2003
         10月の動き

  企画展  ムラ・シマ講座                   過去の動き


2003.10.30(木)

 1日2日と今帰仁村の文化祭が行われる。21年目を迎えているようだ。ここ数年余、絵画と書道、一昨年あたりから木工などの作品の展示を職員と一緒に行ってきた。昨年までは、会場づくりから展示まで3、4日の時間があった?のだが、今年は2日というより、実質1日で展示をしなければならない。職員は展示作業に入るスタンバイはできているのだ会場が開いていないのである。とんでもない展示作業のスケジュールである。(今年だけはないのだ)ハハハ

 職員に頑張ってもらいましょう。。出品してくれた方々の意気込みや思いをくんで。体力を温存して会場があく夕方から取り掛かることにしましょう。ハー

 保健センターでの展示は午後6時頃から。とり急ぎ展示場づくり。作品を広げ、書の部分から。今年の配列は漢詩の一行もの、二行もの、楷書、草書、かな文字、絵文字の順とした。うまく納まりました。長い経験上に産み出した配列である(いい展示といわれるか、苦言を言われるか)。楽しみである。

 さて、絵画は今日展示にかかる。昨晩で配列はほぼ決めたので今日は大工仕事が中心。こずとうし丸はキャプションつけ。若者の部(北山高校生徒の作品)は、例年は学校から出された作品の展示であったが、今年はこちらで美術教室から、こちらの好みで選んできた。さて、どう展示できるか。昨日、配列まで固めることができなかった。手こずるかもしれませんね。

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 ▲まずは、書の展示から!  ▲展示の経験は何百回?出品はゼロ

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▲作品に触れられるのは特権なり ▲若者達の作品、どう展示しようか?

 あと一日で、オープン!みなさん、ごくろうさん。

2003.10.29(水)
 
 
笠利町を彷徨っていると、大和村や瀬戸内町までたどり着けないので意を決して佐仁・屋仁・赤木名は飛ばしていくことにする。龍郷町も赤尾木・芦徳・浦・久場をいくのであるが、帰路(25日)再度名瀬市の浦上・大熊から有良・芦花部トンネル・秋名トンネルを通り円・安木場から龍郷へと逆回りをしたので、その部分はまとめて整理することにする。

 さて、沖博協(沖縄県博物館協議会)の研修に合流するため、24日(金)は午前9時奄美博物館へ。構内に奄美の民家と三軒の茅葺の高倉が移設してある。200名近い中学生達が修学旅行でやってきている。博物館の見学が終った後なのか、持ち物検査を行っている。沖博協の研修コースをみると、奄美博物館と奄美パークと他に遺跡などと、北側コースとなっている。そこは明日(25日)に回るので、やはり南のコースを行くべきだと判断する。午前中、奄美博物館で展示してある古琉球の辞令書とノロ関係の遺品を見ることにした。辞令書は以下の二点が展示してある。

【屋喜内間切の名音掟職補任辞令書】
  しよ里の御ミ事
   やけうちまきり
   ながらのおきてハ
  一人なおんのおきてに
   たまわり申候
  しよ里よりなおんのおきての方へまいる
  嘉靖三十五年八月十一日

【屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書】
  しよ里の御ミ事
   やけうちまきり
   なからのろハ
     もとののろのめい
   一人つるに
   たまわり申候
  しよ里よりつるか方へまいる
  萬暦十一年正月廿七日

 そこでは屋喜内間切と名柄、名音のムラまで行くことにした。

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  ▲奄美博物館に展示されている二点の辞令書  ▲同館展示のノロの遺品



2003.10.28(火)

 まだまだ奄美の笠利町の東海岸を彷徨っています。次回から西海岸に移っていきます。地図がすっきりしません。いずれ精細な作図をする予定。あのあたりとわかればいいのです。ノートメモですので(開き直っております)。

【笠利をゆく】A



          【奄美大島図】(工事中図)

■辺留城と古墓群
 笠利町笠利の集落入り口付近に「辺留グスク墓入口」の表示がある。坂道を上ると台地となっている。台地上一帯が辺留グスクのようだ。台地になったところも砂地である。沖縄のグスクの立地とはどうも異なっている。まず、グスクと呼ばれるのであれば、石積みがありそうなもんだが・・・。集落を歩いてみても石垣はサンゴ石を利用しているので、サンゴが積まれていたのかもしれない。それと台地の麓に大島奉行所があるので、後世そこに使われた可能性もある。もちろん糸満市や具志川市、あるいは久米島の具志川城は海に近い場所にあるが琉球石灰岩の上にある。辺留グスクのような砂地に形成されていない。オモロで「辺留笠利かち」や「辺留の子が」や「辺留のやしの子」と謡われているから、グスクとして、あるいは主要なムラとしてよく知られていたのであろう。まだ、グスク跡はまだ発掘はされていないようだ。

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  ▲辺留グスク跡地(現在畑地)    ▲辺留グスクにある古墓群

 辺留グスクの海岸の崖付近にいくと、そこに古墓があり10基余りの墓塔がある。古墓が群をなしているが琉球的な墓ではない。ただし、その中にサンゴ石で箱型に作った墓も散見できる。墓塔のある墓より古いのか、それとも同時代のものか。同時代であるが身分によって異なる形式の墓にしたのか。なかなか興味深い。墓塔のある墓は近くにあった大島奉行所(薩摩役人)の近世の墓だという。その中の箱型の石棺墓は宮古の巨石墓(ミャーカ)が思い出される。

 辺留村と笠利村が別々の村として出てくる。辺留村は辺留グスク一帯にあったのであろう。今では畑地となっている。水が不足しているようで、あちこちに雨水を集める簡易な施設がつくり貯めている。野菜やカボチャなどにその水をかけている。畑の周りはソテツで囲われている。グスクの降り口に竹で作られたバーキ(今帰仁村ではバーキやイビラフ)があった。バーキを担いだ人々の姿をみた。奄美ではテルのようだ。奄美のテルは今帰仁のより長めである。

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  ▲笠利でみたテル

■笠利町笠利

  オモロに「聞得大君ぎや  天の祈り  しよわれば  てるかはも  誇て  おぎやか思いに笠利  討ちちへ  みおやせ  又  鳴響む精高子が」や「辺留笠利かち」と謡われ、大島の主要な役割を担った地であったようで大笠利とも呼ばれている。薩摩支配後、笠利にある大島奉行所(仮屋)跡地に近世初期の笠利の様子が伺える。一帯は富城(フーグスク)と呼ばれているようだが、後方の台地上は辺留グスクであり、富城との同一のグスクを指しているのか?現在の笠利の集落は海岸から山手の方に発達しつつある。

  笠利町の町役場が笠利にはない。古琉球の辞令書に「かさりまきり」(笠利間切)と登場するので、その当時は笠利ムラが笠利地方の中心となったのであろう。琉球の大親職などが置かれたようだし、近世初期に薩摩の奉行所(仮屋)が置かれたこともある。現在の町名が笠利町なのは、歴史の遺産に違いない。ちなみに笠利町の役場は赤木名にある。

  近世の笠利間切は笠利方と赤木名方に分けられたことがある。笠利方は島の西側にある笠利湾を中心とした行政区分のようである。赤木名方は笠利間切の東側を中心とした行政区分。


▲笠利の集落、海岸の台地は辺留グスク跡

■笠利町用
 用(ヨウ)は奄美大島の東海岸の北端の大字である。集落は海岸に近い砂地(兼久)上にある。集落を通り、左手に向かい峠を越すと西海岸の佐仁へ通じる。途中峠の見晴らしのいい場所がある。喜界島も眺望できるようだが、あいにくの曇り空で見えず。下方に用の集落がみえる。東海岸特有の砂上(兼久)に発達した集落である。

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 ▲山手の峠からみた用の集落     ▲峠途中の道端にあった慰霊塚


2003.10.26(

 月は休館です。またまた奄美が渦巻く休日か?

 奄美から帰る。もりだくさんの奄美情報。早く掃き出さないと記憶がメチャクチャになりそう。順を追って書き記しておかないと・・・・。とり急ぎノートの整理だけはしておきましょうかね。ハイ(笠利がまだまだ続くなり。瀬戸内の古仁屋にたどり着くには・・・。宮古同様たどり着けませんね。きっと!)

【奄美をゆく】
(10月23日〜25日)

【笠利をゆく】@(23日)
 
奄美大島笠利町は、現在以下の大字(18?)からなる。和野・万屋・宇宿・須野・平・辺留・里・笠利・佐仁・屋仁・川上・喜瀬・用安・外金久・手花部・中金久・節田である。

 奄美大島の北側笠利町にある奄美空港に12時40分に到着する。車を借りると空港のレストランで昼食。日が暮れるまでのコースを思案する。瀬戸内町まで行くには時間が足りないので、空港から北側のムラ(集落)を回ることにした。少なくとも古琉球に首里王府から発給された辞令書に登場する間切(まぎり)とムラを訪ねてみることにした。笠利間切とそのムラと関わる辞令書は以下のものである。

  @笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(嘉靖8年12月29日:1529年)
     しよ里の御ミ事
        かさりまきり
        うすくの大やこハ
           もとのしよ里の大やこかくわ
        一人ちやくもいに
        たまわり申[候]
       [しよりよりちやくもいの方へまいる]
     嘉靖八年十二月廿九日

  A笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年8月24日:1568年)
     しよ里び御ミ事
       [かさりまきりの]
       かさ里のしより大やこハ
      一人きせ大やこに
       たまわり[候]
     しよ里よりきせの大やこの方へ
                  まいる
    隆慶二年八月廿四日  

 とは言っても、当時の間切やムラ(集落:部落)が頭に入っているわけではない。余裕がないので、とりあえず空港に近いムラから歩いてみることにした。和野や万屋からスタートしたはずであるが、集落区分もはっきりしていなこともあって、またなにがあるのかの確認も手がかりも掴んでいない。イヤハヤ、参りました。そんなスタート。

[笠利町万屋]
 和野(ワニ)と万屋(マンヤ)はワケがわからず通過。城間(シロマ)は大字万屋の一部を形成する集落のようである。城間のトフルの案内板が目についた。トウル墓を見ようと集落の中にはいると、途中目についたのが高倉と石積みの屋敷であった。石積みの屋敷の側から、入っていくとトフル墓に突き当たる。城間の集落名もそうであるがトフルの呼称や内部のサンゴ石灰岩の厨子甕、琉球の焼き物の厨子甕などに琉球?を感じとっていた。沖縄の洗骨した人骨を葬った墓(納骨堂)の印象である。

 今回訪ねたのは1号と2号トフル墓であった。他にも10近くあるようだ。二つのトフル墓は丘を切り取り、その面を掘り込んだ墓である。かつて墓口は塞いであったのであろう。現在、開いた状態になっていた。

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  ▲万屋(城間)にある高倉   ▲城間集落にあるサンゴ石積みの屋敷


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  ▲城間第1トフル墓の正面    ▲第1トウフル墓の内部の様子

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  ▲城間第2トウフル墓の外見    ▲第2トウフル墓の内部の様子

[笠利町宇宿・土盛]
 宇宿には宇宿貝塚や喜子川遺跡、マツノト遺跡がある。宇宿は辞令書(1529年@)に出てくる「うすく」(宇宿)である。笠利間切の宇宿大屋子は元の首里大屋子の子ちゃくむいに賜った内容である。1529年というと、琉球国では尚真王が各地のグスクの按司を首里に集め住まわせた、中央集権国家をなして間もない頃である。首里王府から辞令書が発給され統治した時代である。

 かさりまきり(笠利間切)のうすく大やこ(宇宿大屋子)に首里王府から辞令書が発給された関係は首里王府を頂点とし、国家が末端まで支配していた姿が見えてくる。ここでは宇宿大屋子という役職の叙任であるが万暦になると租税に関する内容の辞令書が発給されている。首里王府の印が押されるの「印判」とも呼ばれている。宇宿の大屋子は首里城まで渡海して賜ったのであろうか。辞令書を賜るため、海を渡ってきたのであれば、それは首里王府の地方支配が強固なものだったことを伺わしめる。

 宇宿の地に立ってみたのであるが、ムラの成り立ちが把握できずのまま思いはせるのみである。万屋にしろ、ここ宇宿も砂地(兼久地)に集落が形成されている。1500年代にはグスク(集落)が山手から砂地に下りてきているのであろう。その辺りは、沖縄の集落の展開(移動など)とは異なるのかもしれない。まだ二、三のムラを見たにすぎないのでよくわからない。砂地上に発達した集落であるが、比較的水が豊富でないか。稲作はどうだっただろうか。喜子川遺跡の近くにあるマツノト遺跡は5世紀から9世紀にかけての遺跡だという。

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 ▲海岸よりからみた宇宿の集落      ▲宇宿にある喜子川遺跡

 宇宿に土盛?の集落がある。そこに骨董屋さんがあり、仕事上ちょっと足を止めることになった。資料的に価値ある骨董品があるかどうかは、よくわからないが、この地にそういう品々を収集している方がいらっしゃることに興味をもった。しかし、声をかけても家主さんは骨董品収集で出かけていたのだろうか。話が伺えず残念。因みに「栄商店」の看板がかかっていた。

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  ▲道沿いに骨董屋を見つける         ▲骨董屋の中

【笠利町須野】
 須野集落の入り口に厳島神社がある。そこから集落を眺めることができる。川筋がいくつかあり水の豊富な集落の印象をもつ。それと茅葺の高倉があり、稲作が盛んに行われていたにちがいない。

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  ▲何本か川筋のある須野集落     ▲集落にある茅葺の高倉

【笠利町笠利】
 笠利のは入口あたりに「大島奉行所」の説明板がある。薩摩の琉球支配以前は、この地に大親職の殿地が置かれていたという。1623年(慶長18)に琉球攻めに功績のあった法元仁衣文衛門が初代奉行に付いた。この場所は1635年まで奉行所(仮屋)として大島統治の拠点となったようだ。仮屋は大熊村・赤木名などを転々とし、1672年に再び笠利の地に置かれた(1639年に奉行は代官と改称。以降大島代官)。伊津部村にも置かれる。奉行所跡地周辺にはサンゴ石の屋敷囲いが結構残されている。首里王府から派遣?された大親の時代の痕跡を奉行所跡地から見つけるには・・・。

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  ▲大島奉行所跡の説明版    ▲奉行所跡のサンゴの石積(右手)

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 ▲奉行所跡の側にある屋敷跡   ▲奉行所跡の側にあるサンゴの石積

2003.10.22(水)

 今企画展を開催している本部町字具志堅の上間区長さんがお礼にとコーヒーと焼きたての学校の給食用のアツアツのパンを持って来館。「ありがとうございました」と。シマの方々が元気がでるのは嬉しいもんです。ハイ

 明日から奄美へ出張(沖縄県博物館協議会:23日〜25日)です。時間をみて、奄美の南まで行く予定。宮古メモがまだ頭で渦巻いているのだが・・・。「奄美に残る琉球的なものは、古琉球の姿である」との仮説を持っている。奄美の村々に、どんな古琉球的な姿を見つけることができるのか。奄美での研修は「グスク時代、古琉球の時代、そして近世から未来への旅」でもある。・・・ほんとにホラふきである。ハハハ

 少し奄美の下調べでもしておかないと「癒しの旅」になりかねない。奄美には名瀬市・笠利町・龍郷町・大和村・住用村・宇検村・瀬戸内町があるのか。その下のムラは・・・。結構あるな。ムラの歴史までたどると、とんでもない旅になりそう。近世の「名越左源太」の『南島雑話』の世界も見つけたいのだが・・・。それと1609年の琉球侵攻(首里城)の途中奄美も上陸している。グスク・アシャゲ・神山・集落・古琉球の辞令書・間切・祭祀(神衣装)・おもろに謡われた地・墓などなど。奄美を見ていきたいキーワードがいくつも飛び出してくる。それだけの時間がないので二、三に絞ることにするが、途中で変更しそうなので秘密じゃ。奄美行きが楽しくなってくる。(南に台風が二つあるようだ。気がかりだが・・・)

 結局、午後から来客があり備瀬の集落、具志堅の集落、そして今帰仁グスクのレクチャー。奄美の下調べができずじまいである。まあ、研修会もあるし、奄美のムラを歩きながら・・・。石敢當にでもぶっつかるでしょう。オヨヨ(奄美の研修会と旅の夢が消えそうな気配なり)

    館の二人の娘達よ。留守番よろしく。お土産は研修報告!
        (宮古の研修報告もまだでしたかね)


2003.10.21(火)

 
休み明けは恐怖である。何が待ち構えているかわかりませんから。道具の寄贈があり与那嶺のカマゴロヤーまでいく。空き家にしてあった家を貸すのだという。そのために、タンスや押入れに入れたあった道具や家具などを処分するようだ。それでソロバンや甕類、ムイジョキーや変わった鍬など。甕は中身が入っている。きっと泡盛(古酒になった)の何十年ものかでしょう。きっと。イヤ、アルコール分は飛んでしまって、ただの古水かもしれません。ハハハ

 文書類は保管するようだ。その中の「家庭日記」(1949年)や「農事日記」や「技官高江洲氏住宅建設に関する記録」(与那嶺区:1949年4月)などを少し見せてもらった。「農事日記」には作物の栽培の記載は詳細である。それは貴重な内容である。突然の訪問だったので、借用は日を改めて・・・。

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  ▲与那嶺のカマゴロウヤー         ▲「家庭日記」の表紙
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  ▲住宅建設に関する記録の表紙       ▲戦前の家日記の一部

 学生達の「記録ノート」のまとめ部分が次々届いています。ありがとさん。


2003.10.19(

  月は休館です。いい休日を!!

 大分涼しくなってきましたがまだ半袖で大丈夫。本土からストーブをとりだそうか、寒いのは苦手だななどのたよりが届きます。沖縄はまだまだ泳げそう。季節感がうとい沖縄にもミーニシが吹きだしています。過ごしやすい季節です。周辺ではオオシマゼミがゼーン(銭)、ゼーン(銭)と体をふりしぼって鳴いています。

 昨日、具志堅の比嘉セイトクさんが展示を見にやってきた。自分が登場しているので、展示を見ながら祭祀における自分の役目をしっかりと確認。そして、
    「学生達はどうしたの?まだ、いるの?」
    「展示を見ずに帰ったのだよ。きっと、またくるよ・・・」
    「セイトクさん、何年生まれ?」
    「トラ、寅・・・」
    「わたしも、寅年生まれ?!」
その会話を聞いていたうし丸は「・・・ウッウッ・・・」と言葉を飲み込んでしまった。どういうことじゃ。

 広島から新田千代香さんの「調査ノート」が添付されてきた。早速アップ。結構なボリュームなので「学芸員実習記録ノート」の項目をつくることにした。まだの方は、いつでもどうぞ!企画展は、まだ続く・・・である。

 今日、ひよっこり一昨年学芸員実習をした宮城ウミさんがやってきて、しばし思い出話と談笑。先日亡くなった神人のフミさんを気遣っての来館だったようだ。彼女の卒論は、確か古宇利島だった。そのとき、世話になったのでしょう(ウートートゥ)。

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   ▲展示を見にきた比嘉セイトクさん。自分の姿を見つけてニッコリ!


 山原の伝説・神話に関わる図像のいくつ整理してみた。一部展示するのであるが、報告のために資料と聞き取り調査をまとめてみた。ここでは文献に掲載されている伝説・神話と図像が合致しているものを紹介する。調査の段階で、そういう伝承・神話を知っていて調査したわけではなかった。もちろん、図像について聞き取りをしているのであるが、語ってくださった方々の話が断片的であったり、記録された内容と必ずしも合致するものでもなかった。今回、整理して再度調査する必要がありそう。
 「伝説・神話にまつわる図像」は非常に興味深いものがある。関羽や千手観音や七福神など、言ってみれば他の国の図像を導入するということである。それと、地元にまつわる伝説・神話を絵にして掲げることと、どう結びつくのか。そこに、沖縄の人達の神観念が見えてきそうである(なかなか面白い。一人で面白がっているのじゃ)。(工事中)

           伝説・神話にまつわる図像

【大宜味村屋嘉比の黄金山と親子】
 むかし屋嘉比村(現在の田嘉里に含む)の旧家山口の祖先が大島に航海したことがある。その時種子島島主の娘が不義の行があって身の置き所がなく困っていた時、幸いに山口が航海して来たので山口に頼みその船に乗って屋嘉比村にやってきた。しばらくしてその地で一子をもうけた。その娘は望郷帰郷の念やみ難く森中の洞窟に籠もって日夜迎えの船を待ち侘びていたが遂にここで病死してしまった。

 付近の黄金山はその女性が所持していた黄金を埋めたとの事から黄金山(クガニムイ)と呼ばれた。あるいは、女性が故郷からの迎えの船を待ち侘びた森、待ち侘びたことからクガリムイではないかともいう。田嘉里一帯はその女性の子の子孫ではないかと伝わっている。そのため氏神として黄金山に祭り、旧暦七月第二の戌の日に村芝居をし、娘の肖像を掲げて拝んでいる。
   『大宜味村史』屋嘉比伝説(黄金山)(一部書き改めた)

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【国頭村比地のミルク田と天人】
 老人が子や孫を連れて畑回りをしていると、どこからともなく天人(アーマンチュ)が現れて年齢を聞いた。「120歳になります」と答えた。今度は「子や孫は繁盛しているか」と聞いた。「また孫、ひち孫までいます」と答えると、「美しい心を持った人だ」と、稲の作り方を教え、「村人たちにも教えてやるといい」と言って姿を消したという。教えられたとおりに稲作をしたらおいしい米ができた。比地川の中の宮付近にミルク田跡がある。泉川の山城家が管理している。ここが田の始まりと言われ、隔年に行われる豊年祭のとき、この田を拝んでから行事がはじまる。豊年祭の長者大主で、その場面が演じられている。

この伝承を持つ泉川の山城家の庭に神屋があり、そこに杖を持った天人(アマンチュ)の図像が掲げられている。手に持っているのは実った稲穂のようだ。比地に伝わった伝承に登場する天人を図像として描き掲げてある。

『国頭村史』(別冊)「国頭村の伝説」
    ―比地のミルク田の話―

 『国頭村の今昔』(沖縄風土記全集)
    比地の口碑・伝説
     ―ミルク田の話・人物―

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【本部町具志堅の上間殿内】

 本部町具志堅の上間殿内は尚円につながる旧家である。上間家の先祖の上間大親は尚円王の弟にあたる人物で、尚真王が山原を巡回しているとき暴風にあった。そのとき上間大親の親子が尚真を助けた。そのお礼として子ども達は首里で役職を賜り、上間大親は上間村の土地を賜った。上間大親は墓を伊是名島が正面に見える今帰仁村諸志の佐田浜につくり赤墓と呼ばれている。

 上間殿内の神家に龍が描かれた図がある。龍は首里王に関わるもので、上間家が尚円王(尚家)につながる伝承を持つ家筋なので龍(爪三本)の図像が掲げ、上間殿内が首里の尚氏の系統であることの証として掲げてあるのであろう。その神家には左手から位牌(二基)、中央部に火の神、千手観音、龍の描かれた図像の順に置かれている。

  『沖縄県国頭郡志』
  『具志堅字誌』
  『本部町史』

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2003.10.18(土)

 「今帰仁城が抱えた村」の企画展に関わった学生のノート(感想や学んだことなど)が送られてきています。まずは、神戸学院大学の上本さんから。企画展の冊子にする予定なり。企画展に掲げてあります。広島の皆さん。原稿待っています。館長より

【山原の図像】メモ
 一昨日から山原の図像を追いかけて、3年前の記憶を呼び起こしてみた。沖縄の人達の神観念が見えてきて興味深いものがある。図像研究会の方で展示にあわせて図像の分類をしている。その分類を借りるなら、
   @関  羽
   A福禄寿
   B七福神
   C観  音
   D鍛治神
   E神話・伝承にまつわる神
である。私がテーマとしてきた人々の神観念が図像と図像を掲げている家々に見ることができそうである。図像そのものの見方や信仰について私の手に負えるものではないので図像研究会の方々にまかせたい。私はこれまで山原の図像の所在確認をしてきたことを通して、沖縄の人々の、特に山原の人々の神観念について触れることができたので、その報告をすることになりそう。

  (工事中なり)


2003.10.16(木)

 午前中、知念村知念小学校の80名余りの小学生達と今帰仁グスクへ。そして「今帰仁上り」の来客、さらに与論と今帰仁グスクとの関わりのお客さん。兼次小学校の五年生二人が今帰仁グスクのリーフレットをつくるということでやってきた。「古宇利島しまづくり」と「田園空間事業」の件で企画の小那覇さんとふい掟の小浜さんが来館。これが今日5時までの業務。途中で電話でのレファレンスや11月の予約がポンポンはいてくる。10月になってそんな日が多い。知恵を提供しぱなっしで頭の中は空っぽ。アキサミヨーである(苦笑)。

 さて、さてやっと充電時間である。3年前の資料整理である。山原の図像の調査をしてきたが、その報告をせねばならなくなった。それと展示会を芸大で開催するという。そのため図像の画像を提供。それと私は「山原の図像の調査」として報告。20冊余りのアルバムを開いてみたのだが、どこのだったかその所在をすっかり忘れている。もう一度メモ書きと記憶をよびもどして整理しなければ・・・・。メモ書きが探せるでしょうか。

 やっとアルバムを集合さることができた。「アルバムが20冊余り出てきた」とホッと一息の書き込みである。図像研究会の皆さん、日々展示会に向けて打ち合わせやリーフレットづくりなどご苦労さんである。私は今日から手をつけている始末。すみません。

 図像とはどんなものか、少し紹介しましょう。下の図像は国頭村田嘉里の金城さん宅に掲げてある三つの図像である。左側が「関羽図」、真ん中が「鍛治神図」、右が「千手観音図」である(図像の写真撮りは難しい。正面からだとハレーションを起こしてしまいます(悪しからず)。ガラスの額が多いのですよ)。これから200点余りの整理に入るのであるが記憶を呼び起こせそうにありません。モデル的に紹介してみますが、全体としてどんな報告ができるのだろうか。ハハハ(ホントにチャランポランじゃ)(展示用は土曜日に送付できそう)


 ▲国頭村田嘉里の金城氏宅に掲げられている図像(三点)

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  関羽図       鍛治神図     千手観音 

2003.10.15(水)

 連休明け、パンク状態なり。これから「今帰仁城と世界i遺産」で講演あり。
本日の書込みなしです。


【宮古・池間島をゆく】A

 宮古池間島には池間と前里がある。1700年代に島の人口が2000人を超えたこともあり、1766年に前里村を創設している(『球陽』)。イケマーの呼称は漁民という意味合いがあると聞く。またイズアキャーダは「魚専門の行商」のこといい、池間・西原・久松の女性を指す言葉であったようだ。イズ(魚)やタコ、イカや貝類などを家々を回って売り歩いたという。・・・・(工事中なり)

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2003.10.12(

 月・火と休館です。いい休日を・・・・。休み中、頭は宮古が駆け巡っていそう。

 図像研究会の皆さん、来週には手をつけますから!

【宮古をゆく】
(8日)
 8日から10日まで「宮古をゆく」。8日の研修会は午後からなので、早便で那覇を出発した。名護出発は午前6時であるが、早朝の出発は得意である。前日まで多忙をきたしていたので、宮古のどこにゆくのか、また下調べもなし。それに「地域史の会場どこだった? 時間は?」と飛行機を降りてから歴文へ電話する始末。宮古空港に着陸直前、橋の架かった来間島が左手に見えた。(印は今回訪れた主な場所)

(図工事中)

 来間島と池間島は、宮古島から橋が架かっている。二つの島を歩いていると島の人々の生活やその姿は、現在進行中の古宇利島の将来を考える手がかりやヒントを島の人々に提供してくれる。地域史協議会の研修目的とは別に、古宇利島の方々へ島の将来を考える資料を提供しようと考えている。外野から、ああだ、こうだ、そうすべきだではなく、考え答えを出すのは島の方々であり、方向性を見出す資料を提供するのが歴文の立場である。


  ▲橋の架かった来間島(宮古)

 研修会まで二、三時間の時間があったので機内で調べた「狩俣」と「池間島」の集落跡を訪ねることにした。これらの集落の成り立ちは、沖縄本島の古島タイプの集落の成り立ちと類似しているのではないか。11、12世紀という年代的にも。そんなことを念頭に入れつつ狩俣と池間島行きとなった(後で巡検資料をみたら、そこらははいっていなかった。再度行きたかったのだが)。

【宮古・狩俣をゆく】@
 飛行機を降りると早速車を借りる。同便に地域史のメンバーは一人も乗っていなかった。これまで宮古に何度が来ているが事務局であったり報告者としてなので、一人でのシマぶらりはほとんどなかった。「それ、狩俣へ」である。遠回りをしたのか、近回りをしたのか分からないが車で20分足らずで到着。

 狩俣に着くと目に付いたのが集落入口のコンクリートの門。そして掘り込んだ井戸である。集落のあちこちに井戸が見られた。宮古では掘り込みの井戸もハーやカーだろうか。

 帰ってきてあれこれ「狩俣」を調べてみると、昭和13年狩俣を訪れた河村只雄は『南方文化の探求』(狩俣の豊年祭)で井戸について触れている。今では使われなくなった井戸がほとんどであるが外見は残されている。家々の石囲いや集落入口の門など、かつての狩俣の集落の様子が伺える。

  「・・・最後に井戸堀りのお祝いの神楽をやるのである。島の生活に於いて井戸
  ほど重要なものはない。井戸を掘っていよいよ水が湧き出た時のお祝の歌は、
  歓喜にみちあふれたものである。・・・」

 『上杉県令日誌』に、
   「狩俣村ハ一種特別ノ村柄ニシテ村端ノ入口ニ石ヲ以テ大門ヲ構ヒ
   一村ノ区域ヲ定メ大門ニ連接シテ石垣ヲ囲繞シ其周域ヲ伸縮スルコ
   トヲ禁ズ、且ツ囲繞外ヘ家屋ヲ造営スルコトヲ嫌フ否厳禁スルト云フ、
   故ニ一屋敷内モ随テ甚タ狭キヲ致ス、又当村ハ士族多クシテ平民尠ク
   士民相結婚スルコトナシ村民ノ貧富貢納ノ多寡モ往時ト別ナシ」
とある。また『琉球共産村落之研究』にも、
   「明治三十七年以前ハ全部落ヲ三方石垣ニテ周囲ヲ繞シ、通用門三ケ
   所アリ。部落民ハ此ノ門ヨリ出入セリ、門ノ高サハ九尺ニシテ幅五尺ア
   リ、伝説ニハ防備ノ為メナリト称ス」
とある。

 狩俣の集落を囲む石垣、そしてその入口のかつての石門、そして家と家の境界をなしている石垣。狩俣の集落内を歩いていると、石積みやコーナーにある井戸、数少なくなった赤瓦葺きの家、福木の並木、番所跡(公民館)など。特に御嶽を背にした斜面の石囲いの家々の屋敷跡。それは狩俣で生活している方々が、どう意識するか。それが長い歴史を持ち誇りに思える理論づけが必要である。「文化財的な価値がある」とか「唯一・・・」といった発想ではなくである。東と南の二つの門は一般の人々が利用し、北西の門は神人のみの出入り口だったという。

 大正2年頃から石囲いの外に家が作られるようになった。今大戦後に集落の周りの石囲いが取り壊され、丘陵地にあった旧家などが次第に低い所(水や道路の便のいい所)に移動していった。

 狩俣の集落の後方(背後:北側)に御嶽が細長く丘状にあり、その南斜面に石囲いの集落が発達している。その点では沖縄本島の御嶽を背にした古島タイプの集落の展開と同様の印象を持つ。石積みの囲いが集落全体と個々の屋敷囲いとなっている。そのプランは宮古島の古い集落プランを示しているのかもしれない。

 屋敷の石囲いという意味では、池間島の古い集落のあった跡地、そして今回巡検で訪れた城辺町砂川の上比屋山遺跡も集落の跡であるとの印象を持った。そこにあるマイウィピャーやクスウイピャー、ウイウスなどの茅葺屋根の建物や内部のイビ(神石)などは、山原の神アサギと御嶽のイビが合体しているのではないか。もう少し時間をかけて、ここで行われる祭祀を含めてみてみたいもんだ。前庭で船漕ぎ儀礼が行われるているという。古宇利島や今帰仁グスクでの海神祭(ウンジャミ)の一場面を思い起こす。
     

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 ▲狩俣の集落入口のコンクリートの門  ▲狩俣集落の入口手前の井戸

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   ▲狩俣の集落内の井戸     ▲石囲いのあるムトゥヤー

2003.10.11(土)

 
宮古から帰っていますが、ムラ・シマ講座や馬天小(110名)などのレファレンスがあり、これから「週間レキオ」の取材がありバタバタしています。少し落ち着いてから書き込みします。

   (工事中なり)

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2003.10.7(火)

  8日(水)〜10日(金)まで、宮古島へ。沖縄県地域史協議会研修会

 久し振りの大雨。雨の中、11月1日2日に開催される「今帰仁村文化祭」の展示の件で、担当の内間公民館主事と三時過ぎ北山高校を訪ねた。これまで北山高校から提出(運ばれた)された絵や書道で展示をしてきた。運ばれてきた作品のすべて展示する形となるため、テーマがぼけ、また年度によってレベルの凸凹があった。

 その心配があったので、今回は教室まで足を運んでみた。教室そのものが作品として展示できる。「そのまま持っていこうか」と。ぜひ生徒達の息づかいや思いを展示を通して伝えたいもんだ。欲を言えば野外展示もしたいのだが・・・(今回はパス)。

 腰掛けている生徒達の姿や表情が絵になるのでパチリ。教室の中や廊下、そして教室の外には高校生達の素朴で、なかなかのアイデアの作品が転がっている。

 来週、もう一度訪ねます。生徒達と一緒に展示してみる予定。今帰仁ブランドになりそうな作品があるかも。ありそうだ。きっとある! 宮城一夫先生よろしく。歴史文化センターの特別展に組み込みたいもんだ。イヤ、「組み込むぞ」だな。

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   ▲君達の顔も絵になります!         ▲シャツにオリジナルのデザイン

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 ▲流木を重ね、海を彷徨ったように・・・     ▲身近な材料で作品づくり

2003.10.5(

 古宇利島の字誌のことがあるので、外地引き揚げの調査資料の一部整理をしてみた。その資料のタイトルは「在外私有財産調査報告書」(昭和35年10月)で「外務大臣」宛に提出されたものである。調査項目は、氏名・生年月日・本籍地・現住所・現在の職業・終戦時の職業・終戦時の住所・外地経歴(渡航・引揚)・終戦時一ヶ月収入など。それと「調査内訳表」があり、動産・不動産・銀行預金・金銀貨幣・現金などもあるが、字誌や歴文が資料として必要とするのは、どれだけの方々が、どこに渡航し、そして戦後どの時期に引き揚げたのかを把握するためのデータである。そのため個々の財産の具体的な数字は公にしない。

 古宇利だけでなく今帰仁村各字のもあるので資料化しておきたい。戦前外地に行き、そして戦後引き揚げ時期などが具体的にわかる。また、財産調査の項目もあり、戦後の引き揚げ直後の生活の様子がよくわかる。満州に行った方々の職業、そして南洋に行った方々のそこでの職業などがわかる。

 古宇利島の引揚者(25名余?)の戦後の「動産」の項目をみると、寝具類・水屋・炊事道具・豚・牛・鶏・くり舟・ミシン・衣類・タンスなどがあげられている。そこから生活の様子を垣間見ることができる。それと聞き取り調査の手がかりとなる資料である。

No. 氏  名 住  所 生年月日 終戦時の職業 現在の職業 終戦時の住所 外地渡航 引き揚げ
01 大城文孝 古宇利 758 大正6.4.20 漁 業 農 業 南洋群島サイパン  ・
02 金城鎌孝  〃   229 大正7.8.10 漁 業 農業及漁業 南洋群島ヤップ島 昭10.11 昭21.10
03 玉城清蔵  〃    45 明治40.1.30 職 工  ・ 南洋群島サイパン島 昭5.8 昭19.7
04 兼次光徳  〃   234 大正7.7.10 漁 業 農 業 南洋群島サイパン島 昭10.11 昭21.5
05 久場眞頴   〃 1179 大正8.11.8 昭和製鉄行員 農 業 満州国奉天省   ・
06 玉城幸太郎  〃  296 大正4.9.3 漁 業 農 業 南洋群島ロタ島 昭7.5 昭21.2
07 山川源一   〃  171 大正2.12.25 漁 業 農業及漁業 台湾群島高雄 昭3.3
08 大城文助   〃  290 明治38.3.25 行 員 農 業 満州国鞍山市 昭18.1 昭21.8
09 平田勝三   〃  142 大正13.12.18 漁 業 漁業及び農業 台湾高雄 昭14.5 昭21.3
10 玉城平矢  〃   265 明治43.3.1 農 業 農 業 南洋群島トラック島 昭18.7 昭21.1
11 大城文助  〃   290 明治38.3.25 行 員 農 業 満州国鞍山市 昭18.1 昭21.8
12 平田清一  〃   142 大正2.8.15   ・ 農 業 南洋群島トラック島 昭9.5 昭21.1
13 諸喜田盛八  〃   238 明治24.12.5 大橋タベオカ工場 南洋群島サイパン島 昭6.7 昭21.11
14 玉城彦次郎  〃  1166 明治40.8.10 商業及自動車 農 業 南洋群島サイパン島 昭7.7 昭21.1
15 金城仁吉  〃   53 大正14.11.13 農 業 農 業 満州国黒河省 昭15.3 昭22.10
16 仲村善栄  〃   17  大正元.6.5 製鉄工 農 業 満州国奉天省鞍山市 昭16.3 昭21.8
17 玉城清栄  〃   45 大正4.7.9 製鉄工  農 業 満州国奉天省鞍山市 昭16.3 昭23.8
18 玉城平次  〃  264 明治39.12.8 農 業 農 業 南洋群島トラック島 昭6.7 昭21.1
19 兼次光茂  〃  246 大正4.11.10 会社工員 農 業 海南島岩県 昭17.2 昭21.2
20 兼次光一  〃  234 明治41.11.20 農 業 農 業 海南島岩県 昭16.11 昭21.3
21 玉城常二  〃  227 明治38.12.10 建築工員 農 業 海南島岩県 昭15.12 昭21.3
22 金城仁亀  〃  59 大正8.10.5 製鉄工 農 業 満州国奉天省鞍山市 昭21.8
23 松田岩雄  〃   6 明治42.5.31 運転手 農 業 比島ミンナナオ島 大15.10 昭21.10
24
上間喜正  〃  101 大正5.3.10 漁 業 農 業 南洋群島ヤップ島 昭7.11 昭20.10
25 玉城善作  〃 149 大正11.9.13 製鉄工 農 業 満州国奉天省鞍山市 昭18.3 昭21.8
 

2003.10.3(金)

 多忙をきたし、書き込みできません。


2003.10.2(木)
 
 10月ですか。沖縄も秋めいています。ヤマトの秋の風情とは異なるのでしょうが。入道雲がなく、空気が澄んでいます。また桜やハゼの木の葉が色づいています。日中の気温はまだまだ痛いです。

 10月は余り動くことができませんので、書き込みはどうだろうか。少し机上でものを考えてみましょうかね。でも、性にあいませんね。ハハハ

 学芸員の実習の学生達からのメールがやってくるので、企画展の余韻がまだ漂っている歴文です。来週は具志堅の方々ややってきます。連絡がありました。