2003
         12月の動き

 企画展  ムラ・シマ講座   山原の図像    過去の動き
 
 今帰仁ミャークニー


2003.12.26(金)

     12月27日(土)〜1月5日(月)まで休館となります。

  歴史文化センターは12月27日から休館となります。一年間ありがとうございました。今年の「歴史文化センターの動き」は職員ともども動き回ったのかもしれません。新年1月になると、体力を必要とする業務がいくつも待っています。年末年始の休みで体力をつけましょうかね。

 まだ業務は年度の途中ですので、一つ一つ振り返りませんが、よく動き回ったとの印象はあります。立ち止まってまとめなければならない事も数多くあります。それは新年度へと引き継ぎたいと考えています。まあ、転ぶことなく歩き通せたことに感謝です。また、このページに立ち寄ってくださる方々、話題を提供してくださった方々、ありがとうございました。
  
  2004年がいい年でありますように!!


2003.12.25(木)

 午前中、山形県酒田市の小学生36名がやってきた。「歴史文化体験活動」で歴史文化センターと今帰仁グスク。歴文では世界遺産や平和の話、それと道具を使って先人達の知恵を学ぶ。アイロンと昔の冷蔵庫、それと水汲み。
 今帰仁グスクでは、大和の城と沖縄のグスクの違い。出土している遺物や城壁の積み方など。大内原で一輪の桜を見つけて感動している姿があった。いい旅をしてください。

 今帰仁ミャークニーのビデオが届く。まだ観ていないが・・・。大阪と出演者には早く届けねば・・・待ち焦がれているでしょうね。すみません! 

 
この頃、古宇利島と関わることが多い。新年は古宇利島に割かれる時間が多くなりそうだ。島しまづくりも三月までには、集約しなればならない事業のようだ。歴文と関わるものに関しては、急ぎで進めていきましょう。並行して進めなければならいのは「古宇利誌」です。すでに書き上げた(二校目)に入れ込むのが難しいのはコラムで。コラムを読んでいくだけも島がよく見えるような編集にしたいと。100ほどのコラムを予定している。

【古宇利島をゆく】

 23日(火)明治学院大学の学生達と古宇利島に渡る。第八古宇利丸で運天港から古宇利島へ。時々、島に渡るが島内を歩くことに時間を費やすことはめったにない。どっちかというと、祭祀や会合などのついでの島歩きがほとんどである。そのため、島の隅々まで歩いたとことはまだない。今回の島渡りも限られた時間と場所である。外来者向けのコースである。
   ・古宇利港
   ・学校への道筋
   ・古宇利小学校(教育・学校の歩みなど)
   ・古宇利の集落の概要
   ・古宇利大橋の進捗
   ・島の溜池・井戸(水と生活)
   ・集落内の筋道(家・アタイグヮ・神家・水字貝・石敢当など)
   ・神アサギ・アサギナー・御嶽(ウンジャミや他の祭祀)
   ・神道・旧家・神屋(神職:ノロ・ウチガミ・フンシガミなど)
   ・お宮・ヒチャバアサギ(ウンジャミ・ピローシ・火神など)
   ・シラサ(岬・ウッパマ)(神送り・海水の禊など)
   ・シグヌ浜(人類発祥伝承のガマ・あの世へのガマなど)
   ・ウンナヤー・ムラヤー跡など
   ・集落内の石垣や福木のある家々
   ・プーチウガンの場所と港口など
 そのようなキーワードで話すのであるが、参加者はじめて聞く言葉が多いようだ。理解できたかは別にしても、現場で生の声を聞くことが、いかに大事かということに気づいてくれたらと思う。ことあるごとに「足が地に着いた議論」と口にするが、そのことが実感できたと思う。はじめて島を訪れた学生達が島の何に関心を持ち、島がどう見えたのかに興味がある。

 島をまわり、サブセンターで名桜の中村教授、古宇利島区長を交えて学生達との質問を受けたり答えたり。印象に残る質問がいくつかあった。多分、帰ってから学生達の「今帰仁レポート」が届くのではないか。夕暮れの古宇利島にシマチャビがひしひしと伝わってくる。何百年も背負ってきた古宇利島の方々の身に染み付いたシマチャビは、よそ者には理解できないかもしれない・・・。

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  ▲古宇利小学校からみた古宇利大橋     ▲チグヌ浜からシラサを見る

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    ▲シラサの岬に立つ学生達(??)     ▲チグヌ浜にあるあの世への・・・

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               ▲古宇利からみた夕暮れの本島側  


2003.12.24(水)

 
23日は名護市の済井出(屋我地島)の集落、古宇利大橋の橋詰。湖のような羽地内海に面した屋我・仲尾次・仲尾・呉我、そして今帰仁村の湧川を通り今帰仁村へはいる。今日の今帰仁村内の目的地は今帰仁グスクと歴史文化センター、午後から古宇利島。数日前から荒れていた冬の空模様から、一転して気持ちいい、空気の澄んだ最良の天気。神奈川県からやってきた明治学院大学の学生20名とゼミの教官二名を案内。

【名護市済井出】
 済井出の民宿に早めに到着したので、済井出の海岸と集落内を歩いてみた。穏やかな朝。集落は砂丘(兼久)に碁盤(格子)状に発達している。済井出の海岸はウフドゥマイと呼ばれ「大きな泊」の意味でろう。海岸に小島が散在。その向こう側に古宇利島の横太原あたりが見える。砂を掘るとアサリが採れそうだ。民宿の近くに、
    済井出美らじまや
     しまうちゅき美らさ
     大石森くさて
      馬場めぇなち
の碑が立っている。ちょうど屋我地荘から公民館を結ぶ道路が、済井出の集落をアガリ(東)とイリ(西)に二分する境界線になっている。境界線を海岸から反対の方向に進むと公民に到着する。公民館の前に教会がある。さらに進む、左右に細長い道路と草花を植えた公園らしいところがある。公民館の近くにアコウの大木があり、休日なので早朝から子どもたちが遊んでいる。アコウの大木の前の直線がマーウイ(馬場)である。

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   ▲済井出の海岸にたつ琉歌稗   ▲マーウイ(馬場)跡で遊ぶ子どもたち

 上の琉歌で「大石森くさて」「馬場めぇなち」と謡われていることから、集落の後方に大石森を背に、前方に馬場があったという認識がある。大石森はどれなのか確かめていないが、集落は現在地ではなく、もう少し山手の方にあったということになる。元の集落から移動した時期についてはっきりしないが、少なくとも近世に形成された集落の印象で持つ。歩いていると各家に井戸(掘り込み)があることに気づかされる。

【今帰仁グスクと歴史文化センター】
  
2003.12.21(

 
太陽がさしています。風があるので冷える一日かな?体調を整えるため一日中館の中。月・火と休館なり。

 昨日古宇利島の土地利用についての議論があった。歴文が持っている資料で少し整理してみた。「今帰仁間切古宇利村全図 縮尺6000分ノ1 (一厘一間)」(明治36年)から当時の土地利用が大方わかる。名桜大の中村氏は現在の地籍図と重ねて土地利用の実態調査をされるようだ。

 私の関心は、当時のムラウチ集落とヤードゥイ(宿取)、それと無税地であった御嶽や神アサギ、墓地や井戸や溜池や道筋などの確認作業。明治36年に古宇利村の方々に、どう土地を配分し所有権を付与したかということ。

 その「今帰仁間切古宇利村全図」とは別に、戦後すぐの「名寄帳」の分析である。沖縄県では明治36年に個人が土地の所有権を取得するのであるが、今帰仁間切でも明治36年以前に土地の割換え(地割)がなされていたにちがいない。最後の土地の割換(地割)のときの土地保有者の土地に所有権が付与されたのではないかと考えている。それが、戦後間もない「名寄帳」に土地配分が反映しているとみているからである。

 古宇利島には「野路原」の小字がある。かつてノロの保有地があった場所にちがいない。明治36年以前のノロが野路原一帯に比較的広い土地を保有していたのかもしれない。土地整理でそのほとんどを手放すことになるので、かつてのノロ家の所有地として「名寄帳」に反映していないであろう。

 「名寄帳」にざっと目を通してみると、突出して畑の筆数が多いのはみられない。ウンナヤーなどウェーキと呼ばれる家があったと聞いているが、土地所有の筆数や面積などの実態は果たしてどうだろうか。土地整理で古宇利の方々に耕作地の地目の「畑地」をどう配分し所有権を付与したのだろうか。「名寄帳」の全てを目にしているわけではないが、畑地は8〜10筆程度の配分がなされているような印象を持っている。8〜10筆程度の土地(畑地)に所有権を与えたのではないか?そんな予測を立てているが果たしてどうだろうか。

 古宇利島には地目の「田」はない。「原野」も含めて考えていく必要がありそうだ。さらに上原や下原の寄留人してきたと言われている方々の土地所有が、どうなっているのかも。もちろん、当時はムラウチに宅地は持てなかった。そのことが、また地割との関わりでもあろう。「字誌」にそこまで入れ込めたらいいのだが。295名の方々の土地所有の一覧表と分布図は大丈夫でしょう。その読み込みまで、いけたらと。

 全くの予測で書いたのであるが、今帰仁間切の地割の方法はどうであったのだろうか。確か今帰仁間切は四つのタイプがあり、古宇利島は「貧富及び耕耘力割」だったような。すっかり忘れているのじゃ。そのあたりは、改めて。ハハハ

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       ▲「今帰仁間切古宇利村全図」と「名寄帳」の一部(歴文所蔵)

2003.12.20(土)

 
風邪のため目はクルクル回るが頭が回りません。休息するなり。ハイ


2003.12.19(金)

 
午後2時から歴文センターの運営委員会なり。審議は今年度の業務の進捗状況の報告と次年度以降の運営や依頼が中心となるか。

【並里の満名殿内と崎本部の満名殿内】
 本部町に満名殿内(マンナドゥンチ)が二カ所にある。その一カ所は本部町並里(並里家)、もうひとつが崎本部にある満名殿内(金城家)である。崎本部の満名殿内についての調査はこれからだが、並里の満名殿内(並里家)については、『沖縄県国頭郡志』で以下のように紹介されている。

・本部村並里(元満名)屋号上の殿内(別名満名富家)
    右並里家当地方に於ける旧家にして今帰仁本部及び県下各地方
    より神拝みと称し、巡礼する者甚だ多し。同家上座敷の左隅に御柵
    あり。按司位牌三個を祀り霊前古櫃の中には古刀三振(大一本二尺
    七寸、小二本一尺五寸宛)
    衣類弐枚(一は絹地、一は更紗)襦子の古帯一筋、羽二重の襦袢一
    枚とを秘蔵せり。同家の伝説に依れば中昔は北山城主滅亡に祭し王
    族の隠遁せるものなりという。然れども父祖以来数百年間の由緒甚だ
    秘密に付せられしを以って記録と口碑の正確なるものなきを憾とす。


 崎本部の満名殿内には本家とは別に二つの神屋が門の入口付近の左右にある。年中拝みにやってくる人がいると見え、開け放たれている。崎本部の祭祀のときに拝まれる旧家でもある。満名殿内からウフジンガナシーの神役を出している。
 崎本部の満名殿内は旧暦7月18日に行われるウフユミ(大折目)のときに、アサギからいくつかの拝所を拝んでいくが満名殿内もその一つにはいている。今回開けた墓には石嘉波親雲上(大屋子)や満名親雲上(大屋子)の銘書があり、女性が重要な神役を勤めると同時に男性は間切の役人(夫地頭)を勤めていることがわかる。乾隆50年(1785)にのろくもい(本部ノロか)を勤めた人物もでている。


2003.12.18(木)

 
12月になると今年度の事業の進捗状況と次年度の事業計画や予算などについての確認作業がある。ますます厳しい予算。

【本部町崎本部の墓調査】
 午後2時頃から本部町崎本部の満名殿内(金城家)の墓調査。こちらからは仲原・石野・仲里なぎさ(文化財)が参加する。島尻氏(那覇歴史資料室)・田中さん(〃)・亀田くん(北谷町史)・玉城氏(北谷町史)が参加する。金城家の関係者が数名。

 金城家の墓は崎本部の集落の南側を流れるシンシナ川沿いに位置する。崖の中腹あたりに掘り込んだ墓である。シンシナ川は、かつては泳ぐことができるほど水量があったという。

 墓にいくと、二人の女性が供え物を置き、線香をたて墓を開けるための祈りをしていた。墓口を開ける道具(ツルハシ)で三回墓口の石をたたいた後にあけた。墓の内部は段差はなく平たくなり、18基の厨子甕が安置されていた。銘書に「昭和三七年九月二七日門中の協議により整理す計十五名」とあるように合葬されている。奥にあるサンゴ石灰岩の厨子甕も人骨をみると合葬されているようだ。そのため期待していたような系図をつないでいけるほどの成果は得られなかったようだ。大急ぎの調査でした。ご苦労さんでした。(詳細については、個々の調査メモで整理する予定・工事中なり)

【厨子甕の種類】
  ・サンゴ石灰岩の厨子甕(5基)
  ・無頚の厨子甕(5基)
  ・有頚の厨子甕(6基)
  ・御殿型厨子甕(1基)(マンガンかけ)
  ・耳壷を利用した厨子甕(1基)

【銘 書】
  ・昭和三七年九月二七日門中の協議により整理す計拾五名
  ・石嘉波親雲上夫婦
  ・満名親雲上 妻(丸一 二の記号あり)
  ・石嘉波親雲上?(蓋の破片)
  ・三良金城にや 孫マツ
  ・かまた 石嘉波親雲上
  ・まつ金城 じら
  ・大清乾隆五十年乙己七月二十八日死去 前夫地頭石嘉波大屋子
     妻前のろくもい(書きかえられたもののようだ)
  ・南ノ前石嘉波親雲上 同人次男 金城にや 〆三人□置

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    ▲墓を開ける前の御願           ▲墓口を開けるところ

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      ▲墓の内部の様子(サンゴ石灰岩の厨子甕のみ銘書あり)

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    ▲前のろくもいの銘書          ▲昭和37年に整理したと記名

※『琉球国由来記』(1713年)による本部間切の夫地頭
   
・健堅大屋子(地頭代)
    ・渡真利大屋子・満名大屋子・石嘉波大屋子
    ・辺名地大屋子・並里大屋子・小浜大屋子(七名が夫地頭)

2003.12.17(水)

 明日は本部町崎本部の某家の墓調査あり。専門家や若いメンバーが参加するので、後方で見るだけにしようか。どんな墓か全く情報を得ていないので行ってからの判断になる。専門家の参加もあるのでのんびりの参加に。大正から昭和にかけて豪農(ウェーキ)をなした某家の墓だろうか。そうであれば、またまた別の意味での関心がある。さて、どうか。

 風邪気味だが、それでも座喜味城跡と今帰仁城跡まで。退職したら、もっともっと各地を歩き回っているかも・・・。生徒達に「あと何年ですか?」と訪ねられてしまった。「ウウウッ、そうだね。先はまだまだ長いな」。そんな冗談をいいながら、二つのグスクの案内。12月中にあと二つ組み込まれている。今日、口を開けて帰りを待っていたピヨピヨ達は!?!ハハハ 

 京都の生徒達には今帰仁グスクの旧道を歩いてもらった。7、800年前へタイムスリップしてもらうため。結果は?とても真面目な生徒さんたちでした。ハイ

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      ▲三・五・七の階段ではなく旧道を歩いてタイムスリップ!

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          ▲今日の今帰仁グスクの大隅(ウーシミ)の様子

2003.12.16(火)

 
昨日は京都の学生達と座喜味城跡と今帰仁城跡をまわる。私の役目はこの二箇所。本土の学生達に沖縄のグスクをテーマで引き込むにはなかなか難しいものがある。「沖縄の歴史」を少しかじっただけでは・・・。それは別にして、座喜味城跡の説明もなかなか難しいものがありますね。沖縄が初めてのメンバーがほとんど。それと比較できるグスクに全く足を運んでいないのですから。その一歩が座喜味城跡ですからね。それは大変じゃワイ。
 資料館前の厨子甕と高倉の説明も。厨子甕には学生達はおかなびっくり。ニューと幽霊がでるかも・・・・。

 さて、座喜味城は沖縄のグスクの中で比較的新しいグスクである。15世紀初頭。使われた期間も短く、「護佐丸が山田城から座喜味城に移り、さらに中城城に移る、約20年間」だと言われている。座喜味グスクは二つの郭からなり、一の郭内に礎石とみられる上部が平たい石が規則j正しく配置されている。そこに舎殿があったという。1420年頃に築城され20年ほど使われたようである。

 「報告書」をみるとグスク土器片・カムィ焼の土器片・陶磁器片・古銭などが出土している。また米や麦の炭化したのも出ている。

 一の郭内に「道光二十三年癸卯三月吉日 奉寄進 副使 座喜味親方」(1843年)の石灯籠がある。座喜味親方(盛普)は1839年に徳川家慶の慶賀副使を命じられ、1841年5月那覇を立ち、6月薩摩につき、11月江戸城に到着している。翌1842年9月に帰国している(『中山世譜付巻』)。この石灯籠は翌年(1843年)の寄進である。石灯籠の傘部分は壊れ一部残っている。他にも石灯籠らしき石塔があるが銘が消えている。

 グスク内にある石灯籠は薩摩や江戸へ行っての帰国報告の証である。

 座喜味城跡の後は今帰仁グスクでした。そこでたっぷりグスクの話。

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    ▲世界遺産の座喜味城跡で(京都の学生)と座喜味城跡のアーチの門

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   ▲座喜味親方が寄進した石灯籠(1843年)と他に壊れた石灯籠の一部がある。

2003.12.14(

   月は休館日です。
寒くなってきましたが、いい休日を!
   サクラがチラホラ数カ所にみえます。もう春か、狂い咲きか。

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 今帰仁グスクへ登る途中の坂道(慰霊塔付近)の桜です。沖縄の桜は北から南へ、山手から麓へですが、この桜は満開の一月(ひとつき)前、やや麓に近いところ、チラホラなので、狂い咲きですね。きっと。

【オーレーウドゥン(阿応理屋恵殿内)跡地】
 
集落を歩く面白さは、あれこれとノートや論文や報告などで書いたことを現場で確認していくこと。なるほどと足が地につき確固たるものになっていくこと度々あり。自分の目で確かめること。これまで考えていたことが、修正をよぎなくされたり、別の視点で見えてくる面白や楽しさがある。

 久しぶりに今帰仁グスクを下り、国道505号線を横切って今泊集落の今帰仁ムラ寄りに向かった。まずはオーレーウドゥン(阿応理屋恵殿内)の屋敷跡地の確認のためである。近世の初期に今帰仁グスクの近くから海岸近くの集落内に移動している。集落内のオーレーウドゥン跡地にコンクリートでできた祠があり、その内部にガーナー位牌が二基ある。一基は無銘だが、もう一基は今帰仁監守(今帰仁按司)六世(順治十年:1658年没)の縄祖(1601〜1658年)のものとみられる。六世は運天の大北墓に葬られている。今泊集落内にあるオーレーウドゥン跡地の祠に位牌があるのでは、そのころのオーレー(阿応理屋恵)の屋敷もそこだったでもあろう(今帰仁グスク付近から移動後)。

 このオーレー(阿応理屋恵)は17世紀中頃に廃止され18世紀後半に復活するが、復活したときの継承者が以前とは異なることもあり複雑となっている。そのこともあって旧オーレーウゥン、集落内のオーレーウドゥン跡、その中の位牌、そして大北墓との関係がどうなっているのか確認する必要がありそうだ。また整理しておく必要がありそうだ。そういうこともあって、とりあえず屋敷跡地の確認から。『沖縄県国頭郡志』に登場する資料についは別に整理しているので、結構なボリュームになるので別に報告予定。

 屋敷跡地の境界は、よくわからないが屋敷の北側に掘り込みの井戸がありウルンガー(御殿井戸)と呼んでいる。

 ついでに今泊の西海岸の岩場まで足をのばしてみた。岩場を潜り抜けるといくつもの小さなビーチがある。冬場であるが、岩場が風を防いでくれている。海草の緑が目につく。集落内や海岸を歩くのは、何度歩いてもいいもんだ。廃棄物や漂着した現代遺物を探し歩いていると血圧があがりますが。ハイ

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  ▲オーレーウドゥンの跡地にある祠     ▲祠内にあるガーナー位牌

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     ▲ウドゥンガー(井戸)             ▲ウドゥンガーの中

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                ▲今泊集落の福木並木もいい

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  ▲岩場を抜けると小さなビーチが          ▲二重に重なった岩

【キジバトの雛かえる】
 歴文センター前の松の木に10月頃からキジバトが巣をつくっていた。先週のぞいたら二個産卵していた。ニ三日前から親ハトの行き来が見られたので、もしやと今朝のぞいてみると二羽の雛がかえっていた。春から夏にかけての営巣はよく見かけるが。12月の誕生は季節はずれのうぶ声かな? 寒い中の雛育てご苦労さんだね。白っぽい産毛に包まれているが寒そう。嘴は濃い藍色なり。
  
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 ▲2m足らずのところに巣が     ▲孵ったばかりのキジバトの雛(二羽)

2003.12.13(土)

 本日のムラ・シマ講座(今年度7回目)は古宇利大橋と屋我地島の大堂原貝塚でした。古宇利大橋の屋我地島側の橋詰の見学ステーションで大橋と古宇利島の概要をビデオでみました。

 古宇利大橋へはバスで。橋梁部分が1960m、埋め立て部分が60mほどあるようだ。バスで渡ったところは約1620m辺りまで(ちょっと手前かな?)。橋の欄干はまだ仮のもの。大橋から左手に見える古宇利島の風景は、これまで見てきた眺めとは異なっていていいもんだ。また島の南斜面に面した集落が目の高さで見えるのもいい。

 集落全体が、落ち着いた景観をまだ残している。これから大きく変貌するであろうが、よき可能性も充分にあるように見える。その見極めをしていくことが大事である。

 これまでは船で渡る島の人達の目と、島に住む島人の目でしかなかったが、橋が架かるとこれまでと異なった視点で島が見つめられる。それに耐える背伸びをせず普段着の島づくりが必要である。(島づくりについてはすでにスタートしている)。

 すでに古宇利区長さんも気づいているように見学ステーションの望遠鏡でみた島の一件一件の家。人の動きまでわかるのである。すると、自然と島の人々の生活が変ってくる。もう一つ、ムラ・シマ講座や研修などで現場を案内することがある。そのとき、現場を訪ねたとき、その場所や物が人によって大きくみえたり小さく見えたりする。それを側でながめていて面白い。その人の人間性や寛容さを図って楽しんでいる。

 
   (工事中なり)

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               ▲古宇利大橋からみた古宇利島
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 ▲橋詰にある大堂原貝塚。人骨の出土状況を説明する文化財担当の比嘉氏

2003.12.12(金)

 以前から資料の確認をしておきたいと考えている。それは大正8年に発刊された『沖縄県国頭郡志』に記録されている資料群のこと。戦争で失ったもの、あるいは他の理由で失ったもの。それがどうなっているか、その確認はやっておく必要があろう。もちろん、確認してきたものもあるが、そのすべてを調査する視点での動きはしてこなかった。まずは、当時どのような資料があったのか、それが現在どうなっているか。近々スタートさせたい。新しい史料の発見がありそうだ。まずは、『沖縄県国頭郡志』から・・・。大変だけど、歴文でやっておかなければならい大事な業務なり。ハイ

 何点かあげておきたかったのですが、今日は時間がありません。


2003.12.11(木)
 
 今帰仁村の役場は現在字仲宗根にある。近世から大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)は今帰仁の東側の運天港にあった。大正5年に運天にあった役場が今帰仁村の中央部の仲宗根に移転する。その後押しは大正2年8月15日の「沖縄毎日新聞」(今帰仁通信)の記事ではなかったかと考えている。

   [役場移転問題]
     本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲
     し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里等交通運輸の便
     なきのみか僅にニ三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓
     を負ひ前方屋我地島と相対して其間運天港を擁し極めて寂莫荒
     廖の一寒村に候
     予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要
     あるかを怪しむ者に候 今泊在の吏員に至りては早朝家出しても
     役場到着は十時頃になるべくそれより汗を拭き去り涼を納れて卓
     に向へば時辰は十一を指すべし 一時間にして食事をなし更に
     二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし 然れ
     ば毎日の執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候
     加之人民の納税、諸願届書類の進達等学校に各字の小使派遣
     等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と傷害を受け居る
     かは門外漢の想像し得ざる所に有之候
     曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為に
     遂に沈黙の悲運に逢着したりと 些々たる感情の為めに犠牲とな
     る村民こと不憫の至りに候 

その記事が出て三年後の大正5年に今帰仁村役場は運天から中央部の仲宗根に移転する。
  

2003.12.10(水)

 次のような文章が目についたので紹介しましょう。運天隧道(トンネル)や源為朝公上陸之跡碑などについて説明することは度々あるが、当時の様子を記した記録がほとんどない。自動車道と上陸記念碑の祝賀会や除幕式などが行われていて興味深い。除幕式は大正12年6月23日である。

    大正初期に村役場は運天から仲宗根に移され、仲宗根の大井川町から運天
    まで自動車の通れるような道路が出来、その開通式と為朝公上陸記念碑も建
    立されたので、その序幕式を兼ね盛大な祝賀式典が挙行されました。当日の
    祝賀会において源為朝公を偲ぶ歌を記して

    
一、鎮西八郎為朝公 東南の勇士止み難く大海原を船出して着し所は運天港
     二、運天森の松風と 高く聳ゆる石踏は、為朝公が上陸の跡をば永久に語るらん
    三、英雄逝て七百年 うるま島の裏波は 君が功を賛えつつ調べも高く歌うなり

     斯して式典は恙なく余興としてハーリー競技に始り、夜は古典舞踊や為朝公上
    陸記念祝賀会にふさわしい余興がくりひろげられ有意義な催であった。

         「ふるさと今帰仁の思い出」諸喜田武吉(『アルゼンチン国 今帰仁
          村人会誌』)

工事中なり
【古琉球の辞令書に登場する貢(ミカナイ)】
   
(以下の辞令書は「辞令書等古文書調査報告書」と「ご案内」参照)

■与那嶺の大屋子の辞令書(1563年)(「ご案内」)
  ・なつぼこりみかない
  ・せぢミかない
  ・はかミかない
  ・おれずむミかない
  ・正月ミかない
  ・けぶりミかない
  ・おやミかない
  ・のろさとぬしおきて(ミ)かない
             (嘉靖42年)
■瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(1574年)
                                  (以下報告書)
  ・つかたのミかない

■瀬戸内西間切の古志のさかいへの知行安堵辞令書(1574年)
  ・つかたのミかない

■那覇の大阿母知行安堵辞令書(1582年)
  
・おやミかない
  ・のろさとぬしおきてかない
             (万暦10年)

■今帰仁間切浦崎の目差知行安堵辞令書(1586年)
  
・おやミかない
  ・のろさとぬしおきてかない
             (万暦14年)

■国頭間切の安田里主所安堵辞令書(1587年)
  ・つかはみかない   (万暦15年) 

■国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)
  ・つかはみかない
  ・おやみかない
  ・のろさとぬしおきてかない
  ・いろくのみかない
             (万暦15年)
■伊平屋の仲田首里大屋子知行安堵辞令書(1587年)
  ・五月ミかない
  ・正月ミかない
             (万暦15年)

【琉球国由来記】(1713年)にみる貢租?
  ・稲かない
  ・粟かない
  ・麦かない
  ・芋かない
  ・海かない


2003.12.9(火)

 今回の「ムラ・シマ講座」は古宇利大橋と大堂原貝塚を予定にしています。それで古宇利大橋建設現場事務所の当間主幹へ「お願い」と大堂原遺跡の現場の下見で屋我地島まで。

 古宇利大橋の完成はまだ先(平成16年度ですから平成17年4月頃?)のようです。11月現在で1960mの内1540mのところまで接続されています。架設された先端までバスで行くことができることになりました。ありがとうございます。普段対岸から見ている古宇利島を大橋の上からどう見えるのだろうか。楽しみじゃ。

 屋我地島側の橋詰(橋のたもと)にある大堂原貝塚を訪ねてみました。先日新聞紙上で大きくニュースになった貝塚です。二体の人骨の一部が見つかっているようです。人骨のあった場所がまだ残してありました。その場所が海抜マイナス1.4mあたりだというのも面白い。縄文海進(縄文時代の海岸はもっと内陸部にあった)との関わりで。貝の説明をしてくれた縄文人・大堂原原人(?)のマキさん。資料整理室では土器やすり石や石斧や貝札などの実測や復元がなされた土器を見せていただいた資料室の数名の方々ありがとうございました。

 ムラ・シマ講座、今月は大部増えたりして。ハハハ・・・

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  ▲橋詰付近からみた古宇利大橋   ▲説明をしてくれたマキさん(縄文人?)

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▲人骨が出土した付近(海抜はマイナス)  ▲出土遺物を丁寧に洗っているところ

2003.12.6(土)

 山原のグスクの整理をしてみた。1月に開催される「グスク文化を考える」(東アジアの城郭遺跡を比較して)に向けての原稿(冊子)。もう少し、まとまりがついてから、概要は公にする予定(シンポでの報告は、私はありません)。原稿の締め切りとっくに来ているのでは?

 今日はこれで。明日も来館者の予定あり。


2003.12.5(金)

 
昨日、運天港と古宇利島に渡る。運天港と古宇利島の大泊(ウプドゥマイ)は近世密接な関わりをもっていると考えている。1644年に烽火制度が敷かれるが、その遠見所は古宇利島の最高部(107m)に置かれている。今帰仁間切の番所が運天港に置かれ、それと今帰仁間切の地頭代になると古宇利親雲上を名乗り、地頭代になって屋号がメーフイヤーとつく。メーフイヤーは前の古宇利親雲上に由来する。フイヤーのフイは古宇利のこと。

 運天港や古宇利島を扱うのは琉球側や文化財めぐりをしているだけの視点ではないこと。近世末に外国船の往来もあり、その時の琉球側の対応などの様子が伺える。古宇利島に橋が架かって将来どうなるかの予測はつく。沖縄にはいくつも橋を架けた島々がすでにあるのだから。島で生活している人たちの視点、島を外から見ての視点。島で生活したとき、あなたに何ができるのか。調査データーを得るための調査であってはいけないと、島に渡るたびにそのことが頭をよぎる。

 1816年バジル・ホール(イギリス軍艦ライラ号艦長)が古宇利島や運天港を訪れている。運天港をPORT MELVILLE(メルヴィル港)、古宇利島をHERBERT ISLAND(ハーバート島)と命名している。

 1846年6月フランスの艦船三隻(ビクトリューズ・サビーヌ・アルクメーヌ)が運天港に来て、一カ月近く滞在している。そこでは古宇利島のことをエルベール島、対岸の屋我地島をライラ島と呼んでいる。もちろん、そこでフランスと琉球国との外交交渉を行っているが条約の締結は不調に終る。その時のフランスによる通商の要求は日本の鎖国政策の転換の引き金になったと言われている。『幕末日仏交流記』(中央文庫 108−109頁)に古宇利島での興味深い様子が記録されている。1855年に琉仏条約が締結される。

 【1846年6月11日】(古宇利島に出かける)
    提督をお供して、現地の人が古宇利島と呼んでいる。エルベール島に出かけた。
   これは地図で確認すると、とても小さい島だ。島と同じ名前の村が一つあるだけだ。
   耕地もあるが、島の大部分は巨岩と、まるで原始林のように鬱蒼と茂る森で覆い尽く
   されている。風景画家にとって格好の素材となろう。なにしろどこを歩いても才能を遺
   憾なく発揮することができるのだから。
     こんなに人里離れたところまで監視の目は行き届いていた。耕された狭い盆地に
   差しかかると、一人で粟を刈り取っている少年に気がついた。少年に近づいた、ちょっ
   とした質問をしてみると、喜んで答えてくれた。しかし話はすぐに中断された。下品な
   顔の男がどこからか四人現れて、少年に襲いかかろうとしたので、かわいそうな子供
   は恐ろしくなって、一目散に逃げて行った。 
                       『幕末日仏交流記』(中央文庫 108−109頁)

 1854年i琉球を訪れたペリー一行の一部が運天までやってきている。運天港をOonteinngと記し、また「Port Melville大琉球島この美しい港は琉球の北西岸にあって、那覇から凡そ三五マイルの距離にある」とある(『ペリー提督遠征記』(上間政春試訳)。

 源為朝の運天港への渡来伝説あり。それは日流同祖論につながる。琉球が大和化していこうとする時に出没する論である。歴史の場面では源為朝が渡琉したのかどうかの論争があった運天港である。近世の薩摩への仕上世米(シノボセマイ)を積み出す四津口の一つとしての役割も果たしていた。

 などなど。運天港と古宇利島は今帰仁や琉球の歴史だけでなく、もっと広い視野での議論が展開できる場所である(時間があれば、まとめておきたいもんです)。
  
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            ▲様々な歴史を秘めた運天港の様子

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  ▲古宇利島の西半分の様子         ▲古宇利島の港(ウプドゥマイ)

2003.12.4(木)

 
神奈川県の学生から「湧泉(ハー)」と「薩摩の琉球侵攻」と関わる場所(運天・古宇利島)についてのメールがはいたので「湧泉散歩」を開けてみた。ちょうど昨年の今頃あちこちのハー回りをしている。その後もいくつかハーを見ているのだが追加していませんね。ハー巡りの頃は大部疲れていたので逃避だったかも。工事中のままのも。ハハハハー

 今日は午後から字誌の編集会議で古宇利島に渡ります。薩摩の琉球侵攻に関わる地の視点で古宇利島と運天港を見てきます。

 いつもは船を降りると集落内を歩いてサブセンターまで行くが、腰痛と字誌の重い原稿が持参のため車に乗せてもらう。途中、文化財が進めている発掘調査の現場まで(古宇利原B遺跡)。

 土を剥ぎ取った現場を見ると、島の人々は琉球石灰岩の上で生活してきたことを実感。古宇利は「ちょっと土を剥がすと琉球石灰岩の岩盤の島である」ことがよくわかる。保水力のない土壌に作物を植え、旱魃や台風がやってきて幾度となく飢饉にあい、乗り越えてきたのであろう。

 発掘現場は土器や住居跡と見られる跡がいくつか見られた。ご苦労さん。

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 ▲古宇利原B遺跡の発掘の様子              ▲土器が出土

 字誌の編集会議が終って、ちょっと時間があったので灯台のある荒崎まで。二三日前から腰痛。そのため古宇利区長さんにお願いして灯台まで車で。現在の小字にはないが、現存する原石に「ほ あらさき原」がある。地名のあらさき(荒崎)がどんな場所なのか。確認のため。

 灯台の手前に具志さんのお宅がある。自然の琉球石灰岩を利用して華麗山水?の庭が作ってある。見事!古宇利島らしからぬ雰囲気と風景。一帯が荒崎?と疑ってしまうほど。具志さんは古宇利島に住み着いて三代目。本部町謝花からの移住とのこと。

 具志さんのお宅から、ちょっと行ったところに灯台がある。そこから海の方を見渡すと、白波が立っている。そこら一帯はいつでも白波がたっているとのこと。そのようなことから「あらさき」と名づけられた地名なのであろう。元文検地の頃には「あらさき原」の原域(現在の小字に相当)があったのであるが、原域の組み変えで小地名で残っているのみ。原石や小地名に残る「あらさき原」(アラサキバル)一帯は、現在「流し原」となっている。

 「■(お) いれ原」の原石を持っている下原の松田氏宅に立ち寄ってみた。屋敷囲いのブロックに海岸で拾ってきたという「浮き」や「疑似餌」がずらり。流れ着いた椰子の実も鉢に植えてあった。海の彼方からの現代の贈り物?! 

 原石は門の近くに立ててあった。「持っていくか。集めているのか?」と。「ええ、え!?」「鉢に水かけるのに邪魔になっているから持っていけ」「ありがとうございます」ということで歴文へ。腰痛もなんのその。

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 ▲荒崎付近にある灯台    ▲灯台から眺めた白波がたっている荒崎の海

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 ▲「あらさき原」の原石     ▲「お いれ原」の原石

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  ▲古宇利島の家々に魔除けに吊るしてあるカンパ−モモー(水字貝)

 ※カンパーモーモー(水字貝)の面白い話がきけました。それはいずれ。 

2003.12.3(水)

 近世あるいは、ある古琉球の時代を考えるとき、あるいは復元するとき、その時代の約束事を前提にしなければならない場合がある。グスク時代や古琉球(17世紀以前)については、史料がほとんどないので近世の史料を駆使、あるいは発掘の成果を手掛かりにしなければならない場合がある。ムラ・シマを歩くとき、近世の、それ以前の時代の屋敷の構えや建っていた建物や石積みの屋敷、古墓などをイメージするとき、以下のことを前提に置いている。例えば、住家や屋敷や墓地などは・・・。

   ・瓦葺の家は士族以上
   ・平民は茅葺きの家
   ・惣地頭の屋敷は十五、六間角
   ・脇地頭は十二、三間角
   ・家屋の広さ
    王子・按司:一間(マ)ごとの畳数二十二畳半以下
    惣地頭:十六畳以下
    士:八畳以下
    百姓:六畳以下
   ・田舎百姓の住家:四間に三間の母屋一棟と三間と二間の台所
   ・墓地:諸士は十二間角、百姓は六間角
   ・原則として無系の百姓は士以上の系持との結婚は許されなかった
   ・町方の士以上の結婚は首里・那覇・泊・久米の四地域内で行われた
   ・田舎百姓は、原則として他間切村への移動は禁止。そのため間切や
    村を越えての結婚は非常に少ない。

わかりやすく整理したのが『沖縄の犯科帳』(比嘉朝潮・崎浜秀明編訳:東洋文庫)にあるので参照。

 11月19日古宇利島で行った島めぐり(シマミグイ)の時、下の写真の窪石にまつわる話が印象深い。窪み石(琉球石灰岩)は古宇利島ではイシガブという。排水できるように穴があいている。古宇利島での芋洗いに使ったようであるが、水の少ない古宇利では芋洗いは海に行ってやっていたという。「潮水で洗うから美味しいよ」とのこと。なるほど。


     ▲芋洗いに使ったイシガブ

 明日は古宇利の字誌で島に渡る。またまた、古宇利島の語義と音との関係の質問がありそうなので、整理しておきます。

【古宇利島の語義と音】
 今帰仁村の古宇利島はクイジマやフイジマと呼ぶが、1471年の『海東諸国紀』で「郡島」と表記してある。その表記は1713年の『琉球国由来記』まで続く。1700年代の中ごろから古宇利の現在の表記となります。

 郡と表記するが、方言での呼び方はフイやクイだと思います。表記上は「こうり」や「こほり」でいいでしょう。郡は郡山の「こうり」です。

 
その郡(こうり)が、どう発音されるかですが、琉球は三母音です(o→u、e→i)。「い」は「り」に変化する。例えば本島の・・・バーは古宇利では・・・バーである。
   「こう」や「こお」⇔「く」(く→ふ)
  
 「り」は     ⇔「い・り」(り→い)

 古宇利島は古くから方言での呼び方はクイジマ(フイジマ)だと思われます。そのクイを表記するときに、く→こ い→り・い に変化します(法則性あり)。その法則を知っていたのであろうか。そのためクイの表記を「こおり」「こうり」、漢字での表記を(郡→古宇利)としたもの。語義は海を「越える」や「越えた」島でいいでしょう。


2003.12.2(火)

 師走になりました。ほっと一息ついたと思ったら、12月はもう二日目。今月はどんな動きになるのでしょうか。スケジュールがポンポンはいて来ています。一つひとつこなしていくしかありませんね。ハハッハ