・期 間   平成18年10月2日〜平成19年3月末日
  ・会 場   沖縄県今帰仁村歴史文化センター(展示室:講堂)
  ・主 催   沖縄県今帰仁村教員会 今帰仁村歴史文化センター
  ・スタッフ  今帰仁村歴史文化センター(仲原 石野、中馬)
  ・協 力   学芸員実習生(沖縄国際大学:大城由郁、玉城かおり、嵩原
          康平、広島女学院大学:澤田三奈、白木友梨、吉岡春美)



【企画展の概要】

  各コーナの展示の様子     展示コーナーの説明

@導入部門


@導入部門


A貴重資料(展示ケース内)


B今帰仁村歴史文化センター


Cムラ・シマの人々


D戦後の建物と物


E今帰仁村役所


F戦後の生業と新聞スクラップ


G写真は歴史資料である


H戦後の文書資料


I写真資料にみる今帰仁の戦後


J稲作が行われていた風景


K公文書綴などの文書資料


L塩田・運搬・道路工事など


M戦後の字(アザ)の小字図


N行政文書類



O戦後の学校


P消え行く祭祀
@導入部門
 今帰仁の位置図
 村内19の字紹介(現在)
 昭和45年頃の各字(沖縄タイムス)
 
 今帰仁村の各字が戦後60年でどのように変わってきたのか。そのことを歴史文化センターが所蔵している戦後資料から見ていく。19の字があるが、それぞれ個性を持っている。それは何故なのか。字別の個性はどこから生まれてくるものなのか。
 戦後資料のそのほとんどを展示し、そこから各字の個性や独自性を見出していくことを目的とした。
 ここでは、19字の現在の様子、そして昭和45年の沖縄タイムスで紹介された「ふるさとの顔」(各字)から字の個性がよく見えてくる。


A貴重資料(展示ケース内)
 
戦後使われた村長、助役、収入役印をはじめ、様々な印。今帰仁グスクから「山北王之印」の出土してこないだろうかと期待するが、戦後の首長などの印は、100年200年経ったとき昭和、平成の首長などの印も山北王之印同様歴史的に重要な資料となるにちがいない。一筆限帳や名寄帳など。


B今帰仁村歴史文化センター
 歴史文化センターの準備室が発足したのは平成元年である。その後平成7年に歴史文化センターとして開館。その足跡を、ここで確認してみる。
 これまで発刊してきた「なきじん研究」、あるいは企画展や特別展などのチラシは冊子を通して、歴史文化センターが目指していく方向性をさぐる糧にする。


Cムラ・シマの人々
 昭和25年頃から同36年までの11年間に撮影されたスライドや写真から子供達や集会に集まった人々を写真パネルで紹介。5、6歳だった子供が、今では50歳を過ぎ60歳の年齢を重ねている。その方々がこの60年間歩んできた足跡を確認していく作業が、企画展の目的の一つでもある。
 今帰仁村出身の島袋源一郎や霜田正次、平良新助や仲宗根政善などの人物は出版物で登場させる。そして『縣史』(地方人事調査会)から200名近い方々を登場させることに。


D戦後の建物と物
 戦後数年頃の村内の民家がどういうものだったのか。茅葺屋根でニ棟の建物。そしてそこには数名の子供と両親、さらに祖父祖母が同居する時代があった。その時代に使われて道具類を展示。


E今帰仁村役所
 役所は戦後の復興の行政の要になった施設である。戦後いち早く村長を決め、学校の創設や配給物資、土地測量や戸籍簿などの編成。議会も開催され、残された戦後資料から役所が様々な問題解決にあたっている様子が伺える。


F戦後の生業と新聞スクラップ
 戦後間もない頃、まだ電気やガスのない時代である。この頃の生業の中心は村内では農業である。戦後5代目の故松田村長が膨大な資料を残してくれた。この新聞スクラップもそうである。4期村長を務めた方である。戦後の今帰仁村を引っ張ってきた人物の一人である。


G写真資料
 今回展示してある写真資料はメルビン・ハッキンス氏とクロイド氏、そして村出身の新城徳祐氏から寄贈いただいた資料である。そこから写真が生きた歴史資料であることに気づくはずである。ここでは、見る側が読み込みできる写真が資料としての価値があることを見出すことができるであろう。


H戦後の文書資料(約5000点)
 ・呉我山の開墾予定地の件
 ・島内生産物の緊急集荷配給の件
 ・役場の資材拠出の件
 ・軍政府の配給の見通しや集荷配給の方法
 ・生産予想の調査
 ・戦後の村長、村議員選挙の件
 ・田井等高等学校の修築に関する件
 ・実業高等学校の敷地及び校舎に関する件
 ・役場落成に関する件
 ・電話架設に関する件
 ・慰安演劇に関する件
 ・役場落成式に関する件
 ・その他



I写真資料にみる今帰仁の戦後
 12年間に写真を手掛かりに今帰仁を紹介してきた。ここでは戦後の写真を介してまとめ、文章を含めて展示してある。このシリーズは「広報なきじん」で紹介し、『なきじん研究―写真に見る今帰仁―』(第11号)に収録してある。


J稲作が行われていた風景
 今帰仁村で稲作が姿を消したのは昭和40年代である。稲作が消えた理由は、まず昭和36年頃大型の精糖工場が操業したこと。それと昭和38年に大旱魃があり水田は畑にした。砂糖キビの値段がつき、本土では減反にはいったこともあり、砂糖キビから稲作に戻ることなく現在に至っている。
 稲作が消えたことで、旧暦で行われる祭祀と稲作の収穫までの流れが密接に関わっていた姿が見えなくなり、祭祀の衰退へとつながっている。


K公文書綴などの文書資料

 公文書は年度毎に綴られている。味気ない公文書と見ていたが、それが歴史を描く史料になることを実感。100年200年先への贈り物にしたいと考えている(目録作成中)。




L塩田・運搬・道路工事など
 塩田づくりは今帰仁村では昭和36年に姿を消す。塩づくりに使われた塩田跡が湧川の海岸に残っている。まだガスや電気が引かれていない時代は、炊きつけは薪である。山から薪をとり頭上に乗せて運んでいた時代があった。



M戦後の字(アザ)の小字図
 各字は更に小字があり、小字は「・・・原」と記されことからハルナーと呼ばれたりする。戦争で戦前の土地台帳や名寄帳、それと図面を戦争で失ってしまった。昭和22年に図面を作成される。展示してあるのは、そのときの図面である。200枚余ある。


N行政文書類
 行政文書綴りは故松田幸福村長時代に収集整理した資料である。分類整理された資料である。資料の整理・分類の重要さに気づかされる。資料目録作成中。


O戦後の学校
 村内の今帰仁小学校は明治15年に創設される。今帰仁中学校は昭和23年の大井中等学校としてスタートし、同27年に今帰仁中学校と改称。平成15年に村内の中学校は統合される。北山高等学校の設立は昭和23年である。創設当初の写真や教科書を展示する。


P消え行く祭祀
 稲作が消え、祭祀が衰えてゆく中、神アサギは消されることなく今につながっている。ただ茅葺屋根の神アサギは崎山に残るだけで他の字の神アサギは瓦葺きやコンクリートづくりになっている。神人は継承されず字の祭祀は区長、書記が行っている字が多い。古宇利島の祭祀も変貌しつつあるが、今でも神人達によって祭祀は守られている。



     ▲展示スタッフ(学芸員実習:大城・玉城・嵩原・吉岡・白木・澤田

展示作業(過程)
@水田のある風景


今帰仁村では「水田のある風景」が消えたことで、稲作を中心とした祭祀が急速に消えていく。稲作の消滅は、農業だけでなく、生活習慣の大きな変貌のきっかけとなっている。稲作の消滅の裏側にはサトウキビの生産の増があった。・・・
A戦後の建物の移り変わり


B今帰仁の19の字
       (アザ:ムラ)


Cムラ・シマの人々

D戦後60年の軌跡
    (文書資料展)

戦後60年の文書は、60年の軌跡をたどる貴重な資料である。それらの文書資料は60年を辿るだけでなく、将来にどう届けるかの使命を担っている。

E行政の中心となった役所
  (役所関係文書)



戦後の行政の要となった役所と、そこに残された資料群。一つひとつ目を通し、目録をつくる。そして資料の中身について備考欄にメモかきをいれる作業がつづく。『文書綴』が年度毎にあり、その一枚のメモ。



【戦後資料】

 ・呉我山の開墾予定地の件
 ・島内生産物の緊急集荷配給の件
 ・役場の資材拠出の件
 ・軍政府の配給の見通しや集荷配給の方法
 ・生産予想の調査
 ・戦後の村長、村議員選挙の件
 ・田井等高等学校の修築に関する件
 ・実業高等学校の敷地及び校舎に関する件
 ・役場落成に関する件
 ・電話架設に関する件
 ・慰安演劇に関する件
 ・役場落成式に関する件
 ・その他
F村内の学校
学校が戦後どのような変遷をたどってきたのか。そして、学校が果たしてきた役割について・・・
G湧川の塩づくり
昭和30年代まで湧川で行われいた塩づくり。今では塩田跡が残っているにすぎないが、塩づくりを通して様々な先人達の知恵や苦労を・・・
H薪からガスへの時代へ
薪が使われていた時代からガスへの時代へ。それは、便利さと・・・
I今帰仁の生業
     (農業・漁業など)

戦後資料の中に配給物資や売店の棚卸台帳などがあり、1950年頃の物や値段などがわかる。売店は薬局でもあるし、何でもあり。
J茅葺屋根から瓦葺へ
     (神アサギ)


K消えゆく祭祀
  (海神祭、ウプユミなど)


戦後資料の中の字の予算書をみると、御願費というのがある。線香や神酒、米などを購入する予算である。祭祀も公の予算で行っているのである。神人たちが行う祭祀が公務というのはそこからきている。また祈りを聞いていると、五穀豊穣、豊漁願い、ムラの繁栄など、個人の祈りではなく、ムラという公に向けての言葉である。


               企画するにあたって

 戦後60年の移り変わりをどう描けるのか。平成の時代に生きる私たちが、昭和と平成の時代で消え去っていくもの、継承し残してゆくべきもの。さらに、100年先からどう昭和(戦後)・平成という時代をどう議論されるか。特に沖縄では、裸足の時代から宇宙の時代を経験した人々の歴史・文化は過去になかった。この時代をどう位置づけていくべきか。この展示会で模索してみようと考えている。

 各地の博物かや資料館などの展示を見ていて、近現代は非常に軽い印象を持つことが多い。同時に違和感を持つことが度々ある。それは現在に近い単なる時間の長さではないような気がする。戦後60年の時間が、近世や古琉球の時代、それ以前のグスクの時代同様重みのある描き方はできないだろうか。そういう思いもあって「戦後60年の歩み―裸足から宇宙の時代を経験した人々―」をテーマに掲げてみた。戦後を重みある展示への挑戦である。

  ・期 間   平成18年10月2日〜平成19年3月末日
  ・会 場   沖縄県今帰仁村歴史文化センター(展示室:講堂)
  ・主 催   沖縄県今帰仁村教員会 今帰仁村歴史文化センター
  ・スタッフ  今帰仁村歴史文化センター(仲原 石野、中馬)
  ・協 力   学芸員実習生(沖縄国際大学3名、広島女学院大学3名)
          歴史文化センター運営委員(6名)
          
 まだ、全体像が見えていないが、逐次作業の進捗状況を報告しながら進めてゆくことに。展示なので写真と戦後資料を最大限に活かしてゆく。そこから10程度の展示テーマに絞ってゆくことにする。画像を取り込んでいくが、数が多いのでどんどん変わってゆくだろうと思っている(写真や画像の整理も兼ねている)。それが楽しみである。

【展示テーマ】(案)(2006.06.28)
 1.戦後60年の軌跡
 2.公共施設(学校・公民館・幼稚園・郵便局など)
 3.道の移り変わり
 4.運天の集落
 5.仲宗根のマチの展開(古島→仲宗根へ)
 6.古宇利の集落の変遷
 7.集落と湧泉(ハー)
 8.祭祀と神アサギ
 9.ムラの豊年祭
 10.生業(水田のある風景・畑仕事・砂糖屋など)
 11.島の人々
 12.墓の変遷(風葬→火葬)
 13.その他


・戦後の歩み(主な出来事)
・戦後大きく変貌していったもの・・・
・戦後生まれの彼らの60年間は何だったのだろうか。
・稲作を失ったことで・・・
・生活の変わり様・・・


    ▲50年余たった今は!         ▲ムカデ教室からスタートした教育は?


    ▲次第に消えていく祭祀           ▲水田が消えた環境は?

【戦後すぐの議事録】
 昭和22年1月11日から同26年1月までの会議録がある。戦後復興の動きを読み取ることができる資料である。戦後すぐの記録として今泊と越地と渡喜仁の「議事録」が残っている。それらの現物資料の展示ができればと考えている。

  ・呉我山の開墾予定地の件
  ・島内生産物の緊急集荷配給の件
  ・役場の資材拠出の件
  ・軍政府の配給の見通しや集荷配給の方法
  ・生産予想の調査
  ・戦後の村長、村議員選挙の件
  ・田井等高等学校の修築に関する件
  ・実業高等学校の敷地及び校舎に関する件
  ・役場落成に関する件
  ・電話架設に関する件
  ・慰安演劇に関する件
  ・役場落成式に関する件
  ・その他


【戦後の祭祀の変貌】
 戦後大きく変貌したのが祭祀である。変貌というより消滅の危機と言った方がよさそうである。特に今帰仁村での祭祀が消滅していくのは昭和30年代からである。祭祀の衰退は経済成長、そして稲作の消滅、さらには旧暦の廃止と時期を同じくしている。今回の展示で祭祀の衰退も考えてみる。


 
変貌していく場面を一つひとつ取り上げ、時代の流れをしっかりと記録にとどめることできればいいのだが。そして、振り返りながら今の時代どう動いているの。

【50年後の人々】
 昭和27年頃の写真である。それから50年余経った現在、どんな人生を歩んだのだろうか。戦後数年たった頃である。戦後間もない頃に生まれているので、生活が苦しいとか家が貧しいとか、大人とはちがい、当たり前の生活だったに違いない。また、時間がたつことで過去のことは昇華されたり、あるいは貧困な時代であったことに、今の自分のふがいなさを転化しているかもしれない。一人ひとりの50年を辿るのは胸が痛む。すでに他界された方、病に伏している方、現役で頑張っている方、もうこのムラには住んでいない方、移民をした方など様々である。一人ひとりの人生をたどることはしないが、これから将来の50年を見通せる手掛かりになればと思う。若者への贈り物にしたいのだが・・・


 ▲画面に100名はいるだろうか(昭和27年頃)   ▲竹馬で遊ぶ少年二人(昭和27年頃)

【戦後の歩み】

  【昭和23年】(1948年)
     ・市町村長選挙
     ・大井中等学校として設立許可される(3月)
     ・通貨交換実施(B軍票を使用)
     ・大井中等学校の開校式(今帰仁小で行われる)(4月)
     ・六・三・三制度実施
     ・本土から教科書入荷、小中学校で使用

  【昭和24年】(1949年)
     ・大井中第一回卒業式(今帰仁小で行われる)(3月)
     ・本土からの沖縄への旅券発行開始(3月)
     ・大井中の入学式天底小で行われる(4月)
     ・大井中の敷地旧製糖工場跡地に決定(5月)
     ・米国留学制度実施(9月)

  【昭和25年】(1950年)
     ・大井中二回目の卒業式(3月)
     ・政府割り当て校舎木造瓦葺竣工(3月)
     ・中学校の学校地の地ならし(4月)
     ・中学校の学校地ブルトーザーでの地ならし(5月〜)
     ・沖縄郡島政府創立
     ・琉球大学開学
     ・指導主事制の制定
     ・米国明政府設立
     ・ドルと円との為替レート設定(1ドル:120円)

  【昭和26年】(1951年)
     ・大井中、全職員、生徒が一堂に会して入学式を行う(4月)
     ・琉球臨時中央政府設立
     ・教科書有償制となる
     ・文教局設置
     ・日米安保条約調印(9月)

 
   ▲大井中等学校の様子(1951年:後の今帰仁中)

  【昭和27年】(1952年)
     ・第1回立法院議員選挙(3月)
     ・大井中等学校から今帰仁中学校へ改称(4月)
     ・初等学校を小学校、中等学校を中学校へ改称

 
     ▲稲作が行われていた頃の今帰仁村今泊の様子(昭和27年)

  【昭和28年】(1953年)
     ・米民政府祝祭日に限り学校での国旗掲揚を許可する(4月)
     ・今帰仁中学校石積校舎竣工(6月)
     ・奄美大島日本復帰
     ・ニクソン米副大統領来沖(11月)

  【昭和29年】(1954年)
     ・今帰仁中学校鉄筋ブロック校舎竣工(6月)
     ・今帰仁中学校の仮校舎、暴風のため崩壊(8月)
     ・アイゼンハワー大統領、沖縄基地の無期限保持声明
     ・文化財保護調査委員会発足

  【昭和30年】(1955年)
     ・初めて16件の文化財指定がなされる(1月)(その内4件が今帰仁村)
        北山城址(今帰仁村親泊)
        天底の井戸のしまちすじのり(今帰仁村天底)
        今帰仁街道の琉球松並木(謝名〜今泊)
        諸志御嶽の植物群落(今帰仁村諸志)
        


▲文化財に指定された頃の今帰仁グスク      ▲仲原馬場の松並木(馬場跡)




 
【学芸員実習生が宿泊する家】
 学芸員実習で学生たちが宿泊する家。台風前に庭の草刈をすます。なかなか手が回らないので・・・。8月5日に男性軍が宿泊する民家の草刈と掃除。




  
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