山原(やんばる)研究への足掛かり    トップへ
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 下の文章は「南風」(琉球新報掲載:2005年1月〜6月))に連載したものです。これは、地域史研究の足掛かりにするものです。(工事中)


@山原の歴史散歩

 ここ十数年県内の各地を回ってきた。特に沖縄本島北部(山原)は今なお歩き続けている。今年のスタートは名護市源河からハジウスィビイラを抜け、東村有銘に出る山越えをし、国頭村安波・安田へと北上した。

 ふと「山原の旅や哀れどや至極 見る方や無らん海と山と」のウタが思い浮かぶ。山原の風情をよく表現しているが、さらに中南部と異なる独自の「歴史や文化」があると謡われる山原でありたい。しかし、そう言わしめる視点での研究や蓄積がなされてこなかったのではないか。

 東海岸のムラの朝日が、どの方向から射してくるのだろうか。東の方向に違いないが、面白いことは集落に日が射す時間が異なることである。国頭村安波の斜面の集落は午前九時半頃になって陽射しが見える。後方の山から日が射しているのには驚いてしまった。水平線の日の出は午後七時頃であろうが、集落への元旦の陽射しは集落によって大部異なる。

 安波川沿いの斜曲に人が住みだし、永年の歴史を刻んでいるが、そこに住んでいる人達にとって陽射しが遅いことは当たり前のことかもしれない。そのことが、安波というムラ、さらに村人の個性に大きく影響を及ぼしているに違いない。


 さらに北へし、安田の集落に降り立ってみた。隔年旧暦の七月にシニグやウンガミグヮが行われる。注目したいのは、陸の孤島であった安田に万暦15年(1587)の首里王府発給の辞令書があったことである。辞令書にノロ・里主・掟など琉球王国の統治に関わる役職の人物が登場する。安田に立ったとき、古琉球の時代、陸の孤島に住んでいた当時の人たちが、辞令書を通して首甲王府をどう見ていたのか知る手がかりとなる。

 また、乾隆59年(1794)に安田村に朝鮮人十人が漂着した出来事があった。当初唐人として扱い、陸路奥間村へ。境地から船で泊村へ廻船させる。その対応は近世の首里王府の中国への顔、そして日本への顔がはっきりと見えてくる。


A今婦仁グスクに立つ

 山原は桜の季節である。今帰仁グスクの桜の咲き具合はどうかと登ってみた。まだ二分咲きてあった。冷たい北風に煽られながら今帰仁グスクに立つ。それは山北(北山)の歴史への誘いである。今帰仁グスクは世界遺産や大規模の城壁、さらに出土遺物などの豊富さも含め、歴史の厚みを実感させられる。グスクから見える与論島や伊是名・伊平屋島などは十四世紀から十五世紀にかけての北山王が支配した領域である。

 山北・中山・山南の三つの国(クニ)が鼎立した時代。『明実録』に登場する14〜15世紀の伯尼芝・眠・畢安知の山北の三王、そして派遣された家臣など。明国から駱駝渡金銀印や暦、中国の衣服や銭や船などを賜った。グスク内だけでなく、周辺の集落跡地からも大量の陶磁器類が出土する。明国と交易していた時代、渡金銀印や冠帯を賜っていることから山北(山原)は王国の体裁を賜っていた。

 山北滅亡後、中山は山北対策として1422年に尚忠(後に中山王)を今帰仁グスクに派遣し監守制度を敷く。その制度は第二尚氏王統の1665年まで続いた。1429年中山は南山を滅ぼし琉球は統一国家となった時、その後1469年第二尚氏になっても監守制度は廃止しなかった。謀反の恐れや首里から遠い地理的条件、阿応埋屋恵(アオリヤエ)ノロのこともあるが、統治するのに山原人の気質、あるいは習慣や祭祀までも首里化する必要がなかった。

 北山の時代に造り出されたもの、それが古琉球の時代から近世の村々に継承されてきた。山原の村々の御嶽や神アサギ、さらに祭祀や言葉などの響きは、首里文化に同化されることなく今に息づいているのは「北山文化」なのかもしれない。


     ▲今帰仁グスクの大隅の石積           ▲今帰仁グスクの外壁  


B島に橋が架かる

 今帰仁村に古宇利島がある。フイジマやクイジマといい、海を越えた島の意である。古宇利島に橋が架かり開通した。開通前に船で、閤通後橋から島に渡ってみた。集落の東側が永年島の玄関口であった港から、すでに集落の東側へと流れが変わっている。

 古宇利島のクイを表記で「こほり」、それに郡の漢字をあて、さらに古宇利へと表記の変遷を辿っている。これから古宇利大橋から島に渡ることになるが、やはりクイジマ(海を越えた島)に違いはない。

 1472年の『海東諸国紀』「琉球国之図」に古宇利島のことを郡島と初登場する。また島に人が住んでいるとある。1609年の薩摩軍の班球侵攻の時、こほり島は今帰仁グスクや首里城など本島攻めの足がかりとなった。集落前方の浜はウブドゥマイ(大泊)といい、運天港の外港として重要な役割を果たした。帆船の時代、運天港から出航すると風向きが艮好ならそのまま外洋ヘ出て行く。逆風や荒波だと大泊で待機し、様子をみて外洋へ出て行く。

 島の標高107メートルの場所に遠見屋(トウーミヤー)跡がある。首里王府は1644年に烽火制度を敷き、異国船や進貢船などの到着を首里王府に早く知らせる役目。1750年頃から今帰仁間切の地頭代(今の村長)に古宇利親雲上の名を賜っている。屋号もメーフイヤー(前古宇利屋)となる。

 古宇利島は地頭代のお抱えムラであった。海上交通と運天番所、入口の離島であったが故に重要であったのであろう。島の重要さは運天に番所がおかれ、外港としての役割を担っていたからである。

 古宇利大橋の開通で多くの車や人が訪れている。開通前から活性化や島興しの名に押し流されることなく「残すべきものは残す」と言い切っていた島の人たち。残さなければならないのはアイデンティティに繋がる島の姿や島に生きてきた人々の声である。

 

C名護は「和(ナグ?)

 ナグという地名やナグマサーという名護人の気質は、名護グスクを要(かなめ)とした名護湾岸の地形や風土から産まれたものではないか。そんなことを思い廻らしながら名護グスクから名護湾を眺めてみた。

 名獲は「海東諸国紀」(1471年)の「琉球国之図」で「那五」、オモロでは「なこ」と謡われる。1853年のペリー提督一行の地図に名護湾がDeep BayはNaguhと表記してある。

 グスクのほとんどが石積みて囲まれ、防御的な機能を持っているが、名護グスクは石積み囲いを持たないグスクである。森の頂上部を平坦にし、後方の山の尾根を掘り切ってある。掘切は防御的な一面を語っているが、堅固な石積みがなくてもグスクの機能を果たし、地域を統治できたのは何故だろうか。

 名獲湾を往来している舟を見ながら、何代か世襲された名護按司の気質は、名護湾の「和む」風土が形成したと夢想してしまった。それが石積みのないグスクをつくり名護湾岸の村々を統治した人物を出したのではないか。

 名護グスクの斜面に茅葺き屋根の家々が散在していた風景が浮かぶ。16世紀に名護按司が首里に移り住むと、それがきっかけでグスク斜面にあった集落は、次第に麓に移動していった。集落があった痕跡としてヌンドゥンチ、根神ヤー、ウチガミヤーなどの旧家跡が今で祠として残されている。

 名護湾を見下ろせる場所から、湾岸の村々に想いを廻らしていると、ナグマサー気質は名護按司が首里に移った後に形成されたかもしれない。ナグ(和む)の響きは、石積みのない名護グスクと結びつくが、名護市の東海岸への基地移設と結びつかないのは、私一人ではなさそうである。

 
  ▲名護グスクから眺めた名護湾と街


D山原のムラ・シマ講座

 今年度の「ムラ・シマ講座」が終了した。この講座は12年間継続(年7、8回開催)してきた。ムラ・シマは今で言う字(アザ)のことである。そろそろムラ・シマの言葉が定着してほしいのだが。講座の参加者は、基本的に小学生対象だが、現在は大人の参加者の方が多い。これまでの開催は90回余、訪れた場所は四百余りとなる。それは職員のねばりと頑張りでもある。

 ムラ・シマを見ていくために、どんな言葉(キーワード)があるのだろうか。今年訪れたムラ・シマ(今帰仁村、名護市、本部町)から拾ってみた。ウタキ・神アサギ・グスク・トゥーティンクー(土帝君)・フプガー・焚字炉(フンジロ)・中城ヌルドゥンチ・羽地タープックヮ・改決羽地川碑記・謝名の大島(古島集落)・シカー・トーヌカ・獅子小屋・フルマチ跡・ワタンジ・オミヤ・市場跡などのキーワードを挙げることができる。

 それらの言葉を思い浮べると、ムラ・シマがフツフツと浮かび上がってくる。その場所へ行くのに草木をかきわけ、汗をかき、それだけでなく暑い夏、か(蚊)に刺されながら、話を聞きノートをとっている皆の姿が思い出される。その時のノートが今年度の「山原のムラ・シマ」(234頁)として手作りの冊子となった。特に子供たちにとって、一人ひとりの未来への贈り物となる。

 回を重ねるたびに記録することの重要さと面白さを体験している。現場に行くとムラ・シマで生きた人々が築いた歴史や伝統や文化が奥深く流れていることに気づく。その時揺さぶられる感動はなおいい。

 十二冊目の冊子が、またひとつ山原のムラ・シマの記録として積み上げることができた。一人ひとり限られたページだが、みんなの記録を束にすると大木になる。沈黙していたムラ・シマが、記録をされることで多くのことを語ってくれる。

 


E御嶽に築いたグスク

 先日、久米島の伊敷索グスク、具志川グスク、宇江(中城・仲里)グスク、そして登武那覇(トンナハ)グスクを訪ねてみた。伊敷索グスクの成立時期は不明だが、伊敷索按司の居城で『琉球国由来記』(1713年)にイシキナワ御嶽とある。この按司に四名の子息があり、具志川グスク、宇江グスク、登武那覇グスクを築き、それぞれが周辺地域の村々を支配下に治めていたのであろう。

 具志川グスクの場所は、グスクが築かれるまで具志川御嶽であった。近くの青名崎に築いている最中、具志川御嶽に行ってみると、いい場所だということになり、そこにグスクを築いたという(『琉球国由来記』1713年)。さらに宇江グスクの築城の場合も、伊敷索グスク城主の次男が大城山に造りかけたが、堂の比屋の下女が中城(宇江)御嶽のある中城岳がいいということで、そこに築城した(同由来記)といい、そこもやはり御嶽であった。

 それらは、まだ伝承の域はでていないが、集落出身者ではない人物と、築城の場所として御嶽を選んでいることに関心が向く。山原のグスクにも同様なことが言えないだろうか。今帰仁グスクや名護グスク、羽地グスク、そして根謝銘グスクは大きな杜をなし、内部に御嶽のイビがある。それは御嶽という杜を石囲いのグスクに取りこんだ痕跡ではないか。

 石積みの技術を持った外の者による築城は、『明実録』の山北王の怕尼芝(パニジ)が羽地(ハニジ)の音に近いことで、羽地グスクの按司だったのではないかと言う所以はそこにある。

 18世紀初頭の久米島のグスク築城過程の歴史認識は、山原のグスクの成り立ちにも、当てはめることができるかもしれない。

 
    ▲羽地(親川)グスク(旧羽地村)          ▲根謝銘(ウイ)グスクの遠景とウタキのイベ

F山原の神アサギ

 山原のムラ・シマ(字のこと)に神アサギがある。『琉球国由来記』(1713年)に「神アシアゲ」とある。その神アサギは昭和30年代まで茅葺き屋根の低い壁のない柱だけの建物である。茅葺の神アサギは沖縄本島の恩納村恩納、本部町具志堅、今帰仁村崎山、国頭村比地と安田にある。

 「由来記」に登場する神アサギの分布は沖縄本島に117、その内恩納間切以北に105(山原の村数107)あり、ほとんどが山原である。神アサギは現存し、あるいは痕跡として今でも確認することができる。神アサギの確認はムラ・シマの歴史を読み取ることでもある。

 神アサギの分布する範囲を神アサギ文化圏や北山文化圏と呼んでいる。それは沖縄の歴史の北山・中山・南山の三山が鼎立していた時代の北山の領域と重なっている。「由来記」の伊平屋島(伊是名島含む)に「村々神アシアゲ」とあり、北は奄美大島の加計呂麻島にも分布する。

 神アサギは神を招く場所、それだけでなくムラ・シマの貢租(穀物)を集積する施設として使われたようである。穀物を集積するために牛や馬が首を突っ込ませないために屋根を低くしたという。神アサギは茅葺きの軒の低い建物から赤瓦葺きやコンクリートづくりへと変遷をたどる。他の拝所と統合された所もある。しかし神アサギは遺そうとする姿勢は今も変わりない。

 ウマチーやムシバレーなどの祭祀は琉球国の人々の休息日(公休日)であった。五穀豊穣や村の繁盛、そして航海安全が神人の祈りである。旧暦で行われる祭祀をサイクルとした人々の長い生活がある。その時間の流れは身に染み込んだリズムである。

 神アサギをムラ・シマから消し去ったとき、山原らしさと北山文化の崩壊だと考えている。 


   ▲今帰仁村与那嶺の神ハサギ   ▲国頭村安田の神アサギ      ▲本部町具志堅の神ハサーギ          

G塩屋湾で歴史を思い描

 大宜味村の塩屋湾岸に塩屋・屋古・田港・大保・渡野喜屋(白浜)・宮城などの字(アザ)がある。塩屋湾口の島は宮城島である。戦前・戦後の塩屋や宮城島などの写真を見ると八合目あたりまで段々畑である。

 その風景を見ると、蔡温が林政の七書を著し、林政に関する法律を制定したことがうなずける。蔡温の偉大さもあるが、山の頂上付近まで段々畑だった当時の状況が林政の法を制定させたのではないか。また土地の確認のため、印部土手(原石)を設置して行なった蔡温の元文検地。猫の額ほどの段々畑まで税を課すためだったのかもしれない。

 塩屋湾を抱くようにできた沖積地に塩屋の集落が発達している。塩屋の村名は塩田や塩づくりに因んだ名称である。それを証拠づけるかのように、神アサギ付近に塩炊きに使った赤茶けた焼き石が数個奉られている。

 「花売りの縁」(組踊)の主人公の森川子は塩屋で塩炊きをしていたといい、「宵もあかつきも なれしおもかげ乃 立ゝぬ日や無いさめ 塩屋のけむり」と謡われた碑が見晴らしのいいハーミンゾーの森に立つ。それも塩づくりとムラ名と結びつけた伝承である。

 ハーミンゾーの森から見える塩屋小学校は大宜味間切番所(役場)跡である。そして波静かな奥深い塩屋湾の近世の様子を「大宜味間切の首里王府への貢納物は塩屋村に集積され、塩屋湾から運天に運ばれた。那覇方面に運ぶ薪や炭などを積んだ山原船が帆をあげる掛け声が聞こえた」という。1853年ペリー一行が訪れシャーベイ(Shah Bay)と記すなど、塩屋湾は歴史を思い描ける場所である。


 ▲ハーミジョウから眺めた番所があった小学校       ▲ペリーが訪れた塩屋湾(Shah Bay)


H伊是名・伊平屋は山原? 

 沖縄本島の北部に伊是名島と伊平屋島がある。地理的には沖縄本島の北部に位置し、昭和十四年までは両島で伊平屋村(ソン)、同年に二つの村に分かれ現在に至る。明治29年に郡区制が敷かれ、両島は島尻郡に編入された。地理的に山原でありながら、島尻郡であることが、伊是名・伊平屋は山原なのかの疑問が聞こえてくる。 

 1500年代首里王府の統治を見ると、尚円王の叔父の真三郎(後の銘刈家)、姉の真世仁金を伊平屋阿母加那志として派遣。伊平屋(伊是名)阿母加那志(御殿家)は娘二人に「二カヤ田」(北・南の二家)に神職を継承させる。首里王府は四家を通して首里化、首里文化を注入したといえそう。伊是名は首里王府の直轄地と捉えることができる。

 1490年頃、山原(北山)に監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵按司(神職)を派遣し、今帰仁グスクに常駐させた。1665年今帰仁按司家の七世従憲の時、首里に引き揚げた。そのため山原は首里化できなかった。ところが伊是名の四家は、首里に引き揚げることなく継承され、近世になると清明祭や亀甲墓を造るなど、首里王府の達や文化の浸透が積極的に図られた。

 さらに言語を見ると「伊是名島の方言の基層は北部方言に通じるが、中南部方言の影響を強く受けている」(『図説琉球方言辞典』中本正智)と述べられている。

 伊是名・伊平屋は尚円王の生誕地であることもあって首里文化が浸透していった島。底流には、ムラノロのレベルの祭祀や神アサギの構造や言葉などから、底流に北山文化が流れていて、その上に首里文化が被さった構造ではないか。首里的な覆いをとり、歴史を紐解くと、その疑問が解けそうである。

 
 ▲伊是名島勢理客の神アサギ   ▲伊是名玉御殿と伊是名城跡       ▲伊是名グスクの遠景


I山原の御嶽と祭祀 

 沖縄の村(ムラ)を行くと御嶽(ウタキ)が目にはいる。『琉球国由来記』(1713年)では「嶽」と記される。御嶽はウガンジュやグスク、先島ではオンと呼ばれる。御嶽は集落(家の集まった所)と密接に関わる。森にイビの前やイビ、あるいは内部に住居の痕跡や神アサギや火神の祠などの拝所があれば、そこは御嶽だと判断している。

 琉球の人達は、集落が形成されると御嶽を設ける習性を持っていたのではないか。集落の発生と御嶽は、不可分の関係にある。御嶽を要として発達した集落は、後に行政村(ムラ)となる。御嶽を持った複数の集落を一つの村にしたため、御嶽を複数持つ村がある。集落あるいは村レベルだけでなく国レベルの御嶽も形成されている。

 御嶽を要とした村の祭祀は、「神遊び」と言われるが、村人にとっての休息日であった。王府と間切、さらに村との関係を「上納させる」と「上納を納める」関係で見ると、祭祀は上納を介した首里王府の統治(支配)形態と見てよさそうである。

 私は御嶽を中心とした祭祀を掌る神人は、公務員と位置づけている。ノロや根神などが行なう祭祀の祈りは、基本的に三つあり、どれも租税と関係している。五穀豊穣と村の繁盛、そして航海安全(豊漁)である。それらの祈りは、神人個人のではなく村(公)や村人のための祈りである。

 五穀豊穣は王府への滞りない上納。村の繁盛は近世の土地制度(地割)は土地の配分と上納との関係。人口の増加は王府にとって増収となり財政の安定につながった。航海安全は、島国であること、上納の穀物類は、山原は山原船が主流になって運搬された。航海安全の祈願は当然のことである。

 御嶽は神のおわす聖地や墓や集落跡などの議論も大事だが、御嶽と集落、御嶽と関わる村の祭祀と上納は、首里王府が国を統治する巧みな制度であるとの視点が必要ではないか。

 
   ▲国頭村辺戸の安須杜(クニクラスの御嶽)


J山原の津(港)と山原船 

 昨年から津(港)と山原船の調査を続けている。山原の津々浦々を繋いでいたのは、主に山原船であった。沖縄本島北部の東海岸の村々と与那原港。西海岸の村々と泊港と那覇港とを結ぶ航路があった。大正の頃、自動車の登場で山原の道路(郡道)整備が急速になされた。物資の輸送は海運から陸上運送へ徐々に移っていくが、昭和30年代まで山原船の航行が見られる。

 今帰仁グスクと親泊、根謝銘グスクと屋嘉比港、親川(羽地)グスクと勘手納港など、グスクと港が密接に関わった時代もある。グスクから中国製の陶磁器類が出土することがうなずける。山原の主な港に運天・名護・渡久地・塩屋などがある。薩摩への仕上世(しのぼせ)米を集積する四津口(那覇・運天・勘手納・湖辺底)の内三つは山原にあった。

 調査の過程で常識が覆る場面が度々あった。船が接岸できる港や桟橋のある港がほとんどなかった。干潟の場所は船の修理にいい港である。沖に船を碇泊させ、陸地との間は小さな伝馬船で荷物を陸揚げする。源為朝の渡来伝説の運天港は、古くから良港として知られていたが、桟橋ができ船が接岸できるようになったのは戦後であることなど。

 近世には間切船で上納(穀物)の運搬があり、山原の村々からの主な積荷は薪木・木炭、藍・砂糖などである。逆に山原へは焼酎・大豆・味噌・瓦・素麺など日用雑貨が主である。故仲宗根政善先生は「与那嶺長浜(今帰仁村)に山原船が入ると、まるで宝船を迎えるように村人が浜に集まった」と表現される。

 山原の津々浦々を船が往来し、文物の流れは船を介した海上輸送が主で、数百年も続いていたことを忘れていないだろうか。


   ▲近世の四津口の一つ(運天港)            ▲明治末頃の運天港(望郷沖縄より)


K山原は学問の対象地

この半年、山原を中心に各地(与那国・西表・竹富・小浜・伊江・伊是名・久米島・座間味など)を訪ねてみた。他の地域に足を運ぶことで山原を見るキーワードが増えた。

 与論・沖永良部・徳之島は、三山(北山・中山・南山)時代は、北山の領域であった節がある。島々に北山時代に形成されたもの。三山統一後に首里王府支配下の痕跡、さらに1609年の薩摩軍の琉球侵攻後の薩摩の影響が被さる。首里王府と薩摩軍の琉球侵攻後の被さりを取り覗くと、北山時代に築かれた痕跡を奄美の島々に見出せるにちがいない。

 沖縄本島の最北端の辺戸の安須杜に登ってみた。頂上部にある拝所から琉球国を統治した支配者の先祖は子(北)の方向からやってきた。第一、第二尚氏の初代は伊平屋(伊是名含む)島からやってきた。さらに神は天から降臨するといった認識を持って拝まれている。それらが安須杜を国レベルの御嶽と位置づける所以である。

 谷あいや川筋、古くは杜の斜面に発達した山原の集落、御嶽を背景にした集落の形態、シマの方々が永遠と引き継いできた御嶽や祭祀、グスクや神アサギや方言などの分布や特徴が北山時代(十二〜十五世紀初頭)まで遡ることができるのではないか。その時代に築かれたものと確証が持てれば、それを「北山文化」、今帰仁グスクを拠点とした「北山文化圏」と呼ぶ試みである。

 山原学が成り立つのか、北山文化があるのかではなく、山原が歴史や自然など様々な分野の学問の対象地となり得る。そのことを前面に打ち出した調査・研究成果の蓄積が必要だと考えている。