2004
         3月の動き

 企画展  ムラ・シマ講座   山原の図像    過去の動き

 今帰仁ミャークニー

2004.3.23(火)

 
「山北王の支配と交易」上・中・下原稿を出稿。ハーである。いつものこと。綱渡り原稿である。ギリギリ、いや締め切りが過ぎないと遅々と進まない。担当者にはいつもご迷惑。今回は最近の顔写真なり。いつもウソついていると言われますので。ハハハ。それより、原稿のこと早く忘れたい気分なり。主語と述語を意識しないで書くクセあり。結びつけて校正してくれたうしまるさんに感謝。

 とにかく、今日は何も考えたくない。締め切り原稿は、これで終わりかな?!あったような。それは明日考えるなり。では。


2004.3.21(

 
いくつもの締め切りに追われ、多忙をきたしていました。やっと一息です。今日だとメモしてあった講演日が昨日でした。昨日締め切りの原稿の二本分(2000字×2回)は今さっき送付致しました。残りもう一本です。これから2000字原稿を書きます。その前に一息。昨日の講演は「山原の港(津)と山原船」レジュメは準備できたのですが、頭の整理は車の中で。会場まで1時間半。どうにか責めは果たしました。

 講演の中身はいずれまとめるとして、講演がすんだ後、平安座島を散策してみた。車を降りて、ブラリぶらり。いくつも目にしたのはハーと石積みの屋敷であった。それとユニークな石敢当がいくつもある。

 与那城町平安座は山原船の船持ちが多く、また停泊地でもある。山原船の名称は1700年代後半からである。琉球国に人口が増え、山原の村々と与那原や泡瀬などの間で取引(商い)が成り立つようになり、平安座の船持ちが商いに精出したことによるものかもしれない。もちろん、山原の村々と与那原や泡瀬tの中継地としての地理的な利便性もあったのであろう。

 集落の後方にいくつもカーがあり、若水や産水を汲み水撫(ウビナディー)をする。どのカーを拝むかは門中によって異なるようだ。

 平安座では神アサギを殿(トゥン)と呼んでいるようである。またカンサギヤー(神アサギ屋)とも呼んでいる。現在の神アシャギは昭和59年に改築されたようで、六本柱の内四本が石柱で赤瓦屋根である(確認のこと)。

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     ▲平安座の現在の集落          ▲文字の上に鬼の絵?

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   ▲与佐次河(ユサジガー)町指定    ▲カーの内部(ヒーがある)


2004.3.18(木)

 
県立博物館の与那嶺さん、東京国立博物館の井上氏が来館された。阿応屋恵(アオリヤエ)の遺品を見てもらった(歴史文化センター所蔵)。青・茶・黄などのビーズ。草履の布地。足袋の布地など。鼻緒?のひも。目的は百按司墓の木棺の木地に張られた布。

 これまで『沖縄県国頭郡志』にある大正時代の資料の確認作業の一環でもあるが、現在どうなっているのかの確認が必要。

 鎌倉芳太郎は大正13年頃今帰仁村を訪れている。その時のノートが残されている。その中に「ヲーレウドゥンの遺品」について以下のような記録を残してある。同様なことは『沖縄県国頭郡志』374頁(大正8年)にもある。
   ・曲玉(magadama)
     一連 (一)大曲玉・・・・  一ケ
            小曲玉・・・・二一ケ
            水晶玉・・・・三一ケ
         (二)水晶玉・・・・八〇ケ
       a 玉がはら 一連 内
          かはら   一大形
           同     二二小形
          水晶之玉 百十六個
       b 玉御草履
       c 冠玉たれ
         同玉の緒
       d 胸当一連
 保管してあったビーズやまるまった布地をほどいてもらった。現在あるのは上の遺品のどれにあたるのか。上に記載のない足袋の発見がありました。感謝。

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     ▲玉草履の一部か?           ▲右足用の足袋

2004.3.16(火)

 館内の大改造に入っています。ここ9年分の整理です。準備室時代のものから今日までの分まで・・・。垢のついたメモから建設に向けての博物館資料や展示プランなどなど。明日から分類しながら配列していきます。肉体労働なり。若者よ、よろしく。

 館の周りも大きく変貌しつつあります。駐車場や道路の概要が見えてきました。新年度まで続きます。ご迷惑かけています。それでも来館してくださる方々には感謝です。

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2004.3.14(

 月は
休館です。午後から二、三の写真撮りがあります。天気悪そう!

 粟国島の船と図像に関わる資料を探していたらアルバム(五冊)がでてきた。平成12年10月4日から6日まで粟国島を訪れている(沖縄県地域協議会の研修会)。その時のアルバムである。ノートもあるはずだが?!(探す時間がありません)

 
粟国島の図像について、観音や七福神など「山原の図像」でメモ程度に紹介してあります。


 ▲上座、左手に今帰仁拝所あり     ▲チーグ座・ノロ座など


▲カナブの葉のカーブイ    ▲祭祀に使う道具?


  ▲粟国島の神人の衣装          ▲粟国村の戸籍簿

2004.3.13(土)

 午前中「ムラ・シマ講座」の修了式。今年で11期です。11年間持続できた事業です。ごくろうさんでした。参加者から、「ムラ・シマ講座は人づくり」との声が幾人からありました。その通りだと実感しています。私たち職員がムラ・シマ講座を企画し、参加者以上に得るものがあります。参加者、企画する方、どっちもよかったの楽しい一年間でした。

 今日の会場はムラ・シマの世界に包まれた中で修了式を迎えました。具志堅の企画展と今年出かけた今帰仁グスクへのハンタ道付近、天底・勢理客・恩納村山田・本部町具志堅・湧川などを組みいれ、ムラ・シマの歴史の深さと広がりを実感できる展示となりました。そこには展示されたものだけでなく、冊子の一人ひとりの記録、報告が重みのあるものにしています。

 たまたま、訪ねてきた神戸の方(水族館の学芸員?)は、最後まで釘付けになっていました。どんな印象を持たれたのでしょうか?91歳になられた渡名喜翁は「体験から一人ひとりの胸に響く話をしてくださいました」感謝。

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   (工事中)


2004.3.12(金)

 47項目の「用語解説」を終らせ、明日の「ムラ・シマ講座」修了式の準備。これまで一年間で記録したノートを冊子にし、みんなと一緒に一年間を振り返るために7回分の写真を展示します。うし丸さん、こずさん、ユーキさん、赤嶺さん、みんなの力でいい冊子ができあがっています。ごくろうさん。

 明日は、どんな修了式になるのでしょうか。久し振りに参加者の顔が見られます。振りかってどんな発表をしてくれるのか楽しみです。

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            ▲ムラ・シマ講座修了式の会場準備中

2004.3.11(木)

 一つ二つと肩の荷をおろしていますが、まだ三つ程あります。今晩で一つは片付けましょうかね。

    
本日は書き込みなしなり。


2004.3.10(水)

 
「山原の主なグスク」と格闘。一晩寝かせて明日校正するなり。


 グスクの原稿を執筆しているので、根謝銘グスク(国頭グスク)まで足を運んでみた。これまで気づかなかったのであるが、根謝銘グスクから今帰仁グスクの側にあるクボウヌ御嶽がみえる。今帰仁グスクと根謝銘グスクとの関わりが身近なものになった。

 根謝銘グスクには今帰仁グスクの興亡の時期、あるいは滅亡後に離散した人たちが、今帰仁グスクに行ったり、あるいは滅ぼされたとき、根謝銘グスクに逃げた伝承が根強くある。それは近年のことではなく、結構古い時代(300〜400年前)から伝えられていたようだ。歴史の史実としての証はできないが、長い伝承を持つと人々の内々には史実としての思い込みがある。そのような場面に度々出会う。

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   ▲根謝銘グスクから今帰仁グスク方面をみる     ▲グスクへの石道

2004.3.9(火)

 
午前中、「やんばる国道変遷誌」編集懇談会に出席。会議に臨んで、先日届けていただいた原稿案の歴史部分に目を通していく。あれこれ??!!と頭の中を駆け巡り・・・・・。いくつかの確認と提案。

 午後から「山原のグスク」(仮題)の原稿執筆。あれこれ、「手をつけていますか?」の督促。アキサミヨーなり。

 ちょっと気分晴らしに、土曜日に訪ねた浜元の土帝君(トーティンクー)について。以前にもHPで紹介したような気するが・・・。そこでは触れなかったことについて紹介しましょう。これまで??と疑問に思っていたことが解決。浜元の土帝君が安置されている森の件である。今では字浜元で祀っているようだが、本来ムラの祭祀ではないが、以下の状況があってムラが管理するようになったのかもしれない。

  
「本部村(現在本部町)浜元ノロ家の庭園丘上にも土帝君の小祠あり。今は里道開鑿
   のため屋敷を横断せらたしに依り道路の東側に当れり。其由緒詳ならざれども同家
   の祖主君に従いて唐渡の際木像を奉じ来りて祀れるものなりという。祠は改築毎に
   小規模となり、今は荒廃見るに堪えざる状態となれり」
   
 ノロ家は具志川ノロ家である。現在ノロの屋敷跡地は残っている。土帝君のある森とノロ家の屋敷の間を国道505号線が通り分断されている。大正8年以前にすでに分断されている。土帝君のある森はノロ家の庭だったのである。ノロ家は現在辺名地にあり、カラヤマヤーと呼ばれている。そのカラは唐旅にちなんだ屋号なのだろうか?(詳細については改めて)


2004.3.7(

 月曜日は
休館です。いい休日を。?の写真撮影に出かけます。原稿の掲載用なり。

 
昨日行ったところは以下の通り。一気には整理できませぬ!ボツボツと。ははは

 このまとめは来週になります。

A本部町満名(マンナドゥンチ)
B本部町瀬底(石嘉波)
C本部町浜元のトゥーティンクー
D今帰仁村湧川の新里屋
E名護市(旧羽地村仲尾)
F名護市(旧羽地村古我知)

 
「北山の時代」を史料を通して見直し作業に没頭!なかなか、おもしろい。 


2004.3.6(土)

 午後から本部町健堅・崎本部・瀬底(瀬底・石嘉波)・浜元、今帰仁村湧川の新里家、旧羽地村仲尾と我部祖河をゆく。図像を中心に主な旧家跡を訪ねてみた。県立学芸大学の図像研究会のメンバーを中心に総勢10名でした。

@本部町健堅のタマウドゥン
 タマウドゥンはヌル殿内とも呼ばれている。関帝王図(二人図)、千手観音像、「御先福次 中北山之御次男 亀壽 ウトゥダル」「御先中世健堅比屋 父松 幼名次郎 次男亀壽 子之神 夫太郎 妻オミチル」、火神が祀られている。健堅の祭祀は本部(崎本部)ノロの管轄である。タマウドゥンをノロドゥンチと呼んでいるのは、本部ノロが居住していた時代があったのかもしれない。

 健堅には健堅大親のにまつわる以下のような話が『球陽』(察度王45年)にある。その話(以下は要約)に登場する健堅大親とタマウドゥンの健堅比屋を結びつけているのだろうか?(確認必要あり)

 
 
 久米島の堂の大親、中国人が久米島に漂着、船の修理は本部の健堅で、
   海中から出現する馬、その馬を中国皇帝に献上、健堅大親は褒美として幣
   錦と石碑を賜る。さらに健堅の浜に碑を建立。すると海水が湧き起こり村々
   は氾濫。石碑は海に没してしまう。そこを健堅港あるいは唐港という。

  

   ▲本部町健堅のタマウドゥン         ▲タマウドゥンの内部

 タマウドゥンに祀られている二つの位牌(ではない)は、「健堅之大親の墓」に建立された石碑(明治36年建立)によるものである。大親はヒヤーと発音され比屋の字が充てられているようだ。石碑に「鳳姓元祖健堅比屋御墓所、幼名次郎二男亀壽父松、壽五十三歳 明治36年吉日 同年迄362ママ年」とある。墓に今でも、石碑があったような記憶。壊れているので新しい石碑が建立せれている(確認のこと)。

2004.3.5(金)

 
『子孫
伝書』(同治11:1878年、旧羽地間切仲尾次村)(『羽地落穂集』所収 小川徹 法政大学沖縄文化研究所)に「のろ墓之図」がある(下の図)。それに「板形ノ門」「今焼」「合葬」「白木箱之板作」「朱塗棚入箱」「大和かめ」「真塗箱」「赤焼絵」など興味深いことが記録されている。この墓の記録に関心があるのは、百按司墓の木棺の件があるからである。「銘書無之候」とあり、銘書がないのが残念である。

 墓全体の構造について「のろ墓相開候處、左図之通、墓内ニ別段木板之御殿を構ひ、其内朱塗真塗箱其外美厨子数々有之候得共、銘書無之候」と記録してある。どうも今帰仁村運天の崖の中腹にある木製の家型の墓の外観に似ている(正確な図面をおこしてみる必要あり)。

  ・墓門の高さ 四尺程(約120cm)
  ・横 一間九尺(約4m50cm)
  ・板 二寸(屋根の板幅か?約6cm)
  ・? 一尺二寸程にて四方次立て(約36cm)
  ・上は鳥の羽合 前四枚 後は三枚にて葺く
  ・いりきや(屋根・棟木?) 四寸角の木(約12cmの角材)

 のろ墓に安置されている白木箱と朱塗箱が、百按司墓の木棺に類するものなのかどうかということ。朱塗箱が、それまた朱色の漆塗りの木棺のことだろうか。それと真塗箱はなんだろうか?

 「のろ墓修甫料取立帳」の原本は乾隆48年(1783)なので、その年代に修理したということなので、もっと古くまで遡ることができそう。

 小川先生は「解題」で、以下のように記してある。

   
この墓の所在はいまでは分明しない。諸説のうち一つによると、真喜屋との
   対岸に当る奥武島の崖葬墓のうちにある。海崖を堀込み、前面を板門(イタシ
   ョウ)とした古墓の一つがそれであるという。海岸から階段を上ると狭い墓庭が
   あって、板門の内側には巨大な木郭を納めていた。見取り図ともよく符号す
   る。残念ながら近年の暴風で全壊してしまった。

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       ▲真喜屋ノロ墓の見取り図(同図の朱塗箱に色をつけてみた)


2004.3.4(木)

 
和泊(沖永良部)から先田先生はじめ文化財に関わる方々が来館。そして兼次小3生の皆さんに道具の話(うし丸さんも)。さらにタクシー協会の皆さんの研修。どこかの学生達も合流する。多岐に渡って解説したので、書くものがありません。

 昨日のHPをご覧になった岩井氏から、早速辛いものの差し入れがあり、甘・辛といっぱい食べてバランスを取っています。和泊のみなさんからから黒糖焼酎、皆吉さんからフリージア。なにかお土産を要求しているようで。すみません。お心遣いありがとうございます。

  (工事中)


2004.3.3(水)

 
最近お礼のお菓子類があれこれ。大阪、京都を旅したこずのお土産は、八つ橋と粟(岩?)おこし。お茶の時間にポリポリ食べています。また、先日やってきた広島の学生から「川通り餅」、今日は兼次小4年生クラスからお礼の手紙と某ジミーのお菓子。歴文は甘い甘い日々が続きそう。明日は、沖永良部島(和泊)からの来客があります。沖永良部にも甘いお菓子があったかな?!バランスよく辛いのが欲しいですね。ありがとうございます。ハハハ

..

 さて、午前中「田園空間博物館整備基本計画」書の語句解説の件で担当者が来館。50項目のうち10項目は今朝急ぎで。現場に即した説明になるのでなかなか面白い。急ぎでのモデル原稿なり。

・湧 泉(カー・ハー)
 水が涌き出るところ。水の湧き出るカーの近くに集落が形成される。
カーの水を利用して生活してきたこともあって、正月の若水や子どもが
産まれると産水を汲んで浴びせる。掘り込みの井戸はチンジャと呼ぶが、
カーと呼ぶ地域もある。

・アサギ(ハサーギ)
 山原の古い集落にあり祭祀と関わる建物である。かつては茅葺き屋根
で軒が低く柱だけの建物であった。アサギは地域によってハサギやハサ
ーギなどとも呼ぶ。アサギの側にアサギナー(アサギの庭)があり、豊
年祭などが行われる。

・大北墓(ウーニシバカ)
 今帰仁村運天にある墓のこと。大北墓は別名按司墓とも呼ばれ今帰仁
グスクで監守を勤めた按司(監守)とその一族が葬られている。葬られ
ているのは二世・四世・五世・六世・七世、そしてアオリヤエなどであ
る。

・アマジャフバル(雨底原)
 
古宇利島の中央部にある小字のこと。島の中央部は窪地になっている。
雨がつづくと凹地に雨水がたまる。アマは雨のこと。ジャフは迫や窪地のこ
と。雨が降ると雨水が溜まる窪地に由来する地名。

・赤 墓(アカバカ)
 今帰仁村諸志の海岸にある墓のこと。赤墓と呼ばれ、墓室にある逗
子甕が赤いとか、墓の壁が赤い漆喰で塗られていたからと言われてい
る。葬られているのは上間大親(ウエマウフヤー)で本部町具志堅の
上間家(ウイマヤー)の祖先が葬られている。上間大親の出身地であ
る伊平屋(伊是名)島が正面に見える場所に墓を造って欲しいとのこ
とで具志堅を離れた諸志の海岸に造ったという。


・海神祭(ウンジャミ)
 沖縄本島の北部で見られる祭祀の一つ。旧暦の7月の亥の日に行わ
れる。場所によっては大折目(ウプユミ)や折目(ウイミ)などと呼
ばれる。海神祭祈りは海の神だけでなく、山の神、そして作物に関わ
る神の祈りも含まれている。海と関わりの強い地域ではウンジャミ、
農耕と関わる地域ではウプユミやウイミと呼ばれている。

・嶽御願(タキヌウガン)
 旧暦の4月と9月の二回行われる祭祀。神人達が御嶽に行き祈り
をする。かつては神人が村人を引き連れて御嶽に行ったり、回ったり
していたが、今では神人と僅かな人で行っている。すでにこの祭祀が
失われたムラ(現在の字)もある。古宇利島では七森七嶽を回ってい
る。

・親 川(エーガー)
 今帰仁村今泊の湧泉(カー)のこと。今帰仁グスクへ登るハンタ道
の上り口にある。志慶真川は今帰仁グスクの崖下を流れるが大隈(ウ
ーシミ)あたりで伏流し、親川で湧き出てくる。今泊(今帰仁・親泊)
の人たちが正月の若水や産水を汲み、ハーウガミのときに一門揃って
拝みに行くカーである。また、ムラの人たちの水汲み場や洗濯場であ
った。親川の水を利用した水田が広がっていた時代もある。

・神 道(カミミチ)
 神道はカミミチやハミミチと呼ぶ。祭祀のとき、いくつもの拝所を
順序よく拝んでいくが、その道筋はきまっていて、それを神通という。
時代が変り、新しく車の通る道をつくるが、祭祀のとき新しい道を使
わず、長い間使ってきた道筋(神道)を通り祭祀を行っている。古宇利
島のウンジャミの時に使われる神道はよく残している。

・グスク時代
 沖縄の時代区分を示す用語である。12世紀頃から各地の高い所に石垣
を積み、防御的な施設として築いたグスクが発達した時代のこと。グス
ク時代の終末期は定まっていないが、各地のグスクの按司達を首里に集
居させた16世紀初頭とみてよさそうである。各地のグスクからはグスク
系土器や須恵器、そして中国製の陶磁器などが多く出土する。また大和
から移入したと見られる鉄製品や武具などが出土する。また、グスクの
内部には祭祀を行う御嶽などの拝所もある。


・コバテイシ(モモタマナ)
 クヮーディーサーとも呼ばれる高木。直径1m以上、高さ25m以上に
もなる。大木になるのでかつての馬場や番所跡など残っている。例えば
運天番所跡付近、今泊の馬場跡、備瀬の馬場跡などに大木をみることが
できる。



2004.3.2(火)
  
 ちょっと、時間をみて羽地地域(後の羽地間切:現在名護市)を統括したと見られる羽地(親川)グスクまでいく。親川グスクとも呼ばれるが、このグスクのある地域は、かつての親川村である。ただし、親川村の創設は近世中頃以降のこと。田井等村から分割した村である。

 親川グスクの名称は、親川村にあることに由来するのか。そうであれば近世中頃からの呼び方になる。もともと一帯が親川と呼ばれていて、それに因んで親川村や親川グスクと名づけられたのかもしれない。『琉球国由来記』(1713年)をみると、「池城里主所(火)神」や「池城神アシアゲ」とあるので、親川グスクの名称は、親川村が創設された後に名づけられた可能性が強い。羽地地域(後に羽地間切)全体を統括したグスクとみるならば羽地グスクの呼び方がいいかもしれない。

 「山原のグスク」(仮称)で「グスクと御嶽と神アサギ」のテーマでまとめるので、ここでは省略する。

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   ▲羽地(親川)グスクの遠景         ▲グスクの側にある神アサギ