恩納村の神アサギ

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 恩納村は1673年に金武間切と読谷山間切の一部を分割して創設された間切である。恩納間切創設について『球陽』に、以下のように記してある。

  「本国の郡邑、田地甚だ広く、人民亦多き者は、分けて二郡となす。その金武郡内の四邑、
   また読谷山八邑を将つて、合して恩納郡となし、始めて向弘毅(大里王子朝亮、毛国瑞(佐
   渡山安治)に賜ふ。後また一邑を新設す。共に計れば十二邑。二邑合して一邑となす是の
   故に州の如し。

 金武(北山)・読谷山(中山)の両間切から分割してできた恩納間切は、北山・中山の異なる領域が統合された間切ということになる。それが『琉球国由来記』(1713年)の神アシヤゲ(アサギ)、さらに現在にどう継承されているのか。それを確認する作業でもある。


@恩納村名嘉真
 名嘉真は金武間切から分割された村の一つである。『琉球国由来記』(1713年)に「神アシアゲ」とあり、そこでの祭祀に稲穂祭・稲穂大祭・柴指・野原祭があり、名嘉真ノロの管轄である。名嘉真にはマナツジ嶽があり、神名はマカサノイベヅカサである。名嘉真巫火神も祭祀場となっている。『琉球国旧記』(1731年)には、マナツジ嶽のほかに、泊頭嶽(神名:青筋司)と江伊普嶽(神名:青手司)がある。二つの御嶽は『琉球国由来記』では村名が記されていないため安富祖村域の御嶽のだと誤解を招く。名嘉真村には三つの御嶽があったが、明治38年頃三つの御嶽は合祀されたようである。

 名嘉真は大島、新島、浜の三つに区分され、大島に神アサギをはじめ地頭火神の祠や名嘉真ノロドゥンチなどがあり、名嘉真村の中心部であったことがしれる。脇地頭の屋敷はノロドゥンチの隣にあり、地頭地の田は伊武部にあったという(『恩納村誌』)。


     ▲名嘉真の神アサギ               ▲脇地頭火神の祠


  ▲川沿いにあるマナツヅ嶽に合祀         ▲マナツヂ御嶽の遠景


A恩納村安富祖の神アサギ

 安富祖も金武間切から分割した村(ムラ)の一つである。神アサギは何度が付近を移動しているようだ。神アサギの後方の森が森城嶽(神名:根立森イベヅカサ)である。アッタ(熱田、神名:コバウモリイベナヌシ)嶽もあり、本集落から離れた熱田(アッタ)にも集落が形成されていたようだ。安富祖ノロの祭祀である。安富祖の集落は低地に発達している。

 安富祖には安富祖巫火神と根神火神と神アシアゲがあり、神アシアゲでは稲穂祭、稲穂大祭、柴指、ミヤ種子の祭祀がある。神アサギでの祭祀に地頭(脇)が供え物をだす。神アサギ内には御嶽に向って線香をたてる石がいつも置かれている。神アサギ周辺にノロドンチ、村屋、アサギヌヤー、恩納小学校跡(明治26年に熱田に移転)などがあり、周辺がムラの中心地であった。

   (安富祖から名嘉真にかけて白陶土があり、山原船で壺屋にだしていた)


      ▲安富祖の神アサギ                ▲後方の森が森城嶽(ウタキ)


B恩納村瀬良垣


               ▲瀬良垣の神アサギの葺き替え(工事中) 


▲葺き替え後の瀬良垣の神アサギ

C恩納村恩納

 古島付近にウガミという拝所があるが、ヤウの御嶽への遥拝所だという。恩納ムラは御嶽(グスク)あたりに集落がおこり、古島(フルジマ)に移り、さらに現在地へ移動していったことが伺える。金武間切から恩納間切が分割した頃には、集落は古島から現在地に移動していたと見られる。恩納間切が創設されたとき、番所は恩納村に置かれた。恩納間切番所は恩納松下の碑のある場所なので現在の集落の近くである。すでに集落は現在地に移動していたことがわかる。

 恩納は恩納村のほぼ中央部に位置するムラである。1673年に金武間切の村の一つであった。金武間切から4村、読谷山間切から8村を分割し、恩納間切を創設した。その時、恩納村に恩納間切番所を設置した。『琉球国由来記』(1713年)に記された恩納村の御嶽は二つである。

  ・ヤウノ嶽(神名:ツミタテノイベナヌシ・オロシワノイベナヌシ・アフヒギノイベナヌシ)
  ・濱崎嶽(神名:ヨリアゲノイベナヌシ)

 「年中祭祀」には、四ヶ所の拝所があり恩納巫(ノロ)の管轄である。
   ・恩納巫火神(百姓・恩納巫)
   ・城内之殿(百姓・両惣地頭・恩納巫)
   ・カネクノ殿(両惣地頭・百姓・恩納巫)
   ・神アシアゲ(百姓・両惣地頭・恩納巫)

 仲松先生は崎濱御嶽を恩納グスクと想定され、その中にあるのが「城内之殿」であるとされる(『恩納村誌』仲松)。また、ヤウの御嶽は屋嘉田原の小島だとされる。崎濱御嶽が恩納グスクであるとすることはその通りだと考えている。ならば、人が住み集落を形成すると、信仰の対称とする御嶽を設ける。御嶽が先行し、後に御嶽を囲むようにグスクが形成されたものと考えている。そのグスク内に住居を構え、それが殿(トゥン)として拝所となっていったのではないか。


    ▲茅葺屋根の恩納の神アサギ       ▲神アサギの屋根裏の様子

D恩納村谷茶
   
(神アサギナシ)

 『琉球国由来記』(1713年)に村としてない谷茶村が「たんちや村」として登場してくる。17世紀中頃にあった「たにちや村」が衰退、あるいは人口が減少し行政村として存在し得なかったのか。そのために地頭代名は谷茶大屋子としたのか。

 谷茶は『琉球国由来記』(1713年)に村名としては出てこないが、恩納間切の地頭代は谷茶大屋子と呼ばれていたが、前兼久村が地頭代のあつかい村になった頃谷茶村が創設されたと見たほうがよさそうである。

   (今帰仁間切の場合でもそうであるが、1713年頃は今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子
   である。湧川村はまだ存在しない。1738年に湧川村が創設されると、地頭代は古宇利親
   雲上を名乗ることになる。谷茶村の創設は湧川村の創設と同様な例か)

 谷茶から以南が読谷山間切からの恩納間切に組み込まれた。北山圏ではないので神アサギは持たなくていいことになるが・・・。神アサギの創設はないが、御嶽と祭祀は他の村同様行なっている。

 
      ▲谷茶のウタキ                    ▲谷茶のウタキの祠(イベか)

E恩納村冨着(読谷山間切から)
 『琉球国高究帳』(17世紀中頃)に上フヅキ村、下ふづき村とあり冨着村のこと。当時すでに上・下と村が二つに分かれている。戦前まで故地に20軒、現在地に25軒。ウタキの周辺には、福木の屋敷林があり御嶽や神アサギなどが今でもある。神アサギを持っているのは山原的な村か。
 
 17世紀中頃には上冨着村から一部下冨着村へ移動している。下冨着村は海岸沿いに移動していた。下冨着村は前兼久村になったとみられる。そして山手にあった旧冨着は昭和の初期から現在地の冨着に移動している。故地に神アサギは地頭火神や旧家やなどの屋敷跡が今でも確認できる。但し、冨着村の故地がグスク時代まで遡れるかは不明だが、少なくとも17世紀まではいけそうだ。
  @名嘉真が12日にウシデークあり。
  A安富祖は今年ナシ。
  B瀬良垣が17日か18日に豊年祭開催。夕方、組踊りの練習をしていた。
     神アサギが新築されている。
  C恩納は体育館でパーランクーを打ち鳴らし練習。


      ▲冨着の神アサギ            ▲前兼久村の神アサギ跡?


   ▲冨着の故地にあるウタキ           ▲ウタキの回りに左縄が・・・


F恩納村前兼久(読谷山間切から)
 

―冨着から移動・分離した集落―
 下ふづき村は海岸沿いの前兼久原に移動し『琉球国由来記』(1713年)には前兼久村となる。ただ、冨着村は前兼久村を飛び越えて山田ノロの管轄である。前兼久村が冨着村から独立したとき、山田ノロの管轄に入ることはせず、前兼久根神が祭祀を取り行なっている。17世紀に分離した村が神アサギを創設しなかったのは?!

 
      ▲前兼久の現在の集落            ▲前兼久のウタキの祠


G恩納村仲泊(読谷山間切から)
     
(神アサギなし)


H恩納村山田(読谷山間切から)

 恩納村山田は1673年以前まで読谷山間切の村の一つであった。1673年以後恩納間切の村である。『琉球国由来記』(1713年)には、まだ読谷山村とある。由来記の「山田グスク(読谷山グスク)」と登場してこないのは何故だろうか。読谷山村に「オシアゲ森」と出てくるが、グスク内の御嶽だろうか。祭祀は山田巫(ノロ)の管轄である。

 山田の集落は山田グスクの麓から現在地に移動している。麓には今でも旧集落跡が確認できる。そこから現在地への移動は、明治末頃に道路が開通したことによるようだ。戦前には、まだ30戸余が残っていたという。旧集落のはずれにメーガーがあるが、そこは集落の人たちが水を汲んだカーである。別名ウブガー(産井)とも呼んでいる。

 山田の明治34年頃の図面に旧集落がいくらか復元できる。旧集落に神アサギ、あるいはノロ殿内、金細工、掟ヤー、トンチングヮー、中ノトンチ跡、ジョウグチなどの屋号が知れる。また、クシヌカー、下ノカーやアガリノカーなども記されている。神アサギのあった場所にコンクリートの祠が置かれている。そこに4本の神アサギに使われた石柱が4本ある。3本は立っているが、1本は横になっている。

 山田(かつての読谷山村)は山田グスク内、あるいは麓に集落(本部落ともいう)が発達し、さらに明治後半頃に現在地へ移動した移動集落である。

 
 
   ▲山田の神アサギ跡地                    ▲神アサギの石柱か


I恩納村真栄田(読谷山間切から)

 真栄田村は『琉球国高究帳』(17世紀中頃)に「前田村」として出てくる。『琉球国由来記』(1713年)には真栄田村と標記がかわる。その真栄田村に真栄田ノロ火神と神アシアゲがある。神アシアゲでの祭祀に百姓、(脇)地頭、真栄田ノロが携わる。真栄田村は隣接する塩屋を行政村に含むことがある。

  神アサギのある一帯の丘は、もとは御嶽の森であったとみられる。ウタキの杜に集落が展開している。神アサギは神アサギらしくない建物になっている。神アサギといくつかの拝所と統合したようである。神アサギの後方の香炉や石はウタキのイビを認識して造ってあるのかもしれない。真栄田ノロが真栄田村と塩屋村を管轄していたと見ていい。ノロ家が真栄田、あるいは塩屋にあってもいい。継承者いなければ、管轄内の他の村にノロが移っている事例は何例もある。そのような事例は明治になってトラブルが起きている。


   ▲真栄田のかつての御嶽?          ▲御嶽内に祭祀場を合祀


J恩納村塩屋(読谷山間切から)

 塩屋村は『琉球国高究帳』に登場するが、『琉球国由来記』(1713年)には出てこない。『御当国御高並諸上納里積記』(1750年頃か)には真栄田村と並列に垣(ママ)屋村として登場。その後の資料でも登場してこない場合がある。そのため、現在の塩屋との連続性がはっきりしないが、時期によっては真栄田村に行政村として吸収されたりしている。 島守の嶽はシマムイヌタキと呼ばれ、戦前までウガンと呼ばれる(『国頭の村落』)。現在の塩屋は昭和24年に真栄田からビルと一緒に分離独立したという。塩屋に神アサギがあるが、明治34年頃の地図に神アサギが記されているので、それ以前からあったのであろう。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の真栄田村に、以下のようにある真栄田と塩屋が一つの行政村として扱われている。そこには神アサギが弐ヶ所にある。村が合併したり、分離したりしているが祭祀に関わる神アサギや御嶽の統合されることはなかったとみることができる。行政村の動きと祭祀に関わる神アサギや御嶽などの動きは別であることがわかる。
    神アサギ弐ヶ所
    前ノ御嶽
     ノロ殿内火ノ神所一ヶ所
    塩屋ノ御嶽


       ▲塩屋の神アサギ           ▲ノロドゥンチ跡からみた神アサギ