2004
         1月の動き

 企画展  ムラ・シマ講座   山原の図像    過去の動き

 今帰仁ミャークニー


2001.1.23(金)

   (工事中)


004.1.22(木)

 午前中兼次小5年の総合学習「伝統文化」がテーマ。27年前の「神人」のビデオを見せて、そこに登場する棒術・踊り・ミャークニー・祭祀などから伝統や文化を実感してもらい、さらに11月に開催したミャークニーから三名の方々のウタを聴かせた。ミャークニーのウタに歌い手の思いが響いただろうか。

 午後から「徳川美術館友の会」のメンバーが来館。館内と今帰仁グスクまで。今年一番の寒さか。北風がビュービュー。名古屋は今朝雪が舞っていたそうですが、十度前後の沖縄も寒いそうです。


 5時前に天底小学校の6年生が、「源為朝渡来伝説」の紙芝居をするので、見て欲しいとのこと。新聞紙半分くらいの用紙数枚に為朝伝説にまつわることを絵にしてありました。29日に発表会だそうです。ゆっくり、はぎれよく発表してくれたら大丈夫なり。

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         ▲今帰仁グスクへの桜が見頃となりました(今日)。



2004.1.18(

 明日(月)は休館日です。桜でも見にでかけましょうかね。昨日今日と職員の皆さんご苦労様でした。

 昨日、今日とグスクシンポジウムでした。やれやれ!700名余の方々の参加あり。今日の今帰仁グスク・歴史文化センター・集落跡地・ハンタ道への参加者も予想以上の参加者あり。それは成功なのですが、全体の流や気配りが不十分で迷惑をおかけました。(言い訳より謝った方がいいですね)ハイ

 今帰仁グスクの桜が咲き出しました。これからが見頃。沖縄の桜は、いっせいには咲きませんので、いつが満開かは木によって異なります。今週から来週にかけてが一番の見頃かな?それも本土のソメイヨシノの咲き方との違いなり。


2004.1.16(金)

 
古宇利島の「島を区分する19の小字
(こあざ)」図を作成してみました。小字も島を知る重要なキーワード。現在の19の小字は明治36年の小字を踏襲しています。古宇利島の5基の原名の「いれ原」と「あらさき原」は現在の小字にはありません。但し、いれ原(立ち原の現場に原石あり)は西原だと思われますが、現在の西原とは場所が異なるので、もう少し検討を要します。現在の「立ち原」一帯も西原(いれ原)に入っていたのかもしれない。「あらさき原」の原名も現在の小字にありません。但し、灯台近くに「あらさち」の小地名(現在の流し原)があるので、付近に「あらさき原」があったにちがいない。

 印部土手(原石)が立てられた1743年頃(今帰仁間切は)と現在の小字域(原域)を比較してみると、組み変えが行われています。「あがれ原」の原石は、現在の東原にあり、「あがれ原」を踏襲しているでしょう。



 
午前中、停電あり。兼次小6年生の総合学習。今帰仁グスクの大隅郭(ウーシミ)で「北山の歴史」を通してやってみました。結果は?予行演習のようなもの。今帰仁グスクの中でやるというのは、生徒達はなかなか凛々しい。時代を8つに分け、それぞれの時代をグループごとで発表。今日は、7月にやったことの復習。ハンタ道歩きで一度。そして今回で三回目。ボツボツ全体像がつかめたかな?

 今日やったことを、それぞれ分担の時代を自分の言葉で発表できれば上等。ちょっと歴史の主人公になれたでしょうか?!来月の発表、頑張れ!

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2004.1.14(水)

 山原のあちこちでヒカン桜(カンピ桜)が咲き出しています。今帰仁グスクへ登る道沿いに早割きのが二、三本あります。それは七分。回りの桜は、まだつぼみ状態。でも、つぼみは大部膨らんでいます。沖縄では桜が咲いたら「春だ!」では必ずしもありません・・・。しばらく、暖かくなったり寒くなったり。

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    ▲カンピ桜がチラホラ・・・       ▲目立ちがりやの二、三の木は六分七分・・

 (工事中)

 4時半頃から兼次小の先生方が来館。ウウウー。まとめや総合学習の学習発表だそうです。4年5年6年生。4年生と6年生は一学期にテーマを与えてあったのでその確認。4年生は「民話」を紙芝居方式でまとめていく。その模擬発表会をすることに。6年生はもう一度復習ということに。今帰仁グスクで。5年生は伝統文化と芸能のテーマ。それは工夫が必要です。即座に棒や空手、踊りの出来る子がいるかな。

 ほとんど準備なしで、課外授業をやることになります。子どもたちを引き込んで、理解させて、即座に発表させることになります。以下の三つのテーマをどう進めていくか、頭が回転はじめています。古宇利島のことでパクパクしていた頭が、小学生の総合学習で・・・。浦添市の原稿校正がストップしていますね。それと図像も・・・。
     ・16日(金)・・・・6年生(北山の歴史)
     ・22日(木)・・・・5年生(伝統文化・芸能)
     ・29日(木)・・・・4年生(民 話)


2004.1.12(月)

 古宇利島の祭祀について編集してみました。マップはタキヌウガン。ムシバレー・サーザーウェー(ピローシ)・プーチウガン・ウンジャミは写真で。タキヌウガンは全行程を地図で。島を一周するコースにもなります。(島の全体図が未:イラストを描く時間がありません)


                  
工事中なり

【古宇利のタキヌウガン】
 タキヌウガン(嶽の御願)は旧暦の4月と10月の吉日に行われ、島の人達の健康と五穀豊穣の祈願である。神人(カミンチュ)達がムラヤー(サブセンター)に集まり、線香や米や酒や半紙などの供え物を準備する。供え物の準備が整い、神人が揃うとお宮から順次御願をしていく。赤丸が七森七御嶽である。さあ、嶽の御願のコースを回ってみるか。

@お宮

 あれ、お宮の前に鳥居があるね!中をのぞいてごらん。大きな石が置いてあるがなんでしょう。火神?どうも大きな石はカマドに使っていた石のようだ。小さいのは火神でしょうか。

Aマーハグチ

 最近マーハグチまで行けるようになった。岩の下に石が積まれている。お墓?中に頭蓋骨があり、むかしは清めていたそうだ。犬などに蹴散らかされるので石でふさいだという

Bトゥンガヌウタキ
 トゥンガというと台所のことでだが、台所と関係あるのだろうか?大きな岩陰に石が一個置いてあり、そこに線香を供える。

Cソーヌウタキ
 ソーヌウタキまでは行くことができない。ソーは小さな谷間のこと。谷間にあるウタキのことだろうか。ウタキまで行けないので道路から遥拝(ウトゥーシ)をする。

Dプトゥキヌメーヌウタキ
 一周線から階段を上っていく。岩場の半洞窟に丸っこい石があり、ビジュル石のようだ。神人達の意識にビジュルメー(ハマンシ)が女、プトゥキヌメーが男の神との認識を持っているようだ。

Eプトゥキヌメーの御願をすませクヮッチモーの手前で神人が横一列になって御願をする。「自分の勤めをちゃんとしました」との報告だそうだ。

Fクヮッチモー
 クヮッチはご馳走のこと。モーは広場や丘のこと。持参してきたご馳走を広げてウサンデーをする。最近の弁当の中身はスシ・かぼちゃの天ぷら・タコの味噌炒め。飲み物は酒やジュースなど。

Gビジュルメーヌウタキ(ハマンシ)
 ビジュルは人形の形をした石。別名のハマンシは浜(海岸)の石に因んだ呼び方のようだ。縦穴の小さな洞窟にビジュルが数個ある。神人はプトゥキヌメーが男神、それに対しビュルメーは女神との認識を持っている。

Hイソーバイ(神人が横一列になって祈る)
 ビジュルメーでの御願をすませマチヂに至る途中で神人達が横一列になって御願をする。「自分の勤めをちゃんとしました」との報告だそうだ。

Iマチジヌウタキ
 集落の上の方にあるマチヂヌウタキのイベまで最近開けられた。大きな岩の下でウガンをする。マチヂは集落から上の方に位置し、チヂは頂上やてっぺんのこと。ウタキの名称は「上の間(空間や広場)」の意味なのだろうか。

J神アサギ
 島一周のウタキを回ってくると神アサギにいく。女神人達が到着すると、フンシー神と合流する。神アサギの中からナカムイに向かって祈りをする。

Kナカムイヌウタキ
 
ナカムイのイベまで登らず、神アサギの中からナカムイに向かってウガンをする。ナカムイへのウガンが終るとタキヌウガンは終わりである。


2004.1.10(

 時々、雨がポツポツの一日でした。卒論や修士論文でしょうか。三、四名の学生がテーマをひっさげてやってきました。また、以前に百按司墓の木棺の調査したメンバーも。また熊本大学の木下教授が勾玉の実測調査で来館。勾玉について示唆あるご教示をいただきました。ありがとうございます。

 古宇利島しまづくりの資料も作らないといけませんが、来客の対応で遅々とすすみません。その中で、「古宇利島の移り変わり」(歴史)の整理。島の現況を見ていくと同時に「島の移り変わり」も知る必要があろう。

 島の過去の出来事を並べることは、歴史を読取る作業でもあるが、それは同時に島の将来を考える手掛かりにつながります。以前、「古宇利の歴史」で作った年譜を左に置いて、歴史に登場する出来事に関わる資料や地図や物(写真)を並べてみました。うん、なかなか面白い(一人で楽しんでいます)。足が地についたマップになるかも。(却下されるかもですが)

 古宇利島の全体マップと祭祀関係マップがまだですね。ボツボツ!


                【島の移り変わり】
(工事中)


2004.1.9(土)

 
ムラウチ集落のマップを編集してみました。原図はA3版です。縮小してあるのでボケーとしています。そんなレイアウトになりました(未完成)。火曜日までに4枚しあげましょう。作業の過程や裏までみせています。ハハッハ



 島を理解するには、いろいろな視点があっていいと思う。
古宇利島は一島一字(アザ)である。その土地を知ろうとするとき、小地名(しょうちめい)もあるが、小字は押さえておきたい。小字名をつけ方島の人々のシマ空間の認識をしることができるからである。古宇利の字(あざ)は、さらに19の小字からなる。小字はさらに一筆ごとに地番を持つ。島(字)を構成している19の小字を紹介してみましょうか。古宇利島には元文検地に使った印部土手石(原石)が五基現存する。小字を理解するのに役立つ資料である。


    
   古宇利の小字(こあざ)マップA

@横太原
 島の集落の東側に位置し、現在の今帰仁村古宇利農村環境改善サブセンターや古宇利大橋の橋詰などがある。この原の多くが兼久(砂地)である。島人たちが飲料水や生活用水に利用したイリガーとアガリーの二つの井戸がそこにある。漁港やヌル墓やムラ墓など古墓がある。ムシバレーの時、虫を乗せた船を流す場所がある。

A古宇利原
 島の南側に位置し、港があり斜面に集落が発達している。古宇利原にある集落をムラウチと呼ぶ。古宇利小学校、かつてのムラヤー跡、桟橋やフェリーの発着場がある。祭祀の大事な場所となるナカムイや神アサギやお宮、フンシヤー・ウチガミドゥンチ・ヌルヤーなどがある。シラサ(岬)やチグヌ浜などもある。

B東 原
 ムラウチ集落の東側に位置する。緩やかな傾斜地をなし、七森七御嶽のマーハグチ・トゥングヮ・ソウの三つの御嶽がそこにある。海岸には小さなソウヌ浜がある。「に あかれ原」の原石がある。「あかれ」は東のこと。

C上 原
 ムラウチ集落の上の方に位置する。古宇利小学校の後方で標高45mから85mの緩やかな傾斜地となっている。

D中 原
 ムラウチ集落の後方に位置し、標高50mから90mの傾斜地となっている。七森七御嶽のひとつマチヂがある。その森は緑地をなし、マチヂの後部一帯は中原遺跡となっている。

E喜屋原
 ムラウチ集落の西側の一部が喜屋原にはいる。小学校の西側に位置し、標高40mから80mの場所にあり、緩やかな傾斜地をなしている。畑は主にサトウキビが植えられている。

F西 原
 イーバイやイリバイと呼ばれ、ムラウチ集落、あるいは島の西側に位置することに由来する。一帯はハマンシ(浜の石)と呼ばれ、海岸に石が多いのであろう。七森七御嶽のひとつビジュルメー(ハマンシ)の御嶽がある。二

G野路原 
 ノロ地に因んだ原名かもしれない。

H根ガ底原
I雨底原
J宇辺ノ花原
K大当原
L仏ノ上原
 
島の北東部に位置し、原名は七森七嶽の一つプトゥキヌメーがあり、仏に似た小石がいくつもあり、祭られている。原名は仏に似た石が祭られていることに因んだ呼び方であろう。海岸線に渡海からつづく浜があり、数多くのポットホールがある。

M城 原
N宿ノ前原
O立ち原
P道ノ下原

Q流し原
 ナガシバイと呼ばれ島の北西部に位置する。北は海に面し、段丘になっている。南側にも二段目の段丘がある。二段目の段丘地域は緑地となっている。キータイイシ(火焚き石)と呼ばれる場所があり、火をおこして旅人や那覇港を出港した船を見送る場所だという。古宇利島を一周する道路が通り、数件の家があり、そこはシチャバル(下原)の集落である。

R渡海原

 トゥケイと呼ばれ、島の北側に位置する。海岸線に砂浜がありトケイバマという。海岸一帯に円筒状も空洞になった岩が数多くありポットホールと言われている。つの段丘があり、畑はサトウキビと芋が植えられている。原野も多い。



              
▲古宇利の小字マップ

    
2004.1.8(金)

 先日(3日)、古宇利島のムラウチ集落の歩いた部分を整理してみた。島を歩くとき、これまで港を基点として学校へ、あるいはウンジャミ(海神祭)が行われる神アサギやナカムイへと向かうコース。古宇利大橋が開通すると、島や集落への導線が自ずと変ってくる。そのため、大橋の橋詰や今帰仁村農村環境改善サブセンターが島への玄関口となる。いくつかの流れが想定できる。その一つ、集落内を散策できるマップを作成してみた。マップ情報をいれるためにムラウチ集落を散策をしたものである。

  「何をしているの?」
  「そこの石垣が傾いている屋敷があるでしょう。そこはよ。
  スントーヤー(村頭:掟が村頭になり区長となる)というよ。
  ウチのムトゥヤー」

などと語りかけてくる。散策しながら島の人達と一言でも言葉を交わすことができればもうけもん。

   「あっ、診療所の先生の住宅だ!きれいに掃除してあるな。
   石垣があるぞ。石敢当も設置してあるワイ。お医者さんも魔
   物が怖いのだな」

 
              
▲古宇利島のムラウチ集落マップ
  

       ムラウチの集落B

 古宇利島の南斜面に集落が発達し、ムラウチと呼んでいます。ムラウチ集落は、さらに東側(アガリバーイ)、中(ナカバーイ)、西側(イリンバーイ)の三つに分かれています。

【アガリバーイ】
 アガリバーイには今帰仁村農村環境改善サブセンター(公民館:ムラヤー)があり、古宇利大橋を渡ると橋詰広場の隣にあります。一帯が島への、そして集落へ玄関口となります。サブセンターの前の崖の中腹にムラ墓やヌル墓があります。アガリバーイに入ると福木と石垣の屋敷が目につきます。福木と石垣のある家が落ち着いた集落をなしています。それとオカミ石もあります。(イラスト:写真入る)

【ナカバーイ】
 ナカバーイには、民宿があり石垣や福木のある屋敷と出遭うことができます。屋敷のアタイグヮー(小さな畑)には野菜が植えてあり、家庭菜園となっています。空き家になっていますが、セメント瓦の落ち着いた家もあります。港があり、近くにムラヤー跡があります。かつての島の中心部です。港から学校へ登る途中に古宇利小学校発祥の地の石碑があります。坂道を登りきると古宇利小学校に着きます。(イラスト:写真入る)

【イリンバーイ】
 イリンバーイにはナカムイや神アサギ、ノロやウチガミやヒジャヤーなどの神屋、そしてシラサの岬の降り口にお宮があります。シラサは海神祭のとき、神人達が神送りをする場所になっています。ナカムイと神アサギとの間の広場(アサギナー)で海神祭や豊年祭が行われます。海岸にチグヌ浜があり、死者を送るハンジュ?の洞窟(抜け穴)があります。シラサの岬に人類発祥伝承の男女が生活したという抜けた洞窟があります。(イラスト:写真入る)
2004.1.6(火)

 7日(水)は沖縄県立博物館で講座があります。
  「地域博物館の活動と理念―今帰仁村歴史文化センターの事例―」報告する予定なり。レジュメはできたのですが、非常に退屈しそう。ならば、半分はスライドでもやろうか?! スライドの選び出しに2時間はかかりますが・・・。

歴史文化センターは今日が仕事初めです。休館中の事務処理(苦情も含めて)に追われています。年末から周辺整備できょ工事があわただしくなり、歴文への出入りに支障をきたしています。早速、来客;への導線の貼り紙から。3月まで迷惑をおかけします。
 
 正月元旦の日の出を見届けた後、名護市呉我まで行く。元旦の朝、十年余り朝日を見に行っている。ここ三、四年は一人で。いつの間にか子供たちはついてこなくなっている。それに連れも。お陰で朝日を確認して、自由奔放に麓の羽地一帯の集落を歩いている。

今年は呉我まで。呉我に気にいった長閑なカー(ビーガー)があり、正月の若水を汲みに来る方が今でもいるのか(途中で気づいたが、それは旧正なのだ)。ビーガーは清掃され水を汲む柄杓が供えてあった。側にハミダー(神田)があるが、田植えはもう行っていないようだ。旧暦の二月の大安にビーダウグヮンが行われる。

途中、呉我の神アサギに立ち寄るとムラの方々がアサギナーにゴザを敷いて新年の祈願祭が行われていた。古宇利島でも新年のウガンをお宮の前でやっているようだが、名護市呉我でも行っている。

呉我の集落の後方の鍛冶屋原(カンジャーバル)までいく。『沖縄県国頭郡志』に、   
       呉我の後方に鍛冶屋原があり、古へ官立の鍛冶職を置きたる所
       なり。元各間切の農具は官給にして人民は、その代償として一定
       の租税を納めたりしが、後更めて各間切に鍛冶職を置き、而して
      人民の利便を図れり。県下各地にカンヂャーヤー原といえる地名、
      あるいは多くの其の跡地なりという。寛文九年(1667)十二月三十
      日附御教書の一節にいう。

    此中諸間切遣候、鍬、へら、はいし賃として百姓一人に付米一升五合づつ相掛、
    半分は公儀半分は鍛冶細工へ相納候処、百姓疲申候付未之春頃右出米差免、諸
    間切へ鍛冶細工二人づつ立置、夫引合相定候事


とある。呉我は1736年に今帰仁間切地内から現在地に移動した村である。上の文書(1667年)と呉我村(1736年に移動)の鍛冶屋の成立とは時代が異なる。1736年以降に呉我村に鍛冶屋が置かれたことに因んだ原名なのであろう。果たして鍛冶屋跡地を見つけることができるか?


2004.1.4

 
冬休みを終えた娘を中部(沖縄市)まで送り届け、帰路金武町金武に立ち寄る。金武グスク跡の確認のためである。金武グスクや金武間切について時々話をするが、私はその場所や実態についてよくわかっていない。少なくとも金武グスクの跡地と現在の様子を把握しておかなくてはである。金武グスクは金武地方(今の恩納村の一部を含む)を領地とした按司の居城にちがいないが・・・。

金武公会堂の前に二本のガジマルがある。その下に琉球石灰岩の石があり、それの前に「金武城城門の石」とある。それは金武グスクがあった伝承によるものであろう。金武公会堂の後方に金武鍾乳洞遺跡の立看がある。洞窟の口が見えるが立ち入り禁止となっている。上の方は広場(駐車場か)となり、奇妙な石が数基ある。そこらあたりの高台が金武グスク跡なのでしょう。

奇妙な石のあるあたりと駐車場に使われている広場を散策していると、先程のガジマルと「金武城門の石」あたりがグスクへの登り口だったのかもしれない。一帯に水タンクや公会堂や役場の施設や民家などがあり、かつての様子は大きく変貌しているのであろう。金武グスクのあった場所は確認できたが、グスクの痕跡はほとんど遺していない。それでも、その麓に金武ヌルドゥンチ跡や御嶽や金武宮等があり、集落が展開していたことが伺える。一部道路沿いに石積みがあるが、それは後世に積んだものである。
 その一角に「こばや金武こばに 竹や安富祖竹 やねや瀬良垣に 張りや恩納」(金武節)の琉歌碑が建立されている。


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▲「金武城城門の石」と書かれている。 ▲金武グスク跡地?内にある石

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 ▲金武グスク跡地?内にある石  ▲グスク跡地の側に建立されている碑

2004.1.1(木)

 明けましておめでとうございます。今年もよろしく。

 新年早々動きまわっている。恩納村と金武町との境にある喜瀬武原まで。「沖縄県国頭郡志」(大正8年)に
   「当時の間切番所は恩納金武両村の間なるキシン原にありき。今同地
   に其旧址遺存す」
とある。恩納間切が金武間切から分割したのは1673年のこと。その記録は恩納間切分割以前の金武間切の番所が「キシン原」にあり、番所跡がまだ残っているという。そのことを確認したいと思って訪ねてみた。金武町から恩納村の名嘉真に通じる途中に喜瀬武原がある。時間がなく番所跡地を確認するに至らなかった。

 しかし「ウマチ毛」と書かれたバスの停留所があり車をおりてカメラに収める。バス停から少し離れたところにウマチモーがある。コンクリートの祠があり香炉がある。説明板によると昭和16年?にバス停あたりから移動したのだという。金武番所も近くにあったのであろうか。

  ウマチモー(御待毛)は首里から金武経由で名護にいく役人を待つ場所だという。金武間切と恩納間切の役人の引継ぎ場所であれば、ウマチモーとしての機能は恩納間切分割以後のことであろう。まだ史料の確認ができていないので憶測なり。

 
番所というと、港に近い場所との印象がある。しかし喜瀬武原は恩納村(名嘉真)と金武町(金武)の境にあり、そこは盆地状になっている。金武間切が東海岸と西海岸に村を抱えたことに起因するのであろう。それにしても番所の位置に興味が引かれるので史料や現場調査をしてみることにする。

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 ▲喜瀬武原にあるウマチモー   ▲ウマチ毛のバス停留所

 
古宇利島のマップを数枚作成している。その一枚に島のムラウチ集落を散策できるマップをつくる。それに店や公民館(サブセンター)・民宿・学校・チグヌ浜・シラサ・御嶽・神アサギ・桟橋・グサブ・池・古墓・福木のある家・石垣のある家・石敢当・フンシヤー・ウチガミドウンチ・ヌルドゥンチ・アガリガー・イリガーなどを入れていく。集落の東側は省いてあるが、新しく古宇利大橋ができるので大幅に変りそう。最終的にどうなるか、楽しみじゃ。





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       @                A                   B


@アガリヌハンゼェークヤー(今帰仁村字今泊)
A名護市(旧羽地村)仲尾の親川家
B大宜味村田嘉里の金城家