今回訪れたムラやシマはそう多くはない。目的は「古琉球のムラ・シマ」の成り立ちを八重山に確かめるためである。これまで、山原で「古琉球のムラ・シマ」の成り立ちを、御嶽(ウタキ)と集落との関係で見てきた。おぼろげながらその姿が見えたきた。山原でのおぼろげに見えるムラ・シマの姿が先島ではどうなのだろうか。山原でおぼろげな「古琉球のムラ・シマの姿」を見たキーワードがウタキと集落、そしてムラ・シマで行われる祭祀である。
・新設されたムラ
・合併したムラ
・移動したムラ
・消滅したムラ
それらのムラが、移動・合併・消滅した後どうなったのか、何を継承しているのか。移動先でウタキはどうしたか。合併したとき祭祀はどうなったのか。ノロ管轄の変更はどうなのか。移動したら故地に何を残しているか。などなど。山原の集落とウタキとの関係は古琉球から根強く引きづっている。行政は一つになっても祭祀は一体化しない。神人は一族(一門)から出すのはなぜか。それは近世の村(ムラ)以前の小さな集団(マキやマキヨ)が行政村にされるが、祭祀や神人の制度が編成されるが、古琉球の祭祀形態を根強く継承している姿とみられる。1500年代のノロ制度、あるいは近世の村制度は、古琉球、あるいはグスク時代からの祭祀を、首里王府はムラやシマの末端まで統治する手段として巧みに取り入れたものだと見ている。
石垣島、小浜島、竹富島の嶽(オン)と集落との関係で見ていくと、山原のムラ・シマより八重山には濃厚に残っているのではないか。今回は特に竹富島と小浜島の嶽(オン)を中心にみてきたが、その印象が強い。まず気づくことは、一つの村(ムラ)島(シマ)に嶽(オン)の多さに驚かされる。そのことが、嶽と集落が切り離すことのできない関係にあることがわかる。具体的に、あるいは詳細について見ることはできないが、山原でみる集落とウタキとの関係で見える法則性は八重山ではどうだろうか。崩れ去るのか。今回訪れた御嶽(オン)は以下の通りである。
※御嶽の呼称、御嶽と集落との関わりは『石垣市史』(各論編民俗 上)を参照。
【竹富島】(竹富町竹富)
竹富島の12の御嶽を歩いて回ってみた。沖縄本島北部では、御嶽(ウタキ)と集落との関係が希薄になり論として??のつく場面が多いのであるが、竹富島の御嶽(オン)と集落の関係は明白であり、古琉球のムラ・シマの成り立ちが、今に息づいているのには驚きである。
『琉球国由来記』(1713年)に登場する竹富村(島)の御嶽は6、根所が1。6つの御嶽の由来について興味深いことが記してある。
・波座間御嶽←(屋久島から)
・仲筋御嶽←(沖縄から)
・幸本御嶽←(久米島から)
・久間原御嶽←(沖縄から)
・花城御嶽←(沖縄から)
・波レ若御嶽←(徳島:徳之島から)
・国仲根所←(悪鬼納:沖縄から)
昔、竹富島に波座真村、中筋村、幸本村、久間原村、花城村、波レ若村があり、6人の酋長がいたこと。そのことが、今に根強く継承されている。6人の酋長が「心を合せ」たのであるが、どの御嶽も拝むことにしている。そこに御嶽と集落(マク・マキヨ規模の集団)との関係が見えてくる。マキ・マキヨ規模のムラを一つにするが、祭祀は一体化せず、尊重している。山原の御嶽(ウタキ)と集落、そして祭祀(特に神人)の関係が、竹富島の御嶽と集落との関わりから、より明らかにできそうである。西塘御嶽は人物の住居跡地を御嶽にしたもののようである。
まずは、竹富島の御嶽(オン)の場所の確認から。『竹富町誌』をみると28の御嶽があげられている。今回確認できたのは12である。島に28の御嶽があるのは、御嶽を中心とした集団が血族、あるいは何代もたった一門なのか、近世以前(古琉球)のムラ・シマ規模、それ以前の集落なのか。
蔵元・・・
●は今回足を運んだ御嶽
▲小字名と御嶽の位置図は『町制三十年のあゆみ』より
竹富島の現在の集落は島の中央部に集まっているが、それでも東屋敷(アイノッタ)と西屋敷(インノッタ)、仲筋(ナージ)に分れている。御嶽のいくつかは、現集落から離れた場所に位置している。それは御嶽付近にあった集落が移動した見られる。それからすると、そう遠くない場所に集落が移動した場合、御嶽はその場所に置いたままにし、祭祀は御嶽まで行って行う。
B世持御嶽(ユームチオン)
R真知御嶽
P東パイザーシ御嶽(アイパイザーシオン)
G国仲御嶽(フイナーオン)
H久間原御嶽(クェーラオン)
J波利若御嶽(バイヤーオン)
I花城御嶽(バナツクオン)
E仲筋御嶽(サージオン)
D清明御嶽(マイヌオン)
F幸本御嶽(コントゥオン)
A玻座間御嶽(ウーリャオン)
C西塘御嶽(ニシトウオン)
(※番号は上の図に合わせた)
C西塘御嶽(ニシトウオン) P東パイザーシ御嶽(アイパイザーシオン)
G国仲御嶽(フイナーオン) H久間原御嶽(クェーラオン)
J波利若御嶽(バイヤーオン) I花城御嶽(バナツクオン)
E仲筋御嶽(サージオン) D清明御嶽(マイヌオン)

F幸本御嶽(小波本:コントゥオン) B世持御嶽(ユームチオン)

A玻座間御嶽(ウーリャオン)
O真知御嶽
▲皆治御嶽(移動?) ▲ンブフル
(工事中)
【
【小浜島】(竹富町小浜)
小浜島には
2006年12月にも訪れている。その時も御嶽を中心に踏査している。そのことは、2006年12月に訪れまとめてある。今回の踏査でどこまで深めることができたか。
『琉球国由来記』(1713年)に小浜村(島)の御嶽は以下の四つ御嶽である。ほかに五つの御嶽がある。集落は島の中央部にあるが、四つの御嶽は集落から離れたところに位置している。現在の集落に少なくとも四つの集落は移動し、現在地に統合している。しかし、御嶽や祭祀は統合されず、御嶽ごとに行われている。各御嶽ごとに行われる祭祀と統合された形で行われる部分がある。
・テダクシ御嶽
・仲山御嶽
・サクヒ御嶽
・東御嶽
▲小字名と御嶽の位置図は『町制三十年のあゆみ』より
【白 保】(石垣市字白保)
・嘉手刈御嶽(カチガラオン)・・・嘉手刈原から
・真謝御嶽(マジャオン)・・・村中にあり。
・多原御嶽(タバリオン)
・波照間御嶽(アスクオン)・・・波照間島から移住。故郷の阿底御嶽を勘請。
各御嶽はムラが移動した時、故地の名の御嶽を作っている。波照間島から白保(石垣島)に移り住んだ時、故地の名の御嶽を作っている。八重山では、そのことは当たり前のようである。人々が移動してムラをなした時、まず御嶽を置く習性、それと故地に因んだ名称をつけ、自分たちの足跡を刻み込もうとする習性がある。
▲嘉手刈御嶽 ▲波照間御嶽
▲多原御嶽
【川 平】(石垣市字川平)(9つのムラがあったという)
(仲間村・大口村・仲栄村・田多村・久場川村・西村・慶田城村・玉得村・大津原村)→久場川村(上の村:上の村)と
大津原村(シチャムヌムラ)へ
・浜崎御嶽(キファオン)
・赤イロ目宮鳥御嶽(アーラオン)
・群星御嶽(ユブシィオン・ンニブシオン)
・山川御嶽(ヤマオン)
・底地御嶽(スクジオン)
(観音堂あり)
▲浜崎御嶽(以前に撮影) ▲赤イロ目宮鳥御嶽
▲山川御嶽 ▲群星御嶽
▲底地御嶽
【大 浜】(石垣市字大浜)
・黒石御嶽(クルセオン)・・・黒石村の御嶽
・大石御嶽(ウイヌオン)・・・波照間島から移住、故郷の名石村の大石御嶽に因むという。
・火の神御嶽(ピィナカンオン)鎮の村?・・・村番所の
火神を御嶽にした例
・崎原御嶽(サキバルオン)・・・・・・・・・崎原村の御嶽
▲黒石御嶽 ▲大石嶽
▲火の神御嶽 ▲崎原御嶽
)
(工事中)