2003
         8月の動き

  企画展  ムラ・シマ講座                    過去の動き

【番外編】

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▲ムードメーカーの田村さん  ▲いつも自分の座を
                     しっかりと・・・嶋田さん
                  (仙人がふらついたようだ)


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 ▲オオオッ、黄金ドンに仰天の新田さん▲中身のスクをみてハハハハッ

2003.8.31(

  明日は休館です。いい休日をお過ごしください。

 学芸員実習が終りました。8日間(前半・後半)と二週間の組。ご苦労さんでした。展示を終えるまでは行かなかったが展示のアウトラインはできました。助かりました。

 企画展のオープンは9月17日(水)となりました。来週からスケジュールが目白押しで展示作業ができません。悪しからず。

 さて、最終日の展示の進捗状況を画像でお伝えしましょう。物展示場の移動と今帰仁城における祭祀、そして辞令書とムラを支えた人々のコーナーが固まってきました。これからがムラの歩みや集落の形態などを詰めていきます。ウンジャミやシニグの分布と神アサギ、山原のグスクの分布はほぼ完了。企画展のタイトルも。展示会の開催までこぎつけるには、後ふた頑張りが必要です。見通しのメドがついてきました。ホっですね。おたのしみに!!

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  ▲タイトルができ展示会らしく・・・         ▲展示物より荷物の山が

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   ▲辞令書とムラを支えた人々           ▲具志堅のキーワードの世界


2003.8.30(土)

 古宇利島の報告を一人ひとりから。先日乙羽岳に登ってもらい、そこから眺めた古宇利島と渡ってみた時の印象。そして現在自分たちが住んでいる場所に照らせ合わせてみる、そう見ようとする感性が必要。
 他の地域に行って「いいな」「ダメだな」だけでなく、自分達が住んでいる地域を見ていこうとする視点が大事である。学生達も次第にムラ・シマを見ていくことが何を意味しているのか体でわかりつつある。具志堅というムラ、そして古宇利というムラを見てきた。比較してみることができつつある。夕方からスライド会をする。50年前のスライドでタイムスリップしてもらった。

 展示は道具など物展示にボツボツかかります(一部)。沖縄の並里、夕貴の二人、そして広島の田村、新田、嶋崎、斉藤、金沢の松村さん、皆元気です。学芸員実習は明日が最終日なり。

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   ▲道具の説明文づくり            ▲バックは現在の具志堅を語るコーナー

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   ▲物の呼称や物から生活を描く      ▲人々の生活の証として拾ってきた物

2003.8.29(金)

 学芸員実習古宇利島にゆく。学生達の報告はこれからですが、島めぐりは東側から一周しました。ふい掟の車お借りしました。よく主に似た車でした。助かりました。

  ・イリヌハー(掘り抜き井戸)
  ・アガリヌハー(掘り抜き井戸)
  ・トゥンガヌウタキ(中まで行けず)
  ・ソウヌウタキ(遥拝場所)
  ・プトゥキヌメーの御嶽
  ・渡海浜(ポットホール・砂浜・タコ取りなど)
  ・ビジュルメー御嶽
  ・サラサの岬
  ・ナカムイの御嶽
  ・神アサギ
  ・旧家の拝所(ヌルヤー・ウチガミヤー・ヒジャヤーなど)
  ・古い桟橋

  (書き込む時間なし。工事中なり)

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  ▲アガリヌハーの洗濯場          ▲ポットホールのある渡海の海岸

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▲ポットホールから抜けれる人もいる    ▲シラサの岬を越えて突堤まで

2003.8.28(木)

本日『なきじん研究12号』が刷り上りました。めでたし、めでたし。

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 雑多な一日だったので学生達の実習ノートから、一部紹介しましょう。

【玉城夕貴】
(8月19日)より
  午後から古宇利島の豊年祭の調査のため現地に向かいました。そこで昨日
 行われたウンジャミで回る各拝所をいくつか確認しました。また豊年祭には道
 ジュネーから参加し、神アサギの近くの舞台で行われる踊りと、神人たちの御
 願の様子を調査しました。そして、神人達は豊年祭の踊りを一番よい席で見て
 いて、見守る役割をしているのかと思いました。

【田村友美】
(8月24日)より
  実習の初日は、まず朝から館内の清掃が行われました。館長から話があり、
 そこでは沖縄の文化歴史を見るときは、沖縄のものさしで見てほしい。琉球は
 本土とも中国とも交易をしていて、たくさんの外来の文化がはいてくるが、独自
 の文化を形成し育ててきたとの内容であった。また、沖縄は宗教の経典(聖書
 や仏典など)がなく、血のつながった先祖や自然との関わりが強いとのこと。

  その後、来館者へのレファレンスに参加しました。館の展示の案内や説明を
 するとき、大切なことは来館者をしっかり見ること。どういう目的で来ているの
 か。それに対してどう説明するか。しっかり見極め、そして時間の配分をなど
 も考えて説明しなければならないなど。

【新田千代香】8月25日ノートより
 今日は具志堅のフィールドワークを行った。具志堅は移動集落であると同時に、具志堅・上間・真部の三つの村が合併iしている。それぞれの神ハサーギが合併してできた神ハサーギを歩いた。神ハサーギの屋根は意識的に低くしている。屋根を低くすることで人間も威張らずに中に入るとの意味が込められている。内部にはタモト木と香炉があり、イベに向けて置かれている。
    (工事中) 


【嶋田いずみ】8月25日ノートより
 フィルドワーク前に具志堅についての説明や心構えなどについて聞いた。また実習をの目的は展示を通して村のことを考える。ひいては自分自身の存在を確認していくこと。
 具志堅に行き真部・具志堅・上間を見に行った。そして昭和17年に合併した神ハサーギを見に行った。神のいる場とも言われている。イベと言われる神殿、イビの前の拝殿もいく。そこでの神観念は神木をはしごにして降りてくる(天から降臨の観念あり)。神ハサーギの側に広場があり、そこはハサーギミャー(ハサーギの庭)があった。
 屋敷の側に石が立っていた。それは魔よけの「石敢當」。大川(ウプガー)の中の9本の木は三、三、三で三つの村を意味しているという。




  (工事中)


2003.8.27(水)

 一日何があったのだろうか?少し整理してみます。
  ・朝のミーティング(一日の仕事の指示)
  ・図像のコピーとラミネート(20枚ほど?)
  ・学生達は今帰仁グスクへ(石野さんの説明あり)
  ・お昼に図像研究会のメンバー(尾形さん・花城さん来館)
    11月に開催される研究会(報告会)と展示の打ち合わせ
  ・その後、展示作業の指示
  ・運天のウシあばあの取材の打ち合わせ(石野・松村)
  ・展示台づくりの指示
  ・一日のミーティングと明日の予定(石野・梢)
   (グスクの話、レクチャーの方法、展示の話など)
その間、電話でのレファレンスや問合せなど。「運天の字誌」もあったが時間がなくキャンセル。ホッ。(あっ、歯の治療もありました。それは一服の時間なり)

 明日の学生達の業務(学芸員実習)をつくらないと先に進みません。金曜日は学生達と古宇利島に渡る予定です。卒論に古宇利島をテーマにした学生がいるので、皆で卒論のお手伝いを兼ねての島渡りです(午後1時の便予定)。島を一周するコースの予定。

 これから明日の業務の準備に入ります。


2003.8.26(火)

 神戸のグループが去って静かに作業が進む。コマーシャルもしなければならないので看板づくり。それも手作りじゃ。これまでの作業は先週調査した祭祀の展示に時間を割いてきたが、これからが本番。数本の柱をどう見せるかだな。企画展のHPに目を通す余裕がなく、そろそろ目を通さねばです。「具志堅の歩み」などの解説もボツボツ進めるか。それから「明治の具志堅の人々」もだな。あれこれあり、何から手をつけましょうかね。

 学生達からは昨日の具志堅の感想を聞きました。そして今日の作業についても。そのメモ書きは明日もらえるようなので紹介しましょう。

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  ▲ちょっと静かになったミーティング     ▲ボツボ縦看板もつくらんと・・・


2003.8.25(月)

 昨日は学生達(広島組)を引き連れて本部町具志堅まで。広島のメンバーは具志堅に行くのが初めてである。展示の主が具志堅なので一通り、現場踏査である。
   ・御嶽(イベ)(具志堅は神殿と呼んでいる)
   ・イビヌメー(拝殿)
   ・神ハサーギ
   ・ハサーギミャー
   ・石垣のある家々
   ・クランモー(倉毛)
   ・旧具志堅の神ハサーギ(ウイハサーギ跡)
   ・上間殿内(祠・石積の屋敷・上間神ハサーギ跡)
   ・シニグンモー
   ・大川(ウプガー)
   ・間部神ハサーギ跡
   ・チンジャ(井戸)
   ・イジカタ浜(ツチキ浜)
   ・ヤマトンチュ墓
をゆく。午後から学生達は本部町備瀬や今帰仁村運天などを回ったようだ。私は午後から休み。

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  ▲具志堅にある「石敢當」の石           ▲上間殿内の祠

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  ▲具志堅の具志堅さんから話を聞く       ▲大川(ウプガー)で

【粟国島をみる】
 念願の粟国島を名護市(羽地)の多野岳から見ることができた。数年前から山原から粟国島が見たいと願っていた。粟国島と泊港、粟国島と本部半島までの距離がほぼ同じだという(約80km)。粟国島から本部半島が見えるということは聞いていたので、それならばここからも見えるはずだと機会をまっていたのだ!また、多野岳からは、「はっきり見えますよ」と聞かされていた。ほんとだった(詳細についてはいずれ)。


   ▲画像でははっきりしないが粟国島が見えた。

2003.8.24(

 今日から広島女学院大学の学生達の学芸員実習が始まった。すでに調査をしてきた先組の作業を引き継ぐ部分が多いが、展示の柱はこれからである。先グループは今日で終わりなので、一部展示を進めてみた。それは今回調査した具志堅の五つの祭祀(@ウーニフジ Aウプユミ Bトン・トト・トン Cイナグユバイ Dシニーグ)である。

 展示の進捗状況は一割程度である。ここ一週間関わった学生達は終了の日なので、自分達が調査した成果を展示するところまで体験してもらうことがねらいである。自分達で手をかけた作品がストーリーを持たせながら掲げられていくことの面白さと不思議さは興味がつきないものがある。

 広島のメンバーは、全体のストーリーなど全く未知の状態でのスタート。一つの作業に三名も四名も群がる状態である。一人ひとりの持分を作らんといけません。仕事が増えるワイ。ハハハ

 前半の区切りでした。神戸のメンバーご苦労さんでした。後半まで残る並里くんと夕貴さん、そして金沢からやってきた松村さんよろしく。そして今日からの広島組の四名さんも、しっかりお願いします。

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   ▲具志堅に残る辞令書                  ▲具志堅の祭祀

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    ▲展示作業の様子           ▲自分の好きなパネルを手にポーズ

2003.8.22(金)

 
学芸員実習はミーティングから。昨日の報告と本日のスケジュール。展示パネル作りと前回の企画展物の取り外し。

 午後4時から具志堅のシニグへいく。今日は旧暦7月25日にあたり具志堅ではソウニチといいシニーグが行われる日である。昨日のイナグユバイの最後にハサギミャーで予行演習をしたので、きっと大丈夫でしょう。

 具志堅は明治の初期以前に具志堅・真部・上間の三つの村が合併する。三つの村に具志堅(ウイ)神ハサーギ・真部神ハサーギ・上間神ハサーギの三つの神ハサーギがあった。昭和17年に三つの村の神ハサーギを一つにした。三つの神ハサーギを一つにして作った神ハサーギが現在の具志堅神ハサーギである。ここでウイハサーギというのは、かつての具志堅村の神ハサーギのことをさしている。現在の具志堅神ハサーギは三箇所の神ハサーギを統合した神ハサーギのことである。@のウイハサーギはかつての具志堅村の神ハサーギのあった場所を指している。

 (工事中なり)

【具志堅のシニーグ】(旧暦7月25日)

@ウイハサギ跡
(旧具志堅村の神ハサーギ跡)
 具志堅の神ハサーギ跡に「神徳霊妙」と書かれた旗やヤリなどが取り付けられた旗頭がたてられている。この神ハサーギの側のちょっとした広場に四時頃からクンジの着物を着た女性達が集まってくる。13名が後ろにたらした長い鉢巻、前に結んだ鉢巻の女性が26名(居神含めて)であった。時間になると居神を先頭に神ハサーギ跡に鼓を打ちながら、そして女性達がウタ謡いながら反時計回りに二重の円をつくりながら進んでいく。鼓打ちの9名は皆前結び。着物は帯の人と、ウシンチーの人がいた。白衣装は一人で居神だという。

 そこでのウタと舞いが終ると旗頭が降ろされ、具志堅の神ハサーギミャーへ男性達によって運ばれる。旗頭の後ろから行列をなしていく。旗頭は拝殿への正面の階段から運ばれる。シニーグを舞う婦人達は鼓打ちが先頭になり、具志堅の神ハサーギの側の道を通ってハサーギミャーへ登る。

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 ▲ウイハサーギ跡に旗頭がたつ     ▲広場からウイハサーギへ

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 ▲旗頭を倒し具志堅神ハサーギミャーヘ   ▲具志堅神ハサーギミャーへ移動する

Aハサーギミャー(ハサギ庭)
 旗頭は拝殿の上り口に立てられる。神ハサーギの側のハサーギミャーで隊列を整える。後ろにたらした長い鉢巻の組が円陣の内側、前で結んだ組が外側の円陣をつくる。神ハサーギの側から神ハサーギの奥の方へ二列縦隊で進んでいく。しばらくすると、反時計回りに円陣をつくっていく。先頭は居神、つづいて外側の円陣は鼓打ち。今回のシニーグで謡われ、舞ったのは、以下の11であった。
   ・しち踊り(4)
   ・天のぶり星(4)
   ・いんちゃう(2)
   ・うでけらし(4)
   ・坂本節(2)
   ・カナグワー節(4)
   ・真謝の大アサギ(4)
   ・ハンゼーク(金細工)節(2)
   ・本部上リ水(4)
   ・七尺節(2)
   ・今年するシニーグ(5)

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▲具志堅神ハサーギ横から広場へ入る      ▲ハサーギミャーで円陣をなして踊る

Bシヌーグ舞い終了後
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 ▲学芸員実習生達にも一言の言葉が求められた。そして最後のカチャシーまで参加


2003.8.21(木)

 午前中、田園空間博物館の現場説明役。湧川・運天・古宇利島・今帰仁グスク・具志堅・備瀬をゆく。

 午後3時半から本部町具志堅のイナグユバイに学芸員実習の学生達と参加する。20時から「渡喜仁の字誌」の編集委員会。

【具志堅のイナグユバイ】

 午後3時半頃、供え物は公民館や班の方が準備してお宮に向かう。参加者に配る物は神ハサーギにおいて、線香・御神酒・泡盛・あずきご飯はお宮に持参していく。一部の方々は神ハサーギの所でお宮の御願(祈り)が終るのを待っている。イナグユバイは女性だけの直会(夕食会)のようであるが区長さんと比嘉セイトクさん(トント・ト・トン鼓をたたいた方)が参加する。

 (工事中)
@神ハサーギ
 お宮(拝殿)のあがる前に神ハサーギに筵を敷いて参加者の座る場をつくる。

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@お宮(拝殿)
 イビ(神殿)に向いての御願(祈り)。供え物は線香・泡盛・御神酒・小豆ご飯が供えられる。

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A神ハサーギ
 たもと木の側の線香たてに線香が置かれる。三本づつの四セットの線香(板香)が置かれる。

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Bハサーギミャー

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2003.8.20(水)

 
調査の日々が続き、ノートの整理が間に合いません。取り急ぎ概要のみの報告。詳細については、学生達とのミーティングで行っています。企画展の方で報告の予定。明日はイナグユバイ(女の直会)があります。参加予定。

【具志堅のトン・トト・トン】
 
旧暦7月23日午後3時半から本部町具志堅でトン・トト・トンの祭祀が行われた。

@大川の清掃
13時頃からカーにある香炉に線香を置き、米と泡盛を供え、上間区長が御願(祈り)をする。その後に村人たちがコーサー(熊手)や箒や鎌や草刈機を持参して清掃開始である。大川の排水口を開けて、排水をしながらカー内の藻や水草や石などを取り除いた。9本のクイがあるが、取替えは三本である。清掃している間にウガンに三本の木を取りにいく。三、三、三の木の本数に村人は意味を持たせている。三は具志堅・上間・真部のかつての三つの村で、それが合併したことを記録(記憶)に留めておくことにあるようだ。三本木をツタで三回まわして留める。さらに三本をツタを三回まわして結わえる。さらにもう一回三本の木をツタ三回巡らして結わえて完了。

    (工事中なり)

Aお宮(拝殿)へ
 午後3時半頃からお宮での祭祀が行われる。公民館で準備した供え物(線香・お米・泡盛・神酒など)を車に乗せてお宮へ運ぶ。区長・書記・四五名の女性達が車に分乗してお宮へゆく。

Bクラモー(倉毛)

C大川(ウフガー)

Dナガシミャー(流し庭)


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  ▲公民館から神酒をお宮へ運ぶ         ▲お宮の中での御願(祈り)

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 ▲お宮の中、ウガミへの御願(祈り)       ▲トン・トト・トンと太鼓をたた
                               きながらクラモーへ

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  ▲クランモーでの御願(祈り)         ▲参加者にお神酒が配られる

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  ▲大川での御願(祈り)          ▲ナガシミャー(流し庭)での祭祀の意か

2003.8.19(火)

 8月19日古宇利島の豊年祭をみる。17時25分の便で古宇利島に渡る。学芸員実習の学生達と。火曜日から加わった金沢の松村さん。そして渡名喜長栄翁(92歳)も。島に渡ると通り雨にあい、一時雨宿り。10分足らずで雨がやんだので、道ジュネーがはじまるまで、学生達をつれて、前日行われた「海神祭(ウンジャミ)道をたどる。神アサギ・フンシヤー・神道・シチャバアサギ・シラサ・ウプドゥマイまで。

 途中、海神祭の道筋ではないが、ヒジャヤーとウチガミヤー跡、そしてヌルドゥンチ跡も立ち寄る。ウンジャミの時、ヌミ(弓)を持つ神人の足どりを確認したかったからである。ヒジャヤーには今回も使われなかったヌミが掲げられていた。いつ頃からかウンジャミの時、ヌミを持つ神人が出ていないのである。

 ウチガミヤーには前日使われたヌミが掲げられ、ヌミには真新しい白紙が揺らいでいた。ヌルドウンチにもヌミがあったが、ヌルがまだ出ていないので前のノロが使ったヌミが残されていた。

 お宮の隣のシチャバアサギには□に砂でラインが引かれていた。ウンジャミの時使ったものである。そこでの祭祀が終ると頭に被っていたハーブイ(琉球ボタンヅル)が六つ置かれていた。今年のヌミを持つ神人は6名だったに違いない。

 シラサの小さな岬までいく。学生達を神人にみたてて記念撮影。その後、人類発祥のシラサの小さな半洞窟とチグヌ浜、そしてあの世に送り出すという海へ抜けた洞窟へ。学成達は道ジュネーに参加してもらい、私は舞台のある神アサギへ先にいき、神人達へのあいさつ。

 古宇利島の豊年祭はウンジャミの翌日に行われていることに関心がある。他の地域では一月遅れて豊年祭を開催している。ウンジャミと豊年祭が一体となった形で行われているので、他の地域に比べて祭祀がしっかりと残ってきたように思えてならない。

 さらに御嶽・神アサギ・アサギミャー・豊年祭の舞台。舞台の前に神人が神衣装を着て舞台の演技を見つめる姿は、豊年祭の本来の姿をみる思いがする。「旗頭」に掲げられた「祈豊年」と「海神遊」が豊年祭の本質をついているようだ。(工事中)  
 
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▲ウンジャミのとき神人がたつシラサにたつ7人衆    ▲古宇利島の旗頭

2003.8.18(月)

  (工事中)
 学芸員実習二日目、本部町具志堅のウプユミ(大弓)の調査、その後同町辺名地でウシデークの準備をみる。今日から、地元出身の玉城夕貴さんと並里太一くんが加わる。
 
【具志堅のウプユミ】

@具志堅公民館
 
平成15年8月18日(旧7月21日)具志堅でウプユミが行われた。公民館に行くと、すでに神酒(米と麹)と餅(バイムチー)が準備されていた。今回は神人の参加はなかった。ヌルクムイ(ノロ)さんやニガミさんは高齢のため自宅で御願(ウガン)をするという。公民館で準備した神酒と餅を持参して神ハサーギへ向かう。
 
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▲公民館から神酒や餅を運ぶ

 途中、神人が安里ウフヤーの火神を拝むが略されている。

A神ハサーギ
 神ハサギに神酒と餅が運ばれる。


▲神ハサーギに神酒が運び込まれる

Bお宮(拝殿)


  ▲お宮(拝殿)での御願(祈り)

C神ハサーギ


 ▲神ハサーギの中での御願(祈り)

2003.8.17(

 学芸員実習一日目。午前中、学芸員実習のねらいや期間中のスケジュール確認をする。16日(日)からのメンバー、17日(月)からのメンバー、そして24日(日)からのメンバーの実習となる。今回はバラバラのスタートなので、どんな実習になることやら。
 午後から早速、展示物の作成にとりかかる。まったく展示についての体験や知識を持たない学生達なので、言葉で説明しても・・・・。それで体を動かしての作業に入る。現場まで行く予定にしていたが、時間がなく明日のウプユミの前に具志堅の集落を散策する。その予備知識として具志堅と今泊の上空写真をみてもらう。今帰仁グスクは自分達で。

 今日から学芸実習がスタートしたのは、神戸のK学院大学の川崎君・河田君・上本さんと、三人についてきた天野くん。手つきが次第にサマになってきました。まだまだ釘打ちやノコギリやカッターなどの使い方はぎこちない。見て見ない振りの方がいい。海の側に宿泊しているので、早く泳いだり、ダイビングなどしたいでしょうね。夕方、早めに開放したので泳ぎに行ったかも。

 明日は本部町具志堅のウプユミの調査や現場踏査がある。いっぱい汗をかきましょう。沖縄のメンバーが加わります。
 
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  ▲失敗はしたが息はあっています    ▲計算が得意でないのか考え込む天野君

2003.8.16(土)

 
 今日の夕刻、神戸学院大学の四人組が学芸員実習のため到着するなり。
  まだ、顔を合わせていません!

【具志堅のウーニフジ】
 午後3時半ウーニフジの祭祀(旧暦7月19日)が行われた。神人の参加はなく区長・書記の二人でとり行った。書記が公民館で供え物(板香・泡盛・お米)を準備しお宮(トゥヌともいう)へ。お宮に行く前に区長さんが神人(高齢のため現場まで行けず)に「これからウーニフジの御願を行ってきます」と合図をしてからお宮に登った。お宮は拝殿と神殿とに分かれていて、神殿(男性はは入れない)は焼けたという。(ウーニフジの詳細は企画展で紹介)。

@お宮(拝殿)
 お宮の中では正面の火神とウガミに向かっての火神がある。その二箇所に線香が供えられ、泡盛・お米が配膳される。正面のイベ(神殿)に向かっての御願は書記さんが中心になって行った。ウガミに向かっての遥拝はシマンペーフの役目だが、男の神人がいないので区長さんが主になって御願(祈り)をした。(お二人は神人ではないので神衣装は着ない)

A神ハサーギ
 お宮での御願が終ると、階段を下りて神ハサーギへ移動する。タモト木(森)に向かっての祈願はなされず、神ハサーギ内に筵を敷いて、東の方に向かって御願をした。供え物は板香・泡盛・お米(ミパナ)である。東側に向かっての祈願は今帰仁グスクに向かっての祈りだという。(以前は今帰仁グスクまで行って御願をしていましたとのこと)

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   ▲具志堅のお宮(拝殿)          ▲イベ(神殿)に向かっての御願(祈り)

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  ▲具志堅の本日の神ハサーギ       ▲神ハサーギで今帰仁グスクへ遥拝する
 
【仲宗根のワラビミチ】
 
今帰仁村字仲宗根でワラビミチが行われている。今日は旧暦の7月19日。午後から覗いてきた。午前中で御願(ウガン・祈り)がなされ、獅子小屋から神アサギに獅子を入れた箱をだし、箱から出された獅子は公民館の舞台に置かれていた。午後からの出番を待つ。公民館のミャー(庭)には「祈豊年」と書かれた旗とムカデとヤリの一番旗、コイと牡丹の二番旗がミャーの隅に立ててある。獅子は公民館内の舞台の隅に。

 三時頃からイナブスで御願踊りがあり、それが終ると公民館で踊りや獅子舞が行われる。仲宗根ではワラビミチの祭祀となっている。三時後の祭祀はみることができなかったので撮影のみ。以下のような唱えをするようだ。

   ウートゥートゥ チュウヤ ワラビミチエービン 村中アチマティ
   ハナウグシーミパナウサギヤービートゥ 御神ガナシ ウキトゥミショウチ
   子孫ヌハンジョウ ウニゲーサビラ ウートゥートゥ
     (花米九合・御酒・果物など)
 
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      ▲仲宗根の神アサギ       ▲神アサギの側の獅子小屋

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  ▲神アサギ内の獅子を納める箱          ▲仲宗根の獅子


2003.8.15(金)

【具志堅をゆく】
 祭祀の日程の確認で本部町具志堅までゆく。公民館を訪ねた。区長さんは留守で書記さんが留守番。祭祀の日程を確認してきた。明日から調査スタート。他の行事や会合が重なり動きがとれません。

  ・16日(土)・・・・ウーニフジ(午後3時)お宮・神ハサーギ
  ・18日(月)・・・・ウプユミ(午後3時)お宮・神ハサーギ
  ・20日(水)・・・・トントト・トン(シルガミ)
  ・21日(木)・・・・イナグユバイ(午後3時)
  ・22日(金)・・・・ソーニチ(シニーグ)(午後5時)

 具志堅に昭和17年の三カ村の神ハサーギ統合の時の写真が二枚ある。それを複写させてもらった。一枚は三神を御輿で担いでミチジュネーをしている場面とお宮(トゥン)を新築し、そこでの記念写真である。

 ちょうど干潮時だったので、前回行けなかったイジカタ浜にあるクビンジャ石とヤマトゥンチュウ(大和人)墓までいく。クビンチャ石の下で三名の生徒(仲尾次大地君・与那嶺吉樹・内間貴則の三君)が魚釣りをしていた。釣ってあったのは一匹(ハゼ)。この浜と上間家の話、ヤマトンチュウ墓とクブンジャ石について。

 ヤマトゥンチュ墓は切石で長方形に囲った中に頭蓋骨がしっかりと残っている。その奥は洞窟となっている。そこで「風音」の映画撮影が行われたようだ。

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.    ▲イヂカタ浜の今日の様子           ▲クビンジャ石の下で魚釣り

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   ▲ヤマトンチュウ(大和人)墓             ▲ヤマトンチュウ墓の内部

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  ▲三カ村の神アサギを統合記念(昭和17年)     ▲三神統合の記念でお宮新築


2003.8.14(木)

 
これから那覇へ。正確に言えば南風原町兼城へ。原稿の最終チェックです。一番、性格に合わない仕事。校正はミスや誤りを見つけるのだから。いつもは、ミスや間違いに気づけば直せばいいや主義。今日は、そうはいきません。後で悔いを残しますので。では、印刷会社で青焼き原稿の最終確認に出かけます。5時間ほど詰めます。目と頭をシャ−プにして。もう目がショボショボ。

 青刷校正が4時頃に校了できたので、沖縄県公文書館へ。「モノレール乗りました?」があいさつ言葉。

 まだ、乗ったことのない人は「誰が乗るのでしょうか」「採算とれるのかね」「駅から目的地まで5分といってもね」などなど。乗った人は「いい景色ですよ」「これまで見て来たのと違う目の高さ」「夜景も見てみないとね」の感想。私はまだ乗っていません。いつ乗ることやら!

 帰り際、沖縄県公文書館に立ち寄ってきた。そこでは「沖縄の乗りもの今昔」の企画展が開催されていた。モノレール開通に合わせての企画なのでしょう。戦前の軽便鉄道だけでなく、
  ・近世のキョウや籠
  ・明治・大正の人力車や軌道馬車やリヤカー自転車など
  ・戦前の自動車やバスなど
  ・海上交通の山原船や伝馬船や汽船など
なかなか興味をひく展示である。
 
 (工事中)

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2003.8.13(水)

 本部町具志堅に明治12年から同22年までの「辞令書」9点がある。仲里哲次氏所有である(那覇在)。廃藩置県で琉球藩(藩になるのは明治5年)から沖縄県となる。廃藩置県直後からの「辞令書」である。沖縄県になるが辞令書の内容は旧慣時代のものである。本部間切の「辞令書」の現物は展示しないが、同様な「辞令書」が今帰仁間切にもある(歴文所蔵)ので、それは現物20点を展示する予定である。

 明治初期の「辞令書」から、当時の間切役人の様子が見えてくる。辞令を受けた仲里善太郎(仲里にや)は具志堅村出身である。辞令書の「源太郎」は「善太郎」、「謝名村」は「謝花村」の書き間違いがある(詳細解説は別にする)。

 @西掟辞令書                 A南風掟辞令書
   本部間切謝名村掟仲里にや          西掟
  西掟申付候                        仲里源太郎
  事                         本部間切南風
  明治十二年十二月廿九日          掟申付候事
          沖縄県              明治十五年二月十六日
                                沖縄県

 B大掟辞令書                 C首里大屋子辞令書
    本部間切南風掟                 大掟仲里善太郎
         仲里善太郎            本部間切首里大屋
   大掟申付候                  子申付候事 
   事                        明治十六年七月廿五日
  明治十五年十二月十六日              沖縄県
       沖縄県

 D勘定主取辞令書              E小濱村夫地頭辞令書
    大掟仲里善太郎                 首里大屋子仲里善太郎
  本部間切勘定主取                本部間切小濱村夫
  兼務申付候事                   地頭申付候事
   明治十六年七月廿五日              明治十六年十一月廿九日
       沖縄県                      沖縄県

 F下知人辞令書                G惣耕作当辞令書
    勘定主取仲里善太郎              勘定主取仲里善太郎
   本部間切謝花村                 本部間切惣耕
   下知人兼務ヲ命ス                作當ヲ命ス
    明治二十年四月廿五日             明治廿二年四月十日
   沖縄県国頭役所                  沖縄県庁

 H退職辞令書
    本部間切惣耕作當兼謝花村下地人
               仲里善太郎
   依願職務ヲ免ス
    明治二十二年九月十九日
      沖縄県庁

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  @西掟辞令書(明治12年)      A南風掟辞令書(明治13年)


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  B大掟辞令書(明治15年)    E小濱村夫地頭辞令書(明治16年)

2003.8.12(火)

 今日はウークイの日。
日曜日にウンケー(お迎え)をしましたので、自分の先祖様をウークイ(送りだし)に行きます。では、では。 


2003.8.10(

 
昨晩80枚のスライドの映写会をした。中央公民館に宿泊しているメンバー。ほとんどが関東から参加した方々で30名ほど(台風の影響で今帰仁入りがバラバラ)。フランス人の参加者や沖縄の学生も。早稲田の建築のメンバーが多かったかな。月曜日は山原の数箇所フィールドワークの予定。

 疲れ気味。それでボソボソと企画展の平面図を机上で作成。なかなか面白い展示ができそうだ。そろそろ平面図をオープンにしないといけませんが・・・・・。展示パネルのモデル作成がスタートしています。作業着での出勤が始まるか。

 今日は盆入り(ウンケー)です。先祖をもてなしてきます。では


2003.8.9(土)

 日々あれこれ多く消化不良気味。本日はまた湿度100パーセント並みの蒸し暑さ。それでも皆さん楽しみにしている講座。今日の暑さでは、しばらく休みますのコールが聞こえてきそう。

 恩納村山田はかつては読谷山の名を持つムラである。1673年恩納間切が創設される以前は谷茶から南側は読谷山間切の内。だから中頭方の間切の内である。言ってみれば谷茶以南は中山の範囲ということになる。恩納間切が創設された後に国頭方に組み込まれた地域である。今回は山田の現集落内を歩くことはなかったので、北山と中山の文化の重なりまで踏み込こむことはできなかった。しかし、神アシアゲ跡に地頭火神の祠を建ててあることに、二つの文化の重なりをみた思いがする。神アサギに使った石柱を二本残し、そこに地頭火神の祠を建てる発想は二つの文化圏の重なりと見ていいのかもしれない。

 国頭方西街道に架かる谷川の石橋は・・・

 これからスライドの映写会あり。スライドを選ばないと!

 (工事中なり)


        ▲メーヌカーで、右側に碇石がある。


    ▲神アサギ跡地と地頭火神の祠。右の石柱は神アサギの柱(2本立)

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        ▲国頭方西街道筋の谷川に架かる石橋


2003.8.8(金)

 台風の後片付けでヤンやヤンヤ。
 さて明日は、恒例のムラ・シマ講座である。ちょっと息抜きとして恩納村までいく。ノートづくりは石野さんがやっている。説明のために概要をまとめておくことにする。

  ・恩納村山田の旧集落
  ・山田グスクの麓のメーガー
  ・山田グスクと護佐丸の先祖の墓
  ・山田神アサギ跡と火神の祠
  ・旧道(スクミチ)と石橋
  ・久良波のカー跡
  ・南未阿・・・の碑
  ・石畳の道
  ・仲泊遺跡
  ・恩納村博物館


2003.8.7(木)

 台風10号の襲来で閉館なり。



2003.8.6(水)

 国頭村安田をゆく。旧暦7月最初の亥の日安田でシヌグが行われた。12時頃安田に着く。会議は15時からなので、それまでシヌグを調査することにした。山降りが12時だと聞いていた。ところが山に登るのが12時頃で山降りは13時だという。ちょっと時間ができた。しめたである。早速、山降りの三箇所のスタートの場所へ。

 まずはヤマナスへ。満潮時にあたり、胸まで浸からない川は渡れない。そこは断念してササへ。

 ササには大部人が集まり、頭にガンシナーを被り体に木の枝やツタを巻いて準備中。出発前に山の神と海の神への御願が行われた。太鼓が打たれると、エーヘイホーの掛け声。一時頃になると一列に行列をなし、ササをスタート。川に突き当たり左折して川に沿っていく。県道を横切り、決まった道筋を通りトゥンチバルへ。

 アギ橋(安田橋)に行くとヤマナスが早く着いたため、メーバ組の到着を待つ。メーバ組がアギ橋に到着するのを待ってヤマナス組と合流する。アギ橋には飲み物を準備して家族や女性達が待つ。

 それから橋を渡り、道路を横切ると左折して畑の中を通りトゥンチバルへ。トゥンチバルでササのメンバーと合流する。そこに待機していた女性達を取り巻くように二重、三重に渦巻き状に円をつくる。そこで中央部の女性達に山降りしてきた男性達が持ってきた木の枝を揺らしてエーヘイホー、スクナレースクスクと呼応して掛け声をかけあう。

  (工事中なり)

 今回の安田のシヌグは流れでみると同時に、いくつもの要素を引き出してみることにある。シヌグが何かではなく、安田のシヌグに含まれている見え隠れするいくつもの要素が確認できればと考えている。特に稲作と関わる部分とヤーハリコー。他の地域との祭祀を比較する上で、安田のシヌグ(シヌググァーを含めて)が一つの物差しになるのではと考えているからである。例えば、具志堅のシニグや古宇利島のウンジャミなどと比較してみると、祭祀を通した「国(クニ)と村(ムラ)」の姿が見えてくる。さらに古琉球の辞令書に登場してくるいくつかの貢租(ミカナイ)などもあわせ見ると・・・・。

【国頭村安田のシヌグ】
@メーバからみた安田の集落
A安田の神アサギ
Bヤマナスから降りてきた組
Cメーバから降りてきた組
Dササから降りてきた組
Eトゥンチバルで三組が合流
F神アサギへ移動
Gヨリアゲ森
H海岸で山と海の神への祈り
Iウイヌカーでの禊
Jウイヌカーから旗頭を神アサギヘ
K田草とり
L神アサギに柱をつく(ヤーハリコー)
M女性達が舞う(ウシデーク)

2003.8.5(火)

 
明日は国頭村安田のシヌグ調査に伺います。「安田のシヌグ神アサギ保存修理審議会議」が主目的です。神アサギはシヌグやシヌググァーなど祭祀と深く関わる施設です。神アサギだけでなく、祭祀全体を通して位置づけられています。そう考えなければならないでしょう。それもあってシヌグはしっかり見ておきましょう。二年前に記録をし紹介してあります。その時の記録は『なきじん研究12号』で「国頭村安田のシヌグと祈り」として報告してあります(発刊は今月末)。

 琉球新報の豆記者(今帰仁小の野中さん)と同行のG記者と心配で引率のお母さんの取材があった。マンガンやトラバーチン、そしてシマの人達が使っていた石がテーマ。それで石が使われている現場や切り出し場まで行く。
  ・与那嶺の安田ガー
  ・仲尾次の石切り場
  ・仲尾次の石橋
  ・仲尾次の井戸
  ・崎山の神ハサギの石柱
  ・玉城のトラバーチンの切り出し場
 いろんな話をしたのであるが、どう記事にしてくれるのでしょうか。楽しみです。沖縄でのマンガンや銅山などの採掘はは明治から大正にかけて日本の動きが重なってきます。現場での話はどこかで・・・(回りには石文化が隠れていますよ。探してみましょう)。

 掘り込みの井戸をチンジャと呼びます。仲尾次の井戸は10数メートル掘り込んであり、その深さでは釣瓶が必要です。この石柱は海の石切り場から切り出した石にちがいない。井戸の中の回りは石積みです。滑らかになっています。きっと、ゆれて釣瓶がぶつかり、また汲んだ水がかかりツルツルになったのでしょう。あっ、井戸を使った人達の息づかいが伝わってきます。

 今日の海は一段と美しい。誰もいない浜でした。神戸・広島の学生さんたち、この浜をプレゼントします。泳いでください。

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 ▲切石が使われた与那嶺の安田ガー   ▲仲尾次の海岸の石切り場

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  ▲仲尾次の石橋(戦後)       ▲正面の丘がトラバーチンの切り出し場

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▲仲尾次の石柱のある井戸(チンジャ)  ▲使われ回りの石が滑らかに・・・

 戻ってきたら沖国大の仲地教授のゼミのメンバーが来館中。国頭村奥での実習の帰りに立ち寄ったとのこと。ちょっと「あいさつ」で奥の資料館前のバラスト石、奥漁港の側にある錨、そして宜名真のオランダ墓について。それらは、イギリス商船の歴史の贈り物だということ。学生達からいい感想をいただきました。でチョン。

 閉館間際に沖大の加藤教授もやってきました。古宇利島の資料を求めて。沖縄に来られて二年くらいのようです。18日には古宇利島のウンジャミ調査に伺うようです。 

【水と生活】
具志堅メモ
 
具志堅にいくつか湧泉(ハー)や井戸や川がある。それらハーと集落の展開と密接に関わっているようだ。「水と生活」の項目jをあげて調査してみることにする。●は確認済みです。

  ●大川(ウプガー)(大里原)
  ●後川(シリガーハー)(後川原)
  ●アナジョーガーラ(後川原)
  ●ニンガー
  ●チンジャ(片蒲原)
  ●ジャニガーラ
  ●ジャニガー(井戸)
  ●チンジャ(井戸)
 
 ・シンブトゥガー
  
・ハーソー
  ・サニナガー(井戸)
  ・シンナガーラ
  ●アガリガー(井戸)
  ・アンガー
  ●パマガー
  ●ジーガー(水道のこと)(宇茂佐原) 


2003.8.3(

  明日は休館なり。ホッ 出版社の原稿校正あり。


【具志堅の上間家と上間大親】
 具志堅の「イヂカタバマ(出方浜)」の地名の浜がある。別名チクカタバマ(着方浜)とも言っているようだ。この地名には尚円と関わる伝承がある。年代としては1500年頃のことである。

 『沖縄県国頭郡志』(329頁)に、次のように説明している。
   イヂ方浜、本部村具志堅の北方にあり。昔尚円王の弟上間大親伊平
   屋島より逃れて此地に漂着せしに依り、着ク方浜と名づけしが後出で
   方浜と称せり。

 上間大親は具志堅にある上間家の先祖で、上間村と関わる人物である。具志堅の歴史で登場する人物の一人である。今帰仁村の諸志にある「赤墓」に葬られている。上間大親の記事は『球陽』や『孟氏家譜』にある。また『沖縄県国頭郡志』375頁にも収録されている。「村内文化財ガイド」で「赤墓」の紹介で概略をまとめたので掲げることにする。

   赤墓(アカハカ)は今帰仁村諸志の佐田浜にあり、墓名は墓室に納められ
  ている石棺が朱塗りだとか、墓の壁が赤色の漆喰が塗られていることに由
  来しているという。本部町具志堅の上間家の先祖の墓である。
   「赤墓」と記された墓碑の下に「上間牛助」(上間家)とある。毎年秋の今帰
  仁上りの頃になると、中南部から多くの門中や一般の人たちが訪れる。

   上間大親亨翁は伊平屋(現在の伊是名)の諸見の人で今帰仁に住んでい
  た(本部も1665年以前は今帰仁間切のうち)。尚真王が海路で今帰仁を訪
  れた時、暴風にあい、これを見た上間大親は長男と次男を引き連れ、荒波
  の中を小舟を出して尚真王の舟を港に引き入れ助けた。上間大親は尚円
  の直弟で、尚真王の叔父のあたることがわかり、今回の働きの褒美として
  今帰仁間切の惣地頭職を授けようとしたが、それを断り上間村(具志堅)の
  地頭と比与喜屋に土地を賜り、長男と次男は首里でとりたてられた。
   三男の上間子は父の跡を継いで具志堅に居住した。赤墓のある場所は
  正面伊平屋に向き、常に対面の心を持ち、報本反始の志を忘れないため
  に墓を諸志の佐田浜につくり赤墓と名づけたという。また、この墓は拝領墓
  でもある。

 
 ▲上間大親と関わる上間家(具志堅)            ▲上間家の位牌


▲上間大親が漂着したという着方浜付近


2003.8.2(土)

 このパネルは古宇利島を理解するためのマップです。時々、島のゴミや不便さだけをいただいて帰る方がいらっしゃいます。それはかわいそうです。そこで名桜大学の中村教授のところで島を活性化する?企画をしているようです。歴文の私も委員?のようです。活動部隊になって欲しいとのことでしたので、マップを作成から関わります。

 画像のパネルは縦80cm×110cmの大きさ。ラミネートを張ったのでハレーションをおこし画像はよくありません。「本物がずっといい」と自画自賛。国立歴史民俗博物館の古宇利島資料(設計図や写真)も、このマップと組み合わせます。大型マップは仕上がり次第、島に届けます。サブセンターの壁を使って展示しようと字誌の編集員会で委員の方や掟殿と相談しています。

 マップにチグヌ浜やシラサ、グサブー・渡海浜・ポットホールなどを貼り付けていくと、島の成り立ちやそこに住んでいる方々の息づかいが伝わってきます。島に渡る楽しさや島のよさは、島を知ることからはじまります。

 平成元年から島の調査をしてきました。特に海神祭(ウンジャミ)やタキヌウガン、サーザーウェーやムシバレーなど。古宇利島の祭祀の調査から得たものは大きいものがあります。平成8年に「古宇利島―人々・神人の祈り―」の企画展を思い出します。当時からの神人達は高齢になりましたね。古宇利春男さんに田港フミさん、兼次フサ子さん、大城ユキミさん、玉城フデさん・・・・。

 今企画展の準備をしているが、具志堅の方々から学んだものがたくさんあります。その方々へ還す、地域から得たものは地域に還すというのが歴文の方針でもあります。具志堅から得たものは、具志堅に還す。今回の企画展や古宇利島のマップづくりは、そういう意味あいも含んでいます。この発想は、古宇利島調査から得たものでした。

 このマップや展示物は島へどうぞです。そういう関わり方でよろしいでしょうか。中村教授。

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  ▲古宇利島マップ作成         ▲シラサ、渡海浜などを貼り付け中


  ▲集落部分のお宮・チグヌ浜など        ▲歴史民俗資料館資料の設計図の一枚



           ▲歴史民俗資料館提供の写真資料の一部


2003.8.1(金)
  
 急ぎの原稿校正が二つはいり朝から集中する。その最中、平良新助の件で来客あり。息抜きのつもり。それが長かったですね。名護市のM子先生。

 一つは一通り終わり。これから「発刊のあいさつ」と「あとがき」を書きに入ります。もう一つは6日着なので明日にでも。それで、今日の書き込みナシです。

 8月は予定がびっしり。いくつかキャンセル。夏休みどころではありません。では、では。