ドイツ・オーストリアをゆく  
 
       (2005年8月4日〜13日)  【トップへ】


2005.08.14(

 昨日(13日)にドイツ・オーストリアの旅から帰ってきました。まだ、時差ボケ状態。ボケ状態だが、記憶のある間に旅でのノート(メモ書き)の整理をして置かないと・・・。すでに混乱状態である。

 ドイツの中・南部のいくつかの街とオーストリアの三つの街を訪ねてみた(2005年8月4日〜13日)。ドイツとオーストリアは全く初めて訪ねた国である。それと予備知識なしなので、現地に立っての一日一日の報告をすることに(まずは訪ねた順に整理から)。


【旅への前日】
 
出発前日(8月3日)になって4日からの旅のドイツとオーストリアの地図を開いてみた。オーストリアも行くのかと気づいたのであるが調べる時間がない。とり急ぎドイツでの行き先を確認することにするが、適当な地図を探すことができず。ドイツの周辺にフランス・オランダ・ルクセンブルク・ベルギー・スイス・オーストリア・チェコ・ポーランド、そして北側にデンマークがあることを頭に入れる。

 ドイツのマップに以下の七つの街道筋を見つけ、その一部を訪ねるのだと気づき、照れ臭さもあるがのることにした(今更じたばたしても)。さらにドイツからオーストリアへのコースである。オーストリアのインスブルック・ザルツブルク・ウィーンの三つの街は何故か興味がある。しかし、まだ気が乗らない状態での出発である。

  @エリカ街道
  Aゲーテ街道
  B古城街道
  Cロマンティク街道
  Dファンタスティック街道
  Eアルペン街道
  Fメルヘン街道


【旅へ出発の日】
 8月4日(木)出発の日、台風9号が沖縄本島と台湾との間を北上中である。那覇空港から飛行が飛び立つことができるだろうか。また台湾(タイペイ)への着陸、そして離陸ができるのかヤキモキしながらの旅たちである。自宅から空港まで2時間はみないといけない。家を出る直前に「現在のところ、予定通り出発します」との連絡あり。車中のラヂオを聞いていると沖縄本島から宮古や八重山などへの航路は前便欠航を告げている。台風が進路は沖縄側も台北(タイペイ)側も気をもむ。素人の旅人が気をもんでいるいるにすぎない程度の強風なのかもしれないと思いながら。飛行機はチャイナエアライン航空。

 晩の19時55分那覇空港を出発し、台北20時20分着。台北23時10分発の便でフランクフルト(ドイツ)へ。到着は翌日(5日)の午前6時50分着の工程である。タイペイから北上し日本海上空を通過し、ロシアの上空を通過する北回りのコースである。バルト海から上空からドイツ入りの7時間余のフライトであった。

            2005年【8月5日】(ドイツ1日目) 
 @フランクフルト
 Aハーナウ
 Bシュタイナウ
 Cザバブルク
 Dヴィルヘルムスヘーエ公園(カッセル)


 空港からバスの乗ったのであるが、ドイツで何をどう見ようか。まだ視点がボケたまま。機内での宿泊だったので、旅のスタートを切った気分でもない。運転席の後ろに座り、しばらく道路事情を見ることに。


A【ハーナウ】
 ハーナウに着く間、マチと次のマチとの間にはっきりした区切がある。「ドイツのマチの成り立ち」が見えるのではないか。次第に「山原のムラ・シマを歩く」視点でドイツのマチが見えるのではないか。車中、次第にそんな思いが強くなってきた。

 ハーナウのマチに行くと、まずはグリム兄弟の像(兄ヤーコブは1785.1.4生、弟のヴィルヘルムは1786.2.24生).のある広場(マルクト)へ。フランクフルトから約20kmの地にある。グルム兄弟の生まれ故郷であるが、マチがどう展開してきたのかに関心がある。10万人足らずのマチのようだ。14世紀初頭神聖ローマ帝国の皇帝アルブレヒト一世が、一帯を統治していたハーナウ伯ウーリッヒ一世に都市権を与えたのち、ウーリッヒ一世の定住地となり都市として発展してきたという。

 後で気づくのであるが、マチの中央部に広場(マルクト)を設け放射状に道がつくられている。山原の集落も中央部にアサギミャー(アサギの庭)があり、このムラ(集落)の拠点になっている点、何か共通したものがあるのかもしれない(スケールは異なるが・・・)。


  ▲フランクフルト空港駐車場         ▲高速道路にHanauやKasselの掲示が


▲マチの中心部に教会や庁舎などがある。広場の中央部にグリム兄弟の像がある。


B【シュタイナウのマチ】
 
シュタイナウのマチはグリム兄弟が幼年の頃過ごしたマチである。交易の要所として発展したマチ。フランクフルトとライプチヒを結ぶ街道沿いのマチ。グリム兄弟の父が裁判官であったため、そこに引っ越してきたという。家は博物館になっているが、午前中だったので閉館中。家に向って左側には荷馬車やハシゴが置かれていた。

 シュタイナウにある城の名称を聞いてみたら、同じくシュタイナウ城と呼んでいるという? 1290年にハプスブルク家のルドルフ王から都市権を得て、ハーナウ候が第二の居城として築いたという。ルネッサンス様式の城塞。

 城や教会の前の広場は、多くのマチに見られる公共広場のようだ。車を降りて教会の広場の手前で道路の工事をしていた。石畳道の補修工事である。石畳道は歩くのに気持ちいいものであると、同時にマチの風情を落ち着いた歴史的なマチにしている。石畳道に使われている子供の頭程の石はキンダーコップと言うようだ。場所によってはレンガである。どこにでも転がっている石と思っていたら、人工的に裁断をしてはめ込んでいるのには驚いた。今では裁断機を使っているが、かつてはどうして切っていたのだろうか。あれだけの数。


▲教会前の広場。付近の家や店前に切られた枝が置かれていた。祭りに使う木だという。


 ▲シュタイナウ城?への石橋とアーチ門    ▲工事で掘り起こされたキンダーコップ

 
 ▲グリム兄弟の家の軒下にある荷車   ▲グリム兄弟の家(博物館になっている)


C【ザバブルク】
 シュタナウからさらにザバブルクへと向う。自然公園となっているラインハイツの中にある。グリム童話のイバラ姫(眠れる森の美女)の舞台となった城のようだ。ザバブルクの周辺は自然公園となっていて鹿注意の看板がみられる。城の創設は1331年頃に遡るようだ。気温9度なり。

 お城が巡礼者の祈りや狩猟などに使われたり、その機能をがしれる。現在は一部ホテルの宿泊に使われているが、中庭?(台所だという)場所まで案内してもらう。城の造り(石積みや構造など)や内部での生活の様子が伺え、琉球のグスクと比較しながら眺めている。

 
    ▲サバブルクの外からの様子             ▲イバラ姫の一場面


      ▲上から中庭(台所跡)をみる          ▲井戸の跡がある

D【ヴェルヘルムスヘーエ】(カッセル)
 バスでカッセルのマチへ。ヴェルヘルムスヘーエ公園内に美術館があるが夕刻7時半であるのですでに閉館なり。夕刻8時過ぎまで明るい。気温が10度前後なので肌寒さあり。

 公園からレーヴェンブルガ城が遠くに見える。残念ながら全景は見えず。ヴェルヘルムスヘーエ城は美術館と博物館になっているようだ。内部が見れず残念。
         

           ▲ヴィルヘルムスヘーエ城(今は美術館と博物館?)

   ▲カッセルの街が見える             ▲こちらは博物館なり


 ▲遠くに見えるのがレーヴェンブルク城

2005.08.16(火)

 一晩寝たせいかドイツの空気を膚で感じ取ることができる。歴史や文化の交流が希薄であっても、人間が生活していく中で内側に持っている普遍性みたいなものを感じとれたときの面白さ。少ない情報で組み立てた仮説が、現場に立ったとき、あるいは多くの情報を読み取っていく過程で、もろとも崩れ落ちるヨーロッパの城・・・。

   (ドイツの食べ物やビールやメルヘンの世界もあるが、その感性がないので略なり)


            2005年【8月6日】(ドイツ2日目)

@【シュヴァルム地方】(Schwalmstadt)
A【アスフェルトの街】
B【リューデスハイム】
C【ニーダーヴェルトの丘】
D【ライン川沿いの古城】
E【ローレライの岩】
F【ハイデルベルグ】
G【ネッカー河沿いの古城】
H【カールテオドール橋】


@【シュヴァルム地方】(Schwalmstadt)
 ホテルから目的地のアスフェルトまで、車窓から街が点在してあるのがわかる。車窓から眺める街の風景もいいが、やはりそこで生活の様子に接したい気持ちがある。いつも沖縄のムラやシマを車を降りて御嶽やカーなど、人々の生活の様子や声を聞く旅をしてきた。そのこともあり、ドイツの旅もそれができればと内々考えている。

 その街に足をつけマルクト(広場)を見つけ、広場を囲むかのように教会や庁舎、あるいは今でも使われている城があり、さらに街の歴史を辿る作業を進めていく。そこから人々の考えや習慣を知ってゆく、そんな旅のスタートしたいものだと・・・。

 カッセルの街からシュヴァルム地方までバスでゆく。ここにはケプフェレ(鶏冠?)という伝承衣装があり「赤ずきん」とその衣装が結びついたという。いくつかの童話は、この地方に由来しているとの説明。なるほど。

A【アスフェルト】
 アスフェルトの街にもやはり広場があり、キンダーコップが敷きつめてある。木組みの建物が目に付く。午前10時前から広場(マルクト)は会場づくりがボツボツ始まっている。何か催し物があるとのこと。マルクトの回りに教会や庁舎がある。キンダーコップの敷石は街の落ち着いた街の風情だけでなく、作品の一つであるとの印象。建物の屋根の勾配が急傾斜である。雪の多い地域なのかもしれない。

 この街は刺繍で知られた街のようだ。木組みに囲まれた石畳の広場は中世の面影を演出しているという。骨格部分は木材(主に樫)で、間を粘土やレンガなどで埋めてある。ある距離を置くとバランスよく見える。よくよく見るとズレや出っ張りなどがあり、それも計算の内なのだろうか。場所によっては広場だけでなく通りなどから見える窓には花がいっぱい。


▲朝の広場の様子。パン屋はすでにオープン      ▲広場に敷きつめられた石


▲今日は催し物があり、会場の準備がなされていた。 ▲シックな感じの木組みの建物


B【ニーダーヴェルトの丘】
 リューデスハイムの街に入る前にニーダーヴェルトの丘へゆく。そこにドイツ統一記念碑がある。記念碑は皇帝ヴェルヘルム一世によるドイツ帝国成立(1871年)を記念したもののようだ。碑の建立は1883年で、最高部の像は女神ゲルマニアである。そこからリューデスハイの街やライン河、そして対岸の街が眺望できる。麓の斜面にはブドウ畑が、まだあおい実をつけている時期。


       ▲ドイツ統一記念碑              ▲ニーダーヴェルトの丘

C【リューデスハイム】
 
ニーダーヴェルトの丘からバスで下る。ドロッセルガッセ(つぐみ横丁)でよく知られて通りで昼食。通りではそう人影は多くないが、店に中は満杯状態である。白昼からワインである。


 ▲ニーダーヴェルトの丘からみた街          ▲リューデスハイムの街


D【ライン川沿いの古城】
 
ライン河下りの船上から眺める古城から、城の築城の目的や機能などライン河と深く関わっているのであろう。これら古城の一つ一つを理解する力量はないが、発刊されているガイドブックなどから、築城の目的や機能の一部を知ることができる。ライン河下りの間(リューデスハイム〜ゴア)(約35km)で20近くの古城があると見られる。ここでは画像に納めることができた古城を掲げてある。
 ドイツの古城は沖縄のグスクの展開と比較することは、ヨーロッパの築城の影響が少ない沖縄のグスクと比較することは、グスクも広がりと独自性がはっきり見えてくるのではないか。そんな思いを描きながらライン河沿いの古城を眺めていた。
                 参考文献:ライン河畔の城塞や居城(ガイドブック)
                             ラインの流れ(説明文)クラウス ラメール出版社

【左岸の城】
@ラインシュタイン城・・・税関(1825〜29年)に使っていたのを城にした。プロイセンの王子
                フリードリッヒ。
Aライヒェンシュタイン城・・・盗賊の根城として使われていたのをルドルフ・フォン・ハプス
                  ブルクによって、1282年に破壊される。現在博物館となっている。
Bゾーネック城・・・1010年に築城され13世紀になると盗賊騎士団の根城となる。
Cシェーンブルク城・・・街の城壁の一部
Dラインフェルス城・・・1245年に築城される。通行税をとるための城。1479年にヘッセン伯爵の
              所管となりヘッセル・カッセルのヴィルヘルム三世が1497年〜1527年に
              かけて増強する。


    @ラインシュタイン城                   Cシェーンブルク城


     Dラインフェルス城

【右岸の城】

@エーレンファルス城・・・13世紀初頭に建造された城。河税関所として建てられた。
                1689年に破壊され、廃墟となっている。
Aグーテンフェルツ城・・・カウブの街の山手にある城。1200年頃の築城でグーテンファルツ
                は堅固な岩。
Bカッツ(猫)城・・・1393年カッツェンエルンボーゲン伯爵によって築城される。フランス革命のとき
             破壊され、1898年に再建される。
Cマウス(鼠)城・・・別名トゥルンベルク城。ねこ城の城主が揶揄してよんだことに由来。

 
       @エーレンファルス城               Bカッツ(猫)城

【砂洲にある城】
@プファルツ城・・・中洲にある城、別名グーテンフェルツ城。1200年頃に築城。シュタウフェン
             期にはライン地域の防衛の城としてつかわれた。

 
  ▲中州に立プファルツ城(工事中)


E【ローレライ】
 ライン河の河幅が90mと狭まったところ。そこにそびえたつ132mの右岸の岩壁。急な流れと暗礁があり航行の難所となっている。水かさが減ると暗礁(七名の乙女)が姿を見せる。七名の乙女達は心が冷たく、そのために岩に姿が変えられたという。舟人を歌声で誘惑した妖女伝説やハイネの詩に曲がつけられ、日本で近藤朔風の「なじかは知らねど」の訳詩で歌われている。


   ▲切り立った右の岩壁(ローレライ)    ▲この船でライン河を下る(ゴアの街まで)

F【ハイデルベルグ】
 
ハイデルベルグの街は大学の学生の多い街ということもあろうが学問や伝統や歴史が滲み出ているのではないか。そんな思いにさせられる。ネッカー河に架かるカールテオドール橋の橋詰付近にある自転車が在学する学生と結びついたに違いない。


   ▲ハイデルベルグの街の広場        ▲後方に見えるのがハイデルベルグ城


        ▲ハイデルベルグの街とネッカー河(ハイデルベルグ城から)

G【ネッカー河】


    ▲ネッカー河の下流(左)と上流をみる(右)(カールデオドール橋から)

  
(工事中)


H【カールテオドール橋】




【ドイツ・オーストリアをゆく】

 
7日見る予定のカールテオドール橋(ハイデルベルグ)は前日の6日見ることになった。7日はツールドがあり道路事情がどうなるかわからないため。ハイデルベルグの街と城を後にするには後髪が引かれる思い。街と城との関わり、そしてネッカー河に架かるカールテオドール橋が果たした役割など、もう少し知りたいものだと。

               
2005年【8月7日】(ドイツ3日目)

@ハイデルブルグの街
 
ハイデルベルグの街のある一帯は紀元前から集落があった地域のようである。「ケルト人達は聖なる山ハイリンゲン・ベルク(対岸の山)の双頂に避難用の城塞を築き、それは8の字形の環状二重城塞で取り囲まれたもので、両端間距離は3q(外)と2km(内)と広大なものであった」(ハイデルブルグ)(冊子)という。また、ネッカー河に架かるカールテオドール橋は紀元後間もないころには造られているようだ。その後、橋は戦略的に重要なので門や塔が設置されたり、高台には要塞が築かれたという(同書)。この地はゲルマン人、ローマ人、フランク人などの入れ替わりがあったともいう。

 ハイデルブルク城で君臨した人物や城、そして街の歴史をたどる必要がありそうだ。ルプリヒト一世によって創設(1386年)され、19世紀初頭にカール・フロドリッヒによって再建されている。ハイデルブルク大学は地方の学生達の憧れのようである。現在でも、この街に学生が3万人(街の人口14万人余)はいるという。




Aハイデルブルグ城







Bローテンブルグ
 ハイデルブルクから途中までネッカー河沿いに遡りローテンブルクへ向う。人口1万7千人規模の街である。名の通りブルク(城塞)に囲まれた街である。街に入るには城門をくぐらなければならない。マルクト広場には市庁舎や聖ヤコブ教会や市参事宴会場などがある。市参事宴会場の建物の上部に仕掛け時計があり、時報とともに3.25リットルのワインを飲み干す場面がある。30年戦争のとき、当時の市長の「ワインの一気飲み」が街を救ったという。

 市庁舎にある鐘塔に登ってみた。市庁舎と鐘塔の建設は1250年から1400年の間だという。階段は木造である。途中から一人しか通れない細い階段となる。そこから見下ろした街並は見事である。

 ・1142年ホーエンシュタウフェ家の国王コンラート三世によって城塞が建設された。
 ・1274年に国王ルドルフ・フォン・ハスプルクによって帝国自由都市に指定される。
 ・1356年地震によって城塞など街が破壊される。
 ・1400年トップラー市長時代、街は最盛期を迎える。人口6000人を超し帝国最大規模の街となる。
 ・1618年プロテスタントの街なので30年戦争で何度も占領される。
 ・1802年500年続いた独立からバイエルン王国に編入される。
 ・1945年街は連合軍の爆撃にあう。旧市街地は破壊され、古い建築物の40%以上が炎上する。
   (世界からの支援援助で破壊された地区の再建復興がなされる)



              ▲市庁舎の鐘塔から街を眺望する


     ▲城塞で囲まれたローテンブルクの街     ▲マルクト広場の市参事宴会場




 
 
(ドイツ フッセン泊)

           2005年【8月8日】(ドイツ4日目・オーストリア1日目)

@ノイシュバンシュタイン城(ドイツ)
 ノイシュバンシュタイン城はロマンティック街道のクライマックスの場面を演出する城である。ホテルを早めに出て、城にゆく前に全景の見えるマリーエン橋までゆく。ノイシュバンシュタイン城と左手に見える街、そして右側の湖をバックにした風景は実にいい。途中まで30名乗りほどの電気バスでのぼる。十数人乗りの馬車もある。予約をしていないと二、三時間は待たされるという。

 マリーエン橋は19世紀半ばにホーエンシュヴァンガウの再建者であるマクシミリアンによって架けられたという。ペッラート峡谷に架けられた木の橋は、1866年には鉄製に架け替えられた。

 この城の美しさもあるが、私の関心は築城の様子を描いた何枚かの銅版画と築城に使われた資材である。「ホーエンシュヴァンガウの古い城の廃墟に新しく築城している」。銅版画にホーエンシュヴァンガウ城の1850年頃の廃墟の様子が描かれている。1869年9月5日の起工の絵もある。崖の上に築かれる様子は想像を絶するものがある。

 因みに1879年から80年にかけて使われた資材は、以下の通りである(『ノイシュヴァンシュタイン』(冊子)。

    ・大理石(ザルツブルク)・・・・・  465トン
    ・砂岩(ニュルティンゲン)・・・・・1,550トン
    ・れんが(帝国サイズ)・・・・・・・  40万枚
    ・砂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3,.600立米
    ・セメント・・・・・・・・・・・・・・・・・  600トン
    ・木炭 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   40トン
    ・足場用材木材・・・・・・・・・・ 2,050立米



▲マリーエン橋からみたノイシュバンシュタイン城   ▲城の方からみたマリーエン橋




        
【オーストリアの旅】

 
陸続きの旅であることと、ドイツからオーストリアへの国境越えはパスポートの提出は必要なかった。そのこともあって国境を越えた認識は全くなかった。どこで国境を越えたのだろうかと? 国境を越えて、向ったのはインスブルックの街である。オーストリアの西部から東部へ。
 
 インスブルックまでの道のりはアルップスの山並みを眺めながらの旅である。見上げる山々にはうっすらと雪化粧がかかっている。二、三日前に寒くなり初雪が降ったのだという。気温が10度前後であったが、風がないため気持ちよい冷たさである。

@インスブルック(オーストリア)

  (インスブルック泊)



    (工事中)