2003
         9月の動き

  企画展  ムラ・シマ講座                    過去の動き


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2003.9.30(火)

【旧羽地村川上(谷田)をゆく】
 旧羽地村川上(現在名護市)まで車を走らせた。先日、通ったとき谷田神アサギあたり工事が入っていた。昨日「完成したかな?」と立ち寄ってみた。

 旧羽地間切の谷田村は『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』に「こくてん村」「川上村」と登場してくる。『琉球国由来記』(1713年)でも「谷田村」「川上村」が出てくる。その後の 『御当国御高並諸上納里積記』(1738年以降)には「川上・谷田」と二カ村が併記され、同じ頃の『琉球一件帳』にも川上村と谷田村が出てくる。「具志堅の歴史」でもそうであるが、どうも近世末に村の統合が各地であったようだ。それを直接示す史料に出会えていないのだが・・・。

 谷田村は明治初期(近世末か)には川上村に統合されたとみえ、『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃調査)の川上村に「神アサギ二箇所、川上嶽、谷田嶽」などと記されている。谷田村が川上村に統合されて、そう歳月が経っていない時期の資料であろう。明治の初期以前に統合された村の神アサギが現在まで残されている。具志堅の真部と上間の神アサーギは昭和16年頃に統合され、今では神ハサーギの跡が辛うじて伝わっている状況にある。

 谷田村はホードゥと呼んでいる。ホードゥに何故「谷田」の文字を当てたのか。かつての谷田あたりの地形を想像してみると、羽地大川流域の水田の広がる地域である。水田地帯に田の字を当てたのは理解できる。ホーが谷とどう結びついてくるのか?地形的には小さな谷の多くあった場所である(現在では土地改良で、その姿は消えてしまったが)。「水田と谷の多い」村ではあるに違いないが、ホードゥと谷田と結びつけるには方音の紐解きが必要のようだ。

 それは別にして、ホードゥヌ神アサギが新しく作り変えられたのである。

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 ▲新しく完成した谷田の神アサギや鳥居   ▲右側のコンクリート建てが神アサギ

2003.9.28(

 明日は休館です。いい休日を。

 
本日書き込みなしです。


2003.9.27(土)

 よく各村々の言葉の違いや村人の個性を特徴づけていくことがある。その中で村々の違いや村の気質など共通性を見い出したりする。そのとき、以下の内法の規定が浮かんでくる。

 「本部間切各村内法」の44条に以下のような規定がある。
   他村他間切の者当村の婦女を貰い請け妻にせんとするときは、
   婿家より馬酒代五貫文該ゝ女の家内へ相納させ、且婦女の頭
   公役賃として金千貫文その村役場へ上納せしめ候上妻に差免
   可申。若右公賃上納せること不能ざるものは、毎年米三斗宛貢
   米同様に上納為致候事。

 「今帰仁間切内法」の46条の規定は以下の通りである。
   他村他間切のものより村方女を貰受妻にせんとする時は婿より
   馬酒五斗七八舛徴収の上妻免候事

 各村の内法の規定が、どれだけ実効性をもっていたか定かではないが、戦前まで同じ村内での婚姻が多いことは確かである(20年前今帰仁村における調査をしたことがある)。土地制度(地割制度)との関わりでもある。

 現在でも隣接する村とは言葉が違う、あるいは村内や隣近所は親戚ばかりなどと聞かれるのは、内法の規定が近世から明治の土地整理まで長年機能していたことに起因しているにちがいない。
 
 今帰仁・本部・羽地の三間切では、他間切や村から妻を娶るときの納高は異なっている。その軽重について実感してみたいもんだが。平民百姓の貧乏家産まれの私は、他の村から妻を娶ることは、恐らくできなかったでしょう。いやいや、同村からさえ妻を娶ることができなかったかも。今の世に産まれてよかった!

 合併村である具志堅はどうなんだろうか。明治36年の土地整理以前に村の合併があるので、具志堅・真部・上間の三つの村間での内法の規定はどう働いたのだろうか。合併村の場合はどうだろうか。気になったので・・・・。


2003.9.26(金)

 昭和5年建立の今帰仁城跡前の鳥居の撤去状況をみてきた。コンクリートの柱の切口をみると直径1cmほどの鉄筋が10本ほどはいている。鉄筋は錆びてなく強固に作られている。仕上げの上塗り部分は剥離しているが・・・。(詳細についての報告は改めて)

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 ▲今帰仁グスクの前の鳥居の撤去       ▲鳥居の柱の断面(鉄筋が10本ほど)
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 ▲鳥居の柱の一部(昭和五年)とある   ▲今帰仁グスク前の鳥居(昭和5年建立)
  
 午後から村内の老人連合会の皆さんと村内の西側を回る予定。コースはこれから決めるのだが。

   @今泊の親川(エーガー)
   A今泊にある津屋口墓(別名アカン墓)
   B志慶真乙樽の墓
   C諸志にある赤墓
   D諸志の御嶽(植物群落)
   E崎山の神ハサギ
   F兼次の古島遺跡
   G兼次側から今帰仁グスクを見る
   
でも、散策してみようか。

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 ▲今泊集落の東側にある津屋口墓     ▲津屋口墓の墳墓記  ▲墓の前にある香炉 

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   ▲諸志の佐田浜にある赤墓          ▲佐田浜から伊是名島を眺める

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 ▲崎山の神ハサギ(今年葺き替え)      ▲ハサギミャー(庭:広場)のバンク(舞台)


2003.9.25(木)

【具志堅を歩く・・・】A
 
具志堅のブジョウモーあたりの集落はミージマ(新島)である。ミージマや大島(ウプシマ)に対しての呼び方である。それは大島から分かれて新しく集落をなしたということであろう。それが集落の地名になったにちがいない。

 奉行毛からミージマの上(山手)の方を通り、大島に至る道筋がある。この道筋がかつてのスクミチ(宿道)だと想像している。明治14年11月上杉県令一行は今帰仁間切運天番所から本部間切渡久地番所へ向かう途中、本部間切具志堅村を通過している。

    親泊、今帰仁の二村を過ぎ、午後零時二十分、具志堅村平民上間
   権兵衛宅に小休せらる。門南に向かい、蠣石墻あり。床に存忠孝心、
   行仁義事(晦翁の書なり) 源遠の流長、林鴻年の書を掲げたり。平
   民渡久地鍋の母、九十一年なる者を召され、長寿目出度と一言せら
   れしに合掌して拝謝す。長男傍らに侍す。六十二歳なりと云う。老母
   耳聾せず、眼暗からず、平生日々苧を績くと云う。家内は三人のよし。
     御飯を喫す。時に雨亦晴る。午後一時二十分、上間權衛門宅を発す。
   路右に折れ、海に沿い、左に山あり。その間水田薯圃多し。行くこと数
   丁。沙際に出づ。潮風凛々、鬢糸を吹乱る。路左に転じて、両山の間を
   過ぎ、坂路を攀ち上る。(『上杉県令沖縄県巡回日誌』明治14年11月)

 現在でも残っている上間家(上間殿内)の石塀、そして海岸線沿いにスクミチがあったことがわかる。スクミチから山手を見ると水田が広がっていた様子が伺える。水田地帯はグシチンラー(具志堅田)とハニークラー(兼久田)である。二つの水田地帯を分けている現在の国道505号線は昭和5年に開通したものである。 

 具志堅の大島に具志堅・真部・上間の三カ村が存在していたのであるが、その痕跡を表面的に見つけるのは中々難しい。そこで三つの村の所在は三つの神ハサーギを中心とした地域を想定し、具志堅村はウイハサーギ、上間村はウイマハサーギ、そして真部村はマブハサーギの周辺をそれぞれの村とする。それが集落を区分する大島バーリ(プシマンバーリ:一班と二班の一部)・上間バーリ(ウイマンバーリ:二班の一部と四班)・真部バーリ(マブンバーリ:三班)とほぼ一致している。
 

 
   (工事中)


2003.9.21(

  月・火と休館となります。展示も肩の力をぬいて休みます!

【具志堅を歩く・・・】@

 今帰仁村と隣接する本部町にある「具志堅」。方言でグシチンを呼んでいる。今帰仁村今泊から具志堅に向かう道筋は、かつては松並木があり、それは街道筋、つまり本部間切の渡久地番所と今帰仁間切の運天番所をつなぐスクミチ(宿道)である。今泊と具志堅の境界はジャニー(謝根)といい、渡り場にジャニー橋がある。橋と言っても今では道路に橋が架かっているかさえわからない。その橋から見下ろしたところに井戸がありジャニガーという。・・・ガーは流れる川でなく湧泉や掘り込んだ井戸のことである。

 ジャニー橋から具志堅に足を運ぶと二筋目から山手へちょっとした坂道を上っていくと奉行毛(ブジョウモー)に達する。そこに至る坂道はブジョウビラであるブジョウは奉行、つまり間切役人のことである。その地名に今帰仁間切の運天番所と本部間切の渡久地番所をつなぐ歴史街道(宿道)を実感するのである。

 憶測を挟んで言うならば、運天と渡久地の両番所間の文書(達:タッシ)の受け渡し場所が奉行毛だったに違いない。運天番所の役人がジャニガーラを越え、渡久地番所の役人が運天番所への文書を具志堅の集落を抜け、奉行毛まで持参し、そこで引渡しをしたのであろう。

 宿道(スクミチ)沿いは、昭和30年代まで松並木をなしていたのであるが、現在はでその面影がわずか留めているにすぎない。間切役人や村人達は、この松並木の下を歩いて往来したのである。

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    @今泊〜具志堅に至る道筋(宿道)      A宿道(スクミチ)の遠景(昭和28年)

 奉行毛から、さらに登っていくと大島(ウプシマ)の集落の方へたどりつく。奉行毛の西側に集落がある。具志堅の新島(ミージマ)である。名の示す通り、大島から移動したり分家した人たち、さらに他の地域から来た人たちが集落を形成したのであろう。新島は大島に対しての呼び方である。

 奉行毛から新島を通り抜ける道筋がある。この道筋は大正15年(昭和元年)に「奉行毛⇔穴門⇔松部⇔大港の道路が開通する」とある。クンチリ道、言い換えれば近道である。大島を通ると半円を描くほど遠回りである。そのクンチリ道の開通は、なるほどと納得させられる。ところが昭和5年に開通した郡道(現在の国道505号線)は、車優先の道づくりである。具志堅の道筋を歩いていると、車優先で通された道筋が集落を不自然に横切、集落の成り立ちを理解しにくいものにしていることがよくわかる。

 「具志堅を歩く・・・」は石野さんが歩いて散歩できるような図や文章を作っているので、そこに任せることにしましょう。楽しみじゃ。



2003.9.20(土)

 
台風接近のため館内に避難させてあったものをもとの場所へ。今回も台風がそれたのでホッである。それても台風対策で、その前後のニ、三日は清掃や片付けに追われる。夕方から館前の前の草刈作業。それも朝の清掃も学芸業務の内なり。歴文では。

 年表づくりに、あれこれ資料取り出しに勤しんだ一日。また学生達の実習ノートに目を通している。一日一日の記録に目を通していると、学生達と過ごした一つ一つが展示につながっていることを実感している。辛口のコメントを書き込もうとすると、送られてきた甘いアンコの詰まったお腹をポンポン。きっと「甘い評価をしてくれ」との哀願にちがいない。「お察し申し上げます」ハハハ。それほどマジマジとノートに目を通したことは、これまでありませんでした・・・・。

 皆さんがつくった看板も掲げてあります。台風接近で避難させてあったのを、再度掲げてきました。画像は明日にでも。来館者の反応もいいですよ。具志堅の方々は来週あたりかな。来館は。その反応も大事なこと。調査したものは、地域に還したことになるかどうか。さりげなくですが。


2003.9.19(金)

 
「具志堅の歴史」について整理しておくことにしよう。「具志堅の歴史」を紐解く場合、まずは具志堅村・真部村・上間村を分けて考えなければならない。具志堅地内の三つの村の成立時期はどれも不明である。現在の具志堅地内に、
   ・松部原貝塚(3500年〜2000数百年前)
   ・アキキナ遺物散布地(2000数百年〜2000年前)
   ・具志堅貝塚(2000年〜1000年前)
などがあるが、貝塚時代の人達が現在の具志堅の村(ムラ)や人に直接つながるかどうか、まだ定説をみるに至っていない。

■具志堅の歴史(略年表)
 「具志堅の歴史」について整理しておくことにしよう。「具志堅の歴史」を紐解く場合、まずは具志堅村・真部村・上間村を分けて考えなければならない。具志堅地内の三つの村の成立時期はどれも不明である。現在の具志堅地内に、
   ・松部原貝塚(3500年〜2000数百年前)
   ・アキキナ遺物散布地(2000数百年〜2000年前)
   ・具志堅貝塚(2000年〜1000年前)
などがあるが、貝塚時代の人達が現在の具志堅の村(ムラ)や人に直接つながるかどうか、まだ定説をみるに至っていない。

   ・松部原貝塚       (3500年〜2000数百年前)
   ・アキキナ遺物散布地 (2000数百年〜2000年前)
   ・具志堅貝塚       (2000年〜1000年前)

   ・15世紀?   『おもろさうし』に「くしけん」と謡われる。
   ・1438年    伊平屋(現在の伊是名)から尚円王の弟が上間村に漂着
             し、上間子を名乗る。勲があって後に上間大親と改称する。 
   ・1500年頃   その頃には「上間村」は創設していた?(『球陽』)
   ・1563年    『辞令書』にみやきせんまきり(今帰仁間切)「くしけんの
             かない」とある。
   ・1586年    『辞令書』にみやきせんまきり(今帰仁間切)「くしけん
             せさかち」とある。
   ・1646年    『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」とある。
   ・1648年    『琉球国高究帳』に今帰仁間切具志賢村とある。
   ・1666年    今帰仁間切を分割し、伊野波間切(翌年本部間切と改称)
             を創設する。具志堅村は本部間切の村となる。
   ・1713年    『琉球国由来記』に本部間切具志堅村とある。真部村と上
             間村はみえない。
   ・1719年頃   嘉津宇村は古嘉津宇から現在地に移動?
   ・1738年以降 『御当国御高並諸上納里積記』に本部間切具志堅村・
             真部村がある。
   ・1738年以降  『琉球国一件帳』に本部間切具志堅村・真部村がある。
   ・1781年?   本部間切具志堅村の立石(ヒチ原)の灌漑工事をする。
   ・明治初期頃  真部村と上間村が具志堅村に統合される。
   ・明治6年    『琉球藩雑記』本部間切19カ村に具志堅村・真部村あり。
            上間村は登場しない。
             脇地頭具志堅親雲上の具志堅村からの作得十石余。
   ・明治13年   具志堅村の戸数253戸・1166人(男578、女588)
   ・明治33年   大川から土管による水道を敷設する。
   ・明治36年   嘉津宇村は具志堅村に統合される。
   ・明治36年   具志堅村の戸数358戸・1967人(男985、女982)
            (嘉津宇村の51戸・252人(男139、113)を含む)
   ・明治38年   道路の変更がありウンビラを木墓の前を通す。
   ・明治41年   沖縄県島嶼町村制により本部間切は本部村となり、村(ソン)
             は字(アザ)と改称される。本部村字具志堅となる。 
   ・昭和5年   本部⇔今帰仁間の郡道が整備される。
   ・大正15年  奉行毛⇔穴門⇔松部⇔大港の道路が開通する(昭和元年)。
   ・昭和11年   嘉津宇のウドゥングァーの改築をする。「嘉津宇神社改修
             記念 昭和十一年丙子六月二六日」とある。
   ・明治14年  上杉県令上間殿内(ウイマヤー)で休憩する(11月29日)。 
   ・昭和15年   本部町字具志堅となる。
   ・昭和16年   新里と北里が具志堅から独立する。
   ・昭和17年   ウイハサーギ(旧具志堅)・真部ハサーギ・上間ハサーギが
             一つにまとめられる。拝殿と神殿がつくられる。
   ・昭和18年   嘉津宇が具志堅から独立する。
   ・昭和20年6月本部町・今帰仁村・伊江村の避難民は久志村大浦へ収容。
   ・昭和20年11月 11月中旬に帰村する。ジャニーにあったコンセット(カマボ
              コ型)を米軍から譲り受け具志堅区事務所とする。
  
   ・昭和22年   本部町から分離し上本部村となる。上本部村字具志堅となる。
   ・昭和46年   上本部村が本部町に合併し、再び本部町字具志堅となる。
      
  現在の具志堅をみていくには、古具志堅に具志堅村、真部原に真部村の創設された時期を、まず考えていく必要がありそうである。しかし、具志堅村と真部村の創設時期について今のところ定かでない。村の創設時期は不明であるが、上間村は別にして、具志堅村と真部村の二つの村は、故地から現在の大島(プシマ)に移動してきたことは間違いなさそうである。

【具志堅村の創設と歩み】(工事中
 具志堅が地名(まだ村ではない)が登場するのは「おもろさうし」である。
    かつれんのとよみてたがふし
  一ちととのか ささけ そろて
    おや ひやし あまえ 
  又くしけんの かない

 「くしけん」は上間殿内が所蔵していた「古琉球の辞令書」(今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年)と中城ノロ家の「今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年)に登場する。

    しよりの御ミ事
     ミやきせんのまきりの
     くしけんのせさかち
      (途中省略)
    又まふはるともニ 
      (途中省略)
    しよりよりあかるいのおきての方へまいる
     嘉靖四十二年七月十七日

   しよりの御ミ事
    ミやきせんまきりの・・・
      (途中省略)
    又もとはくしけんのはらちのうちより 
      (途中省略)
    しよりよりうらさきのめさしの方へまゐる
     万暦二十年十月三日

 最初の辞令書に「くしけん」と「まふ」とあり、後の具志堅村と真部村へつながる地名とみてよさそうである。真部村の成立は近世中以降であるが、具志堅村の存在は少なくとも1500年代にはあったとみてよさそうである。但、後の間切が仮名の「まきり」であり、村の表現はまだ登場してこない。後の「浦崎の目差宛辞令書」にも「元は具志堅の原地(畑地)のより」とあり、後の具志堅村の存在を伺わせる。

 近世になると『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」、『琉球国高究帳』に今帰仁間切「具志賢村」と登場する。1713年の『琉球国由来記』以降では今帰仁間切「具志堅村」である。1666年に今帰仁間切は本部間切とに分割されるので、それ以降の具志堅村は明治41年まで本部間切具志堅村である。明治41年に本部間切は本部村、具志堅村は字具志堅となる。昭和15年に本部町字具志堅となり現在に至る。

 明治初期以前に具志堅村と真部村、そして上間村が具志堅村に統合される。神アサーギは昭和16年まで旧村名で引き継がれた。明治明治36年に嘉津宇村が具志堅村に統合されるが祭祀は別である。昭和16年に具志堅から嘉津宇・北里・新里が分離し新設される。昭和16年以降、現在の具志堅の範囲となる。

【上間村の創設】
 現在の具志堅地内にあった上間村であるが、上間村の創設も定かではない。上間村について、第二尚氏の尚円が国頭の宜名真へ。弟が今帰仁間切上間村(現在の具志堅の地の一部)に流れ着き(それに因んで着方浜という)、上間殿内(ウイマヤー)付近に住み上間子を名乗ったという。後に尚真王を助けたことで上間大親(ウイマウフヤ)を名乗り、上間村の地頭職を賜っている。内容からすると、1500年前後のこと。『球陽』の記事の「上間村に移居」などの書き方からすると、その時には上間村があったということになる。上間村が登場するのは、その記事のみである。1644年頃の『琉球国高究帳』1713年の『琉球国由来記』などにも登場してこない。

 上間村の存在を示すのが明治15年頃?の『沖縄島諸祭祝女類別表』の
   「ノロ殿内火ノ神所一ヶ所・具志堅御嶽一ヶ所・上アサギ一ヶ所・□□□
    一ヶ所・真部アサギ一ヶ所・上間アサギ一ヶ所」
である。上アサギが具志堅村、真部アサギが真部村、そして上間アサギが上間村と想定できるので、明治の初期に上間村があったことがわかる。しかし、それ以前の資料に上間村が一切登場してこないのは、伊平屋から漂着した尚円の弟が関わっており、特別扱いの村だった可能性がある。上間大親の墓が赤墓(今帰仁村諸志の佐田浜にある)で拝領墓であることも関係ありそうである。

 1500年代に『上間村」の存在を思わせるのは「古琉球の辞令書」(東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年)の存在である。戦前、上間殿内(ウイマヤー)が所蔵していたものである。上間村の創設は自然発生的なムラというより、1500年代に人為的に創設したムラなのかもしれない。

【真部村の創設】
 真部村の成立時期も不明である。真部村も1713年の『琉球国由来記』に登場してこない。登場してくるのは『御当国御高並諸上納里積記』と『琉球一件帳』(共に1738年以降の資料)である。明治初期あたりにも真部村の存在が確認できる。

 真部村の成立は、近世半ばのようである(少なくとも1738年以降)。明治の初期あたり具志堅村に統合されたようである。但、神ハサーギは統合されず昭和16年頃まで存続した。祭祀は具志堅ノロの管轄村であったようで神アサーギは独自にあるが祭祀はほとんど具志堅ノロのもとに行われていたのではないか。

  (工事中なり)


2003.9.18(木)

 
午後から具志堅の公民館へ。豊年祭の写真をお借りするため。企画展で具志堅の豊年祭で「チョウチトリ」(蝶千鳥)のときに着た衣装が展示してある。どんな踊りか写真があればと思い・・・。それに、@とAの写真の提供である(歴文蔵)。前にも紹介したことがあるが、上間区長から公民館とAの図書館(青年クラブ)について思い出深い話を伺うことができた。

 @はコンセット(カマボコ屋ともいう)は昭和20年11月頃金城嘉保区長のとき、ジャニーへのくだり口にあったのを米軍から譲り受け公民館にしたものである。戦争で事務所や集会所は焼失し、配給は天幕張りの施設で行われていた。昭和21年に建設祝賀会を開催している。

 Aは図書館(青年クラブ)だったと上間区長の話。上間氏の家は左側の茅葺屋根の家。そして後方の二棟立ての茅葺の家はコージュヤー(大村光重)だという(八重山に移住)。上間区長はこの図書館で結婚式をあげたという。その日は大雨で出席者に申し訳なかったと記憶に留めていらっしゃる。「感無量な写真だな・・・。胸がつまる・・・」と。
 後方の右側の茅葺きの家は駐在所(巡査ぬ家)だという。巡査ぬ家に名護市の比嘉太英氏(教員時代)も住んだことがある。公民館で喧嘩が始まったと思っていたのが、後で聞くとサミ(ジャンケン)だった。また昭和26年に猛威を振るったエマ台風で回りの松の大木がはし折られ、五坪ほどの私の住んでいた家は大きく傾いたが家族はつぶされずにすんだことを「思い出の記録」(『具志堅誌』)としてある。

 現在の公民館の前の公民館の写真もあった。さらに、昭和54年・平成2年・平成6年の豊年祭のアルバムをお貸りできた。その中から何枚か展示に使わせてもらうことになった。

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    @戦後最初のコンセットの公民館    A公民館の側にあった図書館(青年クラブ)


  B旧公民館の落成式(昭和31年)         C旧公民館は昭和54年に幕を閉じた


2003.9.17(水)

 本日から企画展「今帰仁城(グスク)が抱えた村(ムラ)」が開催です。

 「今帰仁城が抱えた村」の企画展が開催されました。本格的な展示作業は学芸員実習からでした。今月の2日から予定していましたが、手間取り今日となりました。今か今かと待ちわびている学生達がいますので、展示の仕上がりの概要だけ画像でお見せしましょう(展示のリーフレットは後ほど報告します)。

 三時から会議があり、留守にしていましたので閉館してから撮影してきました。睡眠不足ですが、もうちょい頑張りましょうかね。企画展に参加してくれた学芸員実習の神戸、広島、金沢、そして沖縄の学生の実習の成果です。ごくろうさんでした。

 それと豊年祭の衣装をお貸し下さった具志堅の区長・書記さん、具志堅の皆様方ありがとうございました。具志堅に何度も足を運んだこともあり、いろいろ思い起こすことがあります。

 今帰仁村の部分は除いて取り急ぎ画像で紹介します。京都、神戸、広島から甘いのありがとさん。カライのも好きですよ(これからの方々は)。ハハハ。疲れました。帰って寝ます。では、では。

 うしまるさんとこずさんもご苦労さんでした。


企画展に移動してあります。
@導入部
「今帰仁城が抱えた村」
 ・今帰仁村
 ・親泊村
 ・志慶真村
 ・具志堅村
 ・真部村
 ・上間村
A具志堅村
 ・現在の具志堅
 ・戦後すぐの具志堅
B今帰仁城を抱えた村
  の移動図

 ・今帰仁村
 ・親泊村
 ・志慶真村
 ・具志堅村
 ・真部村
 ・上間村の成立と赤墓
C明治期の「辞令書」
  ・仲里家の辞令書など
  ・具志堅村の一門
  ・真部村の一門
  ・上間村の一門
D具志堅の人々
 明治34年の名簿から当
 時の人々を登場させる。
E具志堅の年中祭祀
F具志堅の祭祀
 ・ウーニフジ 
 ・ウプユミ
 ・トン・トト・トン
 ・イナグユバイ
 ・シニーグ
G具志堅の豊年祭の衣装
H山原の神アサギ
 ・具志堅の神ハサーギ
 ・国頭村比地の神アサギ
I具志堅の人々の生活
J具志堅あちこち
 ・石垣のある家
 ・具志堅の石敢当
 ・ナカムイ(十三本松森)
 ・大川(フプガー)
 ・クランモー(倉毛)
 ・現在の公民館
 ・クンチリのチンジャ(井戸)
 ・ヤマトゥンチュバカ
 ・イジカタバマの岩


2003.9.14(

 
展示作業に追われています。展示がどんどん変わっていきます。二つの部屋をつなぐためにタイトルの位置が大きく変わりました。まだ壁展示が中心です。これからの二日が大変。それでも、あれこれ予定が入っています。展示する時間がほとんどなさそう。どこまで進められるか・・・。オープンまでこぎつけなければなりません。間に合わないときは、展示作業も展示の内だとしてお見せいたしましょう。。展示の裏側を見せるのもいい。すでにやっていますが。それはいいアイデアだ(ハハハ)。

 明日は休館ですが、展示作業のため出勤なり。午後から。来客の予定あり。展示作業はできるかな?画像のキャプション入れる元気がありません。工事中ですね。

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2003.9.13(土)

 村内の湧川・謝名・仲尾次・今泊などが豊年祭。どこを見に行こうか?

 まずは、湧川の道ジュネーから。途中から謝名の豊年祭。謝名のアヤーチ(操り獅子)は見ておきたい。仕事(調査)ではなく、腰を添えて見たいものだが!今泊はうしまるさんとこずさんが出演するので、報告受けるとして。では、では出かけます。カメラ準備OKなり。

   (工事中)

  
【湧川の道ジュネー】
 午後五時半から道ジュネーが始まった。公民館(新里屋?)から旗頭を先頭にメンピャモーへ。長者の大主・二才踊り・女踊り・ドラ・路次楽・棒術のメンバーが集い、路地楽や棒術が演じられる。本来メンピャーでの演舞が終ると旗頭を先頭に道ジュネーが行われるはずだが雨のため急ぎ足となる。雨のため下アサギから獅子小屋まで急ぎ足となり道ジュネーにならず。

 獅子小屋の庭で路地楽や棒術や踊りが演じられ、獅子舞も登場し舞う。(雨脚が強くなってきたので私は退散するなり)

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【謝名の豊年祭】

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2003.9.12(金)

 
学芸員実習で学生達に道具の説明文を作ってもらった。具志堅の人々の生活のコーナーで道具(用具)の展示をするが、その説明文です。文章を作っている最中には十分理解できていなかったように思います。この展示コーナーの様子は後で紹介するが、その前面に置く説明文でした(見本)。
 展示コーナーも、少しづつ動いていきます。ニ、三日で大きく変わっていく予定。手書きのスケッチや図を使う場合があります。全体を柔らくしていく効果があります。道具は手にとって使いたい、使ってみたい、そんなイメージでと注文していますが・・・。どうかな。

【松村麻里】

ミミチブ【耳壷】

豚の脂身からとった脂を入れていた壷。表面がつやつやしているのは脂をすっているから? フタをかぶせ四つの穴に紐を通し、アリがつかないように天井から吊るしたりする。脂は料理に風味をつけたり、コク出しに少量いれ、大切に使っていた。(ま)

ユートゥイ

サバニ(舟)の中に入った海水をくみ出す道具で、海に出る際にはかかせないもの。現在はペットボトルや洗剤の空き容器などを利用しているが、かつては松などの木でつくられている。(ま)

マカイ

ごはんやお汁や煮つけなどの盛りつけに使う。口が広く、どっしりとした形は沖縄独特のものであるが、中国や東南アジアの器の形に通じるものがあります。本土産の安い食器におされ、家族の食卓ではあまり見かけなくなりました。(ま)

スンカンマカイ

本土産の磁器碗です。新しい技術の登場で磁器を大量に生産できるようになり、安価な日常雑記として家庭の食卓に行き渡りました。大量生鮮を可能にした型紙による絵付けには独特の味わいがあります。(ま)

ホヤランプ

電気が通う以前、家庭に明かりをともす道具でした。自家発電の頃、24時間いつでも電気が使えたわけではありませんでした。電気のない時間帯にはランプの明かりで夜をすごしました。ホヤがすすけてしまうので、きれいにするのが子どもたちの日課でもありました。(ま)


【斉藤友紀】


2003.9.11(木)

 台風が接近でしょうか。夕方から風が少しでてきました。それてくれたらいいのですか。昨晩の運天の字誌の編集会議で写真の提供があり、そこに話題が展開した。4枚の写真の提供がありました。その一枚を紹介しましょう。写真提供は渡久山裕弘氏(運天)。

 写真の場面は運天港。昭和30年代。40年前の写真である。登場している方々は、今では50代である。茅葺屋根の家は店のようだ。二軒向こうの瓦屋根の家は戦争で焼けずに残った家だという。海岸には休憩場が設けられ、運天港は遠足や今帰仁上りのコースでもあるので、観光客へのサービスだったのでしょう。

 護岸工事が行われているようであるが、現在より大部内側にある。今では生徒達が記念写真をとっている所まで埋められている。昭和30年代の運天港の様子がわかる。

 後方の森の頂上部には松の木が何本もある。また港付近の福木の大木は現在もある木でしょう。


         ▲運天の子ども達(昭和30年代)

2003.9.10(水)

 
午前中二水会の皆さん(24名)が歴文の展示室及び展示品の清掃。感謝


           お知らせ

  
9月のムラ・シマ講座は休みです。
 

 今年は豊年祭のあたり年で、今泊・仲尾次・崎山・謝名・湧川で開催されます。なお10月のムラ・シマ講座は本部町具志堅の予定です。企画展もやっていますので、お楽しみに!

 午後8時から『運天の字誌』の編集会議あり。字誌関係資料を担いでいくか!

今日の書き込みはナシです。明日にでも。遅刻しそう。それ急げ。台風の接近、気になりますが・・・・。


2003.9.9(火)

 
頭を突っ込んでいた仕事を、しばらく手を離してしまうと、戻るのに少し時間がかかります。それと、休日明けは、あれやこれやと業務がはいて来るので、頭を整理したり日程調整で一日が終わりそう。

 9月になると大学生達の出入りがちらほら。卒論なのでしょうか。テーマに詰まってやってきた学生もいる。歴文のことを知っていながら遠回りしてくる学生とストレートにやってくる学生。ストレートにやってきた方が楽に楽しく、そしていい卒論が書けますよ。資料はいくつもあります。琉球大学の学生達よ!(御嶽や集落について来た学生達も)

 具志堅の展示にかかるのに、再度関係資料に目を通してみた。具志堅は、まず移動集落であり、そして合併ムラであること。その流れを歴史を要とした筋書きで描くこと。(ここでは集落と村(ムラ)は別の概念として扱う) 集落の移動・村の合併・字(アザ)の分離など少し複雑な歴史を歩んでいる。そのことの整理をし、図化していくと理解しやすそうだ。基本的なところからスタートです。ハイ

 実習生の皆さん。あれから展示は進めていません。ご安心を! 賑やかだった展示場に一人ポツンと作業するにはシンドイもんがある。もう少ししてからGOです。神戸学院大学の皆さんは無事に帰れたのですか?神戸まで。


  (工事中)



2003.9.7(

 月曜日は休館なり。
少し体を休めます。来週から展示にはいります!

 昨日出張から帰りました。京都・大阪・東京・千葉県と急ぎ足でした。出張の目的は二つありました。その一つは11月に行われる「今帰仁ミャークニー大会」への出場依頼と来年1月に開催されるシンポジウムの講演依頼の件でした。同行は玉城寿くん(文化財)でした。

 他の博物館を見ると、いろんな歴史を見る視点や発想が浮かぶ。博物館を訪ねる面白さはそこにある。また、自分の歴史や地域をみる感性を磨く場でもある。
  
【京都】9.4
 3日の晩、伊丹空港から高速バスで京都駅まで。2年前に大津から琵琶湖湖畔まで足をのばしているが今回はそんな時間はなさそう。京都大学での用件が済ませ、午後から京都市内を回ってみようか思案していた。その前に先ずは京都国立博物館へ。博物館の展示をみて疲れ果て、その足で大阪へ。午後からの市内めぐりはパス。京都の空にも夏の雲が見えた。久々に「日本の歴史」の授業を受けたような!?

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     ▲京都国立博物館の正門       ▲博物館の近くの三十三間堂前のバス停

【大阪】9.4
 
昼間時間があったので「大阪市立東洋陶磁美術館」までゆく。昭和57年の開館で昭和63年頃に訪れている。美術館は土佐堀川と堂島川の間にある中の島にある。隣に中央公会堂があり、美術館を出たところでボーと公会堂を眺めていた。コマーシャルか何かの撮影が行われていた(画像)。美術館内の撮影は許されないので土佐堀川を入れておいた。

 当時、今帰仁グスクから発掘された陶磁器と接する機会が多かったので、現物を目で見ておきたいとの思いがあったように記憶している。『東洋陶磁の展開』(1982年版)を購入している。時々手にとり、今でも重宝している。

 今回、同じタイトルの改訂版を購入してきた。旧稿を踏襲しているがA版に拡大し、底部や高台もカラーで掲げられているため、これまで以上に利用させていただくことになりそうだ。「やきものの基礎知識」(野村恵子編)などは、発掘された中国製の陶磁の遺物の欠片をみる機会の多い者にとってありがたいものである。陶磁との関わりを持ち始めた頃に訪ねた美術館でもあり、発掘された遺物を博物館の展示の発想もあるが、美術館的なものの見せ方を学んだところでもあった。その頃のことを再度思い起こさせてくれたことに感謝である。(何故か、東洋陶磁美術館の画像がありません!)

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 ▲美術館の側にある公会堂            ▲美術館の側を流れる土佐堀川

 大阪では上間重男会長(関西今帰仁村人会々長)の計らいで湧川出身の川上氏の「うるま御殿」で沖縄民謡や本部ミャークニーなどを聴かせてもらいました。大阪での窓口になっていただきました。大阪でチンダミのミャークニー大会を開催したようなものである。

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  ▲沖縄民謡を歌う美香さん(中学)  ▲上間会長とミャークニーを謡う美香さん

【東京】9.5 
 
東京に1時過ぎに着いたので、3時まで「江戸東京博物館」へ。江戸に何でもありといったところか。明治以前の歴史を議論する前提となる生活や道具、生業がそこにあるからである。日本が文明開化で発展した?時代は100年余りである。それ以前の時代が長いのである。いろん面で先端をゆく東京(都市)ではあるが、私たちが失いかけたもの、失いかけた精神文化が至る箇所で見つけることできる。一回で全部見ようなんて考えはしない方がいい。自分達の内側に潜んでいる一人ひとりの生き方や感性を引き出してくれる場だと考えている(フラッシュなしで撮影OKがいいね)。

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【千葉県佐倉】9.6
 千葉県佐倉にある「国立歴史民俗博物館」は平成元年と2年に学芸員研修を受けたことがある。その後も二度ほど訪ねている。学芸員の資質を磨いたのはそこなのかもかもしれない。しかし、その大半は今帰仁村や山原だと思っている。あの当時の印象は、ここにくれば古宇利島がよくわかる。あるいは大阪の民族博物館に行けば沖縄がよく見えてくると言っていたような気がする。

 今回訪ねたのは、いま歴史文化センターで国立歴史民俗博物館からお借りしている「沖縄古宇利島の模型設計図」のお礼であった。担当者にお会いできなかったので、展示を見ることにした。2時間弱。研修の間通った博物館であったが、なかなか全体を見る余裕などなかったような。その後行ったときも、第一展示室(考古)はしっかりと見て、後の4つの展示は駆け足だった。今回もしかり。やはり古宇利島は、しっかり見て行かねば。ここもストロボなしなら撮影OKでした。

 いや、見事だと思っている。関心があるからだけでなく、20年の歳月が祭祀場だけでなく周辺の様子が大きく変貌していること。島の人達にも見ていただきたい。島の将来を考える大きな手立てになる資料である。設計図のコピーや写真の複写をしている最中である。急ぎで完了させ、島の展示に生かさねばと考えている。名桜大の中村教授よろしく。それと古宇利区長も。

 京都でもそうであったが勾玉に興味が引かれた。それと沖縄に古墳が全くないということ。縄文や弥生時代の土器の影響は言われているが、古墳については全くといっていいほど、その影響について議論がなされていない。グスク時代に入っていく前の時代が大和の古墳時代との関わりがあったのか、なかったのか。そんな議論がなされてよさそうなもんだが(すでになされているのかもしれない・・・)。

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   ▲勾玉や水晶玉に目がむく         ▲沖縄には出土しない古墳の分布図

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   ▲20年前の古宇利島の一部             ▲西側からみたお宮付近


2003.9.2(

  3日から7日まで出張なり。
大阪・京都・東京・千葉県まで。このページしばらく
  休息するなり。では。

 
学芸員実習が終わり、久々の静かな朝でした。昨日は広島の学生達と国頭村まで。辺戸の集落と安須森(アスムイ)登りに挑戦。わたしは安須森にあと何回登れるか? 今回は体力だめし。まだ登頂できる体力がありました。

  国頭村比地にある「やんばる野生生物保護センター」は休館でした。残念。辺戸でノグチゲラの営巣する巣穴をあちこちに見つけました。はやりの神アサギに行かねば。近くにノロドゥンチあり。アサギミャーで最近祭祀が行われたようだ。

 辺戸のウガミにある石灯籠はいつも気になるものだ。1688年に国頭按司正美が薩摩に使いとして派遣されたことと関係ありそうである。

 安須森登りは、沖縄の人々の神観念が伺える場所である。子の方向からやってくる神と天から降臨してくる神の接点の場所のようだ。先祖や子などの文字が書かれた拝所がいくつかある。

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  ▲目指すはあの安須森。不安・・・        ▲登頂成功なり。はりきったのは斉藤さん

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  ▲安須森から辺戸の集落をみる          ▲辺戸にある石灯籠(1688年?)

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        ▲辺戸のノロドゥンチ跡            ▲辺戸の神アサギとアサギミャー