナグヌユバイ(女の夕食)  (旧暦7月24日)
  Dハートンチミチ(早朝の神酒)
     シニグ・タムトゥノーイ     (旧暦7月25日)
 

■ウプユミ(大弓) 

・公民館
   ↓ 公民館でミチとバイムッチーがつくられる。
・アサトウフヤー
   ↓ 神人(ノロ・ヌルクメーイが神ハサーギに向う途中、あさとうふやーへ行く。
   ↓ (位牌と香炉を拝む) 
・神ハサーギ
   ↓
・お   宮
   ↓
・グシクモー
   ↓
・神ハサーギ
   ↓
・ウフガー
   ↓
・お    宮

  (工事中なり


2003.6.18(水)

 小学生に向けての「平和学習」。湧川小学校は44名の在籍で小さな学校である。4月から中学が統合されたためそこへ。各学年数名づつであるが5年生が14名もいる。何故だろうといっても、自然の成り行きとは思うのだが聞いてみたくなる。
 前半は、
  @湧川内で戦争(せんそう)とかかわるものを見つけよう!
  A戦争(せんそう)のとき、あなたのおじいさんやおばあさんは、どこにいまし
    たか?
の二つのテーマで。後半は戦後10年の復興期のカラースライドを使って「平和」と「自然環境」とを合わせて「平和とは?」と考えてもらった。ハーモーモーの目立つ1年生から6年生までの一斉だから、話す方としては一番苦手な場面。

  アンケートを出したのは、親子で戦争や平和について考える時間を持つということ、今日の「戦争と平和」の話を聞いたうえで6月23日の慰霊塔の前に立つ意義を見出してくれるでしょう。身近にある戦争と関わる慰霊塔や防空壕、そして南海の塔を通して、考える機会になればと思っている。

 先日慰霊の塔と南海の塔を訪ねたのであるが、やはり現場を確認して置きたくて出勤途中足を運んだ。南海の塔の三つの仏像と大和姓の方々の刻銘(軍人でしょう)、名前のわからない方々、慰霊塔は湧川出身の名前がづらり。どこどこのとわかる関係である。校長先生のコメントに「慰霊塔に塗り固められたセメントは、各家庭の香炉の灰を混ぜたものだということに、改めて考えさせられます」との言葉があった。

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2003.6.17(火)

 
フィリピンあたりに台風あり。沖縄本島に接近するのかな? シッ シッ(本島の西よりのコースだと避けられないかも?)

 先日湧川小学校の生徒達に二つの質問を投げかけてあった。そのアンケートの整理をして明日の「戦争と平和」学習に備えたい。

  @湧川内で戦争(せんそう)とかかわるものを見つけよう!
  A戦争(せんそう)のとき、あなたのおじいさんやおばあさんは、どこにいまし
    たか?

@湧川内で戦争(せんそう)とかかわるもの
   ・防空壕(ぼうくうごう)
   ・慰霊の塔
   ・南海の塔(納骨堂)
   ・嵐 山(山)
   ・うちの家や屋敷(玉城さん)はアメリカ軍に占領されていた。
   ・回りの家はアメリカ軍に焼かれた。
   ・おじいちゃんの弟四名全員戦争でなくなった(慰霊塔に刻銘)。
   ・アメリカの基地
  
A戦争(せんそう)のとき、あなたのおじいさんやおばあさんはどこに?
  ・南洋諸島(おじい)/防空壕(おばあ)
  ・兵隊につかまった(他のおじい、おばあ)
  ・フィリピン(長田のおじいちゃん)
  ・満州(喜屋武のおじいちゃん)
  ・呉我(現在の名護市)(おばあちゃん)
  ・大 阪
  ・防空壕の中
  ・伊江島(おじいちゃん)
  ・家を守っていた(おばあちゃん)
  ・おばあちゃん(福岡県)戦後結婚
  ・名護市仲尾に避難(嵐山)
  ・渡喜仁(今帰仁村)
  ・伊豆味(本部町)、おばあさんの母・兄・姉(五人)が爆撃でなくなる。
    (おばあさんは、戦争のことは思い出したくないようで、多くは語りません)
  ・おじいさんは海軍で長崎県
  ・湧川にいて嵐山に避難した。
  ・山の中を逃げ回っていた。
  ・防空壕や山の中
  ・台湾(兵隊として)

 湧川小学校のみんなから受け取ったアンケートです(30世帯中回収19名)。明日は、それを踏まえて「戦争と平和」を自分のものとして考える時間にしたいと思います。戦争を語ることは、いつも胸が痛い。平和につないでいく指針でもあるので、参加者も私も我慢の勉強会だな。
 どんな話にしようか、これからまとめです。


2003.6.15(

  
明日は休館です。多忙の一週間でした。歴文の前の草刈りをしたので節々が痛く、骨休みせざるえません。明日は。ぎっくり腰ではありません。ハハハ。来週も予定が目白押し。楽しみじゃワイ!

〔トン・トト・トン(シルガミ)〕
(午前9:30のメモ)
 
本部町具志堅のトン・トト・トン(シルガミともいうようだ)の祭祀の流れを確認するため、これから足を運んでみる。旧暦7月の中旬から下旬にかけて大きく五つの祭祀が行われる。
  @ウーニフジ(御船漕ぎ)     (旧暦7月19日)
  Aウプユミ(大弓)          (旧暦7月21日)
  Bトン・トト・トン(シルガミ)   (旧暦7月23日)
  Cヰナグヌユバイ(女の夕食)  (旧暦7月24日)
  Dハートンチミチ(早朝の神酒)
     シニグ・タムトゥノーイ     (旧暦7月25日)

 
旧暦の7月23日に行われるトン・トト・トン(シルガミ)は一連の祭祀の一つである。まずは、トン・トト・トンが行われる祭祀の流れと祭祀場の確認をしておきたい。
   お宮・大川
   お宮→(拝殿内)→クグンビラ→クランモー(倉の毛)→(家々回り)→
   (太鼓をたたきながら)→大川(フプガーへ)→(大川・ナレミャー・ミハージ)

※トン・トト・トン
の呼称は太鼓をたたくトン・トト・トンのリズムからきたものか?
           リズムは異なるようだが、今帰仁村湧川のウプユミとワラビミ
           チのときに小学生が湧川・勢理客・上運天・運天の祭祀場で
           小さい太鼓をたたくのと類似するものか?

トン・トト・トンの場所確認(午後6:00のメモ)
 旧7月23日のトン・トト・トンが行われるお宮・クランモー・フプガー(大川)・ミハージの場所の確認をしてきた。この祭祀がどのような流れで行われるのか楽しみである。お宮・大川・ミハージの場所はすぐわかったがクランモーはムラの方に教えてもらった。「一年に一回しか使わんから草ボーボーなはずよ」と。その通りであった。

 農作業帰りのおばあさんがフプガーに降りて手足と顔を洗っていた。フプガーの側の畑の手入れをしたいたおばさんも手を休めて一服。そこで以下の会話。
  「フプガーの側の道、謝花に行くのですか?」
  「嘉津宇に行けるよ」
  「フプガー綺麗に掃除してありますね?」
  「この前よ、中の掃除したさ。あの木(棒)も取り換えたさ」
  「トン・トト・トンは太鼓の音ですかね?」
  「うん、そうだよ。こっけいだね」
  「昔は、家々を回っていたのですか?」
  「今は回っていないがよ、新しい家を回っていたさ」
  「クランモーの場所わかりますか?」
  「うん、仲里・・・、ウイヌジュンサ・・・の側の道を降りていくさ。年に一回
   しか使わないから草ボーボーだはずさ」
  「イェー、どこかで見たさ。館長さんでしょう。ほんものが若いさ!」
  「ありがとさん。ヘヘヘヘ・・・。」
  「みなさんも、シニグ踊るのですか?練習もするのですか?」
  「踊るよ。ウタの練習するよ。中学生の女の子たちもね」
  「今度のシニグ、応援に来ますからね」

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     ▲具志堅のお宮               ▲お宮の内部  

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  ▲草ボーボーのクランモー(倉毛)       ▲フプガーの香炉 

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  ▲清掃された具志堅のウプガー     ▲ミハージのある具志堅の海岸 
 

2003.6.14(土)

 今年度二回目のムラ・シマ講座である。今帰仁村の東側にある天底(アメソコ)のフィールドワークである。子ども達や初めての参加の方々によっては、神アサギやニガミドゥンチやヌンドウンンチ、あるいはウタキやアミスガーなどの場所と、そこでどんなことが行われるのかを話として聞いたり確認したりであったでしょう。

 天底にした理由はいくつかあるが、まず間切を越えて村(ムラ)移動(1719年)した村であること。村移動をして集落を形成したのであるが、明治以降さらに現在地に集落が移動していること。移動してきたときに、人々はウタキをどう位置づけ、そして集落がどう展開したのか。移動した際、アミスガーを目指して集落が移ってきたのであろうか。

 祭祀が行われている神アサギ・ニガミヤー跡・ヌルドゥンチ跡などの位置から、本部間切伊豆味村付近から移動してきた当初の集落の姿がポツリポツリを浮かび上がってくる。ウタキ・神ハサギ・アミスガー・ヒチャヌウタキを軸線として集落が展開しているようだ。上に掲げたキーワードを空間に落としたとき、神アサギやヌルドゥンチやニガミヤー、そして集落内の家々を茅葺屋根にしたとき、天底村の集落が復元できてくる。旧集落後地付近は外田原で、かつて天水田が段々をなし広がっていた様子もうかがえる。

 アブシバレーやタキヌウガンのとき、神アサギナーに村人が集まり、下方に見える田を眺めながら「今年のできは、どうかね」「雨大丈夫だろうか」「おい、まだ田のアブシ(畦)の草刈りしていないのがいるサー」「イェー、ペーク草カラサンネー、イナゴが発生して、メー(米)むるウチクヮんてやー」といった会話が聞こえてきそうである。旧暦の時間の流れの時代である。それが人間が生活してきた長い長い時間の流れであり、私たちの身に染みついたリズムに違いない。その琴線に触れた感動が今日も年配の方々の言葉の端々にあった。

 そういう過去の風景や歴史の一つ一つたどりっていると、明治以降導入された欧米の文明や学問のあり方そのものが100年余経った今、崩れかけているのではないか。戦争や平和の議論や経済も、そして歴史認識も大きく揺れ動いているように見える。

 平成元年からムラ・シマをテーマに掲げ様々なことをしてきた。まだおぼろげながらではあるが、確固たる姿がボツボツ見せてきたように思う。

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    ▲天底の神アサギで                  ▲ニガヤー(根神屋)

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     ▲天底のウタキの前                ▲天底(アミスガー)



2003.6.13(金)

 
午前中は北山高校の「平和学習」の展示パネル作成。展示は高校生たちがやってくれるでしょう。30余りのパネルを展示しながら、戦争とは?平和とは?と、考える機会となればと考えている。

 午後から渡喜仁の字誌の集まり。月一回の開催で進めてきた集まりである。今回は編集委員の方々だけでなく、渡喜仁のシマの先輩方にも参加してもらい、昭和15年に勢理客・上運天・運天・仲宗根の一部をまとめて渡喜仁区を創設した。その前後のことについて、さらに地名などについても話題が展開した。

 「その前後のことについて何か記憶にないだろうか?」
分字するにあたって勢理客からな何かなかったか。上運天とは少しゴタゴタがあったようだ。分字の越地を事例にいろいろ意見がだされた。越地は仲が悪かったようだが、渡喜仁はそういうことはなく、優しく、どうぞと言われたとか。

 分字の資料はまだ確認できていない。分字する理由として、渡喜仁は勢理客や運天や上運天ではあるが、本部落から離れた地にあり、また寄留してきた方々が多いということ。寄留してきたときに、ムラウチに住むことが許されず、水や台地上の不便な場所に住まざるえなかった。ムラウチから遠く、祭祀や習慣などが異なっていたということなどが起因していたのであろう。

 それぞれのムラの祭祀との結びつきは希薄のようであるが、分字以前は豊年祭には参加していたようだ。普段の神行事への参加は少ないのであるが、出兵や旅から無事帰ってきたときには、それぞれ出身の字のウタキに祈願をしたという。行政的には分離したのであるが、出兵や旅の安全祈願などはモトムラで行っており、分字と祭祀との関わりが見えて、なかなか興味深い。

 分字した当時、二つの事務所があり、東と西の事務所を並べて建てたようだ。台風で二つの事務所とも崩壊してしまい、その後台風のお陰で一つになったとか。現在の公民館が建設されるまで、いろいろと変遷をたどっている。

 地名についても、サンガチモーが三ヶ所にあり、サーターヤーもあちこちに。地名の意味解きがいろいろとなされ、なかなかおもしろい。ウバサクブは「芭蕉のある窪地」にはなるほど。海岸沿いに芭蕉が植えて糸をとっていたのであろう。地名についてはうし丸さんの方(業務日誌)で書き込んでいるのでご覧くだされ。

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         ▲渡喜仁の先輩方から分字前後のことを聞く
   
2003.6.12(木)

 午後2時過ぎから今帰仁中学校の体育館で、15日(日)に行われる「親子ふれあい行事」の導入部の説明をすることになった。全体の流れがあり、日曜日に行われる2年生達のフィールドワークについての説明である。体育館の舞台の前に古宇利から今泊まで字名が張り出されていた。いいアイデアである。今帰仁村には19の字(アザ:ムラ)あり、一人ひとりがどちらかのムラに住んでいることに気づき、そして実感できたと思う。

 自分達が住んでいるムラをどれだけ知り、そして誇りに思っているか。中学生達の表情を見ているとこころもとなかった。自分の住んでいるムラを知れば知るほど誇りに思ってくることに気づいて欲しい。今日の中学生の中には、このムラにいることを恥かしく思っている生徒もいた。今帰仁グスクを抱えている今泊の生徒達には自信のようなものが感じられたりする。古宇利の生徒達にちょっと自信がなさそうにみえた。しかし、それはすぐに解消する問題である。自分の住んでいるムラを知れば知るほど自信と誇りを持てるのだから。はやくそうなって欲しい。

 自分達が住んでいる字(ムラ・シマ)という空間に御嶽(ウタキ)があり、神アサギあり、あるいはカー(湧泉)あり、松並木あり、道あり、豊年祭ありなど。それらは長い長い歴史と伝統を持っている。そこに立ち止まったとき、歴史を振り返り、その時代の様子を思い描き、そして先人達の体験の話に耳を傾けことがどれだけできるか。15日に、その体験をしっかりとやって欲しいと思っている。原風景といわれるムラの姿がどれだけ頭の中で描けるか。描く訓練の場である・・・・。

 ウタキや神アサギやカー(湧泉)やムラやシマなど、はじめて聞く言葉がほとんどなのかもしれない。そのわからないことを、隣のおじいやおばあなどの先人達の声に耳を傾けて欲しい。日曜日のフィールドワークの成果が楽しみである。うまくいったところ、あるいは反省しなければならないアザや大人が出てくるに違いない。それはいいことだと思っている。

 大人も中学生も皆が今帰仁を知らないといけないことに気づいてくれたら大成功だと思う。楽しく、またやってみたい、行きたいと気持ちになったらいいね。いい成果が得られることを期待したいですね。楽しみにしています。

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   ▲「フィールドワークに向けての説明」(今中の総合的学習)、皆真剣でした!

■レコーラウーニ
 今帰仁グスクの外壁の内側に今帰仁ウーニと具志堅(本部)ウーニがある。二つのウーニをまとめでレコーラウーニと呼んでいる。ウーニは御船のこと。レコーラウーニとは別にハタイバルウーニというのがある。ハタイバルウーニにも今帰仁ウーニと具志堅ウーニがある。今帰仁グスク付近に今帰仁ウーニと具志堅ウーニがあるのか、理解できないでいる(ウーニと関わる祭祀や資料を読み取っていく過程で、解決できるかもしれない。楽しみにとっておこう)。

 今帰仁グスクの外壁内にあるレコーラウーニに行ってみた。レコーラウーニが今泊(旧今帰仁村と親泊村)の祭祀における位置づけ、そして具志堅村の祭祀での位置づけをする必要がありそうだ。両村における祭祀で、どのような位置づけがなされるのか。
 
 ウーニ(御舟)と呼ばれ、ウーニに置かれている竹の棒で舟漕ぎの所作を行うので、海神との関わりがある祭祀場であるにちがいない。「海上安全・航海安全・豊富な貿易品をもたらす・大漁の祈願である。かつて唐船旗をかかげて、ウーニにあがって北の方(海)に向って船を漕ぐ所作をし、それが終ると唐船旗を持ってウンジャミ道を通ってシバンティーナの海岸までいった」という。

 ここでの祭祀は今帰仁・親泊と具志堅の神人が連絡をとりあって行っていたようである。


▲今帰仁グスクの前方(外壁内)にある左今帰仁ウーニで右具志堅ウーニ
   
2003.6.11(水)

 
明日は今帰仁中の総合的学習。各字(19字)別の調査ノートの準備。うし丸さんもコズさんも。
 午後2時から初任研で今帰仁の歴史と文化を歴文で、その後今帰仁城跡まで。いい天気でした。

 明日は中学生130名を一まとめにして体育館で。あきさみヨー。どう進めるか思案中。ノートの準備してもらったのでOK。だが、130名一人ひとりに集中させ成果あらしめるには工夫が必要だ。一晩寝ながら考えよう。

 北山高校から「戦争と平和学習」の展示の相談で図書館の司書さんと生徒達。それも二、三日で展示プランを作成しなければならないのだ。金曜日は渡喜仁の字誌の聞き取り調査、そして土曜日はムラ・シマ講座と続く。その準備やら打ち合わせやらで、頭が混乱状態。

 それにジョージアコーヒーは、「ほどほどに・・・・」の心優しいアドバイスに従って、ジョージアを絶って四日目、お陰で微熱状態、昨日から体調を崩している。乗り越えなくっちゃです。ハハッハ

 とにかく、今週は一つ一つこなしていかねばです。そんなこととは無関係に今帰仁グスクからの眺めはよかった。

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2003.6.10(火)

 
会議続きでした。書き込みナシです。


2003.6.8() 

 月曜は休館なり。
ああ、来週の予定、オオー、目白押しじゃ!資料準備はこれから。月曜日の休日は何も考えずに過ごします。では火曜日に。

 
上の企画展は9月2日から開催する企画展―ムラ・シマ・・・本部町具志堅―に向けての進捗状況である。これからどんどん内容が変わっていくでしょう(変わらないかもしれません。まだまだ、一貫性はありません)。気になる方は、是非ご覧下さい。学芸員実習の学生は必見でござるぞ。

 ほっと一息。朝から午後まで説明つづき。さまざまな来館者がいらっしゃることを実感。
今泊那覇郷友会の方々の来館は嬉しいものがあった。展示の写真の中には、本人が写っていたり、あるいは親が写っていて、本人より親の方が若かったりで、話題は尽きない。中学や高校まで今泊で育った方々がほとんどである。そして水田が広がっていた頃のことが記憶にあり、故メルビン・ハッキンス氏がシマにいたことも知っている方々である。

 今日の目的は、天気がよければハンタ道を踏査してみたいとの希望であった。あいにくの雨だったので延期でもするのかと連絡を待っていたら、「行きます」との電話。「歴文の館内でやりましょう」と。ハンタ道に登るエーガー(親川)の話から、ハンタの地名、ミームングスクからの眺め、さらにトゥムヌハーニーや今帰仁ノロ、オーレゥドゥンの火神の祠や親泊村と今帰仁村、志慶真村の移動の話。アカン墓や志慶真乙樽などの質問を受けたりで話題は尽きずでした。

 これまで今帰仁グスクや祭祀(神行事)や地名や墓などについて聞いているが???である。なるほどと、いくつも納得、理解できたなどの言葉をいただいた。男性も女性も今帰仁ウカミになっての帰那覇でした。シマを出て他所で住んでいる方々が、単なる故郷への郷愁だけではなく、自分の奥深く流れている故郷への思いが、歴史や文化を通して琴線が弾かれた姿を見たとき、有り難く、そして誇りにさえ思えてくる。


2003.6.7(土) 

 一日雨。今日は本部町具志堅の資料に目を通したり、地図にメモを入れてみた。8月下旬に企画展を開催する予定である。それに向けて、ボツボツ展示プランを立てなければならない段階にきている。具志堅を10数余のキーワードで描いてみる。どのようになるのかはこれからの楽しみである。具志堅のムラを歴史を軸として、様々な視点で描いてみたい(そろそろ、みなでテーマを拾いをしていくことにしよう)。

 今帰仁グスクを扇子の要とした時、扇子を広げると今泊と具志堅が今帰仁グスクに近いところに位置すると同時に、資料を見ていると祭祀や人の交流が密接であることに気づかされる。

 下の写真は具志堅のプシマ(大島)にある青年クラブ(1953年3月)と具志堅公民館(1953年3月)と大川(フプガー:1951年)である。これらの写真を手がかりに50年前の具志堅の様子を聞いてみる予定である。(1950年代の三枚の写真は故メルビン・ハッキンス氏撮影:歴文蔵)

 カマボコ型のコンセット(横5間、長さ20間、54坪)の建物は米軍から譲り受けたもののようである。公民館は戦争で消失し、天幕張りで雨風をしのいでいた。具志堅の東側のジャニー(謝根)に米軍が二棟のコンセットを建ててあったのを米軍の移動をしり、交渉して譲り受けたもの(当時の区長:金城嘉保氏)。

 フプガー(大川)の戦前の様子は写真でみていないが、昭和26年の様子が下の左である。円を半分に切ったカマボコ型になっているが、その前は半月型だったという。幾度となく工夫したようで、飲料水汲み場、洗濯場、浴び場、野菜洗い場、家畜浴びせ場などと。子どもが産まれた時の産水や正月の若水とり場になっている。

 昭和31年から上本部中に赴任してきた比嘉太英氏は具志堅に間借し、その頃の大川のことを「島の人々は、大川へ水汲みに集まり、列をなすことも楽しみの一つでした。特にその頃、八重岳の米軍部隊の洗濯アルバイトとして、島の御婦人、乙女が何十人も大川に群がり、所狭しと洗い流す中を中を、縫うようにして、水汲みをしたことがありました」(『具志堅誌』819頁)と回顧されている。
 

 ▲茅葺屋根の家々と青年クラブ(1953.3)       ▲コンセットの公民館(1953.3)

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  ▲具志堅の大川(フプガー)(1951年)         ▲現在の大川(フプガー)


2003.6.6(金)

 5日(木)は沖縄県博物館協議会の総会及び研修会。今日まで。本日は巡見で「ちゅら海水族館」です。参加しようか、どうしようか。(10時から打ち合わせ会議あり、参加できずです)

〔本部町具志堅のミージマをゆく〕
 具志堅のミージマへ。現在の具志堅はプシマ(大島)・ミージマ(新島)・サガヤと大きく三つの集落に分けれる。さらにその下に12の班がある。今日はミージマ(新島)を歩いてみた。

 ミージマ(新島)は名の示すとおり新しい集落である。新しい集落というのは、プシマ(大島)に対しての新旧である。そのプシマもプルグシチン(古具志堅)やマンバルから移動した伝承を持つ。さらに現在のプシマは具志堅・上間・真部の三つの村(ムラ)の合併である。三つの村の合併は昭和16年に三つの神ハサーギを一つにしたことにみることができる。かつての三つの村は現在のプシマの範囲にあった。そこからサガヤとミージマへと広がっていたとみてよさそうである。具志堅の方々の認識もそのようである(具志堅の歴史的な変遷は別にまとめる予定)。

 ここでは具志堅のミージマについてみる(ミージマを歩くにあたり、『本部町字具志堅の方言』仲里長和著所収の「具志堅の小地名・屋号等」を活用させていただいた。感謝)。
  @ジャニバシ
  Aアガリガー(東の井戸)
  Bブブジャモービラ(奉行毛坂)
  Cブジャモー(奉行毛)
  Dサニガガー(井戸)
  Eハキキナアジマー
  Fアガリンファーイ
  Gパギター
  Hピータティヤー
  Iパサマビラ
  Jウンサフ
  Kピクルムイ
  Lウイヌトゥムイ
  Mヒチャヌトゥムイ

 ミージマ集落一帯の小地名を拾ってみた。その中でブジャモーやブジャモービラがあるが、それは今帰仁間切と本部間切の番所を往来する奉行(役人)が事務引継ぎする場所、あるいは一服する場所に因んだ地名に違いない。その場所が丘(モー:毛)やヒラ(坂道)になっている(写真)。

 ミージマに掘り抜きの井戸が三ヶ所ある。掘り抜き井戸は、新しい集落に見られる特徴である。ミージマの東側に位置するアガリガーとサニガガーは、ミージマの方々が利用した井戸にちがいない。

 もう一つジャニガーがある。今帰仁村と本部町の境界を流れるジャニガーの側にある。現在は墓地の側にあり、1mほど埋められたのか上部にヒューム管を置いてある(写真)。ジャニガーはミージマの方々か、あるいはサガヤの方々が利用していたのか。現集落から距離がある。その距離でも水汲みをしていたのであろうか。あるいは井戸付近に人家があったのか。その確認はこれから調査である。

 ミーシキヤー(大家)の石囲いはりっぱである。ぱったり出会った近所の老人の説明では「100年はたっているよ。小さいときから、すでにあったからな」とのこと。入り口はコンクリートになっている。コンクリートの部分は「昭和4年建設」である。「これもう、崩れるよ。膨らんでいるでしょう。もう、なおせる人いないよ」と嘆いていた。

 道路の拡幅であったり、舗装されたり、水道や下水道を引くために道を掘りおこしていく。そのたびに石積みの塀が一つひとつ消え去っていく。石積みのある集落は、そこに住んでいる人たちにとっても、ムラを出て行った方々にとっても、形には見えないが宝物を贈り続けている。アガリガーやジャニガーやブジョウビラなどもそうである。

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  ▲ミージマの集落内の現在の道       ▲りっぱな石垣のあるミーシキヤー

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  ▲集落内に立っている「安全運転」の碑    ▲建物の柱に使われた石柱


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 ▲ミージマの東側にあるブジャモービラ ▲ジャニーガーラの近くにあるジャニガー(井戸)


2003.6.4(水)

 今日の今帰仁グスク。午前中東京開成高校の皆さんと今帰仁グスクまでいく。台風の余波で天気はイマイチすっきりしない。グスクから眺めたリーフは白波がたっている。彼らは月曜から沖縄にきているが、台風の影響で海に入れなかったという。やはり、海に入りたいようだ。店で生徒たちはおいしいそうにアイスクリーンをほおばっていた。

 午後から国頭中学校の生徒達が今帰仁グスクにやってきた。今日はグスクがどのようなものか、まずは見ることからでした。はじめての生徒がほとんど。山原に住んでいて。そんなものでしょう。学習の場を設けてやらないと、なかなか足を運ばないでしょう。
 
 疲れ気味なので今帰仁グスクの様子を写真でどうぞ。

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▲グスクの本丸と志慶真郭の間の城壁    ▲開成高校の生徒達を志慶真郭までいく

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 ▲グスクの店の品々。黒糖200円なり   ▲グスクの店で。千年木300円なり

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▲旧道入り口からクボウヌ御嶽をみる       ▲正門付近から大隅の城壁をみる


2003.6.3(火)

 台風5号のコースが先日の4号と同じようだ。すると、本部町備瀬のおばあ達の予報が、また当ることになりそうだ。前回や今回のようなコースだと西海岸にはあまり影響がないということのようだ。おばあ達が「シッシッ」と追い払ったのであれば、お願いにいくのだが・・・・。台風対策の心構えとしては、おばあ達の体験的な天気予報はいい知恵だと思う。


2003.6.1(

   明日(月)は休館日です。では火曜日に!

 朝早くから本部町具志堅まで足を延ばしてみた。シマの方々は八時には畑に出勤しています。ミージマの人たちがブー(夫:共同作業)にでて、道路の草刈りをしていた。国道505号線から山手の方に向っての道路を。昨日の黍(きび:モチキビ:マージン)の件があったので確認をしてきた。よくよく見るとあちこちに植えられている。農作業をしている老夫婦に「これマージンですか?」と尋ねると「ウン、マージンだよ」と。「年に二回植えるのですか?」「いや、一回だよ」との返事でした。今日は旧暦の5月2日だから、このあたりでの収穫は旧暦の5月ということになる。

 南の八重山での収穫は山原より一ヶ月ほど早いということか。昨日の資料では12月から1月にかけて種まきをするということだから、収穫まで4ヶ月かかるという計算になる。具志堅での種まきの時期を聞いてみる必要がありそうだ。植えている面積からすると、家庭用か隣近所に配ったり、ちょっとした小遣い稼ぎ程度のものでしょうか。

 稲作が行われなくなった今、黍の穂がたなびく風景はいいもんだ。この季節に具志堅の畑に目立つほどの面積植えられると、かつてあった水田のある風景と同様、マージンのある風景・・・

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     ▲本部町具志堅のマージン畑        ▲たわわに実ったマージンの穂


   ▲マージン畑の側のシマラッキョウの収穫をしている老夫婦

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