2004
         2月の動き

 企画展  ムラ・シマ講座   山原の図像    過去の動き

 今帰仁ミャークニー


2004.2.29(

     3月1日(月)は休館です。いい休日を!

 3月6日に山原の図像調査?で10名くらいのメンバーが見える。それで今帰仁村・本部町・旧羽地村の図像の記憶を蘇らせるためアルバムを開いている。それと、気になる史料があるので、整理をしてみた(以下のメモ)。「山原のグスク」(仮称)の原稿、目次立てができたのでピッチをあげて執筆中なり。火曜日締め切りのが、外にありましたね!?
 
[山原の図像]メモ
 『四本堂家礼』(乾隆元:1736年)の「年中諸礼式之事」に火神・菩薩・大和神が度々登場する。それらの正月・正月二日、三日、あるいは一日や節の日、そしてウマチーなどの日に神々に灯明・御茶・御酒などを供えるとある。そこでの関心は、菩薩と大和神が山原の各地で確認してきた七福神や福禄寿や関羽、千手観音などの図像を指しているのかということ。そこでの大和神が何を指しているのかである。菩薩や大和神のほかに霊前と神棚がでてくる。霊前は位牌であり先祖を祀ったものであろう。火神はカマド神(沖縄の家庭に置く三個の石:火神)神棚に祀ったのが大和神だけなのか、それとも千手観音や七福神や福禄寿も掲げたのか。
 
 現在主に元家や旧家に祀られている図像(七福神・福禄寿・関羽・千手観音など)が「菩薩」と、それと「大和神」が天照大神などと結びつくのか。結びつくのであれば、民家に掲げられている図像は1700年代には信仰としてではなく習俗として流布していたことになる。鍛冶神やウナイゥイキや伝承に関する図像は、それとは別の入り込みなのであろう。「年中諸礼式之事」から記事の一部を拾ってみましょう。

  ・正月元旦火神菩薩大和神江灯明御仏供上、致御焼香御拝可仕候
     但大和神江灯明無之候、火神御前江者潮取上可申事
    [付録]
      御霊前并火神菩薩御前大和神江上候灯明御茶御酒御盆御仏供之儀、
     不依何時打火ニ而可相調候
   ・正月二日早朝、御霊前并火神菩薩御前大和神江若木を備、戸口戸口江差可申候
   

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 ▲本部町崎本部のマンナドゥンチ         ▲国頭村与那のヌルドゥンチ

2004.2.28(土)

 27日夕方、国頭村辺土名へ向かう途中、大宜味村根路銘と大宜味、そして国頭村の半地で車を降りる。国頭行きはスライドを使っての講演であるが・・・・

 国道58号線から根路銘の集落に入り(旧道)、さらに山手に向かうとムラヤー(公民館)があり、最近新築されている。さらに行くと、左右に道が分かれるが、そこにハーリー小屋がある。ハーリーが行われているようで、小屋に三隻のハーリー舟が逆さに置かれている。左手(喜名へ)にいくと、カーがある。シマナハガーと呼んでいるようだ。シマナハは集落の中央部のこと。根路銘の神アサギは公民館に組み込まれ、ウンジャミなどの祭祀は公民館内で行われる。

   根路銘の神アサギについて『根路銘誌』393頁に以下のようにある。
    根路銘の神アサギは根屋の前、現在の公民館敷地にあった。サギは神人が祭を行
     い、神遊びする所で、アサギ庭(マー)は諸集会や盆踊り等の行われる場所である。
     明治36年大宜味小学校新築の時の残った資材で瓦葺きの村屋を新築する為、アサ
    ギはこわされ、その場所(アサギマー)に村屋が建てられた。村屋の西向き一室は、
    アサギ兼集会所に当てられ、神行事を行い又部落の集会を行う場所(室)であった。

 根路銘の集落はフェーバール(南の方)・ナハンバール(中の方)・ニシンバール(北の方)・ターバール(田の方)と区分されている。シマナハガーはナハンバールに位置することに由来する。シマ(集落)の人達が正月の若水を汲んだり、子どもが産まれると最初に浴びせる産水(ウブミズ)を汲んだカーでもあったという。付近には赤瓦屋根の家が何軒かあり、水の湧き出るカーのある集落はいい。

 昭和25年頃の航空写真をみると福木囲いの屋敷が多く、それと赤瓦屋根と茅葺屋根の家々で集落を形成している。集落の背後は段々畑であるが、今では僅かながらミカン畑がある(放置され、もとの森にもどっている畑が多い)。

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  ▲大宜味村根路銘のシマナハガー   ▲公民館付近にある赤瓦屋根の家

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▲上空からみた根路銘(『ふるさと飛行』)▲昭和26年頃の根路銘の集落(『根路銘誌』)

2004.2.27(金)

〔イチヌパナ〕
 今帰仁村字仲宗根にイチヌパナ(イチナパ)と呼ばれる場所がある。仲宗根の小字垣畑原に位置する。イチナパとも呼ばれているがイチヌパナからきた語だろうか。
   イチ+ヌ+パナ→イチ(イケ)+ヌ(の)+パナ(先端)
   イチ+ナパ  →イチ(イケ)+ナパ(ナファ)(ナファ)
 イチヌパナ
の語義は説明できそうである。イチは伊計島のイチ(イチパナリ)と同義のようだ。イチ(=イケ)は遠い所や極遠のこと(『沖縄地名考』宮城真治)と解している。その解釈でいくと、イチヌパナは「行き着いて先」ということになる。
 イチヌパナのある場所は、渡喜仁から炬港に突き出た半島の先端である。そういう地形による呼称のようだ。海抜3〜5mを水没させると、イチヌパナは半島状になった先端部である。地形からきた呼び方なのであろう。

   (工事中)
  

2004.2.26(木)

 午前中TBSのある番組で歴文所蔵の写真撮影あり。午後から兼次小学校の学習発表会など。「山原のグスクとその時代」の山北(北山)王時代の原稿書き。昨日は「運天の字誌」の進捗状況の報告あり。腰をすえての時間なし。これから、もう一件片付けなければならないことあり。アキサミヨーの一日でした。それから「おめでとう」のニュースも舞込んでいます。

 では、明日。明日も、三つの予定がはいています。


2004.2.25(水)

 「なきじん研究第13号」
に昨年企画展をした具志堅を収録する。展示するテーマは全体からすると、ほんの一部である。展示できなかったテーマも、いくつか入れる予定。

【本部町具志堅】
 
経験したことのない世代として、理解できないのがいろいろある。稲束の計算方法もその一つである。
   ・一束(チュタバイ) 稲を片手につかんだ二回分がチュタバイ
   ・一ちか(チュチカ) 一タバイの三つで一ちか(チュチカ)
                (チュチカの稲を脱穀すると米一升とれる計算)
   ・一ぬーち(チュマルチ) 一ちかの十をさらに十集めた数量を一まるち
   ・一かや(チュカヤ)    一まるちを十集めたのが一かや
     (具志堅で、一かや以上の稲の収穫があった家は中農以上の農家であった。
      二かや以上の収穫していた旧家などは、仕明請地や役地、オエカ地を持ち、
      稲の貯蔵に高倉を持っていた)


 具志堅の水田のあった地域は、以下の通りである(現在は水田はナシ)。
  〔流水田〕
    ・大川の流域
    ・ハニーク(片蒲原)
    ・松部原(松部毛の周辺)
    ・アンガー(松部原)
    ・シリガーとクンチリ
  〔天水田〕
    ・プンビャーとプサトゥ(太平原)
    ・アナパナ(穴花原:北里)
    ・イジジャ(出謝)
    ・ジュミとパラガーバル(津味原)
    ・パギター(大嶺原付近)
    ・シンブトゥムイの周辺(津味原)
    ・プンビヤーとマチクブ(太平原)
    ・アガーリバル(大嶺原)
    ・マシーチャ地(嘉津宇地内) 

2004.2.24(火)

 休み明けはあれこれ多忙なり。今週の金曜日は講演が一本はいていますね。国頭村で。国頭村のムラ・シマの面白さや魅力についてスライドを使って話する予定。具体的な中身はこれから考えます。
 
 具志堅の原稿整理にはいる。シニグの分布をみていると先日訪ねた伊計島や宮城島、平安座島、そして浜比嘉島にシニグが行われており、また神アサギ(『琉球国由来記』1713年では殿)がある。祭祀が山原に近い印象を持っている。それが、何を意味しているのか。

 シニグについて調べていたら「ノロクモイ社禄台帳」(勝連村誌)が目についた。山原ではノロはほとんどが複数のムラを管轄するが、勝連間切では一ムラ一ノロである。そこには社禄の最終支給年月日が昭和13年である。山原でも昭和10年代の史料が何点か確認できる(大宜味村田港ノロ、今帰仁村岸本ノロ、旧羽地村仲尾、真喜屋など)。山原のシニグ(具志堅)と勝連間切や与那城間切のシニグについて比較してみると興味深いことがわかるかもしれない。神アサギについても。


2004.2.22(

 久し振りの雨(昨晩から午前中まで)。乾いた土や草木に潤いをあたえています。新芽が一気に芽吹くでしょう。新緑の季節、到来でしょうか。

 先日、二人の学生を伴って与那城町の伊計島と宮城島と平安座島、そして勝連町の浜比嘉島を訪ねてみた。これまでニ、三度訪ねている。まあ、「島に行ってみようか」とドライブ気分であるが、今回はパナリ(離れ)と呼ばれる島々の近海に山原船を浮かべてみること。そして山原船が行き交う島々の港と当時の人々生活を直に感じとりたいとの思いがあった。それは3月21日に「山原の津口(港)」をテーマで与那城町で話しをするので、その現場確認もあった。

 伊計島は屋慶名港から船で渡った記憶がかすかにある。それは昭和30年代中頃である。屋慶名港から船で、どのくらいの時間かかったか定かでないが、当時の資料をみると1時間半かかっている。はりっきて乗船したのに、船酔いしかかった頃、島に到着した。船酔い気分がおさまる前に、港から坂道を学校まで駆け登っていった。その後、島でなにをしたのか全く記憶にない。40年近い歳月が経っているが、そのかすかな記憶は、今回の伊計島行きに役立っている。

 伊計島の集落の上の方にあるヌルドゥンチ公園近くに車をおき、集落を通りブラリブラリ海岸まで歩いてみた。数多くの石積みの屋敷や石垣に挟まった福木や豚小屋跡や井戸などをみながら海岸まで下ってみた。途中、総合的学習をしている小学生達と先生の姿があった。声をかけることはできなかったが、きっと島の宝物探しをしているのでしょう。

 まだ、海岸の岩場に橋が架かる前の船着場の跡が残っていた。岩場に剥がれたコンクリートが、辛うじて船着場の痕跡を遺している。側の岩場には竜宮の神を祭った碑が立っている。伊計島と船が行き交う様子を彷彿させる記事を拾ってみた。

   ・1781年 七月の盆を導入する(前仲村親雲上が位牌を各戸に分与)。
   ・1804年 伊計島民が久志間切の安部村の帆船を救助する。
   ・ 同    久志間切の嘉陽船も救助する。
   ・ ?    与那原の馬艦船(マーランセン)を救助する。
         伊計島の男は山原船で国頭、奄美、先島との取引をしていた。
   ・大正のはじめころ、追い込み漁業始まる。
   ・昭和の初期にかつお製造所ができる。
   ・伊計島は半農半漁(戦前、稲作は全くなく、麦・甘蔗・粟・とうもろこしが
    主に栽培される)

   ・正月15日は初ウマチーで伊計グスクに麦の穂を供える。供え物は
    魚のサシミと五穀。伊計グスクへは白装束で、舟で渡る。

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   ▲伊計島のかつての船着場          ▲伊計島の石囲いの豚小屋

【伊計グスク】
 伊計グスクは伊計島に行く手前にある森である。グスクは標高約48mの一番高い所にある。頂上部は平坦となっていて、貝を祭った祠と石積みの拝所がある。途中にある門中の殿がある。グスクのある場所は伊計島と離れた島ではなかったか。港の場所とビーチとの間は、水路となっていたにちがいない。『海東諸国紀』(1471年)に「池具足城」があり、伊計グスクと想定されている。

 伊計の現在の集落は小字の西原(島の北側の高台)から現在地(島の南側)に移動した伝承を持っている。伊計グスクが機能していた頃は、グスクのある島と現在の伊計島とは水路で隔てられていたのであろう。そのころ、集落はグスクの麓やグスクに登る斜面あたりにあったのであろう。それはグスクへの上り口に一門の殿(住居地)があり、その名残をみせている。

 グスクのある場所は伊計島のさらに離れ島ではなかったかと想定したのは、グスクでの祭祀のとき、砂浜から歩いて行くのではなく、白装束をし舟で渡っていたという。

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2004.2.21(土)

【勝連町浜比嘉島】
 浜比嘉島には浜と比嘉の島がある。今回訪ねたのは比嘉の集落である。平安座(与那城町)から浜比嘉島(勝連町)に架かった橋を渡ると、橋詰あたりから左手にいくと比嘉につく。

 勝連間切の地頭代は浜親雲上(浜大屋子)を名乗っている。浜の集落内に地頭代火神を祭った祠がある。『琉球国由来記』(1713年)にみた浜村の「殿」(トゥン)は浜里主所、比嘉村の「殿」(トゥン)は比嘉里主所に置かれている。

 比嘉にはアマミチュー墓があり、アマミチュー(アマミキヨ)とシルミチュー(シネリキヨ)、そして他の神々を葬ったと伝えられる。兼久の集落のはずれにシルミチューの洞窟がある。洞窟内に祠があり、南蛮甕が置かれている。
   
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       ▲勝連町比嘉の集落             ▲比嘉集落内の家

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 ▲比嘉集落の端の崖の下にある湧泉      ▲比嘉の集落内にあるカー
2004.2.20(金)

 
伊計、上原、宮城の神アサギ(殿)を掲げてみる。但し、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる「殿」と明治17年頃の明治17年頃の田代安定の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の神アサギと、同一なのかどうかの吟味が必要である。


            ▲どっちが伊計の神アサギ(殿) 左??


▲上原ノロ殿内の屋敷にある神アサギ      ▲宮城の神アサギ(殿)
  (殿)に使われた石柱か    


2004.2.19(木)

   (今小3年の学習あり:道具を通して・・・)

 
18日(水)に与那城町の伊計島・宮城島・平安座島、そして勝連町浜比嘉の島をゆく。明治17年頃の田代安定の「沖縄島諸祭神祝女類別表」に神アサギが登場する。『琉球国由来記』(1713年)では「殿」(トゥン)とある。中南部の殿は屋敷に設置されるので、山原の神アサギと大きく異なるのは屋敷に設けられていることである(山原の神アサギで屋敷内に設置されているのは本部町瀬底、国頭村宇嘉、奥間などである)。伊計島や宮城島などの村の殿は『琉球国由来記』(1713年)で以下のようにある。
   ・殿 伊計村(伊計巫伊英ニ設席也。アンミャト云)
   ・殿 宮城村(根人家ニ設席也。オエキミト云)
   ・殿 宮城村(宮城巫家ニ設席也。アンミヤト云)
   ・殿 上原村(上原巫家ニ設席也。)
   ・殿 平安座村(平安座巫家ニ設席也。仲程ト云所ニ有リ)
 
【与那城町伊計島】
 伊計島は与那城町の一島で一字からなる。勝連半島から平安座島・宮城島・伊計島と続く。現在では橋が架かり、伊計島まで来るまで行くことができる。中部地域でありながら、これらの島々の村に神アサギがあること。ある意味では山原の祭祀に近い形態がみられるのかもしれない。

 伊計の集落は島の南斜面に発達し、集落の最後部に学校がある。おもろで「いけのもりくすく」と謡われている。グスクは伊計島と隣接した小島の頂上部にあり、『琉球国由来記』(1713年)に伊計村が登場し、祭祀は伊計ノロの管轄である。伊計ノロの屋敷跡や祠があるが、集落の高いところに位置する。

 伊計グスクが伊計ムラの御嶽となっており、御嶽と集落をつなぐ軸線を想定してみる必要がありそうだ。かつての伊計港とヌルドゥンチをつなぐ道が集落の主要道路だったであろう。学校ができた後は学校の正門と港をつなぐ線も軸線として読取ることができる。それは神アサギと旧港を結んだ線とみてよさそうである。

 考えてみると、神アサギがあるので、神アサギとかつての港を結ぶ線の方が集落の展開の軸線としては自然である。このように伊計グスクと集落、あるいは神アサギや御嶽と港などをつないだ集落の展開を考えてみるのもいい。

 明治17年頃の田代安定の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の伊計村に七箇所の拝所が記されている。
    @ノロ殿内      A神アサギ  Bノロ殿内火神 C根屋
    D浜崎ノ御嶽    E東リ御嶽  Fイリ御嶽

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 ▲伊計グスクからみた伊計の集落       ▲伊計のヌルドゥンチ付近

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           ▲伊計島の集落は石垣の垣根が目に付く

【与那城町宮城島】
 与那城町の宮城島に上原・桃原・宮城・池味の集落がある。今回は上原と宮城をゆく。上原は伊計と異なりムラ名の示す通り島の標高100m程の高いところに位置し、宮城は上原に隣接している。

[上 原]
 上原村には上原ノロ、隣接した宮城村には宮城ノロが存在する。上原の神アサギはノロ殿内の屋敷内にある数本の石柱がそうであろうか。ヌルドゥンチ付近は岩や古木が茂り、神々しさが漂っている。シニグドーから上原・宮城の集落全体を俯瞰することができる。

 明治17年頃の田代安定の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の上原村に六ヶ所の拝所が記されて、神アサギもある。
    @ノロ殿内  Aノロ殿内火神  B神アサギ  Cイリ御嶽
    D根屋     E井川

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 ▲シニグドーから眺めた上原の集落     ▲上原集落にあるマンガー

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     ▲上原ノロ殿内跡             ▲ノロドゥンチの正門

[宮 城]
 宮城へは今では車で行くことができるが、以前は船で屋慶名港から池味港まできて、池味の集落を通り宮城集落まで徒歩で登って行った時代があったのであろう。宮城島の「交通交易」から(沖縄民俗:宮城部落報告1969年)、昭和40年代以前の様子を知ることができる。
   ・島の交通は主に徒歩
   ・集落内の道幅は狭い
   ・屋慶名から定期便がある(池味港9隻、桃原港3隻)。
   ・定期便以前は松でできた船(人を運ぶのみ、漕ぎ手二人、乗客十名
    ほど)
   ・貨物の運搬はフーシン(山原船)
   ・伊計島や平安座島はサバニを利用
   ・干潮時は宮城島と平安座島、そして本島へは地続きとなるので
    徒歩で渡る。
   ・樽を買いに行くには徒歩で。
   ・日用雑貨や食料品は安慶名から船で運ばれる。
   ・平安座島が山原船の集まるところなので、宮城島からサバニで
    大根や野菜類を売りにいく。
   ・製糖時期になると山原船で薪を売りにやってきた。
   ・サーターダル(砂糖樽)や肥料なども運んできた。
   ・久志や辺野古などの山に木を切り出しにいき、山原船を借りて運んだ。
   ・タルガーに入れた黒糖は池味の前の浜に運ばれ、港に仲買人(イタク)
    がいて船で与那原まで運んだ。
2004.2.17(火)

 午前中から「県いきいきふれあい財団」のメンバーを案内する。
    ・歴史文化センターの歴史展示
    ・今帰仁グスク
    ・今帰仁ノロ家の簪と勾玉
    ・崎山の神ハサギ
    ・源為朝公が一時期住んだというテラガマ
    ・源為朝公上陸址碑と運天森
    ・運天の歴史的な話
    ・百按司墓と木棺
    ・今帰仁グスクの按司と大北墓
などの現場踏査をする。昨年夏学芸員実習をした新田さんと田村さんも参加する。自分達が進めた企画展「今帰仁グスクが抱えたムラ」もみたようだ。その印象はまだ聞いていないが。

 今帰仁ノロ家で勾玉と簪を見せていただいた。

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   ▲今帰仁ノロの勾玉と水晶玉          ▲今帰仁ノロの簪

2004.2.15(

 月曜日は休館です。
天気がいいので・・・?! 休息日に!

 
天気がいいので出勤途中、仲原馬場(今帰仁小学校)と崎山の神ハサギと崎山泉(サキヤマガー)を回ってきた。仲原馬場は歴史の場面にたびたび登場する。崎山の神ハサギは村指定文化財の一つ。茅葺き屋根の神アサギは村内で崎山だけである。神ハサギの世界は認識されつつあるが、まだまだ・・・・。

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          ▲仲原馬場跡と今帰仁小学校内の松並木(2004.2.15)

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            ▲今帰仁村崎山の神ハサギ(2004.2.15)

2004.2.14(土)

【諸志村(諸喜田・志慶真)の一筆限帳】の整理
 明治36年時期の「一筆限帳」の整理をしてみた。その帳簿から当時の番地、土地の地目、等級、そして土地の所有権が与えられた人々の土地所有など、様々な様子が伺える。関心があるのは、ウシマルがまとめている志慶真村の移動と連動する史料である。

 つまり、明治36年には志慶真村は諸喜田村の側に移動してきている。地割制度の最中、志慶真村の人達はどのように土地保有をしていたのか。志慶真村は移動ムラであると同時に、他のムラ域にどのように土地を持ったのか。その実態を知る手掛かりになるのではないか。まだ史料の整理中なので、見通しができるまできていないが、いくつか仮説をたててみた(仮説の紹介は秘密なり)。期待したいのは、村移動の理由が、その史料の分析から読取れるのではないか。そんな期待をしているんだが。仮説が覆るのか、予想通りの結末になるのか。楽しみじゃ。2180筆の整理なので、まだ先が遠い。


 ▲今帰仁間切諸志村(諸喜田・志慶真の二つの村が合併した当時の史料である。)

 先日、今帰仁村の教育長(山城清光)がアメリカから帰国されたChiyo Lakeさん(アメリカ国ミズリー州在)から預かった一冊の「卒業記念写真帖」(今帰仁尋常高等小学校:昭和12年3月)を持参してこられた。何名か健在な方の姿がみられるので聞き取り調査をして報告することに。
  
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   ▲今帰仁尋常高等小学校の校舎     ▲農園での作業風景、松並木は宿道

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     ▲高等科の卒業生(男子)          
▲高等科の卒業生(女子)
2004.2.13(金)

午前中、今帰仁グスクで兼次小4年生の四グループのドラマ。その物語に出てくる場所の確認と時代の背景をイメージ。クボウの御嶽を背景に・・・・。掃除に来ている地元の方も観覧に。舞台はまさに今帰仁グスク。26日が本番だそうだ。歴文の石野さんも物語の解説係として出演することに。私はたんなるカメラマン。なかなか、いいところまできています。一言一言はっきりと。見せ場をつくろう。
   ・北山騒動
   ・妖刀北谷菜切
   ・志慶真乙樽
   ・名刀千代金丸

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      ▲志慶真乙樽                 ▲名刀千代金丸
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    ▲妖刀北谷菜切                    ▲北山騒動


  (工事中)




2004.2.12(木)
 
 いつ葉桜になるかと気が気でない日が続いています。来週、来客あり。桜が見たいと・・・・。今日の様子をトップページに掲げました。満開状態なり。

【上運天】(なきじん研究13号メモ) 
 上運天は今帰仁村の東側のムラ(現在の字)の一つである。ウイヌシマ(上の島)と呼ばれ、運天のシチャヌシマ(下の島)に対しての呼び方である。上運天と運天は一つの村であったが、近世初期に分かれたのではないか。1713年の『琉球国由来記』の頃には上運天村と運天村に分かれている。当時の祭祀はシマセンク(勢理客)ノロの管轄である。ノロ管轄の祭祀は現在も踏襲されている。

 『琉球国由来記』(1713年)に上運天村に「上運天之嶽(神名:ナカモリノ御イベ)」と「ウケタ嶽(神名:不伝」が記され、二つの御嶽は今でも残っている。上運天の御嶽の周辺に神アサギ・アサギナー・お宮・ムラヤー跡・根神ヤー跡などがある。

 ウケタ嶽は運天港(伊是名島・伊平屋島の発着場)の近くにあり、森になっていて入口に「浮田御願所」と彫られた碑がたっている。『琉球国由来記』にはウキタ御嶽での祭祀は記されていないが、現在でもムラの祭祀場として御願がなされている。

 上運天の神アサギでの祭祀が『琉球国由来記』に記されている。( )内の記事は『琉球国由来記』に記載されているものではない。

    ・麦稲穂祭(麦穂祭は2月ウマチー:稲穂祭は5月中)
    ・麦稲大祭(麦穂大祭は3月:稲大祭は6月中)
    ・年 浴(8月中)
    ・大折目(7月)     
    ・柴 指(8月中)
    ・芋折目
 
[現在行われている上運天の祭祀]
    ・1月1日    チータチウガン(一日御願)
    ・2月15日   ウマチー
    ・4月15日   アブシバレーとタキヌウガン(運天のティラも拝む)
    ・5月15日   ウマチー
    ・6月25日   シチュマー・サーザーウェー
    ・7月後の亥日 ウフユミ(勢理客ノロがやってくる:四カ字合同)
    ・8月15日   ジュウゴヤー(十五夜)
    ・8月17日   タキヌウガン(運天のティラも拝む)

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  ▲今帰仁村上運天の神アサギ       ▲ウキタ(浮田)御嶽のイビ

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  ▲上運天の御嶽の中のイビ(貝あり)   ▲ムラヤーの跡(火の神の祠) 

【上運天の8つの小字】
 
上運天は現在8つの小字(コアザ)からなる。「ユ うけた原」の原石があり、『琉球国由来記』(1713年)にウケタ嶽が登場することから、以前「うけた原」があったことがわかる。ウケタ御嶽あらりが「うけた原」だったにちがいない。うけた原は現在の親川原に組み込まれた可能性がある。

    @上運天原
    A阿那川原
    B親川
    C大川原
    D唐の森原
    E大籠原
    F大久保原
    G上 原


2004.2.10(火)

 久し振りの晴。気温は16度。足元ではまだストーブがついている。
古宇利島の遊歩マップの色校正が終わり、校了となりました。

【勢理客】
(なきじん研究メモ)
 勢理客出身の島袋源七氏は『山原の土俗』(昭和4年)でワラビミチについて、以下のように記してある。
   
 今帰仁村勢理客に於いては毎年旧の七月中旬に行われる。白衣装を着け、白八卷を
    した祝女や神人が字内の祭神「火神」の前に集まり、根神は各一門中から集めた餅(之
    は甘蔗の葉に長く包んだもの二包づゝ)を捧げ、氏子から集めた米(一合)で神酒を造ら
    せ、それを神前に捧げ、尚お藁を束ねて此藁の数にも増して子孫を繁昌せしめて下さい
    と祈願し、それが済むと各氏子は神さまのおさがりの餅と神酒とを戴いて帰る。
     此所を引き上げて、神アシアゲの庭で獅子を躍らせ、宴を張り、一日中面白く遊んで
    帰るのである。獅子舞は健康を祈るもんだと伝えている。

    
 このワラビミチはワラビミチと大ユミと合体した形で現在でも行われている。勢理客ノロは湧川の神アサギまで行って祭祀を行う。近世に創設された湧川村も含めて勢理客・上運天・運天の順で祭祀を執り行っている。現在は火神というより、神アサギとアサギナーで行っている。

 勢理客ノロ殿内跡にあるワラザンは昭和初期から子孫繁昌を願って納めている。そのワラザンを納めることは、今でも行われている(藁をさがすのに苦労しているようだ)。


  ▲今帰仁村勢理客の御嶽の中のイベ       ▲勢理客の神アサギ

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   ▲勢理客ノロの簪(二本)      ▲「の 石かき原」の原石


2004.2.8(

 月曜日は休館です。
寒そうなのでタマにはヌクヌクと過ごします?!

【勢理客】(なきじん研究13号メモ)
 
勢理客は今帰仁村の東側の字(アザ)である。方言でヂッチャクと呼ばれ、「おもろさうし」で「せりかく」と登場する。宮城真治は、ジッチャクはシリサクで「後の谷」と解している(『沖縄の地名考』70頁)。今帰仁村玉城にマッチャクがあり(乙羽トンネルと呉我山トンネルの間)、マッチャクの地形からチャクが谷間や盆地であることがよく理解できる。宮城真治はジッチャクのジッをシリ(後)を理解している。マッチャクのマッはマリだろうか。マリ(マリー:真利)は他の事例で丸いや毬(マリ)と理解する方がおられる。そうであれば、マッチャクは丸い谷間、円形の窪地ということになる。

 現在の勢理客は立増原・中道原・石垣原・吉事原の四つの小字(コアザ)からなるが、昭和15年までは渡喜仁も勢理客の内であった。

 勢理客は「おもろさうし」で謡われるほどの勢理客ノロ(別名シマセンコノロ)を出した村である。ノロ家には現在でも二本の簪(カンザシ)が残っている。勢理客ノロは『琉球国由来記』(1713年)に島センク巫(勢理客巫)と登場し、勢理客村・上運天村・運天村の祭祀をつかさどっている。現在でもノロ管轄村は踏襲されている。

 勢理客ヌル殿内(ノロ家)から今帰仁間切の役人を多く出している。「勤書」や「元祖行成之次第」などの古文書に兼次親雲上・諸喜田親雲上・奥間親雲上・古宇利親雲上・湧川親雲上など役職を勤めた人物の名がみえる。
 
(工事中)

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 ▲今帰仁間切勢理客村全図(渡喜仁部分は略)  ▲字勢理客の小字区分図

2004.2.7(土)

 底冷えのする日が続いています。そのためか桜は満開状態がまだ続いています。

 久し振りに『明実録』に目を通してみた。北山(山北)部分について整理したことがあるので、南山(山南)に目を向けてみた。三山鼎時代の北山もそうであるが、南山地域の様子もなかなか見えてこない。いくつか南山の興亡の歴史に目を通してみたが、大部複雑である。その南山の複雑な歴史の様相が北山では、たまたま怕尼芝・a・攀安知の三名の王名が交易の記録の流れに沿って登場しているため、山原周辺のグスクや按司との関わりの議論がない。

 幸いか不幸か、そのため北山の三王の時代の興亡があったであろうが、その様相が見えないので議論がなされない。もっと複雑な動きがあったはずなのに、記録された史料だけでは、その姿が見えていないだけのことかもしれない。その動きの一端として見えるのが、中山の連合軍に今帰仁を除いた国頭・羽地・名護・金武などの軍勢は中山に組したと言うことである。

 そのことを考えると「南山の歴史」を紐解くことは、山原の今帰仁グスクを中心とした状況が少しは把握できるかもしれない。例えば、中堅クラスの根謝銘グスク(国頭地方)・親川グスク(羽地地方)・名護グスク(名護地方)・金武グスク(金武地方)と今帰仁グスクとの関わりや統治形態が・・・。もう少し、史料を整理してみることにしよう。結構なボリュームになっているので、ここには見通しだけにしておきましょう(別で報告する予定)。


2004.2.6(金)

 午前中、兼次小6年生が来館。「今帰仁の歴史」が次第に身についてきました。学んだことのない用語が、ポンポン出てくるので苦労しているようだ。しかし、4回目になると、流れが次第に理解してきたようだ。

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  ▲歴文で歴史の発表の学習    ▲もうすぐ僕達の出番だな!

 今日は歴史文化センターの第一展示室で、それぞれの時代を背景に行いました。自分の分担の時代が、次第に見えてきたでしょうか。もう少しです。

 午後から日本語を学んでいる中国・韓国・フィリピン・カナダからの留学生のグループ。沖縄の歴史や文化を知りたいということで。中国の留学生は、漢字は読めるが意味が分からないとのこと。日本人が古典を学ぶ感覚かもしれない。沖縄の人達の神観念はなかなか理解できないようだ。沖縄に奈良時代や平安時代に使われていた言葉が、今でも使われていると話すと興味深く質問してきた。

【湧 川】 (なきじん研究13号メモ)
 湧川は1736年に新設された村(ムラ)である。それ以前は現在の湧川から呉我山にかけて、呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村があった。湧川のムラの創設は1736年であるが、『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の地頭代は「湧川大屋子」を名乗っている。1750年頃から今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上を名乗るが、それ以前は湧川大屋子である。まだ、確認できていないが、ワクガヌヤーやワクガーヤーの屋号のつく家があり、1750年以前の今帰仁間切の地頭代が出た可能性がある。

 湧川村の創設は蔡温の林業政策と関わっている。人口の増加に伴って、山林が荒廃し、材木が不足してきた。そのために林政八書やムラ移動などの政策がとられた。そういった背景で湧川村は創設された。

 首里王府は1737年から元文検地という土地調査を行い、原石(ハルイシ)や印部石(シルベイシ)と呼ばれる図根点を設置し測量を行っている。現在の湧川地内の村(ムラ)移動と湧川村(ムラ)の創設と無関係ではなかろう。
 

   ・塩田跡・御嶽・神アサギ・ワラビミチ・新里家・ムラガー
  ・路地楽と棒術・湧川の商店・ヤガンナ島・小字図・我部の古井戸


2004.3.5(木)

 
「なきじん研究」13号の骨子が、一晩でほぼ決まりました。

   ・今帰仁グスクが抱えたムラ―具志堅の調査報告― ・・・60頁
   ・今帰仁のムラ・シマ(古宇利・運天・湧川・勢理客)・・・・・60頁
   ・今帰仁村の墓―謝名の湧川家―(調査報告)・・・・・・・・10頁
   ・歴史文化センターの動き(2002年7月〜12月)・・・・・・・130頁
   ・その他(コラムなど)

です。これから本の体裁に編集していきます。限られた時間と予算と体力ですので、そのあたりが限界でしょうか。

 昨年の学芸員実習生のレポートも入れます。実習時の写真がありましたら提供ください。それぞれ分担しますので、私は編集の監督なり?

【本部間切の役人】
 
『琉球国由来記』(1713年)に本部間切の役人層を知ることができる。今年は閏年なので墓の移転や新築が多いことが予測される。墓を開けたり、移葬するとき、厨子甕やその蓋に書かれた文字(銘書)を散見する。銘書に死亡年月日や洗骨日、あるいは死者の名や役職などが書かれている。また年号(ほとんどが中国年号)もある。何も書かれていない場合もある。

 『琉球国由来記』(1713年)当時の本部間切の役職を記すと、以下の通りである。天底掟とあるが、天底村は1719年まで本部間切の村である。

    地頭代・・・・・・健堅大屋子
    夫地頭・・・・・・渡真利大屋子・満名大屋子・石嘉波大屋子
             辺名知大屋子・並里大屋子
    首里大屋子・大掟・南風掟・西掟・辺名知掟・謝花掟・浦崎掟
             崎浜掟・伊豆味掟・天底掟・瀬底掟・備瀬掟・
             具志堅掟・渡久地掟・嘉津宇掟

 
本部間切の地頭代(現在の村長や町長)は健堅大屋子、1750年頃から健堅親雲上を名乗るようになる。本部間切瀬底村の上間家(アガーリ)から地頭代が四名出ている。二世の童名加名は1759年に地頭代になる。その頃には、すでに健堅親雲上を名乗っている。

 本部間切では地頭代を努めると「健堅屋」の屋号がつく。同村に地頭代が何名も出てくると「上」や「下」をつけて「上ノ健堅屋」や「下の健堅屋」と区別している。

   (工事中)


2004.2.4(水)

 逃げて去りそうな月。「なきじん研究」の中身の検討と時間と体力などの見通し。なかなか厳しい。しかし、やらねばです。もう少し、ガッチとした中身がだせないか。一晩考えてみよう。時間と体力が可能な線で・・・、明日にでも。


2004.2.3(火)

 
また天気は雨模様なり。桜の見ごろはまだ大丈夫です。桜の花見は、青空の下でがいい。さあ、動きだしますぞ!

 しばらく、古宇利島に関わっていましたが、他の18のムラへも足を運ばなければなりません。まずは、運天から。運天は運天港・番所跡・百按司墓・大北墓・トンネル・源為朝公渡来伝説・ウプガー・神アサギ・ウッパマ・クンジャーなど、ムラを描くための数多くのキーワードがある。

 運天のシマ散歩をしながら、一つ一つ拾っていきましょうかね。(なきじん研究メモ)

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 ▲上空からみた運天・上運天付近      ▲運天の小字(コアザ)図

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   ▲源為朝公上陸之址の碑            ▲現在の運天港


    ▲旧公民館付近の松並木         ▲運天港付近の崖中腹の墓



2004.2.1(
 
 月曜日は休館です。しっかり休息します??桜見物でもしながら・・・

 2月です。今日は古宇利島で島のマップを手掛かりに歩きます。島の小学生達が何名か参加してくれるようです。島の未来像を求めての島散歩です。ムラ・シマ講座と島しまづくりの特別番組の気配。古宇利島遊歩マップは、大きく三つのネライを持っています。

 一つは歴史文化センターが古宇利島と関わり、調査や展示会や調査報告書や学芸員実習などでお世話になっていることに対するお礼を含めてのマップ作成でした。二つ目は、島外の方々には、島を歩くとき、島で生活している方々の目線で見ていただきたいということ。三つ目は島で生活している方々には、島が誇れる回りの宝物に気づいて欲しいとの願望があります。

 何もない島ではなく、歴史もあり祭祀もあり、海のもの、畑のもの、島チャビもあり、それを踏まえて島の夢を語ってもらいたい。そんな勝手な思いで遊歩マップを作成してみました。間もなく完成します。今日はそれを持って島に渡ります。

 マップを使っての島がどう見えるのか。楽しみじゃ。帰ってから報告します。NHKの放送は生放送ではありません。

【古宇利島をゆく】
 10時の便で島に渡りました。午前中はムラウチ集落を一人ぶらり。いつも追われての島まわりが多いが、今日はあれこれ写真を撮りながらの一人歩き。

 1時半に子ども達12名がサブセンターに集合。午後から子ども達と島の宝さがし。サブセンターでマップを見ながらの宝さがしまでは出来たのであるが、外に出ると宝さがしどころではない。一つの宝ものをさがすと、これでおしまい。ハハハ。何が宝なのか?・・・。一度島を出てみないと、わからないかも。

 あっ、そう言えばNHKさんの取材もありましたね。ご苦労さんでした。取材と関係なく、マイペースで島の不思議さや面白さ、そして古宇利島の歴史の流れを思い起こしながら・・・。おいしそうな、アタイグヮー(屋敷内の小さな畑)のほうれん草やネギやキャベツ。途中、雨が降り出したので子ども達は退散。集落内の整備すべき姿や集落内を歩くコースが見えてきました。ムラウチ集落内が、少し分かりかけてきました。ありがとさん。

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▲アガバーイの道路沿いのアコウの木  ▲ハーターヤーの石垣

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  ▲マップで島の宝さがし     ▲集落内での宝さがし???

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 ▲漁港のエンジン付きのサバニ  ▲神アサギと舞台とナカムイヌ御嶽