与論島と北山(琉球)

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はじめに

  (工事中)

 「与論島と北山(琉球)」というテーマで報告の予定(12月11日)。そのため、話の大枠を決めるために、あちこちにメモしてきたものを、取り急ぎ寄せ集めてみる。

 まず、与論島には島外から来て住みついた集団がいくつかあるように思われる。それぞれの集団が島に住みつき故地の伝統や個性や習慣を伝え、それが混在しながら今に伝えているのではないか。どの一族が古いとか、北山から来た、源氏と関わる一族などの答えを見つけようとする発想が根強い。それも大事だが、複数の集団が異なった時代に島に移り住み、それぞれをの個性や伝統を頑固に保っているもの、あるいは大きく変貌しているなど、個々の習慣や個性などを見究めながら、与論島を見ていくことにする。「北山文化圏」という枠でくくる以前に、琉球国の枠でくくる必要がある。琉球国でくくることで、国頭郡に属しめるか、それとも伊是名・伊平屋島と同様島尻郡に属せしめるか。そこには・・・

 以下に掲げた系統の一族達が、今に何を伝えているのか。与論島の人々が北山に、中山に、あるいは薩摩や縄文や弥生の時代に先祖を想いはせるのは何故か。与論島から求められている答えは、「1611年以前は与論島から喜界島まで琉球国の領域であった」、そのことを踏まえると自ずと答えは出てくる。ただし、分断して400年という歴史を持っていることも動かしがたい事実である。島の方々はどの方向に持っていきたいのか・・・。

  ・三山の時代以前から島にいた人々(アマンチュ系)
  ・北山の時代に島にやってきた一族(北山系)
  ・三山統一後、首里王府から派遣された一族(中山系)
  ・1611年以降、薩摩役人などの系統(薩摩系)
  ・その他

1266年瞬天王統の英祖の時代に沖縄周辺離島から貢納物の献上があり、奄美諸島も入貢したという。 

【三山鼎立時代】
(北山は今帰仁?・怕尼芝・a・攀安知)

 ・1383年に山北王怕尼芝が明国に入貢始まる。
 ・15世紀初頭 山北王怕尼芝の二男(王舅)が与論島に渡り与論の世の主となった(伝承)。
   (与論城を築いたという)
 ・1416年山北王攀安知が中山の尚巴志の連合軍に滅ぼされる。
 ・サービ・マトゥイ(北山系?)(伝承の人物)
 ・大道那太(ウフドゥナタ)(北山系?)(伝承の人物)

【三山統一後】(北山は監守時代)

 ・成化2年(1466)
   尚徳王鬼界島を征伐して帰り、呉姓一世宗重を泊地頭となし、其の妻を泊大阿母となす。
         (「呉姓家譜」 一世宗重)
 ・1512年尚真王の次男尚朝栄(大里王子)、花城真三郎が与論世之主(又吉按司)として
  与論島へ来てグスクを築いたという伝承(その墓あり)。

 ・1537年奄美大島を征伐する。(四代尚清)

 ・隆慶2年(1568)戊辰正月、自奥渡上の□理(サバクリ)に任ず。
   ※毛姓五世盛埋が奥渡上(薩南五島:喜界・奄美大島・徳之島・沖永良部・与論)の五島の政治を司る
      役人に任命される。
・1571年 奄美大島を討伐する。(五代尚元)


 ・万暦24年(1596)丙申 大島湾の首里大屋子を勤める。
   万暦三十年(1602)壬寅 大島より帰り、後西原間切我謝地頭職に任ず。
      (「藺(リン)姓家譜」一世篤當)(首里王府発給の辞令書があった可能性あり)

 ・1609年薩摩の琉球侵攻
 ・万暦39年(1611)に奄美大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島が薩摩に割譲される。

 与論島では確認されていないが、奄美には古琉球の辞令書が30近くある。これまで確認されている奄美関係の辞令書の古いのは嘉靖8年(1529)の「笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書」である。

 第二尚氏王統の1500年代から奄美へ首里王府から辞令書が発給されている。その時代の奄美の島々と琉球国との関係は、北山(監守:今帰仁按司:今帰仁グスク居)ではなく、首里王府直轄である。首里王府直轄であるが、与論島の全て一族が琉球から移り住んだというものではなかろう。

 与論島にノロに関わる辞令書は未確認である。他の島に見られる役人の辞令書も発給されてよさそうなものである。そのような辞令書の発給は首里王府と島々と直接統治されている関係にあったことが知れる。三山統一後の与論島は北山ではなく琉球国(首里王府)の直接支配である。もちろん、首里王府の役人の派遣、引き揚げた人物もいたが、そのまま島に残ったのもいたであろう。

 与論島にもノロ制度があったことを伺わしめる旧家の系図やオモロでも謳われている。辞令書を賜るノロは公儀ノロであり、首里王府が任命するのであるから王府の意向を伝達する役目も担っている。

 与論島に首里王府から発給された古辞令書の辞令書が確認されていない。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりが具体的に見えて面白いのだが。


【古琉球の時代からの針突(パジチ・ハジチ)】

 与論島と琉球との関わりで、気になるのが針突である。パジチあるいはハジチと呼ばれている。それは手の甲や指に墨を刺すもので、模様は地域によって異なっている。針突の分布は小原一夫の調査報告を見ると喜界島から与那国島に至っている。1609年以前の琉球国全域に分布していたことになる。その起源については定かではないが、1534年の冊封使記録の『使琉球録』や1603年の袋中の『琉球神道記』に「針衝」とあるので、古琉球の時代からあった琉球国での習慣であったに違いない。1609年以降、琉球国では何度か廃止の動きがあったが、最終的に廃止されたのは、沖縄県では明治32年である。針突は琉球はもちろんのこと、1611年に分断された与論以北の奄美でも、古琉球の時代から明治まで伝えた古琉球の痕跡の一つである。

与論島以北では明治5年の廃藩置県(沖縄は明治12年)のとき針突の廃止令が出されたようだが、奄美大島は再度明治9年に出されたようである。しかし、島津の琉球進攻後も根強く続いた針突はすぐ廃止されることはなかった。与論島では明治35年まで行われていた(『与論町誌』)。古琉球の時代から1609年の島津の琉球進攻の後1611年に与論島以北を島津領とした。奄美では島津支配となるが、古琉球の時代から行われてきた針突は明治30年代まで根強く行われてきた。

 針突は喜界島から与那国島に渡る琉球国の領域で行われていたものが、政治支配の圧力はあったものの明治30年代まで根強く受け継がれてきた。1611年後島津(薩摩)支配で奄美では、琉球的なものを禁止されていくが、与論島をはじめ奄美に残った針突は、古琉球からの痕跡の一つと見てよさそうである。今では沖縄、奄美でも伝統的な針突をした女性は見られない。針突を施すと一生消えるものではない。今帰仁村でも調査した(昭和55〜56年)ことがある。当時明治10年生まれの上間マツさんと13年生まれの上間タマさんの二人が完全な針突を持った方であった。


▲明治10年生まれの上間マツさん(故人)          ▲明治13年生まれの上間タマさん(故人)


近世の与論の系図にみる琉球的なもの】

 
『与論町誌』に収録されている系図に琉球的な役職や位階などが散見できる。それが何を意味しているのか。1611年に与論島が琉球から分断されてしまうが、系図の中に琉球国の時代の役職やノル(ノロ)などの呼称に琉球の時代の痕跡を留めているにちがいない。ここで下の役職について与論と琉球との違いを検討すべきだが、余力がないので改めて述べることに。一例をあげると与論の与人と琉球の先島の与人とは呼称は同じだが役目は異なるようだ。


    
与論グスクからみた沖縄本島(国頭村の奥と辺戸)


  ▲各地における針突の図柄模様『与論町誌』より


【近世の与論の系図にみる琉球的なもの】

 
『与論町誌』に収録されている系図に琉球的な役職や位階などが散見できる。それが何を意味しているのか。1611年に与論島が琉球から分断されてしまうが、系図の中に琉球国の時代の役職やノル(ノロ)などの呼称に琉球の時代の痕跡を留めているにちがいない。ここで下の役職について与論と琉球との違いを検討すべきだが、余力がないので改めて述べることに。一例をあげると与論の与人と琉球の先島の与人とは呼称は同じだが役目は異なるようだ。

【東家系図】(城)
 琉球国司・殿内・花城大主・横目・当間横目・首里主・茶花ノル・西大阿武・掟・大掟・東風平首里主・
 大阿武・内侍ノル・親部?・与人? 

【基家系図】(朝戸村)(文政3年)
 大主・花城与論主・殿内・時之百・佐渡山・掟・目指・大阿武・琉球国司・東風平首里主・西大阿武・
 大掟・茶花ノル・内侍ノル・親部?・与人?

【滝野家系図】(麦屋)
 又吉按司・花城真三郎・里子・殿内・首里主・時之百・横目・東風平首里・掟・目差・大阿武・大掟・
 大ノル・与人?・親部?

 系図とは別に『与論町誌』の旧家は琉球北山系、あるいは薩摩役人系との根強く認識されているようだ。(ただ、北山系・第一尚氏系・第二尚氏系までの区別までは充分なされていない)。琉球北山系として石嶺(石仁家)家・竹内家・稲里家・森忠義家・サービバタ・花城(ハナグスク)(第二尚氏系?)・ムッケー・殿内バタ・基家(ヤゴー一帯)・メーダ(市家)・メーガイ屋・後伊名平(ウッスーイナピャー)・前伊名平(メーイナピャー)・前川内・東間(トーマ)・クブ・川内(ホーチ)・後田ハタ(滝野家)があげられている(『与論町誌』1265頁参照)。


【与論島の朝戸集落】

 朝戸の集落は城の集落の北側に位置する。「城集落と朝戸集落は、どこで区別しているのですか」と朝戸で聞いてみた。「与論中学校だよ」との返事。朝戸は近世から登場する村の一つである。それからすると、城の集落とは別の集団だと考えてもよさそう。朝戸の集落の道筋も、なかなかわかりにくい。城との境界線も理解できていない中、そこは城?朝戸と何度も頭をひねってしまった。まずは、朝戸自治公民館を基点に見ていくことにした。

 朝戸の集落から上手の方が標高が高くなっている。そこには高千穂神社がある。そこから東側へと次第に低くなっていく。クモの巣状の道筋や石囲いの屋敷、そして福木囲いの屋敷が目立つのは城集落同様である。高千穂神社の位置が気になる。一帯は沖縄風に言えばウタキ(あるいはイベ)ではなかったか。高千穂神社は大和的であり、比較的新しい時代(明治以降)に作られたのであろうか。神社がつくられる前は何だったのであろうか。

 そこがウタキであったなら、朝戸集落は理にかなった集落の展開だといえそう。朝戸集落で気になったのが、按司根津栄神社である。按司は琉球の支配者であり、ニッチェーは根津栄と記されるが、琉球の男神人を務める根人ではないか。それは集落の発祥と関わる家筋である。血筋を一つとするニッチェサアクラは朝戸集落を中心に移動している。按司(アジ)や根津栄(ニッチェ)を称する一族は琉球からの移住者なのかもしれない。(各サアクラについては高橋誠一・竹盛窪両氏著の『与論島
琉球の原風景が残る島』で詳細な調査報告がなされているので是非参照を)

 また、城集落には屋ゴー(湧泉)があるのに対して、按司根津栄神社の近くに木下井がある。前日の大雨で木下井は溢れ出ていた。集落の下は鍾乳洞になっていて、屋ゴーのように地下のあちこちに水路となっていて、ところどころで地上に湧き出てくるのであろう。木下井と按司根津栄神社周辺に旧家がある。高倉のある家もそうである。

 
 朝戸集落の西側の高いところにある     集落の中央部にある朝戸自治公民館

 
 ▲曲がりくねった道筋と石垣の屋敷        ▲旧家にある高倉

 
        ▲按司根津栄神社の鳥居          ▲按司根津栄神社にある拝殿

 
         井戸の側から水が湧き出ている         按司根津栄神社にある拝所(墓?)


【与論グスクと城集落】
 与論グスクの東側に城の集落が発達している。グスクに接した集落と見てよさそうである。沖縄のグスクと集落の関わりで見ると、いくつかパターンがある(沖縄のグスクと集落についてはウタキと集落と一緒に別でまとめる予定)。

 @グスク内にある集落。
     (??)
  Aグスクと接して集落がある。
   大里グスクと南風原集落、超来グスクと超来集落。
  Bグスクと接した古島集落と古島から分離した集落からなる。
   具志頭グスクの側の仲間(古島)集落と前田集落。
  Cグスクから離れて集落が形成される。
   今帰仁グスクと今帰仁ムラ集落、親泊ムラ集落。今帰仁ムラのグスクの前からの移動は
   1609年直後、親泊ムラは1609年にはすでに麓に移動している。知念グスクと知念集落、糸数
   グスクと糸数集落、名護グスクと城集落など。

 今回行った与論グスクと城集落との関係を見るとAのグスクと接した集落にあたる。その例として沖縄本島では大里グスクと南風原集落(現在八重瀬町)、越来グスクと城前集落(現在マチ的要素)(沖縄市)、伊波グスクと伊波集落(うるま市)などがある。朝戸集落も城集落の範囲と見るべきか判断つきかねている。

 与論島の城集落内を歩いていると、なかなか集落の全体像がつかめない。つまり集落の軸線が整然としていないということ。そして道筋がクモの巣状になっている。一過性の調査者には、なかなか集落の成り立ちが掴み難い。それが、グスクを拠点とした与論の城集落の成り立ちなのかもしれない。

 山原の集落を見ていく場合、ウタキ→神アサギ(広場)→集落の中央部を走る軸線がある。与論島の城集落もそう見えないか。そのような興味をもっての集落歩きをしてみた。与論スグク(ウタキ?)→城自治公民館(ヤゴー)→集落、あるいはグスク内の琴平神社とサザンクロスセンター前の鳥居→与論中学校への道筋を軸線(集落の中央線)とみるか。後者を軸線と見た場合、城自治公民館(ヤゴー)あたりの集落は、グスクの北側から城自治公民館の方へ下るように展開していったのではないか。そんな仮説を立ててみた(ただし、ここでは朝戸集落は念頭にいれていない)。
 
 通りすがりの方に、「水はどこから汲むのですか?」と訪ねると「ヤゴーだよ。公民館のすぐ近く。そこで洗濯もした」と。「すぐそこだよ」と言われたのだが、公民館を探すのに結構歩き回ってしまった。道筋がなかなか掴みにくい。やはりクモの巣状態?なり。


 
▲城(グスク)集落の中央部にある城自治公民館         ▲公民館の側にあるヤゴー


 与論島に渡る前日(28日)、宜野座村の松田までゆく。宜野座村松田から金武町屋嘉まで踏査の予定が大雨で宜野座村の松田・宜野座・惣慶まで。大雨になったため金武町まで足を伸ばせず。

 宜野座村の松田の洞窟を利用した墓を何ヶ所か見てきた。洞窟や森の崖を利用した死者を葬る葬制が気になっていた。「もしかしたら、近世から近年に至る以前の葬制(風葬)ではないか」。古琉球の葬制がどうだったのか、まだ不明である。もちろん、王陵(タマウドゥン)や浦添のヨウドレ、今帰仁村の百按司墓などは王家であったり、貴族クラスの墓である。一般的な墓がどういうものだったのか。亀甲墓、掘りぬきの墓などは近世以降のものである。今帰仁村でも1600年代後半からの墓である。それ以前は、崖や森の中、あるいは洞窟を利用した墓が一般的だったのではないか。そんなことを考えていた。

 与論グスクの西側は崖になっている。グスクの南側に崖を降りる小さな道筋が整備されていた。遊歩道だろうと思いつつ降りてみた。崖の中腹に墓がある。先日行った宜野座村の松田の墓に似ている。洗儀礼は近世的な葬制だと考えている。それは一般の人々が掘り込み墓や亀甲墓の導入と時期を同じくするのではないかと。与論島や宜野座村松田の洞窟や岩陰の墓場は洗骨以前、そして掘り込み洗骨して厨子甕を納めていく墓以前のものではないかと。洗骨して厨子甕に納めていくのは、王族や貴族であって、一般の人々は洞窟や崖下などに葬っていたのであろう。すると、与論島や宜野座村松田などの風葬は、古琉球の死者を葬る習慣だったのかもしれない。このように見ていくと、与論島の与論グスクが崖の中腹や海岸の洞窟などの風葬の跡は、古琉球の葬制なのかもしれない。


 
 
    ▲宜野座村松田の洞窟を使った墓                ▲洞窟墓への道

 
  ▲宜野座村松田の洞窟を利用した墓              ▲墓の内部

 
   ▲与論グスクから崖へ降りる道        ▲与論グスクの崖中腹にある墓

 
            ▲与論グスクの崖中腹にある洞窟を利用した墓

 
            ▲与論グスクにある現在の与論島の墓の様子

 与論島の集落の成り立ちを見ていく場合、どうしても近世から現在に至る行政村(大字)の変遷を頭に置いておく必要がある。合併と分離があるので、集落に行政村がかぶさってくるので複雑である。少し整理してみる。

 【東間切】
  ・麦屋村・・・・・与論町麦屋・東区・西区・城
  ・中間村・・・・・与論町那間
  ・茶花村・・・・・与論町茶花
  (・赤佐村・・・・与論町茶花)

 【大水(西)間切】
  ・朝戸村・・・・・与論町朝戸
  ・瀬利覚村・・・与論町立長・麦屋・城(明治21年に立長村)
  ・古里村・・・・・与論町古里

 大正6年以降に立長(旧瀬利覚)の、
   ・甲立長・・・・城
   ・乙立長・・・・立長
   ・甲麦屋・・・・城
  ・乙麦屋・・・・麦屋(大正8年に東区と西区に分離)大正9年に戸(旧朝戸村)のうち、
  ・甲足戸?・・・足戸(昭和30年に朝戸に改称) 
  ・乙足戸・・・・・叶(カノウ)

【参考文献:『与論町誌』、『鹿児島県の地名』平凡社、『与論島―琉球の原風景が残る島』高橋・竹著】


【与論グスク】
 与論グスクと北山との関わりについて史料が皆無なため困難である。これまで言われていることを掲げてみる。
  ・築城は1405年〜1416年だという。
  ・北山怕尼芝王の三男の王舅(オーシャン)が与論之主として来島し築城
  ・北山滅亡のため未完成
  ・グスクの西方に今帰仁系の子孫の安田墓がある。
  ・大道那太(北山之主の後裔)の墓(国頭墓)
 それらのことが史実かどうかについてはなかなか証明し難い。グスクの呼び方や高台への築城など、琉球のグスクの条件にかなっている。
 上のことが史実かどうかは別にして、与論の人々が北山の三男の王舅を派遣し、その系統だという認識は根強くもっている。そのことが国頭墓や安田墓を国頭(北山)あたりに向けて作られている。先祖を崇めたて、血筋として代々引き継がれているという観念は、史実として証明できないが、琉球の人々が根強く持っている観念である。それは根っこが一つであることから与論の人々も根強くもっている。1609年に薩摩がかぶさって400年近い歳月がたっても消え去ることなく引き継がれている(記録された史料はないのであるが)。そのことも古琉球の時代の痕跡の一つにちがいない。


    ▲与論グスク跡と城の集落と道筋

 
         ▲与論グスクの石積み(近年)        ▲野面積みの石垣(後方に社殿)

 
    
 ▲与論グスクのテラスに土俵          ▲後世に積まれた野面積みの石垣

 
     
▲与論グスクからみた国頭(奥〜辺戸)      ▲画像の中央部が与論グスク

 
 
▲ヤゴーへ降りる階段      ▲城の集落は石積の屋敷と福木が多い 

 
       ▲城の集落の道筋はクモの巣状になっている