2003
         11月の動き

 企画展  ムラ・シマ講座   山原の図像    過去の動き


2003.12.30(

 明日(月)は休館です。
のんびりの休日になるか?


 
昨日の今帰仁ミャークニーをアップしてみました。ご覧下さい。当日の様子がわかります。残念ながら音声はでません。それはビデオで。編集お願い中なり。

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      ▲新城紀秀先生の講演            ▲ミャークニーの前座のサミー(今泊)


2003.11.29(土)

 今帰仁ミャークニー大成功なり。200名の予定でしたが、330名余になり立ち見もでるなり。あり難いもんです。ミャークニーの報告は別に行いますが、これほど苦労した企画は初めてじゃ。ハハハ

 歌い手、踊り手、聴き手、話し手に、これほど助けられた企画はありませんでした。感謝です。若手の登場がいいですね。それと女性の方々が目立ったこと。そして大先輩方。大先輩方は舞台に座るだけでも様になります。誰が何をおっしゃろうがいい出来でした。画像は明日にでも。イヤ、とにかく無事終りました。紀秀先生、機知に富んだ講演ありがとうございました。お礼に伺ったら「君の言うこと、なんでも聞くから・・・」恐れ入りました。

【前日のこと】
 いよいよ本日が「今帰仁ミャークニー」本番である。昨晩二、三名の方々がリハーサルに。最長老の渡名喜長栄氏(90歳)も音あわせに。天気も回復しましたので、盛り上がるでしょう。会場準備も整いました。出場者に本番で頑張ってもらいましょう。歌い手もいいが、背景もよし。冊子とプログラムも完成するなり。

 わたしの出番はありませんので、ちょっと余裕。歴文のうし丸さんは、司会進行を務めるが、ウタも歌います。二週間足らずの練習でしたが、今日の出来はいかに!出場者のみなさん、楽しん謡って踊って、聴いて下さい!

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  ▲今帰仁ミャークニーの踊りの練習        ▲会場の準備はOKなり

2003.11.27(金)

 今帰仁ミャークニー―謡う・聴く―の開催に向けて準備でおおわらわ中なり。当日のプログラムや冊子作成に追われています。人相手ですから、頭で考えている通りにスムーズには行きません。やっと登壇する順序が決まったと思ったら仕事がギリギリの時間までなので、後方にずらしてなど。また、明日返事するからと・・・・返事がまだの方も。お陰さまで遅々と先に進みません。怒りが爆発したら一巻の終わり。ハハハハ。忍ですね。後二日。後二日で終わります。油断大敵!!

 明日は三つの仕事がはいていますね。一つは今日でキャンセル。古宇利小学校と今帰仁城跡の整備委員会。整備委員会はパスしないとミャークニーの開催に資料が間に合いません。写真の選び出しまでほぼ終っているので、午前中には印刷に入れるようにせんと。ハイ。ホールに掲げるタイトルは今日でOKなり。

 
この頃は綱渡りのようなスケジュールが続いています。体がついて行きません。

2003.11.26(水)

 久し振りに開けてみました。とは言っても三日ぶりか。その間、ミャークニーの調整で走り回っていました。どうにか、形に持っていけそうです。ホッ!ですが、気を緩めると、落とし穴があったりしますので、終るまで気を締めるわけにはいきません。大阪から中学生がやってきます。そして、本部町から本部ミャークニーも。今帰仁ミャークニーも負けてはおれませんのだ。

 ここまでくると、もう後には引けません。踊る、謡う学芸員を目指してうし丸さんがミャークニーを特訓中。まだ聴いていませんが、大分決まってきたような!楽しみに。私は芸の才能はゼロです。ハハハ でも、何故か企画はやってきました。

 今日は午後から北部地区の教育委員の先生方を前に「今帰仁グスクと世界遺産」の講演でした。首里城をはじめ今帰仁グスクなど五つのグスクと玉陵など四つの資産が世界遺産に登録されて、間もなく三年になります。その当時のことを皮切りに話をしました。

 九つの資産(首里城・今帰仁城跡・座喜味城跡・中城城跡・勝連城跡・園比屋武御嶽・玉陵・識名園・斎場御嶽)の概略を話した後、今帰仁グスクを中心とした歴史・文化について話を進めました。

 山原全体が五のグループ(国頭・羽地・名護・今帰仁・金武)へまとまり、さらに今帰仁グスクに統治されていく過程。その過程の現在の行政区につながっていきます。さらに今帰仁グスクに統治されていく。五つのグスクにまとまっていく200年、そして今帰仁グスクの山北王が君臨し山原全域を統治した時代、その時代は「沖縄の歴史」の三山鼎立時代といいます。三山鼎立時代の約100年間。今帰仁グスクにまとまり、北山王が君臨し山原を統治した100年間に築かれた文化(北山文化と仮称)、それが現在の山原にどう痕跡として残り、息づいているのか。その痕跡と広がりとして括れる地域を「北山文化圏」として意義づけていこうとする試みの話。

 沖縄をみていく「モノサシ」と「旧暦のリズムとサイクル」の重要さなどなど。歴史を遡るのは、知識の羅列ではなく、それぞれの時代に立ち返ることのできる感性と柔軟性が大事だということ。やはり山原の歴史を語ることの重要さは「沖縄の歴史」の三山(北山・中山・南山)時代は、沖縄本島に小さいながら三つの国があったこと。歴史文化センターの前で発掘調査がなされているが、まさに北山の時代の発掘調査です。それと歴文の中に展示してあるものの多くの遺物もまたそうです。

 そんなことを頭で描きながらの講演でした。体の中は抜け殻状態なり。チョンチョン。

 それから古宇利の字誌の校正原稿が二校目(八編分)として印刷会社に回りました。さあ、本格的に動きだしますよ。それも、まったなしの一年間になります。覚悟ですね。その大変さを思い出すだけでも、寿命が縮まりますワイ。職員のみんなもよろしくじゃ。


2003.11.23(

 24日(月)と25日(火)と休館です。でも明日は
歴文と今帰仁グスクのレファレンスが入っています。午前中で終りたいものです。いいお客さんであれば、なんのそのですが・・・。

 特別展―故郷への思い―木原信子作品展―は本日で終りました。いい形で終ることができました。目的は達成できました。四、五日かけて展示したものも片付けは一時間足らずでした。展示作品をおろす時は、いつも寂しいものがよぎります。それは展示の宿命なり。特別展に関わった皆さん、ご苦労様でした。


2003.11.22(土)

 
今日は来館者がひっきりなしである。来館者が続くと、一つのことに集中することができないことが多い。いろいろと頭の中で駆け回っているが、ここに書き込むこ気にならないでいる。そういうときは、今頭の中を駆け回っていることとは、関係ない資料を捜しだし切り替えを行っている。今日もそうである。すっと決まったので、どこかで、すでに報告しているのかもしれない。立ち止まって、明治31年頃の今帰仁間切の「輸出品」と「輸入品」について具体的にみていくのもいいのではないか。当時の「新聞記事」から紹介してみよう。

 普段ムラやシマなどを歴史の動きや祭祀などを通してみているが、生活している立場に立って歴史を見ていきたいと考えている。そうすると、今私たちが常識としていることが、その時代に戻して考えたとき、常識ではないことに気づかされる。

 明治31年頃の今帰仁の様子を輸出品や輸入品から何が見えてくるのだろうか。また、当時のお金もそうである。例えば、白米の輸出品価格の5120円800厘は、五千百二十円八十銭である。数え方は品物によって斤・丸・本・升・間・枚・個などがある。

【今帰仁間切】(明治31年4月7日付琉球新報記事より)

 今帰仁間切から出している最大のものは製藍である。藍で知られているのは本部間切の伊豆味あたりである。今帰仁間切の藍壷があるのは山手の方。呉我山や今泊などの山手である。薪や木炭なども出されている。白米や砂糖、豚、石灰の輸出が目立っている。
 輸入品は焼酎が筆頭である。石油や瓦や昆布は産出しないから当然の輸入品。甘藷の生産が村民が口にするには量が足りなかったのだろうか。ぼつぼつ西洋紬も山原に移入されている。瓦の移入があるが、学校や村屋に使われたのだろうか。民家でも使われるようになる時代でもある。

■輸出の部                  ■輸入の部   
品  目 輸出品数量 輸出品価格 種 類 輸入品数量 輸入品価格
製 藍 317790斤 1,5889円500厘 焼  酎 28480升 5696円000厘
薪 木 471755丸 2830円530〃 5694斤 911円040〃
木 炭 244055斤 3660円825〃 石  油 1130升 158円200〃
砂 糖 168047斤 6721円880〃 白  米 15815升 1897円800〃
白 米 42670升 5120円800〃 大  豆 11340升 190円700〃
角 下 224本 67円200〃 甘  藷 9224斤 73円792〃
楷 木 26本 2円600〃 素  麺 7000斤 56円000〃
徳 利 1185本 59円250〃 杉  板 190間 133円000〃
小 麦 150升 12円000〃 34150枚 136円600〃
杉四分板 30間 15円000〃 41本 10円250〃
丸 木 1140本 91円200〃 小  麦 600升 48円000〃
杉七分板 30間 39円000〃 樽  板 261丁 52円200〃
2475斤 297円000〃 2個 1円400〃
棚 木 6本 10円800〃 味  噌 500斤 22円000〃
ケキ木 80本 1円600〃 雑品入 233ケ 186円400〃
石 灰  3900升 3円900〃 戸  棚 4ケ 8円000〃
合 計 3,4823円085〃 昆  布 300斤 12円000〃
徳  利 2本 100〃
芋  粕 250升 750〃
650升 52円000〃
樫  木 10本 1000〃
イク木 50本 125円000〃
300升 60円000〃
製  藍 2400斤 120円000〃
西洋綛 20斤 6円000〃
合 計 9845円232〃
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2003.11.21(金)

 古宇利島に七森七嶽があることがよく知られるようになった。19日に二つの御嶽(マーハグチとトゥンガヌウタキ)を訪れる機会があったので、古宇利の御嶽について少し整理しておくことにする。
 『琉球国由来記』(1713年)に中嶽・サウ嶽御イベ・カマニシ嶽御イベの三つの御嶽が記されている。中嶽はナカムイ(ナカムイヌウタキ)、ソウ嶽御イベはソウヌウタキと想定してよさそうである。カマニシ嶽御イベは「釜煮をする」ことからトゥンガ(台所)の御嶽かと考えたりしたが、宮城真治氏によるとカマニシはカマンシだという。一帯の海岸の地名にハマンシがあり、浜の石(岩)にちなんだ呼び方のようだ。カマニシの御嶽は今ではビジュルメーと呼ばれている。洞窟内にビジュルが安置されていることによる呼称のようだ。『琉球国由来記』に登場している三つの御嶽は、以下のように想定できる。(@〜Fの順序はタキヌウガンの時の順路である)

  F中 嶽       →中森(ナカムイ・ナカムイぬウタキ)(古宇利子)
  Bサウ嶽御イベ   →ソーヌウタキ(ノロ等七名の神人)
  Dカマニシ嶽御イベ→カマンシぬ御嶽(ハマンシ・ビジュルメー)(内神)

以下の四つの御嶽は『琉球国由来記』には記載されていないが、七森七嶽の御嶽である。
  @マーハグチの御嶽(根神)
  Aトゥンガヌ御嶽(別名下の御嶽)(ノロ等七名の神人)
  Cプトゥキヌメー御嶽(ノロ)
  Eマチヂヌ御嶽(ヤトバヤ)

 宮城真治氏の昭和二年調査によると、上記( )の神人が、それぞれの御嶽を担当して御願をしていた様子が伺える。もちろん七森七嶽のそれぞれに担当する神人はいるが、祭祀全体の管轄は古宇利ノロである。

 トゥンガヌウタキは道路から草刈された小道をいくと大きな岩に突き当たる。そこが御嶽のイビにあたる場所。目印に石が置かれているが、火神の石とは別ものである。台所のことをトゥンガと呼ぶが、この御嶽名とどうつながるのか不明。上の方にあるマーハグチに対してだろうか、下の御嶽(ヒチャヌウタキ)とも呼ばれていたようである。トゥンガヌウタキの岩にはアコウとカジマルが絡み合い、それらの根などで一帯は神々しい雰囲気が漂っている。

 古宇利の御嶽のすべてが大きな岩をイビにしている。ここでも岩(イビ)に神が降臨する観念が読取れる。

『琉球国由来記』(1713年)の郡(古宇利)の御嶽部分の「右、五ヶ所郡巫
 崇所」とあるが、中森・サウ・カマニシの三ヶ所は郡巫崇所、ムコリガワと兼
 次之嶽御イベの二ヶ所は中城(仲尾次)巫の崇所であるので要注意。
 郡(古宇利)の「神アシアゲ」部分の「郡巫、祭祀也」の後は郡村神アシアゲ
 ではなく「今帰仁城内神アシアゲ」部分に入る記事なので使う場合は要注
 意である。

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     ▲トゥンガヌウタキへの道             ▲トゥンガヌウタキのイビ

2003.11.20(木)

 ミャークニーの依頼と昨年の仲宗根幸市氏の講演のテープおこしで一日が終ってしまいました。人相手のことですから、そう簡単にはいきません。毎回二度とやるまいと思いつつ、どうにかやってきました。ハハハ 

 それは地域の方々の協力と後押しがあってやってこれたもの。2000年にミャークニーは15年ぶりに、やっと立ち上げたもの。歴文の柱の一つにしていきたいものですが、どこか、やりたいと手をあげたらバトンを渡したいと常々考えています。

 今年は「本部ミャークニー」も唄ってもらうことに(三人)。快く引き受けてくださった本部の皆さんありがとうございます。また、大阪からも中学生が参加する予定。ほんとに有り難いものです。それと新城紀秀先生から、講演引き受けて下さるとのご返事。「今帰仁ミャークニーを語る」で講演をお願いできました。
   「モーアシビーも話していいか?」と先生。
   「ミャークニーを語るのにモーアシビーがないと話は始まらないじゃない
   ですか.。先生」。
   「あ、そうだな。ワハハハ」
ということで決定。

 ミャークニーを唄える方々へ直接依頼。ここニ、三日続きます。きつい山場をむかえています。それに天気が悪く・・・。でも、快く引き受けて下さる方が一人でもおられたら、一歩、二歩と進めることができます。それ、行けです。まだまだ、出場者を数えられる人数に、まだまだ至っていません。ハハハ 


2003.11.19(水)

 午前中田園空間の打ち合わせ会あり。午後から古宇利島の字誌・ゆいまーる・しまづくりなど私にとっては合併の集まりである。古宇利島のことは、これまでやってきたことの延長なり。島の方々から、以下のことを聞くことができた。
  ・島でつくっていた作物のこと(麦・マージン・大豆・粟・陸稲など)
  ・イモ洗い
  ・酒造り
  ・イシガブ
  ・豆腐づくり(豆腐箱のこと)
  ・店のこと(東・中・西の三つの売店)
  ・第一桟橋のこと
  ・戦後の密漁のこと
  ・体感の天気予報
  ・ポットホールのこと
  ・古宇利(フイ)の呼び方
  ・取締りのこと(罰金札)
  ・針突(パジチ)
  ・神行事のこと(作物との関わりで)
  ・ムシバレー(虫払い)
  ・旧暦のこと
  ・島の収容の様子
もっと、たくさんのことを聞いたような。後ほど整理することに。3時過ぎに「島巡り」(シマミグイ)の話は終る。それが終ると、マーハグチとトゥンガヌウタキまで足を運ぶ。念願のマーハグチの見学である。これまで古宇利島のタキヌウガンに三回ほど参加しているが、マーハグチのイビ?まで行ったことがなかった。道がなかったので、神人達は道の側でマーハグチに向かって遥拝(ウトゥーシ)をしていた。

 マーハグチでの祭祀については、神人から聞かされた話、あるいは記録された話は目にしていた。やはり現場での臨場感が欲しかった。『沖縄県国頭郡志』に「古宇利島神話」(317頁)として人類発祥伝説が掲げられている。その後半部分に、次のように記してある。

   今同島宮古口と称する神嶽中に二個の髑髏あり。毎年旧一・四・七・十月の
   四回吉日を選び二人の神職之を祀る。其の祭祀に臨むや三日間精進清進
   む潔斉をなし、純潔なる白装束(白衣白鉢巻にて腰巻に至る迄新調)にて参
   詣をなす。
   島民途中之に逢会するを忌みて道を避く。(以下略)
   
 昭和10年代に河村只雄は古宇利島を訪ねている。このマーハグチも。『南方文化の探求』525頁)に、
   「マーサグチ」の至聖所」というのはこの島の「島はじめの男女二神」の遺
   骨の収めてある墓であった。島人が「マーサグチの神様」の頭の骨は普
   通の人間の頭の骨の三倍位あるなどと噂していたが、のぞいて見たら普
   通の人骨より小さくとも決して大きいものではなかった。
と、マーハグチの様子を記してある(マーハグチのことをマーサグチと表記してある)。

 今回訪ねたマーハグチは、最近マーハグチのイビにあたる場所まで道がきれいに通されていた。区長さんの案内もあったので、迷うことなくマーハグチの墓(イベ?)まで辿りつくことができた。大きな岩の半洞窟部分を利用して墓のように石積みで閉じられている。私が神人の兼次さんに「頭蓋骨を洗うとき、墓を閉じている石をのけたのですか?」と尋ねたら、「イヤ、かつては岩陰に人骨が置かれていたが、犬などが住み着き荒らすので墓のように閉じたのだよ」との返事であった。その話は非常に大事なことである。というのは、御嶽が墓であるとの議論と関わるからである。河村只雄が訪れた昭和10年頃には大きな岩の麓は墓のように石積みがなされている(写真)ことにも注意。

 マーハグチの御嶽での頭蓋骨を洗う風習は他の御嶽では聞かない。それは人類発祥伝承の二人の人物に結びつけて骨を清める祭祀を行っていたようである。他の御嶽と同様なことは、神の降臨が御嶽であることに変りはないようだ。

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  ▲今日の古宇利島の様子            ▲古宇利の港からナカムイ方面を

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   ▲島の福木の並木道をゆく          ▲気にいった道沿いのアコウの老木

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 ▲いつも足の向く石積みのある家        ▲石積みと屋敷の福木がいい

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   ▲現在のマーハグチの様子      ▲マーハグチの出口付近から横太原一帯を

2003.11.18(火)

 午前中予定の打ち合わせ会がお流れ。明日の午前中に。午後からミャークニーの案内と出場者を募るため外回り。まずは各区の区長さん方から。そして知恵を拝借のため長老様宅へ。今日から出場者を募るため走り回る日々が続く。

 石川市在の水戸黄門様が「今帰仁ミャークニー」の講演を引き受けていただけたら、まずは成功なのだが・・・。いい返事を期待している・・・。これから昼間会えなかった方々へ電話でのお願いなり。しばらく、うならされる日々が続きそう!ハー(何回やっても楽になりません。ますます難儀さを覚えるワイ)  さあ、どこまでやれるか。楽しみましょう。

 明日は午後1時25分の便で古宇利島へ。字誌・ユイマール・島づくりなどいくつかテーマをひっさげて。古宇利島の地図と展示してある上空の写真、パネルを使ってのシマミグイ(島巡り)にしましょうかね(天気も悪そうだし)。資料をつくる元気と時間がありません。

 
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  ▲今帰仁ミャークニーのチラシの表  ▲いろいろんなキーワードでシマミグイ(島巡り)


2003.11.16(
 
 明日は休館です。頭の人間ドッグなり(結果は天才?凡人?ハハハ、やはりバカか)。

 特別展で朝から来館者でにぎわっている。昨日古宇利島のタキヌウガンに参加(調査)してきた夕貴(沖国大)が卒論をひっさげてやってきた。少しばかり、タキヌウガンと卒論の進捗状況の報告をうける。いくつかアドバイス。

 沖縄本島の神人(ノロ以下の神人)が行うムラ・シマの御嶽を基点とした祭祀は、「海の彼方からの訪来神」の視点で考えるべきではないと考えている。もちろん奄美おいては、その視点が必要である。これまで山原の多くの祭祀の流れをみてきた。どうも神の来訪の流れは御嶽や山から集落へ、さらに海へつなっていく。その流れが自然である。もう少し具体的に言うと、御嶽にはイビ・イビヌメーがあり、御嶽の木を切ってはいけないなど。それは神が木(神木)を伝わって降臨してくる発想がある。神降臨の場所がイビである。イビヌメーは神人の一部の方々が訪れていい場所、イビまでいけるのはノロはじめ根神など、さらに一部の神人。一般のムラの人々が行けるのはイビヌメーのさらに下方の広場まで。境界線として左縄を張って囲うところもある。最後は海岸のナガレミャー(流れ庭)、それは神や穢れを海の彼方へ送り出している。

 その図式が古宇利島のタキヌウガンやウンジャミ、安田・安波のシニグやウンジャミ、具志堅のトン・トト・トン、比地のウンジャミ、今帰仁グスクのウンジャミ(ウイミ)などの祭祀でみることができる。御嶽(イビ・シビヌメー)⇒神アサギ(集落)⇒カー(あるいは海岸)の流れである。ただし、奄美では逆に海(海岸)から陸への流れが見られる。奄美に当てはまる海の「彼方からの来訪神」とは、まったく逆の「天から降臨して、神アサギや集落内の拝所、そして海の彼方へ」の流れが、山原の神人達が行っている御嶽を要としたムラの祭祀の自然の流れである。以前から「海からの来訪神」を前提に質問されると、返答のしようがなかった。山原の祭祀の流れは、御嶽⇒神アサギ(集落)⇒海(海岸)と考えるとすっきりと見えてきそうだ(近世的な祭祀の形かもしれない)。奄美の祭祀は古琉球の祭祀の姿を残しているのかもしれないが・・・。(いずれ奄美の祭祀との比較で検討してみたいもんだ)。

 「特別展」を片付けて(開催中)、次は「今帰仁ミャークニー」。出場者を募る仕事が待っています。さあ、どうなることやら!!


2003.11.15(土)

 特別展の開催スタート、そして「ムラ・シマ講座」が同時進行。企画する側は大変であるが、展示会はオープンすると裏方の仕事は一段落。

 本日の「ムラ・シマ講座」は今帰仁村の一番東側のムラ(字)である。湧川の面白さは、1738年に創設された村(ムラ)であること。それが寄留人(士族)の比率が高いこと、そして路次楽や豊年祭の七福神の移入、塩づくりなど他のムラとは異なった歴史を歩んでいる。新設されたムラを見るとき、御嶽(ウタキ)をどう位置づけていくのか。それを知ることのできるムラでもある。

 湧川の集落の成り立ちをみると、御嶽が集落の後方の高いところ。御嶽にはイビヌメーがあり、頂上部にイビがあり、石が置いてある。イビヌメーの下方に広場があり、タキヌウガンの時、その広場(ナー:庭)にムラの人達が集まり待機する。神人達がイビヌメーやイビまで行って祈る。

 湧川ヌルドゥンチは御嶽の麓にある。ヌルドゥンチはムラヤー(現公民館)・神アサギ・新里屋・獅子屋・メンピャーなどが見える位置にある。湧川は1738年に創設された近世中ごろの村である。湧川のムラウチ集落は御嶽・神道・集落の軸線をもって形成された村(ムラ)である。

 (工事中

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2003.11.14(金)

 午前中は二件の来客があり、特別展の展示作業は午後から。特別展の展示がほぼ終了しました。手伝いにやってきたシン君がモデルです。すでに花が届いています。今回の特別展は今帰仁村出身の方(木原信子さん:平敷出身)。現在関東に住んでいますが、故郷(今帰仁)を離れて30年になるといいます。故郷を離れても、はやり学生時代まで生活した故郷が、いつまでたっても忘れないといいます。また歳月が経てば経つほど、今帰仁のことが脳裏をよぎるといいます。膨れ上がった故郷の思いが彩墨画を夢中にさせるのでしよう。

 作品の一点一点について評価できません。しかし、50点近い作品を束にしたとき、その計り知れない重みを感じます。今回の展示を通して、「ほんとの沖縄、今帰仁を見たか?」と自問自答するにちがいない。作品をひっさげて故郷での展示会。明日から始まります。今後、もっともっといい作品を、数多くの作品を描いて欲しいと願っています。

 明日からスタートです。作品についてどんな声が聞こえてくるのか楽しみです。何度展示を経験しても楽にはなりませんね。ハイ

 あっ、明日はムラ・シマ講座です。湧川に行きます。どんなムラ・シマだろうか。

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   ▲特別展の入口      ▲沖縄がテーマのコーナーかな
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  ▲花がテーマのコーナー   ▲思い出深い校庭のガジマルや松並木

2003.11.13(木)

 いくつも業務が重なってくると書き込みができなくなる。午前中は国道の編集会議。午後は同じ道でも今帰仁グスクに登るハンタ道をいく。ハンタ道は久しぶりだな。50名近い方々を引き連れて。今帰仁村に住みながら、そのほとんどが始めて。「冥土へのいいお土産ができましたね」と。このような冗談の言える年齢の面々なり。

 道にもいろいろあり。ハンタ道は今帰仁グスクが機能していた時代から大正5年まで、今帰仁グスクへの主要道路としての役割を果たしていた。ぼつぼつ郡道整備や車が登場してくると、ハンタ道とは別のルートで登る参詣道が開通した。伴ってハンタ道は山道や農道として使われことになる。
 今日はハンタ道、参詣道(大正5年開通)、そして現在の道(昭和40年代)へと移り変わった状況を説明しながらの散歩なり。

 エーガー(親川)からミームングスクまではウォーキング気分で。ミームングスクで「ミームングスク)は「見物グスクです。見物しましょうか」。そこでハンタ道のハンタ(パンタ)が崖であること。そしてミームングスクで薩摩軍の琉球侵攻のとき、運天(古宇利)から親泊沖にやってきた薩摩の軍勢を見たにちがいない。「それ、迎え撃て」ではなく「それ、逃げろだったかも」と。

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  ▲ハンタ道に散歩に集まった面々   ▲ハンタ道の第一のきつい所

2003.11.12(水)

 「やんばるの歴史と文化」の講演あり(梯梧荘)。
 晩は「古宇利の島づくり」の情報交換会(名護在住の古宇利島のメンバー中心)に参加する。歴文としては、これまでやってきたこと(調査・総合学習・ムラ・シマ講座・字誌などなど)を、この事業にどう形にして組み込むかということか。それと継続して行うもの、あるいは補足していくもの。島で生活している方々の視点、もう一方の島外から訪れてくる方々の視点。「古宇利の島づくり」に関わる場合、二つの視点(立場)明確にして議論を進める必要がありそう。ごちゃ混ぜになっているような印象。
 

2003.11.11(火)

 日曜日から、更新できずでした。

 特別展が15日から始まる。午前中展示の準備にかかったのだが、午後から急きょ会議。いや、はや、あせりますワイ。明日は講演あり。特別展の準備あり。ミャークニー大会の調整あり。どれもはかどっていませんね! 

 「山原の図像」の報告。まあ、今帰仁村内の図像を中心とした報告となりました。山原全体の報告はいずれ。一軒一軒のコメントを入れていくと膨大な量になってしまいます。「山原の図像」のページで随時追加していこうと思っていますが…。一覧表に画像を取り込んでいくといい資料になりそう。

 「鍛冶神」についての朝岡芸大学長の講演は山原の鍛冶神を考える上で興味深い話でした。伺っていると鉄や鍛冶屋についての調査の必要性が感じられます。近世あるいはそれ以前の鍛冶屋の実態はどうなっているでしょうか。すでに研究がなされているはずですが・・・。

 グスクから出土する青磁や陶器などの移入や、沖縄で産出しない鉄の移入も按司やグスクを成長させる要因のひとつでしょう。さらに按司(世の主)を支配者に成長させる重要な要因であるにちがいない。古島やグスクなどの遺跡から刀子や鉄滓などの出土はそれを意味しているのかもしれない。

 オモロで鉄(金)に関する「くろかね」「まがね」「はがね」「つるぎ」「よろい」など数多くの鉄(金)に関する言葉が出てきます。それだけ重要だったということなのでしょう。

 宮古などでは鍛冶や鉄の伝来に関する御嶽がいくつか散見できます。先日訪ねた宮古の上比屋森の御嶽にある石の鉢は鍛冶屋で使ったものでしょうか。どうも香炉ではなさそうでした。

 やはり偉人と鉄という図式については、かつていろいろ紹介されています。例えば、ジャナムイ(察度)が鉄で農具をつくり、農民に与えて人望を得て、浦添の世の主になった話。また尚巴志は、日本の商船が鉄塊を積んで与那原にきたので、自分の刀剣と船に積まれた鉄塊と交換した話などなど。

 近世、明治以降の地域の鍛冶屋(ハンゼークヤー、カンゼークヤー)やカンジャーガマなどの調査の必要性を改めて実感させらた講演会でした。またまた、仕事が増えそう。

 展示や講演会に関わった図像研究会のみなさん方、手伝ってくれた学生さん、参加くださった皆さんご苦労様でした。


2003.11.7(金)

 
やれ、やれ。少し休憩。慣れないワープロで原稿整理をしています。今帰仁村の資料整理が、やっとこさ終わりそう。これから本部町、名護市、大宜味村、国頭村、東村、宜野座村、金武町、恩納村までの資料を整理するには無理があります。とり急ぎ「今帰仁村の図像の一覧表」を仕上げることに。
 本部町以下は紙芝居方式でいくことに(手抜き見つけましたぞ!)。今帰仁村を30分、そして残り30分を紙芝居にすればいいのだ!? それでいくことに決まり。一枚一分にすれば、30枚の図像を準備すればいいのだ。これからピックアップ。引き伸ばして、ラミネートまで。レジュメは「今帰仁村の図像一覧」にすればよし。時間的に、それでいくしかないな。それでも、徹夜状態になりそうだが。そうならないようにしましょう。ハハハ。明日は原稿なしか。今のところ、頭は冴えているが、油断大敵。全く初めての分野の中身ですから。楽しみながらいきます(ほんまかいな!)。画像の前のお方。コーヒーでもおごってもらいましょうかね。

 それいけ〜。


2003.11.6(木)

 これまで調査した図像の写真を整理する一日である。他の写真もはいているので、雑多な中から図像を拾い出す作業である。ノートのメモと照合する時間はなさそう。前後の写真を手掛かりに場所・家を思い出していくが、すでに迷子の写真もいくつか出ている。「まあ、中間報告でいいか」と手抜きを考えブツブツ独り言。今日で一通り写真の整理はしないと。明日、何があるかわかりません。すでに予約の来客ありですから。

 「山原の図像」
のページでボツボツ書き込みをしているが、歩き回っただけのメモ調査と記憶だけでは心もとないので、回りの資料をお借りするハメになっている。手助けも欲しいところだが・・・。図像の写真整理をしてからです。次は・・・・そうそう講演のベースとなる図像一覧表とレジュメが必要なり。それと印刷・製本と・・・。ああ、大変じゃワイ!

 そんな最中、19日にシマのおばあ・おじい達の「古宇利島ミグイ(回り)」をしたいと。それに「古宇利の字誌」の編集員会の日程調整(12月4日?)でやってきた古宇利区長。試食にとシマの特産品のユデダコ持参で来館。ふい島の特産品になるか職員で試食してみます。ありがとうございました。

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  ▲図像の写真選び出し中なり     ▲写真を整理していきます

2003.11.5(水)

 
昨日「沖縄の民間信仰と図像」の展示を見にいく。見に行くと他人ごとのように言っているが、歴文も関わりがあり責任もある。図像研究会のメンバーと山原調査に同行したこと。そしてその時、あるいは別調査で確認した図像の情報や画像を提供したこと。まあ、そんなとこか。それで図像の展示会に足を運んだしだいである。

 さて、図像の展示を見ながらいろいろなことを思い描いていた。その分類と説明でメチャクチャになっている頭の整理をすることができた。図像研究会のメンバーといろいろと話す時間があり、たくさんの情報をいただきありがとうございました。

 私は8日の講演の練習をちょっとしたようなもんであった。展示会では30数枚の図像紹介がなされている。これまでの山原での調査点数は200点余だったと記憶している。その全てを紹介することはできないが、図像にまつわる話がいくらかできればと考えている。

 展示された図像を見ていると、それを掲げている方々の思いが伝わってきそうである。何故、このような図像を掲げているのか、理路整然とした答えが返ってくるわけではなかった。しかし、そこに沖縄の方々の神観念がうかがうことができたと思う。掲げている図像そのものの意味が理解されていなくてもである。

 調査した方々の家や神屋に掲げられている図像を思い起こしながら、これらの図像のどこlこか掲げた家主の願いや願望や思いや願いを託しているように見える。図像の調査研究をし公開していく意義は、掲げている方々の思いを汲み取ってあげるところに主な目的があるし、また図像の意味を少しでも理解の手助けになれば幸いである。

 図像の情報や資料を提供して下さった方々に対して、図像を掲げた動機がわからなくても、調査したものは資料提供者に還すという歴文のスタンスで報告したいものです。図像の展示を見ながら、そんなことを思い描きながら報告しようと考えているのだが・・・。

 展示は以下のように分類して展示してありました。講演に来られる方は、展示を先にご覧になった方が理解しやすいと思います。勝手なお願いです。
   @関帝王
   A福禄寿
   B沖縄の伝説や神話にかかわる図像
   C今帰仁村湧川新里屋の図像
   D金満殿内(兼次上殿内)
   E千手観音菩薩
   F鍛冶神
 
 「山原の図像」は新しくページつくりました。随時書き綴っています。もしかしたら、当日の講演原稿かもかも・・・・・。しっかり読まないで下さいませ。時々、原稿通り話をしていないとおっしゃる方がおりまして・・・・。ハハハハ


2003.11.3(月)

 4日(火)は休館です。ではでは

 文化の日は歴史文化センターは開館なり。朝からほったらかしてあったレンギョウの剪定。うし丸さんは公衆トイレの清掃。ごくろうさんです。

【山原の図像】A
 「沖縄の民間信仰と図像」の展示会(沖縄県芸術大学)が開催されている。まだ展示を見ていないので明日には見に行かないといけません。展示されている図像調査をベースに講演?をしないといけないのですから。これまで山原で調査した図像を一点一点確認する作業を進めます。ここ4、5日は講演に向けての資料整理の報告になりそうだ。

 さて、『球陽』の尚貞王23年(1691)の条に「関帝王の神像を創建す」の記事がある。
   康煕癸亥、冊封勅使汪楫・林鱗煌、本国の帝王を供することを無きを惜しみ、
   竟に帝王廟を創建するの意を以て深以て許愿し、乃ち白銀伍十両を捐して此
   の像を創建するを請乞す。庚午年に至り、王、貢使をして能く関帝及び関平・
   周倉の聖像を塑せしむ。明くる年の夏、此の神像を奉じて回り来る。即ち上天
   妃廟内に、別に一壇を築きて其の像を奉安し、以て聖誕及び春秋の祭礼を致
   し、永く護国伏魔の神と為す。

 1683年に冊封使が関帝がないことを惜しんで、帝王廟を創建することを請うている。そして1690年に五十両を出して三人像をつくらせている。1691年が関帝王の琉球への導入の初めとみなしてよさそうである。そのとき関帝・関平・周倉の三人像を上天妃廟内に図ではなく「其の像」を奉安している。生誕と春秋に祭礼をし、護国伏魔の神として祭られたようであるが、山原では護国は別にして魔を伏させることが祈りが主になったのであろうか。さらに像より図の方が流布して民間に掲げられるようになったのかもしれない。

 下の図像は本部町辺名地の仲村家。福禄寿(文字図)・福禄寿(人物図)、それに関帝王図(三人図)が掲げられている。もちろん、火神・位牌も安置されている。仲村家にある関帝王の図は、左手に書物を手にした関帝王・長刀を持った家来の周倉、後方に包みを持った子の関平の三人図像である。関帝王図に三人像・二人像・一人像がある。

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    ▲本部町辺名地の仲村家の図像    ▲関帝王(三人図)

2003.11.2(

 
「今帰仁村文化祭」は終る。午後から沖国大の藤波ゼミの学生達、四時頃見えた与勝高校の校長先生をはじめPTAの方々。今日は二つの講座を開いたようなもんだな。

【山原の図像】@
 
関帝王について地域資料に目を通してみた。「毎年諸祭記」と「家内日記」の二つ。「毎年諸祭記」と「家内日記」は羽地村(現在名護市)我部祖河の仲ノ家の家文書である(『羽地落穂墓集』旧羽地間切地方文書集成―小川徹」)所収。両者の内容は光緒五年(明治12年)以後のようだが、後者のは戦後書き改められているようだ。

 「毎年諸祭記」から関帝王に関わる部分だけ抜き出してみた(数多くあったであろうが、欠落しているので一月の一部しか知ることができない)。
  ・正月元旦  関帝王御前并御神御棚御前、おふく差上げの事
  ・歳 夜    関帝王ノ御前、御神御棚御前、おふく差上げ之事
  ・正月初歳日 関帝王御前并御神御棚御前おふく差上げ之事

 「家内日記」から関帝王を拝む日を掲げてみると以下の通りで、祭祀があるごとに関帝王に祈願しているようだ。それは大変だワイ。それだけ祈らないと叶わないのか?
  ・正月歳の夜
  ・正月元旦
  ・正月十四日
  ・正月十五日
  ・二月春分祭
  ・田植付初
  ・田植首尾
  ・四月あふし払
  ・五月十三日(関帝王の誕生日)
     一 花池之事      一 御茶湯差上之事 
     一 美花・御五水・洗美花差上、拝礼之事
     一 おふく差上之事
  ・六月しち満(シチュマ)
  ・六月苗代打チ
  ・六月廿六日折め(ウイミ)
  ・七月十三日
  ・七月十五日
  ・八月九日(スバシ)(折目)
  ・八月十日(シバシ)
  ・八月十五日
  ・八月わら遍神酒
  ・八月秋分朝
  ・九月ミヤ種子折目  
  ・九月御願(御解立願)
  ・十月種子撒入(同仲ノ夜)
  ・霜月大願
  ・霜月廿八日
  ・十二月八日鬼餅
 関帝王は祭祀のたびごと拝まれているようだ。関帝王の誕生日の五月十三日には花をいけ、御茶湯を捧げ、美花(ミパナ:白米)、御五水(お酒)、洗美花(洗った白米)、おふく(ごはんを蒸して湯のみ茶碗に入れて供える)などを供えて拝んでいる。

 下の図像は今帰仁村諸志の大城家の関帝王図である。馬に跨った関羽と旗を持っているのは家来の周倉で、二人像である。左の画像は神屋の様子であるが、左側に火神(画像ではみえない)、二基の位牌、そして右側に関帝王の図像が掲げてある。大城家は士族ではない。旗に描かれているのは日?で、ムカデ旗?か。現在の当主に関帝王を何故掲げてあるのか尋ねたが定かではなかった。各地から拝みにくるようだ。

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 ▲今帰仁村諸志の大城家の神屋の内部の様子   ▲馬に跨った関羽
                         と周倉(二人図)


2003.11.1(土)

 日々の動きが多彩で書き込みがなかなか難しい。那覇では「図像」(芸大)の展示会がスタート。研究者の声が伝わってくる。そのような声が聞こえてくると、研究レベルの報告をせんといかんな。ハハハ。プレッシャーをかけてきたか。イヤ、沖縄のスタンスでいくべきだ。首里・那覇と山原では温度差があるのも特徴なのだと。「図像」にちょっと手をかけたままストップ状態なり。また一夜漬けの報告になりそう。ハイ 
 
 文化祭がオープンすると、こちらは一段落なのだが、来館者がありいろいろゆんたく。今日は歴文への来客があり、文化祭の会場を留守にする時間が多かった。

 「集落活動と字誌に関する国際シンポジウム」のメンバー。ナント大学のラニ・ベル教授、神戸大学の末本教授、九州大学の松田教授などの面々。2時間余。字誌や歴文の活動、そしてその目的やねらいなど。フランスなど国際的な視点から歴文がやっている調査や研究、そして活動がどう写ったのだろうか。3日にそのシンポジウムが那覇市で行われる。3日は歴文は開館のだ。残念ながら参加できず。『ムラ・シマ講座』にも関心があるようだったので、冊子を贈呈。

 もう一組も大事な来客なり。本土で生活している沖縄の方(奥さんが)。沖縄を離れたのであるが、娘さんが沖縄というと血が騒ぐという。それが何かを知りたいのでしょう。その一族は今帰仁村にある池城墓と関わりがあるので歴文にやってきたのでしょうか。10年前池城墓にまつわる伝説に手厳しい歴史批判をしたことがある。もちろん、その伝説についての歴史批判は変わるものではないが、別の視点で見ていくと解決できるのであるが・・・。お昼を挟んで1時間余り。

 「今帰仁村文化祭」の会場にいる時間がほとんどなく、画像で会場の様子を紹介しましょう。明日の午前中は会場にいるが、午後から二組の来館者あり。またまた多忙なりか。

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   ▲北山高校の作品コーナー            ▲書道の部コーナー

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  ▲北山高校の作品コーナー全体   ▲文化協会会長の書の見事な解説

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 ▲展示がほぼ整った前日の場面        ▲あちこちで鑑賞会