ゆら~ゆら…日記 1

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2011827日(旧728日)天気:☀ 気温:31/26 (歴文センター:tama

 

 センターの展示室などの電球替えで一番、替え辛いところ・・・それは大きな展示ケースの真上のとこ!!

 そこが切れてしまったので、さぁー大変!!(@_@;)

 ▲アクロバティックな電気交換!

 本日のみーちゃん。「サバニと夢の共演?!」

 

▲みーちゃん、自慢のサバニをバックに!

 

  

     ▲サバニにゆられてぇ~                   ▲ Zzz・・・


2011年8月24日(旧7月25日)天気:☀/☂ 気温:32/25 (歴文センター:tama)

 今日は各地で「ウプユミ(大弓・大折目)」「ウンジャミ(海神祭)」が行われているのでしょう。見事な御願日和♪

 センターでもみんなで各地の祭祀の調査・記録とりに暑いなか奮闘しましたよ!

その模様はまた今度にするとして・・・

 

 今回は、出かけ先で見つけた史跡などをご紹~介~!!

 

 まずは、モノレール美栄橋駅から見えるは都会にぽつっと一カ所だけこんもりした森が残る。そこだけ緑が多いので、なんだろう?と思っていたら、しっかり説明板がありました。以下はそれを引用したものです。

 

「七つ墓」

 「美栄橋駅のすぐ近くに幽霊伝説と地名の由来となった岩山が存在する。

 この岩山には七つの墓が並んであったことから「七つ墓」と呼ばれている。昔、この岩山近くのお店に子供のお菓子を買う女性がたびたび現れた。その女性が置いていくお金が翌日には紙(紙銭・かみじん)に変わるので、不思議に思った店の主人が、ある日女性の後をつけていくと、墓の中に入っていった。墓の中を覗いてみると、驚いたことに死んだ母親の側で赤ん坊がアメをしゃぶっていたという。子供を想う母親の気持ちが現れた幽霊話である。」 (美栄橋駅近くの説明板より)

 

 これらの話しは沖縄全域はもちろん、本土にも聞かれる。しかもお隣は中国に、北はイヌイット、南は東南アジアからポリネシア諸島、南北アメリカなどの環太平洋に伝えられる古い型の伝承とされる。

 旧盆が終わったとはいえ、残暑きびしい中“ゾッ”とする話しだこと・・・

 

 
     ▲七つ墓の遠景              ▲近くには「新修美栄橋碑」が建つた


 続いては・・・「許田の手水」です。組踊「手水の縁」はまさに、ここから題材をとったとされる!こちらも説明板を引用させていただく・・・。

 

「許田の手水」

 「むかし、許田の村にたいへん美しい娘がいました。ある日この村の後にある「クシヌカー」という泉で洗濯をしていると首里の殿様が馬に乗ってそこを通りかかり、娘を見て「水を下さい」と声をかけました。娘がニーブ(ひしゃく)で水を汲むと「あなたの手で水を汲んで下さい」といったので、娘はやむなく手で水を汲んであげました。そして、娘の美しさにほれた殿様は、娘を首里に連れ去り、村人をなげかせたという話が伝えられています。それからその泉を「手水」と呼ぶようになったそうです。

 許田に橋がかかる前は、大きく入りくんだ内海(入江)沿いに道があり、遠く福地原や現在の古知屋又を迂回して、ここにたどり着きました。

 その道沿いにこの泉があり、旅人ののどをうるおしたのです。

 古くから、その泉のことは広く知れわたり、次のような琉歌も詠まれ、平敷屋朝敏作の組踊「手水の縁」にも引用されました。

 

 馬よ引き返せしばし行ぢ見ぼしゃ 音に聞く名護の許田の手水(恩納節)

 

 面影よ残す許田の玉川に 情け手にくだる水のかがみ(恩納節)

 

 汲みよ初めたる誠真実の 流れててらん許田の手水(金武節)」 (許田の手水説明板より)

 

 

  
 ▲今も水が豊富に湧いている    ▲近くに小さく可愛い石灯籠あり

  

     ▲お隣は「後の御嶽」            ▲顔の割れたシーサーが!!

  

  ▲「後の御嶽」のイビ            ▲許田の集落


2011年8月18日(旧7月19日)天気:☀ 気温:33/25 (歴文センター:tama)

 

 この前の旧盆の時、東村高江に住む叔母さんとこへいってきました。

台風9号の影響で、古いお家は崩れていないか心配で見に行ってみることに!

(現在は近くの別の場所に移住している・・・)

 

 誰も住んでいないので、草がボーボー。ミニミニスイカのようで可愛いスズメウリが実っていました。そんなとこに  目を奪われていると・・・

 

縁側にアカマタが!! \(◎o◎)/!にょろにょろ~。 

 

戻って、叔母さんに報告すると・・・

「東はアカマタいっぱいいるよぉ~!」っと、驚く様子なしでした・・・


 さすが東村!!

  ▲スズメウリが実ってます!

 

        ▲にょろにょろ~                    ▲鮮やかな色彩の持主!


2011年8月17日(旧7月18日)天気:☀ 気温:32/26 (歴文センター:tama)

 

 歴史文化センターでは、9月12~15日の4日間、今帰仁中学校の生徒さんが職場体験にやってきます。

 ということで・・・職場へのあいさつまわりに、男子2」人に女子2人の計4人の生徒さんがやってきました!

 まずは自己紹介に、出身の字、ここを希望した理由、部活動などを話してもらいました。

 (大城くん、奥原くん、上間さん、大城さんです)

 

ちなみに去年は、男子2人。それに比べ・・・(;一_一)

今回は“しっかりした希望理由”からもやる気が感じられるし、人数もいるから賑やかに、楽しく職場体験が行われそうです♪

  

 

  ▲真剣にメモとってますね!        ▲この4人です!宜しく!       


2011年8月12日(旧7月13日)天気:☁ 気温:31/25(歴文センター:tama)

 

 残暑お見舞い申し上げます。暦の上では、はや立秋。

大型台風9号が過ぎ去り、旧盆に向けて晴れ間が続いておりますが、台風の被害は大丈夫でしたでしょうか?

 文化センターは事務所、展示室の一部が水浸しになったものの大きな被害はありませんでした。

もちろん、みーちゃんも無事でした!あの強風と大雨の中、どうやって耐え抜いていたのか気になるとこですが・・・本人は変わらずのんび~りしております!

 

今日は“ウンケー”ですね。ご先祖様をお迎え♪ウンケーじゅーしー作らんとねぇ~♪

 

▲お気に入りの赤いじゅうたんの上ぇ~♪     ▲蛇口から水を飲む、潔癖症!

 

そして・・・日航ジャンボ機墜落事故から今日12日で26年になります。
 それと、2004年8月13日に米軍ヘリが沖縄国際大学一号館に墜落炎。大学1年の夏。あれから7年。

私の生まれた1985年、母はこのニュースをよく覚えているとのことで・・・

「あんたがお腹にいて、つわりがひどくて・・・横になっていたらこのニュースでしょっ!びっくりしたよ!」とのこと。(;一_一) 

 震災から5ヶ月とお盆と・・・このやんばるの地から、心からの追悼の意と平和を願います☆≡


平成23年(2011年)811日(木) 天気:晴れ (丑之介)

 

 明日は盆の入りですねー。

 毎晩星空の中、お月さまが大きくなっていくのを見とれています。

 

 7月のムラ・シマ講座(田港・屋古・塩屋)をやっと(半分だけ)アップしました。

 「ムラ・シマ講座」のコーナー(石野:まとめ)に飛んでくださーい♪

 

 あとの半分はお盆明けに報告いたします。

 ご先祖様の了解も得ておりますので、よろしくお願いいたしますm(__)m



2011年8月4日(旧7月5日)気温:32/27 天気:台風(歴史文化センター:tama)

 

 台風9号、接近中・・・ 

 8月6日は旧暦の7月7日、七夕ですね!

台風の影響で天の川は見れるかしら?お墓掃除にいかなきゃですね! 

 

 さて、この7月7日七夕にお墓掃除する理由は皆さんご存知でしょうか? 

 

 沖縄にはこんないい伝えがあるんです・・・・

この時期の天の川は、沖縄の空では水平線へとまっすぐ降りて来るようなすがたになります。そのため、この天の川をつたい御先祖たちはおりてくるのだと考えられ、旧暦の七夕はその御先祖たちを迎えるためにお墓を綺麗にして、旧盆の準備へと向かうのであります!

 

 これを知った時は感動しました☆

星の動きと御先祖さまの迎えとの関係★ 

 

 沖縄に限らず、日本全土、世界的にも星にまつわるいい伝えがあるかとおもいますが、調べていくと面白いかもしれません♪

 同じ星空でも、ところ変われば星の見え方などがかわりますからねぇ~。 

 

 そう“星と人”といえば・・・「スターナビゲーション」という言葉をご存じでしょうか?

 

 星、月、太陽の位置などを頼りに航海するという航海術のひとつです。

 コンパスや羅針盤などといった航海機器を持たない時代から伝えられてきた技術であり、ポリネシア文化圏に伝わる。

“スター”といっても星などの天体に限らず、風・雲・波・海鳥・クジラ・島などあらゆる自然環境を利用しての航海術であるのです。

 こうして、人々は自然と関わってきたというひとつの足跡を知ることができます。

 これらを現代にも継承するべく活動されてきましたが、この古式伝統的航法術の達人であるマウ氏が去年他界されたそうです。

 さまざまな伝統が消えゆく中、こうして伝承者もが消えゆくと考え深いものがありますね。

 

 古宇利島をはじめ、やんばるの神行事も同様です・・・。

 今見てる神行事が近い将来消えゆくかもしれないと考えると、今のうちに記録をとらなくては!とますます気合が入りますし、ますます神行事への敬意などが湧きあがるものです。しっかりみて、記録して、何十年後には若者たちへの語りべとならなくていけませんね・・・。

 

 星のお話しをもうひとつ・・・今月、旧盆頃をピークに「ペルセウス座流星群」が観測できるそうですよ!晴れるといいですね! 

 

 さて、城跡もセンターもみーちゃんも台風対策しなくちゃですね!


       ▲嵐の前の空・・・              ▲嵐の前のみーちゃん・・・


2011年7月22日(旧6月22日)天気:☁/☀ 気温:32/28(歴文センター:tama)

 

 昨日、名護にて「ノロや位牌伝承の歴史的背景」をテーマに館長が講演会を行ないました!その時の様子を画像で紹介!

 ノロ継承の争いの事例、一門の今帰仁拝などをお話しした館長。結びに「歴史的な史実とは別に、自分たち一門の先祖の伝承の歴史をもつ!」「一門の伝承の歴史にすがっているのが今帰仁上りや東廻りである」との言葉に皆さんうなずく・・・

 

 二時間弱の講演のあと、位牌や火神、ノロ地などといった質疑応答もたくさん飛び交います。

 

 ただ、ただ、マイクが無かったことが辛かったですね・・・館長・・・(;一_一)

 

 この話題は、館長の「センターの調査記録」でもチェックできます!

 

 

▲タイトル違うのに気にしなぁ~い♪
  機関名が違うのに気にしなぁ~い♪ 舘長で~す!


 
       ▲会議室は満員!             ▲マイクが無くて辛そうな館長

 

   ▲協会会長、お礼のあいさつ


2011714日(旧614日)天気:☀(晴)気温:31/27 (歴文センター:tama

 

 今日は歴文センターに突然のスター☆来館でスタッフみんなソワソワした日を過ごしておりました♪
 さて先月、着物の寄贈がありました。それを今回展示しました!
! 

  
       ▲展示中・・・                   ▲右から3番目!

  
  ▲着物ブースに仲間入り♪      ▲キャプション製作者:丑之介氏

 

 キャプションより・・・この着物は、兼次の玉城マツさん(明治生)がお嫁入りのときに、自分で織って持ってきたもので、マツさんの長女の与那嶺節子さん(大正9年生まれ)が大事に保管していました。

 素材はフィリピンウー(苧麻)で、藍染め、横絣の着物です。

 嫁ぎ先の兼次の家には土と石灰で作った藍壺(エーチブ)があり、糸を染めていたそうです。

 今回はその節子さんのお兄さんにあたる、玉城清栄さんが節子さんの娘より譲り受けたもので、清栄さんとその息子・清一さんより歴文センターでぜひ役立てて下さいとの寄贈でありました。

 その気持ちを大事に、展示することで多くの方々に見ていただきたいと思います♪

生地が柔らかくて、すごく保存状態が良くて、寄贈者が本当に大事にしていたことがひしひしと伝わります♪

 大事な品を寄贈してくださるのは、本当にありがたいことですね。この場をかりて、館長をはじめ歴文センターから感謝いたしますm(__)m

 


平成23(2011)年712日(火) 天気:晴れ(usi)

 

 でっかい入道雲が、青空を流れていきます。

 ん~、夏だにゃあ~。

 ワシワシワシワシ・・・(注:セミの声)。

  

 昨日、BS日テレの番組で、お館さまと一緒に古宇利に行きました。

 

アイアイアイアイアイランド~♪恋の島古宇利☆

 

 空は青いし、海は透明感バッチシだし、

 紫外線は100パーセントだし・・・(*_*;

 まぶしくて目はクラクラ、毛穴まで焦げるか・・・とゆーくらいの暑さでした。

 

お館さまと黒ワンコ

 

 10時の約束だったのですが、なかなか来ない撮影隊のみなさん。

 あまりに暑いので、シラサの向かいのお宮の陰で待機。

 お館さまのコーヒー(ジョージアのカフェラッテねv^^v)を狙ってか、

 近所の黒いワンコがやってきました。

 

 人なつっこいワンコで、丑の靴の上で、かゆいしっぽをカジカジしてます~(^^;)

 

     マイク付けま~す♪      人類発祥伝説の説明をするお館さま

 

 やっと、スタッフの皆さんが到着。早速撮影に入ります。

 右の写真のお二人が、番組の案内役の方です。

 

シラサの岩場で、人類発祥の洞窟の説明をするお館さま

 

・・・・そのとき、黒ワンコはと言うと・・・・、

 

・・・・洞窟の中で、一生懸命砂を掘っていました~♪

 

洞窟内で、海神祭の説明

 

 お館さまの左で話に聞き入っているのは、橋詰広場で食堂を営んでいる玉城さんです。

 

          海と黒ワンコ

 

 無事撮影は終了。

 でも、何という番組で、いつ放映なのか、お館さまに聞いても「さあ~?」・・・・。

 ですので、たまたまテレビを観て「あ! カンチョーだっ!」と気づいた方は、めっちゃラッキーです☆

 

さて、この時期古宇利でのお楽しみは何と言ってもウニ丼!

 あと3日くらいでウニも終わりというので、お館さまのおごりで(ピース)、ウニ丼を食べましたよ~ん♪

 

この季節の贈り物~ウニ・ウニ・ウニ

 

 ウニと海ブドウがたっぷりのウニ丼! 

 でもね~、ご飯がパサパサで、ウニの按司・・・じゃなくて味が減ってしまったの・・・。ぐすん。

 来年はお米も美味しいウニ丼をさがして、たらふく食べるぞお!



平成2379日(土) 天気:晴れ 一度だけ大雨

 

 みなさん、こんにちは~。

 今日も暑かったですねぇ。

 でも今年はお盆が新暦と重なっているので、意外と早く暑さのピークは過ぎてしまうかもしれませんよ。

 

・・・・というわけで、今日はムラ・シマ講座でした。

 今回は大宜味村の田港・屋古・塩屋を訪ねました。

 

 で、報告をしたいなー、しなくちゃなーという気持ちは山々なのですが、

 なにぶん、めっちゃ暑かったのと、

 今帰仁の道の駅そ~れで美味しいお昼をたらふく食べたせいもあり、

(もちろんお館さまはぜんざいを食べましたとも!→Nみじさんも、Yきさんも、Rぞう君も!)

 丑はチルダイの波に飲まれかけています。

 

 ですので、真面目な報告は来週のお楽しみに取っておくとして、

 今日は久しぶりに「ゆら~ゆら~」らしいまったり系の報告をしていきましょう。

 

①館長の足


 これは館長の足です。

 去年の秋に、名桜大学のホールで講義をしたときの足です。

 館長はよく、こういうポーズでお話をします。

 きっと前世はバレリーナです。

 

②野球少年たちの背中

 

 

 


 ことしの5月、今帰仁中学校野球部の合宿にて。

 講話の最中、丑は一番後ろでぼーっと聞いていたのですが、子どもたちのTシャツのメッセージが面白くて撮りました。

個人的には「ツーアウト満塁フルカウント」の心臓バクバク感が好き♪

 

③虹と半虹

 


 昨日の夕方、6時半ごろ。

 大雨のあと、サッと晴れた空に虹がでました。

 大きな虹の左側に、もう一本薄くて半分の虹が出ています(見えるかな?)。

 虹は今帰仁ヌルドゥンチ跡付近から志慶真ムラ跡にかけて、橋を架けていました。

 七色の神道・・・・・。

 

④その時みーちゃんは・・・


 虹は空に輝き、みーちゃんは歴史文化センターの玄関の赤いマットの上で熟睡中。

 写真を撮ったら、むっくり起きました。

 かなり、目つき悪いっす。

 

⑤恋するいっちゃん?


 ムラ・シマ講座に参加して下さっているいっちゃんです。

 初登場です。

 最近おしゃれなので(昔はツナギばっかだったしー)、

「いっちゃん、恋してるんですか?」と聞いたら、にっこり笑って、

「みんなに(はあと)」。
 


2011年7月7日(旧6月7日)天気:☀/☂(晴/雨)気温:31/28(歴文センター:tama)

 歴史文化センターに新しい仲間が♪ウサギさんです♪
 今年の干支だから来たのかな?
 ネコのみーちゃんは、縄張り守ってますが・・・(^_^;)


  

    ▲大きなソテツの陰でひと休み          ▲草をハムハムしてます♪

 今日は7月7日(七夕)。最近は月明かりも少なく、お天気も良いので天の川がよく見えますね☆

 今帰仁村のおとなり、本部町の海洋博(海洋文化館)にて最新型のプラネタリウムが導入されたようですよ。1億個の星を映しだすことができ、上映内容も沖縄での星座の呼び名や星にまつわる民話などを紹介していてよかったです♪

 ここ歴史文化センターにもプラネタリウム?星空?が存在するんですよ!ご存知??

談話室にて・・・壁にミニ企画展などで使用する黒の展示ボード。ピンで展示物をとめたり、はがしたり繰り返していると無数の小さな穴があき、外からの明かりで偶然にも星座シートのようになっているんです♪
(画像だとわかりづらいですね・・・) 

  

    ▲壁の黒いボードをよ~くみると小さな穴

   ▲小さな穴から外光がもれて星空に??


201175日(旧65日)天気:☀(晴)気温:32/26(歴文センター:tama

  今帰仁城跡に日時計??\(o)/!

 「陰ができるな!」など言いながら、館長と実験中・・・

日時計の巨大石の実測!最大の所では3m35㎝もあります!

 


 ▲日時計?の巨大石のスケッチ

 

  

   ▲バッチリ陰が!                 ▲館長実測中パートⅠ

 メジャーも持ってることだし“ウーニ”も実測してみました!

 本部ウーニは、途中で切れているものの全長13m30㎝ある。一方、今帰仁ウーニは5m50㎝。道路で寸断されてこのサイズだと考えられる・・・ 二つのウーニはそれぞれ違う方向を向いているが、向きにも理由があるのだろうか??


  ▲レコーラウーニのスケッチ

 

  
       ▲館長実測中パートⅡ                     ▲館長実測中パートⅢ 


2011年7月1日(旧6月1日)天気:☀(晴)気温:30/26 (歴文センター:tama)

 

 7月ですね!新暦と旧暦がいっしょですね!もう、今年も半分過ぎ下半期ですよ!

 岡本太郎氏が生誕100周年を迎えた!!

沖縄でも記念して「岡本太郎と沖縄」と題して企画展が沖縄県立博物館・美術館で行なわれた。

 岡本太郎氏がみた沖縄を、“あの時代”の沖縄を、見てみたかったので最終日に慌てて足を運んだ。

 最終日ともあってか、たくさんの人がいました!

(ちなみに・・・同日に同館で別の企画で写真をテーマにしたのがありそのゲストが気になりつつ・・・(;一_一))

 展示には、岡本太郎氏の絵画や造形作品などが並んでいた。本物だ!!

 作品のスケールのデカさと、扱う素材が多岐にわたることなどから彼の天才ぶりが窺える。

 また、彼がにっぽん各地方で行なわれる祭りの記録写真やにっぽんの風景、沖縄での写真やそれらを記録したノートなどがあった。

 約2週間ほどの滞在で彼は精力的に沖縄を廻ったようで、北は大宜味村に南は糸満、久高島ではイザイホーや宮古島などでは種取祭など、祭祀記録が何点も存在していた。

 それらをみて、感じた彼は「ここが世界の中心だ!」と表現した。
そうかもしれない!!神が宿り島・・・

それはかつての“にっぽん”全てがそうであったはずだ・・・

沖縄もそうであったはずだ・・・

 だからみたかったのだ!“あの時代”の沖縄を!彼が“恋した”沖縄を!

  

   ① たくさんの人がいた!           ② 巨大な“TARO”ポスター

 

  

      ③ 壁に感想がペタペタ!             ④ 太陽の塔いっぱい♪

 

   

  ⑤ タイトル「只今 妊娠中」       ⑥ タイトル「たいようのくくる」

 

 展示室を出ると、壁には展示をみての感想がたくさん貼られていたり、ワークショップでの作品が並んでいました。子ども達の作品かなぁ~。いいセンスしてますよねぇ~。


2011年6月22日(旧5月21日)天気:☀/☁(晴/曇)気温:31/27(歴文センター:tama)

 

今日は二十四節季の「夏至」ですね。

 

今さらですが・・・(;一_一)


去った6月5日は旧暦5月4日(ユッカヌヒ)でしたね♪

みなさんの地元でも、ハーリー競争などのイベントがありましたかな?
 

tamaは相変わらず、ふらぁ~っとしていたら「前兼久ハーリー」の横断幕を発見!

すかさず漁港へ。時間的にすでに御願やハーリー競争は終えて、みなさん“オリオン”片手に、イイあんべーしてました。少しハーリーの雰囲気を味わいつつ、前兼久集落を歩いてみることに・・・

  

 ちなみに・・・恩納村誌によりますと・・・「五月四日ハーリー 大正十年頃から字行事として行われるようになった。アガリ川根の拝所で午前九時頃からの海幸祈願、しかる後に男女若者は浜まで行列。十時頃からハーリー競争の行事が行われる。」と! 歴史ありますねぇ!

        

   ▲ハーリー船には恩納ナビーの絵が!       ▲ハーリー船の格納庫!

  

 ▲漁港の隣りの広場では子ども達が遊ぶ♪

 

 

     ▲広場には慰霊塔と・・・                 ▲龍宮神

 

 前兼久集落のほんの一部を歩いたら、すぐに58号線にぶつかってしまいました。集落内では、拝所らしきところは見当たらず、気になったのは58号線の道向かい・・・山手側!(今回はそこまで足を運ばず・・・)

 

 さっそく館長に尋ねてみると、やはり山手にウタキがありましたぁ~。

前兼久は、冨着ムラから分かれてできた集落なんだそう!

う~ん。やはりムラ・シマ歩きは面白いですねぇ! 


2011年6月15日(旧5月14日)天気:☀ 気温:31/26(歴文センター:tama)

 

 つい先日、気になっていたお店を探すため読谷村字都屋内をウロウロ・・・そしたら発見してしまいましたよ!拝所!見逃しませんよぉ~!

(ちなみに、探していたお店はその拝所のお隣でした♪)

 ここは読谷村字都屋。都屋漁港より東側にある「ティラヌガマ」と呼ばれる約40坪、底まで約6メートルの縦穴洞窟である。降りるにははしごが必要のようだ。

(降りてみたい・・・)

 

「その昔、北山の高貴な武士が追手からその難を逃れたところとして拝まれている。

 九月十八日に字や各家庭の繁栄と子孫繁栄を祈願している。」(読谷村史より) 

 

 なんと!北山と繋がりが!驚きですねぇ~。

と、関心をしめしていると・・・6月14日の沖縄タイムスに「ティラヌガマ」の記事を発見!タイムリィ~~~♪(時期的にね・・・ガマはね・・・)

その記事によりますと・・・
 

【沖縄戦の米軍上陸前、1944年の10・10空襲の際、都屋住民が避難したガマが約40年ぶりに区民が入り、戦中に使用していた日用品や水場などを見て回った。(中略)阿波根区長は「今後は安全に降りられるようなはしごの設置をして、戦争を語る場所として活用したい」と力を込めていた。】(2011年6月14日 沖縄タイムスより)

 ガマのすぐ隣には慰霊塔が設置されており、子ども達への平和学習の場として適しているだろう。(ぜひ、降りてみたい・・・)

 ガマ入口の祠には「未来につなぐ 歴史の広場つくり」という言葉が刻まれていて、区長さんをはじめとする都屋住民の子ども達への熱く、強い思いがひしひしと感じられる!


 ティラヌガマを通して、今年の慰霊の日も戦ヌ世に思い馳せ、平和を願いたいと思います・・・・。

  

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▲木がはえるとこがガマ、手前に祠、右側に慰霊碑(周辺には住宅地と漁港)

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      ▲祠内の香炉にメッセージにと、都屋区民の熱い思いが伝わる・・・

 

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  ▲危険防止に鎖で囲まれている             ▲大きな口を広げているこの存在感・・・

 

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  ▲ガマの上には住宅が建つ      ▲慰霊碑には多くの名が刻まれている


2011614日(旧513日)天気:☀→☁(晴→曇)気温:28/26(歴文センター:tama

 【みーちゃん。】 

 

「虎」ならぬ・・・トラロープと戯れる。ってか・・・寝ている!!

 可愛いお手てでロープを握っているのがいいですね! 

朝陽を浴びていい顔するなぁ~♪

 

 

 ▲「トラ」とたわむれております♪       ▲光合成中・・・(笑)

 

 

【調査の報告】
 さて、火曜日、館長は大学の授業がある日で、いつもはtamaも丑之介さんもお供するのですが・・・今日は字諸志(旧諸喜田ムラ)の年中行事があるのでtama&丑之介さんはその調査へ。

 今日、旧暦5月13日に行なわれるこの行事は「御崇(ウカタビ)」と呼ばれるもので、神様をお迎えし、今日・明日とゆっくり休んでもらって明後日の五月ウマチーの時に働いてもらうための御願のようである!(年2回ある大きい行事の一つ) 

 13時半から崎山のヌンドゥルチ(シチャマノロ殿内)にて、この御願に参加するのは兼次・諸志・仲尾次・与那嶺・崎山の5部落である。また、この日の御願は女性のみしか参加できないので、各字の書記さん等が供物のお神酒とお線香を持参してやってきました。
(兼次の書記さんは身内の不幸で参加できず・・・) 

          

▲ちょっと早めにいったら、すでにヌンドゥルチのお掃除をする神人さん

       

  ▲字の書記さん御願の準備♪                 ▲神人さんもスタンバイO.K♪

 

 お供するのは、お神酒とお線香で各字、お神酒(1)お線香(4)であるが、諸志だけは2つのムラの合併なので(諸喜田ムラと志慶真ムラね!)倍のお神酒(2)お線香(8)を用意する。お線香は4本中2本は、ヌンドゥルチ入口の香炉に立てかけ残りは、ヌンドゥルチ内の真ん中の香炉へ。

 それらの準備が始まると、神人さん(字崎山)が神衣装に袖を通します。ひとり補佐役で諸志の書記さんもヌンドゥルチ内に入り、お神酒をつぐ役を担います。

各字のお神酒をひとつのコップに注ぎ、香炉へかけ皆でウートートー。それから後ろを振り返り、入口の香炉から皆でウートートー。

(入口にある香炉はスガーウタキへの遥拝のもの。)

  

▲神衣装をまとう                 ▲ヌンドゥルチでの御願

 

     

  ▲女性パワーでウートートー        ▲クルっと振り返り・・・ウートートー

 

 以上で神人さんは神衣装を脱ぎ、今日の御願は終了。

明後日、旧5月15日のウマチーへと、この行事は続きます。また調査報告していきたいと思います♪

 


平成23610日(金) 天気:おっきな雲が広がるいいお天気 ちょっとだけ雨も

 

 きゃ~、明日はムラ・シマ講座の日じゃないのよー。

 今日中に我部の報告をupしなくっちゃー。ワッセ、ワッセ。

 

  ▲オランダ墓の下、今帰仁の対岸で、お館さまが語る!

 

 さて、1846年、フランスのセシル提督の一行は、琉球と通商条約を結ぶことなく長崎に向かって行きました・・・・幕府と島津氏の「鎖国に影響を及ぼさない限りにおいてこれを認む」という密約は間に合わなかったのですね。

 

 その翌年、1847年、在番奉行の役人が、薩摩藩の家老の密命を受けて、密かに運天港にやってきます。

その目的は「運天港の実地見分」。 運天港の水深等の調査の外、屋我地島・古宇利島などの地形調査を行なっています。

 

なんで、薩摩役人がワザワザお忍びで測量に来たのでせうか?

 

それはですね! 

ジャーーーン!!

 

「古宇利と屋我地を、出島化したかった」ためなのです!!!

 

フランス艦船が琉球を出た後長崎へと向かったのは、長崎の出島が唯一の外国との貿易地だったからです。薩摩藩は運天港に商館を建て、反物とフランスの貿易品を交換し、うまくいけば、長崎市場にも参入しようと考えていたようです。

ひゃー、スケールでかーーーい!

 

一地方行政が、中国はもとよりヨーロッパと独自に貿易を行なおうと、営業計画を立てていたんですよ~。

 

この発案は、当時の藩主だった島津斉彬(なりあきら)君の構想です。

島津斉彬と言えば、「富国強兵」「欧米に追い付け追い越せ」を強硬に推進した人物で、アメリカから帰国したジョン万次郎を保護し、部下に西洋式の造船法を学ばせるなどの他、ガラス製品(現在薩摩切子で有名!)・溶鉱炉の建設・地雷作成・ガス灯・・・・などといった近代工業に力を注ぎました。

49歳の早すぎる死は、毒殺説もあるようですが、斉彬の死によって、古宇利・屋我地の出島計画はとん挫してしまいます。

 

この出島計画が実現していたら、運天は、今帰仁は、琉球は、どんな歴史をたどっていったでしょうね~。オランダ墓の前で、お館さまが熱く語っておりました!

 

 

【大堂原の海岸】

 

   ▲古宇利大橋を渡らず海岸に降りる           ▲石切り場の跡

 

 ムラ・シマバスは一路古宇利大橋へ!!

ここを渡ると、橋詰め広場があって、美味しいアイスクリームを売っているお店があって・・・・なのですが、今回は渡りません(T_T)。橋の手前で海岸へと降りていきます。

この浜は貝塚時代の遺跡であり、沖縄本島で最古の人骨が出土した場所(橋の反対側))でもありますが、県内でも最大級の石切り場の跡があります。

石大工の人達が切り出した柱の跡が、直角に、段を成して残っている様子は見事です。

 

 

      ▲板干瀬のようす                   ▲貝が化石化している

 

 この大堂原の海岸は板干瀬(イタビシ:ビーチロック)になっていて、板干瀬が形成されていく時に化石化した貝をたーくさん見ることができます。

 ビーチロックって、これのことを言うのか!と、今まで見過ごしてきたものに新たに「意味」を見出して感動した丑です。

  

     ▲最年少の凪人くんなんだけどね・・・

 

 今年度のムラ・シマ講座には、小学生の凪人君がお父さんと一緒に参加しています。うるま市からの参加なんですよ~(@@)。

 でもね・・・凪人くん、お話が難しくって、ちょ~~~っとチルダイしています。大人だってワケわかんない話が続くんだもんね・・・。無理しないでいいんだよ。凪人くんが来たいときに、参加してね。

 

 ・・・・と、以上かけ足ではありましたが、明日のムラ・シマ講座までには報告、間に合いました。めでたし、めでたし(^^)。

 

 丑之介は明日のムラ・シマ講座はお休みしますが、菜美路さんが分かりやすく、瀬底の話をしてくれますので、ご期待くださいねっ(^_-)-


平成2369日(木) 天気:晴れ

 

 梅雨明け宣言してもいいんじゃな~~い?と思われるほどのカンカン照り・・・風は気持ちいいけれど・・・。

 その中を昨日の午後、お館さま、丑、菜美路ちゃんの三人で、来る土曜日のムラ・シマ講座の下見に行って参りました。

 

 行き先は瀬底。でも昨日はカメラを持っていなかったので、ゆらゆら報告はなしねー、ただ以前に私がアップした健堅の報告だけチェックしとこーと思い、ゆらゆらを読み返したら、あら?前回のムラ・シマ講座(我部)の報告の後半部、やってないじゃなーい! やっばー、忘れていましたよー、ということで慌てて続きに着手いたしましたっ!

 

【平松之趾碑】

   ▲「平松之趾」の前で熱唱する「セイジ&ノリ」

 

 この一帯は小高い丘状となっており、周辺をぐるりと松並木で囲われた場所で、集落の保護林として植えられたものです。

 丘の周囲、低地の部分はかつての湿地帯で、もともとの集落はこの辺りの小高い場所に居住していたのですね。

 

 この平松之趾碑には琉歌が掘られています。

 「朝凪と夕どり やかち漕じ渡て 我部の平松に 想い残ち」

 琉歌の大家である山内センセイが解釈して下さいました。

   「夕暮れになると、屋我地へと舟を漕いで渡ってきた。

     そして朝の凪の海を、また船を漕いで渡っていく。

      逢瀬を楽しんだ我部の平松に想いを残して」

 ん~、なーんて艶っぽい唄なんでしょう~。でも下調べで訪れたとき、下の道で掃き掃除をしていたおじいさんが言うには「ここは昔毛遊びの場所だったので、松を切り倒した」・・・(^^;)。無粋にも聞こえますが、自分ちの娘息子が夜な夜なケータイ片手に松林に出かけてると知ったら・・・・ユンボ入れてすべてなぎ倒しますね、丑なら。

 

 この唄はよーてー節の節回しで歌われるもの・・・・だそうですが、丑は「よーてー節」ってどんな曲だか知りません。それで、ムラ・シマ講座が世界に誇る民謡歌手「セイジ&ノリ」のお二人にご披露して頂きました・・・今回参加できなかった島隆課長がいれば「セイジ&ノリ&タカ」のユニットだったハズ・・・・。

 

 歌って下さった節を聞いてビックリ! 「あら~、これは波之上の古ガンチョーの唄じゃな~い?」

 なーんだ、知ってる~♪ 心の中で平松に捧げるウタを歌っていた丑です。

 

 さてこの丘の饒平名側には豊年祭の舞台が設置されています。通常豊年祭の舞台は上アサギの前にしつらえ、ムラの神様に向けて演じられるのですが、この舞台は我部・松田両ムラの神アサギから離れた場所にあります。

 前述したおじいさんに伺ったところによると、かつてはアサギの前に作っていたが、場所が狭かったので、ここに設置したとのことです。しかし、確かに神アサギには向いていないけれど、よく観察してみると、舞台はウタキの方向に向かっていることが分かります。

現在は神アサギ前で扇舞をし、その後ここでウドゥイを行ないます。 ちなみに屋我地島では五つの部落が交替で豊年祭を行なうため、豊年祭は5年マールーとなっています。

  

【オランダ墓】

 

 ▲オランダ墓への途中にあった、石碑のあるお墓

 

 セイジ&ノリの歌声に拍手喝さいした後、ムラ・シマ一行は運天原にあるオランダ墓へと向かいます。

 10年ほど前に行なわれた沖縄サミットのおかげで、オランダ墓への道ができ、見学しやすくなりました。平成6年か7年かのムラ・シマ講座でオランダ墓を訪れた時は、潮の時間を見て、干潮のあいだに大急ぎで調査したんですよ~・・・・でもそんな難儀も嬉しい難儀でした~。

 

 写真はオランダ墓への途中にあったお墓です。道の上の方にあるので気づきにくいのですが、通り過ぎようとしたとき、フッと石碑があるのに気づき、「あれ?普通のお墓に石碑があるのは珍しいな」と思い、菜美路さんと二人、列から離れて登ってみました。

 

 碑文には「故陸軍兵長上地完保之墓」「西暦一九六四年 三月十一日」とあるのみで、いわれなどは記されていませんでした。日本陸軍の兵長として、この地で戦死なさった方なのでしょうか? 機会があれば、調べてみたいと思います。

 

 

    ▲龕屋(ガンヤー)                     ▲龕屋の内部

 

 オランダ墓への道が整備されたおかげで、運天原の龕屋(ガンヤー)見ることができました。龕とは、人が亡くなったときに、遺体を入れた棺を乗せて運ぶ道具です。ムラ共有のものなので、ムラで管理保管し、使わないときは龕屋に納めておきます。

 左の写真が運天原の龕屋です。前面の石が崩れて、中がのぞけるようになっていました。

右が龕屋の内部です。壊れてはいるけれど、まだしっかりした形をとどめています。朱塗りの一部が残っていますね。緑色は塗料なのかな~。中が真っ暗で、よく分かりませんでした。

 

  

   ▲フランス人が眠るオランダ墓             ▲オランダ墓の墓碑

 

 オランダ墓です。詳しいことは『なきじん研究3号』と『9号』をご覧ください・・・なーんてシリヌゲよっかなーと思ったけど、分かりやすくご案内いたしましょうね☆

 

 「オランダ墓」とはオランダ人を葬った墓ではなく、西洋人を葬ったお墓のことです。うちのばあちゃんなどは外国人のことを「ウランダー、ウランダー」していましたが、当時の日本は鎖国政策により、キリスト教の布教を目的としないオランダと交易をしていたため西洋人はみんな「オランダ人」なんですね。山原では屋我地島のオランダ墓と、国頭村宜名真のオランダ墓の二ケ所が確認されています。屋我地のオランダ墓にはフランス人が、宜名真のオランダ墓にはイギリス人が葬られています。

 

 さーて、これからお話は大きくなりますよーん!

 世界史と日本史と琉球史のからみ合いの始まり始まり~(^^)/~

 

 1797年にですね、初めて外国船(イギリス船)が琉球にやってきます。その後ほぼ50年の間にイギリス・アメリカ・フランスなど70隻以上もの外国船が琉球を訪れていますが、こんなちっちゃなシマに欧米列強国がやってきたそのワケはナニ!?

 

琉球にやってきた最初の頃は

 

1.キリスト教の布教

2.探険測量

 

・・・・などの目的だったのですが、1840年のアヘン戦争(あ~、世界史の教科書に出てきたわよね。えっと、確か中国が関係してたわよね・・・イギリスと中国:当時の清:とのアヘン密貿易をめぐる戦争。イギリスの勝利によって東アジアにおける中国を中心とした体制が崩れたこと、欧米の東アジアへの市場進出がもたらされた)の後、来琉の一番大きな理由は

 

3.琉球と貿易がした~~~いっ(ウチの商品を買って買って、買え~コラっ)。

 

となっていったのでありました。

 

 産業革命のおかげで綿織物がどんどん作られて、国内でさばききれないから、外国に売りに行かないといけない。その相手が中国であり、インド、さらにアフリカです。アジア・アフリカ諸国のほとんどが西欧の植民地(武力・経済の強―い国のドレイのような状態になること)になっていったのは、こういう理由があったから、なんですね~。

 

 清国がイギリスに敗戦したことを知った江戸幕府は、非常にショックを受け、それまで「異国船打払令」などを出して「エゲレスなんか怖かねーぞ」と言っていたのに、「薪とお水くらいはサービスしてあげてもいいっすよ」(「薪水給与令」)と態度を軟化させ、開国の下地が作られていくのです。

 

 で~、海外列強のみなさんは、清が東アジアのトップから転落したことを背景に、まずは琉球と通商条約(モチロン欧米側に有利な条件です)を結び、次いで一番の目的である「日本のマーケットを手中に!」を狙い、日本を開国させようと、琉球めざしてやってきたわけです。

 

 さあ、やっと運天港にたどりついたぞ。

 

 1846年、那覇港から運天港に回航し、6月から一ヵ月間滞在したフランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号は三隻ともセシル提督率いる軍艦で、乗組員も総勢

1100人と多人数! ご飯作り、大変だったでしょうね~。

 

セシル提督は琉球に通商条約を結ぶことを要求しますが、琉球側はそれをやんわりと断り、お土産をあげたり接待したり、交渉を長引かせて、うやむやの内に「早くおうちに帰ってくれないかなあ」と琉球スタイルの外交を展開します。

 

一方、琉球のこの出来事を知った江戸幕府はどんな動きをしていたのでしょう?

 

薩摩藩の首脳部と江戸幕府との間で、「琉球をどうしよーか」との秘密会議が開かれます。

当時の琉球は、薩摩藩(=島津氏)が支配しており、琉球に関する実権を持っていたのですね。

で、島津氏は、「日本の鎖国政策には影響しないように注意するからさ、琉球だけでの貿易を認めてくださいよ。貿易の利益はもちろん幕府にも入りますし」と、条件付き条約受け入れ案を出します。幕府はそれに乗って、暗黙の了解を与えます。

 

なーんか、今の基地問題の根っこを見ているみた~~い。

 

けれど、ヤマトの政治の中枢部で、こんな密約が交わされているなんて知らない琉球側は、セシル提督が船に役人を乗せたり、上運天の海岸に降りて威勢を示したり、まー、いわば脅したりすかしたりしながら何とか条約を結ぼうとしているのを完全にスルーして、

「だってー、ウチ、外国に出すほどの物はな~んにもないんですよー、てへへ」

と、ついにはセシルをあきらめさせてしまうのです。

 

 その後、とぼとぼと長崎に向かうセシル軍団でありました。

 

・・・・・とまあ、長い前置きではありますが、フランス艦船が運天に滞在した一ヶ月の間に二人の乗組員が死亡し、琉球式に葬ったのが、このオランダ墓です。

 

二つの墓碑は全部漢字で記されていますが、読み下してみますと、

■向かって右側の墓碑

大フランス国戦船フレガット・クレオパトール  

老将ギタール洗礼名フランチスコカールの墓

西暦一八四六年需安月二十日病故

     (注:需安月は6月)

■向かって左側の墓碑

  大フランス国戦船コルヴェット・ビクトリアス

  老将サーリョ洗礼名ヤコブの墓

  西暦一八四六年需安月十一日病故

  (読み下しは「金石文から読む歴史」村上仁賢氏による)

 

 二人とも墓碑に「老将」と記されていますが、これは故人に対する尊称で、実際はギタールさんは23歳、サーリョさんは35歳でした。

 

 面白いのは、オランダ墓の「墓スージ」の記録です。この事件の30年前に漂着したオランダ人を葬った時の前例にならって、

・小豚一足 ・庭鳥二羽 ・浜焼鯛二鉢 ・九年母二鉢 ・餅二鉢 ・仙香一結 

・ワラ唐紙(打ちカビのこと?)十枚 ・焼酎二瓶 ・蝋二丁

をお供えしています。

 これを見たセシル提督以下、フランスの皆さん、キョーミしんしんだったでしょうね~。

 葬られた当人お二人は無事フランスのグソーに辿りつけたでしょうか?

 丑は二回目にオランダ墓を調査に行ったときには、缶コーヒー(カフェオレよ、もちろん♪)をお供えいたしました(^^)。

 

 さて、セシル提督率いるフランス艦船の物語はこれで終わりますが、歴史は動いていきます。

 

 でも、ここまで書いたら、頭がとても疲れてしまいました。

 それに時間もないし、お腹も空いたので、続きは明日のこの時間をお楽しみに~♪



平成23年6月7日(火) 天気:夏夏夏夏ココナッツ♪ 

 

 もうすぐ梅雨明けでしょうか?

 

 ハーリーも済み、海風と共に夏日が到来しています。

 

 さて、去る521日土曜日に、那覇市壷屋にて「沖縄県博物館協会~春の研修会」が行なわれました。

 今回のテーマは「博物館と自然災害」で、前日は「博物館と保険」や沖縄県の地震について講演がなされました・・・が、こちらは今回参加しておりません。二日目の現地研修からの参加です。

 

 思い返せば丑が「ゆらゆらデビュー」を果たしたのも、昨年の沖博協春の研修会がきっかけでしたねー。あれから一年か~。ゆらゆらもしっかり成長しているではゴザイマセンこと?

 

 研修会の参加者は、歴文センター運営委員長の仲嶺委員長、広子委員、丑、菜美路ちゃんの4名です。

 委員長の仲嶺委員は、今帰仁グスクガイドの会の代表でもあり、また広子委員は昨年のこの春の研修会で、「日本人離れした広子さん」というショーゲキ的なゆらゆら出演を成しえたのをご記憶の方も多いことと存じます。

 

【朝の平和通り~壷屋焼物博物館前】

 

さて当日の朝7時に教育委員会駐車場を出発。

誰も寝坊しないで良かった良かった。

公用車を公設市場近くの駐車場に停め、朝の平和通りを急ぎます。

 

 

    ▲朝の中央通り                     ▲壷屋焼物博物館

 

 朝8時半の中央通りを歩いていたら、車が数台走っていることにビックリ! 

 「ひえ~、ここって車通っていいのお?」

 恐らく朝の仕入れのためなんでしょうね。

 意外に開いているお店が多く、朝から元気をもらいました!

 

 集合場所は那覇市立壷屋博物館の前。周辺をウロウロしていたら、仲嶺委員長が、

「いや~、ここに今日来るとはビックリですよー。と言うのはね、僕は昔ここで働いていたことがあってね、あの駐車場のところに叔父が経営していた問屋があって、そこで仕事していたんですよ~。毎日毎日重たい荷物の積み下ろし作業。そしてあの赤瓦の家の向こうに木が見えるでしょう?あの下でいつも泣いていた。仕事が辛くて、給料もホントに安くてね。当時千円ですよ(注:B円ですね)。ラクな仕事の軍作業をしていた同級生が5千円くらいもらっていてね。僕は全額ヤンバルの母親に送っていたから風呂に入るお金も、家に帰るお金もなくて。当時19歳くらいだった・・・」

と、「盛治、涙の青春」を語って下さいました。

 

 

  ▲仲嶺盛治氏、涙の青春スポット       ▲今は笑顔で当時を語る仲嶺委員長

 

 すかさず菜美路ちゃんが

30年くらい前ですか?」

 ちょっとー、菜美路―、 19歳に30年足したら、オレと同級生やないか!? 

 かなり算数違ってるしっ!

 

 当時、戦後の活気が出てきた頃で、壷屋は隣接する牧志の市場や桜坂、神里原などの活況を受け、卸業はとっても忙しかったそうです。

 仲嶺委員長は、毎日朝早くから夜遅くまで、大きくて重くてものすごい量の荷物をトラックに積み、毎日クタクタで、実家に帰りたいのにお金がなくて、涙がこぼれちゃったのですね。

 でも盆・正月に弟妹たちに「あれにはコレを買って、これにはアレを買ってあげて・・・」と、一人ひとりにお土産を買ってあげる喜びは格別のものだったそうです。

 

 ちなみにこの駐車場の後ろは、壷屋博物館学芸員のさんによると、昔クムイになっていたそうです。

 そして博物館の辺りには、戦後バスターミナルが二つあり、とても賑やかだったそうです。

 

 

【番所ガー~南ヌ窯】

 壷屋は焼物のマチだけあって、水がとっても豊富です。至るところに共同のカー(湧泉)があり、個人の井戸も見かけました。

 

  ▲番所(バンジュ)ガー

 

 焼物博物館の右隣、壷屋陶芸センターの入口に「番所ガー」があります。カーの跡が拝所となったらしい石があり、その右に見える青いホースの水道が実際のカーなのでしょう。

 説明文を読むと、

「番所ガーは村ガーの一つです。王国時代、番所の側にこの井戸があったので、番所井(バンジュガー)と呼ばれています。番所は壷屋の陶工を監督する役人の詰所となっていて、その側にあるこの井戸の水は、役人だけでなく壷屋の人々も飲料水に使っていたそうです」

 ・・・・とすると、陶芸センターの側はかつての番所の跡なんですね~。

 

       ▲南ヌ窯(フェーヌカマ)

 

 さて、ここから研修会の現地巡見が始まりま~す!

 

 最初に行ったのは「南ヌ窯(フェーヌカマ」です。写真の赤瓦の屋根の下に、のぼり窯があります。

 説明版によりますと、

「焼き物のまち壷屋は、1682年(尚貞14年)に、それまで美里間切の知花、首里の宝口、那覇の湧田にあった三か所の窯場を統合したのに始まる。

 この窯は、拝領窯の一つと伝えられており、『南ヌ窯』と呼ばれ、現存する荒焼窯で唯一のものである。おもに酒甕、水甕、厨子甕等の荒焼を焼いている」

とあります。

 

 荒焼(アラヤチ)というのは、大まかにいって釉薬をかけない陶器のこと。荒焼に対して上焼(ジョウヤチ)がありますが、製品の種類だけでなく、荒焼と上焼は土の種類や窯の形態などに大きな違いがあります。

 

荒 焼

上 焼

トンネル式の登り窯

連房式の登り窯

陶土は壷屋の周辺で採れる泥土(現在はクチャ・島尻マージ・ジャーガル)

本島北部(主に恩納村)で採れる前兼久・安富祖・古我知などの粘土類

ほとんど施釉せず、約9001100℃で焼成される

施釉され、絵付けなど技法が使われ、1200℃前後で焼成される

製品のほとんどが大型甕類

日用食器類の小物が多い

                                                『沖縄大百科事典』参照)

・・・で、南ヌ窯のある周辺は荒焼の生産地だったのですね。1970年代で、この窯を使った生産は終了します。以後登り窯を使った生産は読谷村に移っていき、壷屋ではガス窯や灯油窯が主流になります。

 

 窯の痛みがかなり目立ちますが、修復作業は進んでいません。

 というのも、土地の所有者と窯の所有者が異なり、また文化財としての管轄が沖縄県と那覇市にまたがっているため、四者の調整が全然進まないから・・・なのだそうです。修復にあたっては所有者の負担もけっこうあるらしく、そういった法令的なことが修復のネックになっているようです。これにはビックリいたしましたねー(@@)。

 

 ところでなぜ壷屋に三つの窯場がお引越ししてきたのでしょう?

 

 説1「琉球王府が焼き物の生産を統括したかったから」

 説2「瓦の需要が急増し、一か所で大量に作る方がいいから」

・・・などど言われていますが、はっきりしたことは分かりません。

 

 ただ、この場所に選ばれた理由としては首里に近いことと、土が入手しやすく、薪となる松林が側にあったことと、水が豊富だったこと・・・などが考えられるようです。

 登り窯が導入されるようになってからは、壷屋の自然の傾斜地が登りを作るのに適していたということも、「焼き物の地・壷屋」の名を決定づけたようです。

 

 

さて、写真を見て下さいませ。南ヌ窯の前でカメラを担いでいるのはRBCさんの御一行。前日の研修会から取材に入っているようです。

 この取材の件で、今帰仁組の某メンバーが冷や汗をかくことになろうとは、この時誰が予想しえたであらうか!?

 

 

【やちむん通りを歩く~壷屋区役所跡】

 

      ▲道路にはめ込まれたプレート              ▲壷屋区役所跡

 

 壷屋のやちむん通りを一行はぞろぞろ歩いていきます。

 やちむん通りには、写真のようなプレートがはめ込まれていて、意味はさっぱり分かりませんが、カラフルで楽しくなります。北向きの△矢印がエッフェル塔みたいでオシャレじゃない?

 

 右の写真は壷屋区役所跡地です。説明版によるとですね、

「沖縄戦の後、最初に設置された那覇市の行政庁舎跡・・・(中略)・・・19451110日、沖縄戦で住民の立ち入り禁止となっていた旧那覇市の一角の壷屋に、陶器・瓦製造のため陶工を中心とした復興先遣隊103名が初めて入り、那覇の復興が始まった」

とあります。

 

    ▲「壷屋区役所」の説明版

 

 やちむん通りには要所要所に分かりやすい説明版が設置されており、この一帯を歩く人達にとってありがたいガイドになってくれています。

【大川~壷屋の内側】

 

   ▲壷屋区役所近くの大川(ウフガー)の祠       ▲あるおうちの入口

 

区役所跡から左のスージ小へ、壷屋の「内側」に入っていきます。

スージ小の入口に大川(ウフガー)がありました。ここでの説明はありませんでしたが、ちゃんと説明版がありましたよ! ありがたや~、ありがたや~(涙)。

 

「ウフガーは村ガーの一つです。壷屋の拝みの時には、ここを拝んでから下ヌカーへ行くコース、城岳(じょうがく)方向へ行くコースの二手に分かれます。この井戸は飲料用、洗濯用として使われていました。昔あった場所は道路となってしまい、現在ではその近くに祠が建てられています」

 

香炉の奥に墨で文字と年号が書かれていましたが、消えかかっていて少ししか読めなかったです。「大川」という字は読めましたよ。

 

スージ小を歩いていてみかけたおうちには、家の側にカーミが5つ6つ並んでいて壷屋らしい風情です。写真が小さくて分かりにくいのですが、雨戸の戸袋にアンガマのお面(ンミー・・・お婆ちゃん)が掛かっている・・・壷屋のシーサーより強力な魔除けかも!?。

 

 

 ▲そぞろ歩きは恋の花?             ▲ビンジュルのそばの井戸

 

壷屋のこの一帯は景観賞をとったほど、かつての情緒が残っています。

ビンジュルの入口でポンプの井戸を見つけて大感激っ!

 

【ビンジュルグヮー~修復中の新垣家】

 

▲壷屋のビンジュルグヮー

 

壷屋のビンジュルグヮーは、大きなガジマルの下にあります。壷屋はガジマルの多い地域だなあと散策しながら感じました。

ビンジュルグヮーについて、

「ビジュルとも呼ばれ、壷屋の土地や集落を守るタチクチ(村建て)の神様をまつっているところです。毎年旧暦1月、3月、6月、8月、9月、12月の壷屋拝みのときには、婦人会が中心となって、豊年や、交通安全、壷屋の発展などを祈ります。壷屋の全ての行事がここにはじまり、ここに終わると言われ、壷屋の人々にとって大切な場所です」。

とありましたが・・・・この説明を読んで、丑が不謹慎にも感じたことは・・・・、

 

「あ~~~、壷屋婦人会会長じゃなくって、ホントに良かったあああ!」

 

 怠け者で、面倒くさがりで、感謝の足りない輩と言われる丑之介には、到底年6回もウガンうさげるなんて出来っこありません。壷屋の発展が丑の「ここに始まりここに終わる」御願にかかっているなんて・・・そんな責任重大なことを任される立場になくて、本当に良かった!壷屋の益々のご清祥のために、心から安堵しました。

 

 ところで、ビンジュルグヮーの祠の中は、ガジマルの根っこが埋め尽くしていて、ビジュル石を見ることはできませんでした。ここは壷屋外の人たちも拝みに来るそうです。

 この祠の後ろに壷屋町民会館があり、前日から宿泊で研修している方々は、ここにお泊りになった方もいたようです。

 

 

 この辺りから、暑さで頭がもうろうとしてきた丑。午前中曇り~雨の予報だったのに、ピーカンのお天気。広子委員など、でっかい傘持参で、これが黒かったら日傘にでも使えるのですが、透明傘だったので、杖にしか使用できません。しかも広子委員は健脚で杖いらずだしー。「ネコに小判」ではなく「小判(→広子)にネコ(→傘)」という状況ですね。

 

▲修復中の新垣家住宅と、古い窯の石を使った石垣

 

 スージ小歩きのクライマックスは、修復中の新垣家!

 

 で、新垣家ってなに~?何がスゴイの~?という説明を聞き逃した丑は、文化センターに戻って資料をさがしましたところ、壷屋焼物博物館さんが、と~~~っても分かりやすいパンフレットを発行してくれていましたよ♪ その名も『新垣家住宅重要文化財指定記念 東ヌ窯~アガリヌカマ』。パンフレットによると新垣家は「沖縄を代表する民家建築の形式と、沖縄窯業史を知る上で極めて重要な東ヌ窯が、県内外で高く評価され、平成1412月に国の重要文化財(建造物)に指定された」ということです。

 

 沖縄の住宅らしい石垣とその上に見える赤瓦、石垣に据えられたシーサーの面が観光ポスターやガイドブックによく使われていたので、写真を見たら「ああ! ここ見た事ある!」と言う方も多いと思います。

 

 で、この機会に新垣家と東ヌ窯のことを勉強してみましょう!

 

 壷屋焼には荒焼(アラヤチ)と上焼(ジョウヤチ)の二種類があり、最初に見た南ヌ窯では荒焼を生産していたことは、お話いたしましたね。

 東ヌ窯は壷屋地域の東側にあるためアガリヌカマと呼ばれ、上焼を生産していた窯で、南ヌ窯とは同じ「登り窯」といっても、構造が違っています。この東ヌ窯は首里王府からの拝領窯と言われ、新垣家の敷地内にあります。と言っても新垣家だけが使っていたわけではなく、各陶工が自分の工房で作った製品を持ち寄り、みんなで一緒に窯炊きを行なう共同窯として利用されていました。陶工はそれぞれ窯一部屋(一袋と言います)につき、借り賃を支払っていたそうです。

 

 新垣家は湧田・知花・宝口の三つの窯場が琉球王府によってこの場所に統合された頃に、読谷村から壷屋に移住し、以来やきもの生産に従事した陶工の家系と言われています。壷屋のやきもの生産の中心的な役割を果たす一族だったようです。

 

 沖縄戦の戦火を奇跡的に免れた、およそ400坪の新垣家の敷地内には、住宅・登り窯(東ヌ窯)・井戸(カー)・製土用の沈殿池(トーニ)、作業棟(メーヌヤー)、豚舎兼便所(フール)などが残されています。 

 おおよそ20世紀初頭までには、現在見られるような形に整えられたと考えられています。

 

 東ヌ窯の隣には仁王窯(ニオウガマ)や付近にはクミヤー小(グヮー)窯などの登り窯があったそうで、この一帯は上焼の生産地だったことが伺えます。

 

 現在新垣家及び東ヌ窯は修復作業に入っています。

 この修復工事は全額公的な予算が付けられ、持ち主で新垣さんは費用を支払う必要がありません。文化財であるのだからそれが当然と今まで思っていたのですが、持ち主の自己負担が発生するために(それもかなりの額ですよね)、貴重な遺産が「今度の台風が来たらヤバイです」などと言われるような状態に置かれてしまうなんて・・・。

 何とか法的な整備ができないものかしら・・・と考え込んでしまいました。

 

 写真は新垣家の石垣の一部ですが、レンガのような部分は歴代の新垣家が窯を修理した際に廃棄された窯の石を石垣に再利用したもので、ところどころに釉薬の色がついているのを見ることができます。

 こんな楽しい発見も、学芸員さんが説明をしてくれるからこそですね~♪♪♪。

 

 

【壷屋通り~博物館前まで】

 

  ▲これはですね~~(・・・汗)

 

 これは何かと申しますと、当日の研修会の参加者の方のシャツの写真です・・・・。

 「わ、面白~い」と思い、ツツツ・・・と近づいて激写させて頂きました。

 昔のマッチの柄ですね。キュートですよね~。

 

    ▲仁王窯のお店の敷石              ▲東(アガリ)ヌカー

 

 写真左は、仁王(におう)窯のお店の敷石部分です。この石、実は窯で焼くときに作品を乗せる「棚板」を再利用したものです。レンガみたいで素敵ですね。

 写真右は「東(アガリ)ヌカー」。説明版によると、

 「東ヌカーは村ガー(共同井戸)の一つです。この井戸は壷屋の東側にあることから、アガリヌカーと呼ばれています。300年ほど前、村ができて最初に掘られたのがこの井戸だといわれています。この井戸は貴重な飲料水として使われていました。戦後、水道が普及するにつれて、井戸を使うことも少なくなりましたが、壷屋の大切な拝所であることは今も変わりません」。

 

 水道が敷かれても井戸を残していく習慣は、県内どこででも見られるウチナーンチュの想いの表れですが(大切にしないと「不足」が来る・・・と脅されたりもするのだがの・・・)、壷屋の井戸はガジマルが枝を伸ばし、その木陰と水のおかげで、せわしい心にフッと静かで清々しい空間を作ってくれます。

 東ヌカーの後ろはひめゆり通り、道向かいはマクドナルドで、右隣は大きなマンションが立っていますが、ここには杜の小人が隠れ住んでいそうです。

 

 

 

▲こ、小人のメッセージか!?      ▲うごごごごががががぐぐぐぐ・・・・

 

 二枚の写真に共通するテーマは何でしょう!?

 

 それはねっ、

 「口のなかに♪ 口のなかに♪ 行ってみたいと思いませんか♪ ンフフっ~♪」

 

 入れられた方はたまったもんじゃありませんが。

 

 左:東ヌカーの門の右側の龍の割れた口の中。メモが入っています。あえて取り出してまでは見ませんでしたが、写真をうーんと拡大して、よーく見てみると、「不定休」とか「○○食堂」とか「9:0014:00」などと書いてあるので、多分観光客の方がチェックした「美味しいところ」のメモなんでしょうね・・・・ちょっと見てみればよかった・・・かも・・・。

 

右:東ヌカーの向かいの植え込みの中に見つけたシーサー。ニ体あるうちの一体です。カワイソーに、口の中から木が生えてきてるうう。苦しいだろうなあ。しゃべりにくいだろうなあ。ヨダレも垂れるだろうなあ。思いなしか、目が涙目になってる・・・。見ている私の喉まで苦しくなってきたのでした。

 

 

  

▲お店の横の井戸            ▲ミーガーヌカー

 

 井戸だらけ。。。なんて思わないでくださいね。

 左はまじる商店の隣にあったポンプの井戸。井戸の立ち上げ(とゆーの?)部分を見てください。陶片が埋め込まれて、とってもオシャレなんです。ポンプの柄を押したら、水が勢いよく出て、みんな大喜びで手を洗いました。「ウォーター!」と叫びたい気分の丑♪

 

 しばらく歩くと、道からあまり目立たないところにあったミーガーヌカー。説明版によりますと、

「昔、ミーガーと呼ばれる家の人が掘ったということで、このように呼ばれています。この井戸の水はあまりきれいではなかったので、飲料水としては使われず、芋くず作りや、農具・食器などの道具洗い、陶土のろ過、洗濯などに使われていたそうです」。

 このカーにもガジマルがすくすくと生え、今でも使われていることが嬉しい風景でした。

 

▲甘くておいしい陶器のお店・・・・?

 

 今年2月に、島隆課長+菜美路さん+丑の三人で、壷屋焼物博物館の展示会を見学に来た時、この通りを歩きながら気になったお店です。

 「陶器・琉球人形 白ばら」・・・・なんだか甘~い匂いがしてきそうじゃありませんか?

 店の名前の由来を知りたいものですね~。

 

 

▲下(シム)ヌカー           ▲「アンマーよ~」と泣き伏す仲嶺さんはこんな感じ

 

 壷屋博物館のすぐそばまで来ましたよ!

 博物館に近い所にあるのが、この下(シム)ヌカーです。今帰仁なら「シチャヌカー」と呼ばれる井戸ですね。

 案内板によると「下ヌカーは、村ガーの一つです。この井戸は道の下の方にあり・・・下ヌカーと呼ばれています。主に水浴びに利用され、飲料用としては使われなかったそうです・・・一日の作業を終えた陶工たちが手足の汚れを落とすために、井戸を使っていたようです」とあります。ここもガジマルが木陰を作り、壷屋のオアシスとなっています。

 

 このカーの前で、19歳、紅顔の美少年だった盛治君は、仕事が辛くて、ヤンバルに帰りたくて、涙を流していたんですね~。きっと泣いた顔を下ヌカーの水で洗い、汗まみれの体を流して、「明日もがんばろう」と自分を励ましていたに違いありません。

 そんな盛治君の当時の姿を、丑がちょっくら再現してみました~♪

 ・・・・なんか、行き倒れみたいっすね・・・・。

 

 

【博物館内での研修】

   

▲壷屋博物館お出迎えの一族           ▲免震装置のついた収蔵棚

 

 博物館受付の右隣に、お客様をお迎えしてくれるシーサーの花婿&花嫁。花婿の史左夫(仮名)は美人の紫沙子(仮名)を嫁にしてピースしています。

 二人の後ろには、披露宴で飲み干されたのか、酒カーミを担いだシサ太郎とシサ次郎が控えています。「高江洲盛良氏 作」と名札が貼られていました。

 

 さて博物館の地下を下りていくと、「国宝級」の資料が保管されていますが、この棚が免震装置のついた収蔵棚です。

 地震があると棚の下にある台の部分で、揺れを吸収するしくみになっています(多分・・・)。台に乗ってみると、フワっとした感じでした。県内でこのような設備があるのは、壷屋だけだそうです。

 地震が起きたら、ウチのセンターは割れものだらけになるなあ・・・・どうにか対策を考えなきゃ・・・・と真剣に考えさせられました。

 

▲渡嘉敷島のジーシガーミたち

 

 壷屋博物館の中をあちこち見学させて頂きました♪

 写真はちょっと暗いのですが、渡嘉敷島から寄贈された骨壷たちです。渡嘉敷に寄合い墓があり、そこから出土したものだそうです。

 この寄合い墓は8家族が使っていたそうで、ジーシガーミを一点一点見ていくと、どうやらまとめ買いをして渡嘉敷に持ち帰ったような形跡があるそうです。

 

 その後館内を丁寧に案内して頂き、博物館の上にある湧田窯の跡を見ようと階段をあがろうとしたその時!!

 

広子委員がRBCさんにマイクとカメラを向けられたのです!!

「今回の研修会についてのご感想やご意見などをお聞かせ下さい」

 

「行かないで~」とすがろうとする広子を振り切り、「この人、いいコメントくれますから~」と言い残して、猛ダッシュで階段を駆け上がる丑と菜美路。なんて冷たい事務局員。自分ちの運営委員を見捨てていいのか!?

 

屋上にある湧田窯跡や、ニシヌメー(北の宮)というニシヌ窯跡にできた拝所(土帝君あり!)などを見学していると、広子委員がやってきました。

 

「私~、この研修会のテーマが震災対策だったって初めて知りましたよ~。昨日の研修会も参加していないし~。だからちゃんとしたコメントができませんでした~」

 

ひ、ひ、ひろこちゃん、研修会のテーマはお知らせ文書に書いてあったでしょー!?

まあ、きっと放映されることはあるまい、と不安を残しつつも皆で確認し、壷屋博物館を後にしたのでした。

 

 

【その後の4人の行動について】

 

 空っ腹を抱えて平和通りを歩く四人組。カンペキにお上りさん状態で、あっちこっちの店を冷やかしながら、目指すは公設市場の二階です。

 「燕」という、台湾の方(かな?)が経営しているお店に入りました。

 ここは丑が高校生の頃から、買い物帰りに良く食べに来たお店です。

 

 

▲広子委員が注文した焼ビーフン      ▲仲嶺さんと丑が頼んだ燕定食

 

 具沢山のビーフン、味付けがしっかりしてて美味しかったなー。

 燕定食の白身魚のあんかけと、春巻きと、春巻きの後ろに隠れている田ーンムコロッケがめっちゃ美味しかったなー。

 春巻きは別に一皿頼んだのですが、具がたっぷり入っていて、しかも春巻きのタレにはこれでもかというくらいニンニクが入っていて、ニンニク好きの丑にはたまらなく美味しかったなー。 

 

▲炭ライス・・・ではありません          ▲チマチマしていない肉ちまき

 

 左は菜美路ちゃんが頼んだ炭の山・・・ではなく、イカ墨チャーハンです。ちょっとご飯に白いところが混ざってはいたけど、イカもけっこう入っていて、美味しかったなー。

 右は肉ちまき。干しエビが一匹、ちまきから落っこちています・・・・。もうお腹いっぱいだったので、ちまきは持ち帰ったのですが、家で食べてビックリ! 三枚肉がドーンと入っているんです! 昔、丑が食べたちまきと違っていたけど、これはこれで美味しかったなー。

 

 

▲市場のアイドル

 

 見たまんまです(ブヒッ)。

 広子委員は「○○さんにソックリー」と嬉しそうに写メしてましたね。

 

 

さて全員満腹満足で那覇を出発。58号線を北上します。

 

 車中、臨時運営委員会が開かれ、

「こんなに暑けりゃ、締めはやっぱり冷たいスゥィーツしかないでしょう!!」ということで(去年の沖博協の締めも、恩納の道の駅のアイスクリームだったよなあ)、沖縄の愛と希望と勇気の源、Big Dip ブルーシールへと車は向かったのでしたあ♪

 

 そこで食べたスムージーの美味しいことといったら!!!!!

 (写真取り損ねました・・・悔)

 

 そして大スクープ!!

 

 美味しい昼食&デザートに気を良くした広子委員が、何とブルーシールでボーイフレンド(しかもアメリカン、ケント・クラーク似)をゲットしたのです!

 

 その証拠写真がこれです

 

 二人、見つめあって、微笑んでいます。

・・・・ずいぶん物静かなアメリカ人でしたねー。

 

 ということで、大変有意義だった沖博協の研修会の報告を終わります。



2011年63日(旧52日)天気:☀→☁(晴→曇)気温:28/22(歴文センター:tama

 

館長・仲原さんがテレビ取材をうけている所を隠し撮り♪

昔の食文化についての取材だとか・・・。

しかし・・・女子アナ美人ですね♪

  

OTV沖縄テレビにて・・・7月放送予定とか!
また放送日が決まりましたら、ご報告します!!お楽しみにぃ~♪

 


                 ▲歴文センター内で取材をうける館長さん♪


 平成23514日(土) 天気:曇りときどき晴れ

 

ゆら~ゆら愛読者のみなさま、こんにちはっ!

 

 ついに、平成23年度第19期のムラ・シマ講座が、本日開催されました~v(^^)v

 

  「晴れでもなく、雨でもなく、ちょうどいい加減」なお天気の中、

スタッフ入れて総勢27名が車を連ね、調査へと出かけました。

 

今回の行き先は屋我地島の我部ムラです。

 我部はもともと現在の天底~湧川にあったムラです。それが今の場所に移動していくのですが、かつてのムラの痕跡を見、移動した場所での状況を見、我部ムラの姿を感じてもらうのが目的です。

 

 

【館内でのレクチャー】

 

 

     ▲今年の参加者のみなさん                 ▲仲原節!

 

 久しぶりに館内でのレクチャーです。現在の湧川地内にあった5つのムラ(後述)について語る仲原お館(やかた)さま。

 

 

【ワルミ大橋】

 ▲ワルミ大橋の説明をする菜美路さん♪

 

 天底代表玉城菜美路がワルミ大橋の説明をしています。

 長い髪をばっさり切ったのは何故?との質問が集中しました(うそ)。

 

 ・ワルミの橋は「ワルミ小橋」と「ワルミ大橋」の2つがあり、ワルミ小橋の全長は89メートル。

 大橋の全長は315メートルで、アーチ部(虹型)の長さは210メートルとなり、全長100メートル以上の長く大きい橋でこの構造を採用している橋は全国的にも珍しいとされている。

 

 ・工期は20061223日~2010325日の約3年半。

 

20101218日に開通式を行ないました。(開通してから約5ヶ月)

  開通式での「渡り初め」は津波古さんという一家でしたが、渡り初めを行なう家族は三世代いることが条件で“親・子・孫のように橋も永続してほしい”と願いからこの渡り初めを行ないます。

 

 ・では橋の名前である「ワルミ」って??

「ワルミ」というのは漢字で「和呂目」とかき、天底の小字のひとつ。「ワルミ」は「割れ目、裂け目」のことで、対岸の屋我地島との海峡に由来します。

 

 ・このワルミ大橋ができるにあたり・・・さまざまな考慮がなされました。

①船舶航行の安全性

ワルミ海峡は、運天港の一部で、荒天時の避難泊地である羽地内海に出入りする船舶が通過します。大橋の下を2,000トン級の船舶を通すために、橋のアーチ型(虹型)が採用されました。

②景観、海峡内の環境保護

橋周辺は「沖縄海岸国定公園」の特別地域として指定されていることから、景観に配慮。また、マングローブをはじめとする貴重な植物や渡り鳥が渡来する自然豊かな地域で、「国指定鳥獣保護区」として指定されており海峡に柱を立てずに、アーチ型の支柱が道路下を走るという独特の構造をしています。

(今日もアカショウビンが鳴いていましたね~)

③ウタキの保全

橋のすぐわきには「ワルミのティラ」という拝所があります。当初の予定としてはこの拝所の上を橋が通る予定だったそうですが、大事な拝所なのでそれは避けてほしいという要望をうけ入れました。

④工事中も・・・

完成した橋だけでなく、工事中にも自然豊かな海峡で魚の養殖も盛んなこの地域に、雨などによる赤土流出防止や周辺道路の舗装や粉じん対策なども行なわれました。

 これらのことを考慮してできたこのワルミ大橋は、コンクリートアーチ橋の国内ランキングとして5番目で、合成鋼菅アーチ巻立工法によるコンクリートアーチ橋の国内ランキングは1番になっています。

 

 ・大橋ができて便利になった・・・「湧川と我部は戦前から船による往来がありました。我部の前区長さんの上地氏の話しによると、うちなー相撲を習いに仲宗根次郎氏をたずねたそうです。5時まで仕事をし、それから船を漕いで湧川区川竿(かーそー)にて相撲の稽古に日々励んでいたそうです。以前は船での行き来でしたが、こうして徒歩で屋我地島へ渡れるのは夢だ」と語っていたそうです(「湧川通信」より抜粋)。

 

 以上菜美路さんの説明でした。

 

 ワルミ大橋が開通して、古宇利島から通う今帰仁中学校の生徒たちはホントにラクになりましたよ! 部活の朝練に間に合わすために、今までは5時起きだったもんね! そして屋我地や古宇利の人達が、名護ではなく、今帰仁の仲宗根の買い物に来るようになりました。人の流れが変わってきていますね~。天底の交差点も、信号がないのに交通量が多くて、ちょっとヒヤっとします。

 

 

 

【我部の旧ウタキ】

 

 

    ▲小橋の上から下をのぞくとね・・・。         ▲我部のウタキのイベが見えるのよ

 

参加者の皆さん、ワルミ小橋の屋我地に向かって左側から下を覗き込んでいます。

ワルミ小橋の南西側の杜全体が、もともとの我部のウタキです。覗き込んで見えるは、ワルミのティラという小さな鍾乳洞です。鍾乳洞の入り口の上に祠ができており、ここは旧我部ウタキのイビに当たる場所です。我部ムラの「ガブ」とは「クブ(窪み)」の意と言われ、このティラガマに由来する名称と思われます。 

ここには塩作りの伝承が伝わっています。

 

  製塩伝説を調べると為朝が伝えたという説と、為朝に付き添ってきた僧が教えたという説があります。『琉球国由来記』(1713)の記事によると、

「製塩は我部ムラに始まる。直に海水を汲んで、煮て、塩とするナリ。

大昔、日本人が本国に来て、製塩を教えた。それより、薪が手に入りやすいムラは、皆このようにして塩を作った。」

とあるのみで、為朝に関わる記述はありません。

 

 いずれにしても、旧我部ムラのウタキのイビであったところに、製塩伝承が加わり、それに由来する人物を顕彰する意味合いがかぶさった場所だと言えるでしょう。

 

▲ティラにたたずむお館さまと丑♪ 右に石碑が見えます

 

 ティラには、戦争中ここに隠れて生き延びたと思われる日本兵の方の石碑が建てられています。今回はここには降りませんでしたが、下調べした時に碑文を写し取りました。

 

・ティラの碑文

(碑文正面)

建築記念日 一九五ニ年九月二十一日

    時者 宮島 清義

     責任者 松田 政吉

     (碑文右側面)

        左官 佐久川 政良

     (碑文左側面)

          作 宮島

        戦世(も)しまち

        お寺ふち立てつ

        氏神(も)きゆや

        うりしやみせら

 

 ティラは我部のもともとのウタキのイビであり、集落は移動しても、ウタキ、イビはそのまま置いて大きな神行事のときに拝みます。ノロ管轄はそのまま変わらず我部ノロで、旧の55日、99日にティラウガンがなされるそうです。

 

【我部のもう一つのウタキ】

 

    ▲スガー(塩川)ウタキ

 我部ムラは移動前のウタキであるティラをそのまま残し、移動後も祭祀を行なっていますが、我部に関わる祭祀場として、今回は行きませんでしたが、もう一つ、「スガー御嶽」があります。

 

 スガーとは「塩川」の意で、字の通り塩作りに関わるウタキであり、ティラとセットで拝まれる場所です。

 

 スガーウタキはシチャガブにあり、現在の地番は湧川ですが、湧川ムラの祭祀とは関係がなく、我部ムラの人達が拝みに来ます(ただし、湧川の拝所である新里ヤーの中に、琉球で初めて塩作りをしたという開山長老の像があり、この人物とスガーウタキを繋いで、新里ヤーに関わる人たちが拝みに来ます)。

 

 ウタキの祠の前に置かれている石が黒く焼けているので、ここ一帯は実際塩炊きの場所だったと思われます。近くに嵐山があるので、塩炊きに必要な薪には不自由しません。製塩伝説の説明の時に引用した『由来記』中の記事に、「薪が手に入りやすいムラは、皆このようにして塩を作った」とあったのを思い出して下さい。

 

また鉄板を乗せたと思われる塩炊きの石が、祠の左横にあります。これは大宜味村塩屋の塩炊きのウタキに、塩炊きに使われた石がご神体として祭られていますが、それと同じ性格の石だと思われます。

 

  また古宇利島の「お宮」には合祀された火ヌ神や石がありますが、このお宮は「クヮッサヤー」という屋号のある場所です。かつてこの場所で海のユイムンをとって煮炊きし、神にお供えし、クヮッチーしたので、その屋号となったようです。このお宮でも、鍋で煮炊きをするときに使う石がご神体となっています。

 

スガーウタキは東の方を向いています。

 

  このスガーウタキも、ティラと同じように、いわれのある場所を顕彰し、そこを拝所にしていく例のひとつと言えます。

 

 祠の中に彫られた「海(羽地内海?)と山(嵐山?)と月?それとも塩炊きの鍋?」のシンプルな線画が素敵ですよね~。

 いつもここに来る度に、いいデザインだなあと見惚れている丑です。

 

 

【旧我部ムラのフルガー】

      

      ▲フルガー(古い井戸)

 スガーウタキの周辺には、フルガー(古い井戸)といって、かつてこの周辺に住んでいた我部の人達が使っていた井戸も残されています。畑の横にありました。見た目「土管」の井戸を覗き込んでみたら、中は水量もあり、石組がしっかりと残っています。

 このフルガーは、湧川ムラが新設されたのち、湧川の人達が引き続き利用しました。

  

 

【我部・松田のムラ移動の流れ】

 

 ではここで、我部・松田のムラ移動についておさえていきます。

 

現在の天底~湧川~呉我山地内に我部・呉我・松田・振慶名・桃原の5つのムラがありました。

当時はこの地域は今帰仁間切ではなく、羽地間切の内です。

 

1674年まではこの5つのムラは今帰仁間切でした。

 

しかし1674年に境界の変更(「方切」という)があり、それ以降は羽地間切の管轄となりました。

 

※方切前の資料として池城墓の碑文「ごがのおきて(呉我掟)」(1670年)。

家譜資料に「康煕11年、今帰仁間切松田の名を賜ふ」(1672年)の記事。

※方切後の資料として家譜資料に「康煕13年、羽地間切呉我の名を賜ふ」(1674年)の記事。

 

この5つのムラの地域の人口が増え、山から切り出す薪が不足し、また農地も狭く、山林を焼いて畑地としていたこともあり、山が荒廃する恐れがありました。

 

更に、この5つのムラが移動していった場所は湿地帯で、そういった土地を開拓させ、貢租を増やす目的もありました。

ムラ移動の時期が、羽地大川改修後であることに注目です!

 

このような背景をふまえ、1736年、蔡温の林業政策として、ムラを移動させます。

 

 そして我部・松田があった場所に新しく湧川ムラを作り、今帰仁間切の領域となりました。

 

 よって現在の湧川・呉我山区域は1674年まで今帰仁間切→16741736年は羽地間切→1736年からは今帰仁間切、という変遷をたどります。

 

  ややこしいですね~(^^;)

▲ワルミ大橋から見た、我部・松田の移動地

 

では5つのムラはどこにお引越しさせられたのでせうか~?

 

・我部と松田は対岸の屋我地島に移動。ムラの範囲はかなり広い面積に渡っています。

 

 ・呉我山区域にあった呉我ムラは、桃原ムラと共にニ回移動して、旧羽地大川北側の現在地に。

 

 ・振慶名は月のムラ・シマ講座で調査に行きましたよね~。覚えてますか?

   (私はちょっと覚えているところが少なくなっている・・・かも・・・汗)

田井等・親川の西側、旧羽地大川沿いにムラ移動がなされています。

 

羽地内海を挟んで4つのムラがひとまとまりになり、また振慶名は羽地の中央部ではありますが、祭祀は移動前と同じように我部ノロがそのまま管轄を継承しています。

 

【移動の頃の我部・松田ムラのようす】

 

「ムラとは今の字のことです」と言いますが、ではどんなムラをイメージしたらいいでしょうか?

 

シチャガブにいた頃の我部ムラの当時の集落は、ムラの中にまとまってあるのではなく、それぞれの血族で、マキ・マキヨ的にポツリポツリと暮らしていました。

 

宮城真治が昭和10年頃調査した資料によると「『乾隆図』の人家10戸、西方4、東方6。『竿入帳』の屋敷、我部11戸、松田欠(推定12)」とあり、「乾隆図」が1750年頃、「竿入帳」はその少し前の1742年頃の資料で、両方ともムラ移動後の資料ですが、移動する前も世帯数は両ムラ合わせて1025戸前後だったと考えられます。

 そのくらいの規模で、血族を単位として小さなまとまりを作り、そう広くない範囲の中で暮らしていたものと思われます。

   ▲公民館から羽地内海の方向を見る

 

 我部ムラと松田ムラは隣接していましたが、松田ムラはムラ名としては存在していても、既に我部ムラとの一体化が進んでいたとみられます。

その根拠として『球陽』康煕30年(1691年)「羽地郡松田村は本郡我部村に属す」という記事があります。

また1713年に編纂された『琉球国由来記』には、(この時期は方切後で、羽地間切)、松田ムラのウタキの記載がなく、神アサギのみが記載されていることから、我部のウタキとの一本化が考えられること。我部ノロ火ヌ神を管轄するムラとして我部・松田が別々の項でなく、両ムラ併記されていること、などが挙げられます。

 

 移動した先の我部・松田ムラの中心部は現在の公民館やヌンドゥルチ、神アサギ、ウチガミヤーから平松の碑周辺であるが、上記したマキ・マキヨ的な血族集団が、以上の範囲に小さなまとまりを作って暮らしていたとみられます。

 

我部ムラと松田ムラが移動した時、屋我地には屋我ムラ、饒平名ムラ、済井出ムラがありました(1649年の『絵図郷村帳には屋我ムラのみ。1713年の『由来記』には三つのムラ名が登場するので、屋我ムラからの分かれと見られます)。

 

【我部のヌンドゥルチ】

  

     ▲我部ヌンドゥルチ                   ▲いしがん・・・・っとぅ・・・・・

 

 我部の公民館の隣に、ヌンドゥルチ(ノロの屋敷)があります。赤瓦で立派な建物です。

 我部ノロは移動前の5つのムラを管轄としていましたが、移動後も祭祀の管轄は変わりません。それは、ノロの給与に関係しているからです。管轄しているムラが減ると、首里王府からの給料が減ってしまうのです。ですから移動後も管轄ムラの祭祀をしっかりと行なっていきます。

 

 写真右はヌンドゥルチの側の松の木の下にあった石敢當・・・・なんだけど、「當」の下の部分が道路の工事などで埋まってしまったのですね・・・・。なので読み方は「いしがん・・っとぅ・・」。

10年後に調査に来たとき「石敢」だけになってませんよーに。

 

 

【我部と松田の神アサギ&ハミヤー】

 

 ▲我部の神アサギ(右の祠)とハミヤー(神屋)      ▲松田の神アサギ

 

 ヌンドゥルチから東へまっすぐ道を下りていくと、ひとつの空間の中に、西からハミヤー・我部のアサギ・松田のアサギが並んで建っています。

 我部と松田が移動前に既にムラがひとつになっていたことは説明しましたが、ムラが合併しても祭祀はひとつにしないため、両ムラの神アサギがそれぞれ作られているのですね。どちらのアサギも同じ大きさ、同じ形式で作られています。我部の神アサギに「西暦一九六三年八月十日吉日」と彫られています。

 

 このようにムラがひとつになっても神アサギはひとつにならなかった例として、今帰仁村字今泊の神ハサギ(今帰仁ムラと親泊ムラ)、字諸志の神ハサギ(諸喜田ムラと志慶真ムラ)、玉城の神アサギ(玉城ムラ・岸本ムラ・寒水ムラ)があります。

 

 ふたつの神アサギには「我部」「松田」と表札があるわけではありませんが、ハミヤー隣のアサギを「ウイヌアサギ(上のアサギ)」、東側のアサギを「シチャヌアサギ(下のアサギ)」と呼ぶことから、ムラ合併の主である我部ムラのアサギが「上」、「下」が松田ムラだと分かります。

 

 これは、今泊の二つのハサギがそれぞれ「フプハサギ(大ハサギ)」「ハサギンクヮー(ハサギ小)」と呼ばれるのと同じで、今泊の場合は、先に現在地に移動していた親泊ムラのハサギが「大」、後から移動してきて親泊ムラに隣接した今帰仁ムラのハサギを「小」と呼んで区別しています。

 

 ハミヤー(神屋)は、ムラ内にあったいくつかの拝所を合祀したもので、神社形式の建物です。恐らく根神屋やノロの火ヌ神などを合祀したものだと思われます。門柱に「昭和四十二年旧六月廿六日竣工」と彫られています。

 

 ちょうどユタさんがウガンをウサげている最中で、「ボクのウガンも一緒にしてもらおうかな~」と仲尾次先生がおっしゃっていました。でもね、他人のお供え物で御願すると効き目がない・・・とゆーのは、既に丑が去年のナングスクで実証ずみなのですよ。名護神社でユタさんがウガンしている後ろから、ちょうど試合の最中だった息子の野球チームの勝利を祈願したら、見事に敗退でしたの~(TT)。軒を借りて、ついでに母屋もなんて、やっぱり神様は許してくれないのよね~。

 

 

【我部のウタキ】 

 

今回の講座では行きませんでしたが、我部の集落の北側の杜にウタキがあります。ムラ移動をしても、集落の近くの高いところにウタキを作っていく習性をもっているんですね~。

 

 

      ▲ウタキのイビヌメー                    ▲ヒジャイナー

 

 我部のウタキはガブウガミとも呼ばれます。ウタキに入っていくと、低いコンクリートで囲われた空間があり、上に向かって香炉が置いてあります。「シチャ(下)ウガミ」と呼ばれていますが、ここはウタキのイビヌメー(イビの前)です。イビとはウタキの中の最も聖なる場所でしたね。ムラの人たちが入ることのできるのはここまで。この先からは、神人しか入れません。

 

イビヌメーの両サイドから工事用のロープが張られていますが、これはピジャイナー(左縄)。右利きの人がなった縄でなく、左利きの人がなった縄で、魔物を追い払い、結界を作る力があるとされています。

 

 

 

      ▲ウタキのイビ                       ▲ヒッヒッヒ

 

イビヌメーからさらに上がっていくと、イビがあります。面白いのは、イビは階段から直線上にはなく、まっすぐ上がった頂上の右手に祠が設置されているのです。階段からの直線をずらして置かれているため、何だか落ち着かない配置となっています。

これはわざとずらして置かれていて、直線からはずすことで風水(フンシー)に当てている・・・という例です。

もうひとつ、この「ずれ」で面白いのは、イビは旧ムラの方向に向いていない、ということです。

ずらして置くなら、自分たちの元住んでいた場所に向きそうですが、全然違う方向を向いている。「オレは故郷を捨てた身。振り返ることはできねえ」といった意識が働いたのか、働かなかったのか分かりませんが、イビが故地を向いていないことは確かなのでした。

 

我部のイビは小さなコンクリートの祠で覆われ、祠の右に「癸丑年」、祠の左に「昭和拾二年度竣工」の文字が彫られていました。今帰仁グスクの鳥居ができて7年後のことです。祠の正面奥の壁に、真っ赤なペンキで「ヒ」の字が三つ記されていました。これは「喜」の略字で幸いを意味する・・・とのことです(お館さま談)。

 

昨年のムラ・シマ講座で親川グスクに行ったときに触れた『羽地按司様御初入日記』、みなさん、もう忘れたことと思います。私も忘れていました。この『日記』に羽地按司の一行が我部ムラのウタキや我部ノロ火ヌ神を訪れたことが記載されています。按司の一行はその後、饒平名ムラ、済井出ムラ、屋我ムラを訪問しています。

 

 さて! 二つの神アサギを訪ねた後、ムラ・シマ講座は「某有名男性民謡歌手二名によるお出かけ現地ライブ~チャンナギレー♪」という盛り上がりを迎えるのですが、後半部については次週お伝えしたいと思います。

 

 それではみなさん、来週まで、サヨナラ・サヨナラ・サヨナラ~(^^)/~


2011年5月17日(旧4月15日)気温:20/18 天気:?(くもり)(歴文センター:tama)

 台風が1号からやってきて、その後は北風吹いてひんやりしますね。
 今日は、旧の4月15日。アブシバレーなどの御願が行なわれたことでしょう。

 那覇市のすぐ北部に位置する浦添市牧港城間の西海岸に通称「亀瀬(カーミージー)」、地図には「空寿崎(くうじゅざき)」と表記される海岸・イノー(岬)がある。

 浦添の都会にこんな綺麗な海岸(イノー)が!自然が!あったのかぁ~!!
とにもかくにも驚きです!!

 しかし・・・キャンプキンザーの海岸を埋め立てて、宜野湾までを結ぶ西海岸道路建設が進められている。この都会に残る貴重な自然がまた失われる(より一層、縮小してしまう)。
 これまでに、不法投棄などによって汚れた海岸からは遊ぶ子供達の姿も消えたこともあったようだが、地域住民の思い、地元の小学生を対象にした海岸の観察会(カーミージー探検隊)などの活動が行なわれ、復活の兆しがあった矢先の工事である。

 海岸の途中からカーミージーまでの一部区間を海岸に埋め立てずに橋梁化することになっているようだ。とは言ってもそのための工事は行なわれ、カーミージー周辺の岸辺が橋の地上の下りる交差点部分となり埋め立てられてしまうという・・・

 ちなみに、この道路の建設理由は交通渋滞の緩和が目的らしい・・・

 カーミージー周辺には住宅があるが、かつてはそこまでも海であったことが容易に想像できる。また、岩場には古墓をひとつ見つけることができた。
(草に覆われひっそりとあり、今は拝まれていないようだ)

 カーミージーについて詳しいことを調べてみることに。
 まず、浦添沿海村落という視点から。沿海村落の漁労についてはさまざまな特徴があるが・・・

 「農業との兼業をする住民が多く、漁業専業者は地元にほとんどいない。その代わりに糸満系漁民に代表される専業漁業者が小湾やカーミージー(城間の空寿岬)に寄留していた。」
                               (『浦添市史』第一巻)より
                          
 「浦添の代表的な寄留漁業者はカーミージーにいた仲村兄弟(ナカンダカリグヮー)であろう。糸満系漁夫の例にもれず、追込網から貝採りに至る各種の漁業を展開している。カーミージーにきた第一号である。カーミージーに移ってきたのは昭和の初期(二、三年)という。」                     (『浦添市史』第四巻)より

 では、拝所としての機能はあったのか。

 「旧城間一帯は全く戦前の姿を失い、御嶽・拝泉のあった場所もハッキリすることが困難になっている。城間を村出身古老達は・・・城間村は古代、城間と又吉の合併によって形成されたとの伝承がある。村を前村渠(メンダカリ)と後村渠(シンダカリ)に区分していたが、前村渠は又吉を、後村渠が城間を継いでいるとのことである。物覚えの年齢に達した頃は、ノロ中心の村落共同体としての祭祀も失せ、根神・根人についても知らされることなく、祭祀は門中単位の行事に分解していたのであった。

 しかし、村共同祭祀は崩れていたとしても拝所は残されてきた。ところで『由来記』には御嶽名五、殿名一が記されている。

 コバ森 アマカケノ嶽 波平森 屋富祖カマノ嶽 古重嶽 内原之殿

 こうした五嶽と一殿があったのであるが、現在知っている御嶽はコバ森と古重嶽のみとなっている。五嶽のうち古重嶽は村落北方海岬に・・・・古重嶽は亀瀬(カーミジー)にあった。現在住宅地となり、拝所は西崖上にあったという。漂着した羽地ノロを葬しニライカナイの神として御嶽にしたと思われ、旅祈願所になっていた。」
                           (『浦添市史』第四巻)より
                           
 昭和40年発行『琉球宗教史の研究』(女神官分布表)によると、城間ノロは管轄を城間村とし、御嶽数を5としている記録がある。

 今回の工事をはじめ、都市化していくことでムラの歴史が失われていくのは胸が痛い。他にも沖縄の場合は基地収用も関与して複雑さを増していく。わずかに残るムラの足跡・歴史を拾い集める作業は容易ではないだろう・・・。そして遅かれはやかれ、ヤンバルにもその波は押し寄せてきている。今のうちにムラの足跡・歴史をかき集めなくては!!

  
       画像① カーミージーの遠景               画像② 亀に似てる?


     画像③ 岬からの風景               画像④ 岬の小さな祠


画像⑤ 綺麗で大きなイノーがひろがっています。             画像⑥


     画像⑦ 貝塚発見!!

2011年4月28日(旧3月26日)気温:21/17 天気:☀(晴れ)(歴文センター:tama)

 

 国頭村比地の「比地大滝」、大宜味村喜如嘉の「七滝」と、名護市源河の「源河川」と“水巡りツアー”へと出かけてきました。

 

 (この日は友人のリクエストで「滝がみたい!」ということで、このコースになりました。と、言っても実際出かけたのは3月21日ですがまとめるのが今になりました・・・)
 

まずは「比地大滝」です!!

  この日は3月と思えぬほど気温が高く、快晴!親子連れなどたくさんの人がいました。

友人と息フーフー言わせながら、新緑につつまれた山原の森をトレッキングです。友人共に日頃の運動不足を痛感したのです。いきなりの先制パンチ!!(@_@;)

 汗をかきかき進んだ先にあらわれたのは、大きな滝!やっと着いたぁ~!

マイナスイオンたっぷり吸い込んできました。

 落差25.7メートルあり、沖縄本島内最大である!迫力あります!

 

滝へと続く道の途中に何ヵ所か「炭焼き窯の跡」がみられる。

ここでも人々が息づいていた証をみることができた。

 

しかし・・・今はきれいに整備された遊歩道を歩いて、ガイドブックにも“健脚を誇る者でさえ息を上げるコース”とあるし、実際息を切らしていたのに、昔の人々はもっと険しい山道を荷物担いで歩いたかと思うと、頭が下がります。

 

 しかし・・・ガイドブックの続きには“大滝の絶景を目の前にすれば道中の疲れも吹き飛ぶことうけあい”とある。まさにその通りで、我々も疲れを忘れて滝に向けてたくさんのシャッターを切った。昔の人々も同様にこの大滝の光景に癒されたことでしょう♪

 

 

     ▲これが比地大滝じゃ!         ▲昭和初期の炭焼き釜跡

 

     ▲イモリさんがたくさん♪

 

  続いて大宜味村喜如嘉の「七滝」です!!

 集落のほぼ中央にある道を山に向かっていくと鳥居があり、その鳥居の先に七滝はある。上から数えて七つの滝の流れにあることから七滝と呼ばれるようになったとか。

 かつては、滝の左側にある石を拝んでいたが、昭和9年に右側に祠を作ってそこを拝所にしたそうである。

 

 「七滝の拝所の近くで、1月2日と9月9日にはマーリミジ(生まれ水)を汲み、健康と長寿を祈願するという。」とある(昭和57年発行『沖縄国頭の村落』より)

ムラの拝所のひとつとして、大切にされている。

 

  

      ▲七滝へはこの鳥居が目印!            ▲祠があります

 

  

  ▲これが七滝じゃ!!

 

  日も傾いてきたので慌てて、最後「源河川」へ!!

 いやぁ~懐かしい!源河川は幼い頃、夏になると母が兄と私と友人等を連れてよく川遊びにきた思い出があります。

源河川と言えば、やはり鮎が有名ですね。かつては鮎漁などで賑ったが環境が悪化し、残念ながら鮎の姿がみえなくなった。今でもかつての姿を取り戻そうと活動されている方々がいるようであるが、私が行った時にはゴミが散乱しているのには胸が痛んだ・・・。

 

  

     ▲これが源河川じゃ!!          ▲水面にエゴの花

 

 

 

おまけ!

この日出かけたのでないのですが、源河と言えば・・・民話に出て来る「恥うすい坂(ビラ)」をご紹介♪

 

 「恥うすい坂(ビラ)は男女が情死した場所。二人が死んだとき、着物の前がはだけて恥の部分が露出していたという話しをもとに、この坂を通るときには葉を置いて恥を覆い、二人の霊を慰めなければならないということからこの名が付いた。」(平成16年『本部町の民話』より)

 

昭和61年に県道14号線が整備され、源河と東村有銘を結ぶきれいな道路になっているが、どこか寂しさを感じる雰囲気をもっている。旧道近くには、男女二人を偲ぶように「恥うすい碑」が建っている。

 

  

   ▲ここが「恥うすい坂」じゃ!!          ▲標識の色合いも雰囲気あり・・・

 

     ▲歌碑に刻まれるのは・・・



4月27日(水) 天気:雨のち曇り (丑之介)

 

 雨が続いていますね。この季節、雨の後の山々は緑の嵩(かさ)が一気に増え、杜全体が「成長するぞお」と意気込んでいるようです。

 

 今帰仁グスクの百合の花が咲き始めましたよ。

 

 毎日城址のお掃除をして下さっている操さんが、一昨日撮ってくれたものです♪

 

 

きれいですね~(^^)

 

ついでに「歩く姿は百合の花」・・・・には程遠いお客さんの姿も、操さんが激写してくれました。

  

 

平朗門でポーズを取る、謎の惑星から北山グスクを滅ぼしに来た悪者です。

でもご安心ください。

琉神マブヤーが退治してくれますからね!


2011年4月22日(金曜日) 天気:曇りっぽい晴れ (丑之介)

 
いきなりですが、去る4月11日に調査を行ないました。
 その報告をいたします♪

山原ムラ・シマめぐり~その1【本部町字健堅】~


■2011年4月11日(月)天気:晴れ

 本部町字健堅を訪ねました。

①大米須親方之墓
 本部町渡久地の郵便局の前の道をまっすぐ南に進んでいくと、崖の下に「大米須親方之墓」があります。

 

 ▲お墓はこんなとこにあります    ▲読みにくいけれど「大米須親方之墓」とある

 
「米須親方」については、仲原館長の「歴史文化センターの調査記録」に報告がなされていますので読んでくださいませ。


②健堅比屋の墓
 
本部のマックスバリューから瀬底方向に左折しちょっと行くと、左手に、道路の拡張工事のため削られた崖下に「健堅比屋」のお墓があります。


▲え~っ!? こんなところに!?     ▲健堅比屋にご挨拶中の仲原館長

 墓の右手に石碑があり、そこに「鳳姓元祖 父 松寿五十三才 健堅比屋御墓所 明治三十六年吉日 同年迄(?)三百六十二年 幼名 次郎 次男 亀寿」とあり、お墓の右側の柱に「昭和八年旧五月改築」と彫られています。墓前の香炉には「奉納 鳳姓一門 一九五四年 四月十一日」とあります。

健堅比屋は『球陽』巻一に登場する人物です。

(以下『球陽』読み下し編より要約)
 本部郡健堅村に健堅大親という徳の高い人物がいた。
 ある日所用で那覇に赴いたとき、路上で久米島の堂の大親(堂の比屋)と会い、親交が深まった。
 月日がたち、堂の大親が久米島に帰ることとなったが別れるのが忍び難く、健堅大親は別の船に乗って久米島に渡り、友情を語り合った。
 ある日暴風に遭って遭難した中国船が久米浜に漂着した。船が破損していたので、健堅大親は堂の大親に「ここは山林があまりなく、船を造ることができません。私の故郷は材木が非常に多いので、早くこの中国の人たちを船に乗せて私の故郷で船を造り、帰国させましょう」と頼んだ。
 中国の人々を連れて健堅に戻った健堅大親は、山に入り木を切り、職人に船を造らせて中国人に与えた。
 その頃、周辺の野菜や穀物が馬に食べ尽くされるという事件が起こった。健堅大親はこれを見て、健堅の村には馬を放す人などいないのにどうした訳かと不思議に思い、きっと瀬底村の者が牛馬を放して作物を荒らしているに違いないと、瀬底村の人々を責めた。しかし、瀬底村の人達はそれを否定した。それで大親は隠れて様子を見ていたが、証拠を見つけることができず、ただ浜辺に馬の足跡があるだけだった。大親はこれを見てますます不思議に思い、浜辺に小屋を作り、何かが出てくるのを待った。
 すると突然、海中から一頭の馬が現れ、一足飛びに田畑に降り立ち、作物を食べようとした。健堅大親は急いで馬の所へ行き、用心しながら捕まえようとするが、あちこち暴れまわって捕まえることができない。大親は怒って、村人に草の綱を作らせ、この馬を縛り伏せることができた。
 この馬をよく見てみると、真黒い毛並みで、荒々しくいななき、空に駆け上がり、海へと入る勢いだった。大親は連れて帰り家で飼っていたが、中国の人々が馬を見て強く所望したため、大親はやむを得ず馬を引き渡した。
 この時代中国は乱世の代で、皆良馬を欲しがっており、漂流から戻った中国人は皇帝にこの馬を献上した。陛下はこの馬を見て「私はこの中国において未だかつてこのような良馬を見たことがない。その国の産物を見るとその国の姿が分かるという伝で言うならば、きっとこのような馬のいる国は善国であるに違いない」と言った。後に皇帝は琉球国王に伝え、財宝の他石碑を送った。
 大親は石碑に細かくこの馬の顛末を記し、健堅の浜に建立したが、その年津波が起こって村が氾濫し、波がその石碑を巻き込んで海中に沈めた。
 以後健堅港のことを「唐泊」というようになった。
 
 実際、瀬底大橋の架かる港を「唐泊」といい、中国への船が行き来した港だと思われます。この港に向かうようにして、健堅之比屋のお墓が建てられているんですね~。
 

③健堅之比屋御屋敷跡
 健堅之比屋の屋敷跡が、健堅集落の後方、山の上の方にあります。
 ブロック塀で囲われた屋敷跡(写真左)の中に、「健堅之比屋御屋敷跡 拝所」と記された石碑(写真右・平成元年建立)、井戸の跡、アメラグスク拝所の祠(平成11年建立)があります。
 健堅之比屋の屋敷跡が拝所となり、屋敷内に「アメラウタキ」がありますが、石垣島や久米島などでは、その一族を代表するような、いわゆる「エライ」人物が出ると、その人にまつわる場所が拝所やウタキになっていく習慣があります。この健堅比屋の屋敷跡が拝所化しているのは、比屋を出した一族が山原的ではない文化背景を持った一族であることが推測されます。



④健堅のウタキ
 
 写真左は、健堅のウタキの入口です。「ウガンヤマ」とも言います。ウタキの道を上っていくと、小さな祠があり、ここがイビヌメー(イビの前)です。祠の後ろにはクロツグが生え、クロツグの下に岩があります。
 祠の右側の壁に「昭和十四年旧卯五月九日新築」と彫られており、この年号から、ウタキの神社化の流れの中で作られたことが分かります。
 イビヌメーの祠の中には香炉が三つあり、一番新しく大きな香炉(右の写真、祠の中央にあるもの)には「土地役場」と彫られていました。「土地役場」・・・・? 仲原館長曰く「多分土地の神様に関わる香炉だろーなー。土帝君みたいな・・・」。なるほどー。それで「土地役場」なのね~。こんな役場があったらカワイイな~。コロボックルの役場よね~♪



⑤健堅の神アサギと神殿
 健堅の神アサギは「拝殿」とも呼ばれ、大きくて新しいです。柱の数は8本。本来タモト木が置かれるであろう場所から階段になり、アサギの後ろの拝所につながります。
 神アサギの後方にはウタキに向かって拝所があり、ここは「神殿」と言われています。神殿の扉をそ~~っと開けると、そこには!!! 陶器の布袋様が祀られ、香炉が三つ置かれています。少なくとも三つの門中の拝所になっているのでしょうね。神殿の右壁には、稲穂がチュタバイ(ひと束)お供えされていました。
 戦前~戦中の神社化の流れの中で神アサギを拝殿とし、その後方に神殿を設け拝所を合祀したのですが、健堅の拝所は現在でもそのまま残っているところを見ると、合祀したもののやはり元の拝みの形にもどっていくというウチナーンチュの習性を表していると言えます。



⑥タマウドゥン
 
 健堅大親御願所(ケンケンウフヤウガンジュ)とも言い、健堅之比屋の位牌を祀っているところです。
 
 
右側の位牌には「御先福次  中北山之御次男  亀壽  ウトゥダル」とあり、左の位牌には「御先中世健堅比屋  父 松  幼名 次郎  次男 亀壽  子之神  夫 太郎  妻 オミチル」とありました。
 右の図像は閑帝王図(二人図)です。



⑦健堅区一班倶楽部
 
 健堅区一班倶楽部は、健堅区一班の集会所です。
 館長がじ~~っと中を覗き込んでいます(^^;)。
 みなさん、山原の集落のあちらこちらで、こんな白い帽子の怪しいおっちゃんがムラをウロウロしていても、決して泥棒ではありませんから、ご安心くださいね。
 
 倶楽部の右手に、ボンベの鐘が吊るしてありました。
 



 ▼一班倶楽部の「あっちゃん」 (左)と「うんちゃん」(右)
 
・・・名付け親はウシです~(^^)v.

⑧ニーヌファ
  
一班倶楽部の下の方、売店の向かいにあります。
 方言でニーヌファと言えば北斗七星で、『本部町史』には「航海安全を祈る拝所」とあります。
 ただ香炉に記された文字を見ると右の香炉から「如女神支」(ノロの火ヌ神か?)「村元根神支」(根神の火ヌ神か?)、一番左の丸い香炉には「国火山岳」の文字が見えます。香炉は三つしかありませんが、『沖縄国頭の村落』には「健堅ムラはナナチネー(7軒)から始まったとの伝えがある」とあるので、かつて7つの門中の拝所を合祀した痕跡としてニーヌファの名称が残っているのかもしれません。




⑨何て読めばいいのか分からない石巌當
  
「石巌當」は読めるんですけどね~・・・・。
 一番上の「魁」だけあって、あとの6つはパソコンに文字がないっっっっ!!!
 『国頭郡志』第24章「迷信と呪禁及び民間療法」中の「災難よけに用ふる符札の文字」に、この「鬼鬼鬼…」の説明があります(この字を作った星印刷所、エライっ!)。
 「元是れ北斗七神の名なりといふ。一に大穴持神七名の符名なりと(大国主神、大貫己神、志固男神、ハ千才神、顕国玉神、大物主神、大国玉神)」なのだそーです。
 なるほど~。やはり災難除け、魔除けの文字なんですね~。こんなに鬼ばっかり続けて書いたら、大概の魔物はビビって近寄らないでしょー。それに漢字が難しすぎて「何て読むワケ?」と石の前で悩んでいる間に疲れきって「帰ろうっと」という気持ちになるでしょうしね~。



⑩健堅区二班集会所
 
 健堅区二班は「倶楽部」ではなく「集会所」です。中の雰囲気も全然違います。
 
 集会所の前から瀬底大橋が見えます。




⑪ここにも読めない石巌當が!
 
二班集会所の右手にも、「鬼鬼鬼…」の石巌當があります。健堅にはよっぽど頻繁に魔物が出没したんでせうね。



⑫宇座茂神社
 
 宇座茂(ウザム)神社について記された文献を見つけることができませんでした(TT)。
 正面の神殿の中には三つの香炉があり、右が「松司伊辺金満神」(伊辺はイベ。健堅之比屋の父の名が松であることから、健堅之比屋の一門に関わる拝所か?)真ん中が「若司伊辺御嶽神」、左が「火乃神」です。
 神殿の右側に祠があり、二つの香炉が置かれています。



⑬唐泊付近
 
 
瀬底大橋のたもと、唐泊の地名のあたりです。『本部町史』に「健堅と瀬底島の間は古くから中国や薩摩への進貢船など諸船が碇泊する場で『唐泊(トールマイ)』の地名があり…(中略)現在も瀬底と健堅・崎本部の間は大型船の避難所である」とのことです。
 

 
写真右は「犬ばしりの下の犬」。落っこちないのかなあ。写真には入っていませんが、ワンコちゃんの左側に犬小屋も設置されていたので、ここが彼(彼女?)のくつろぎの空間だと思われます。
 

 ここで健堅を離れます~。さよーならー(^^)/~

 


⑭元祖「下ン屋」浦崎霊園

 今帰仁に帰る途中で立ち寄ったお墓。
 お墓って、何故か人の心を惹きつける・・・・(はあと)。



 さてここは浦崎の交差点から今帰仁向けにある元祖「下ン屋」浦崎霊園。でも入口看板の「浦崎」の文字は消されたような痕跡が・・・・? いつも本部に買い物に行きながら、私もとても気になっていたところだったので、いい機会でした。
 入口を入ると階段をぐるっと下りながら、全部墓、墓、墓・・・です。墓の入り口右側に由来の碑文があるので記しておきます。

        元祖「下ン屋」由来の碑
  初代大宗古波倉親雲上清愛・欽創緒(1518年生)~4代目城間清豊自了・
  欽可聖(1614年生)首里王府の画家~8代目浜元親雲上清盛地頭(1697
  年生)浜元ノロ女との間に3男子誕生。その3男が浦崎玉城の元祖となる~12
  代目浦崎掟「下ン屋」仲宗根仁屋次郎(1837年生)~13代目仲宗根仁屋勝
  次郎(1857年生) 
        
   この碑は、浦崎掟「下ン屋」の子孫ならびに関係者が父祖の誕生の地を尊崇すると共に、自らの血縁のルーツを証するために、建立したものである。平成11年4月14日「下ン屋」子孫並びに関係者一同。

由緒あるお墓だったんですね! いつもは車でブーナイ通りすぎていたのですが、ちょっと時間を作って降りてみる「勇気」って必要ですね。

 ⑮謝花大主の墓(?)

 下ン屋の墓群を降りて川沿いに進んでいくと、古いお墓が続きます。空っぽのお墓も多いのですが、最近シーミーをしたのかな?と思われるこざっぱりしたお墓もあります。
 川沿いの小道の突き当たりに、この「謝花大主のお墓かな?」と思われる墓がありました。このお墓については4月16日の「今月の調査記録」で館長が報告しています。



⑯具志堅の木ぃ墓

 
シメは一度確認したかった具志堅の木ぃ墓! 10数年待ち焦がれていたんだよお。新里方面に行く道から上がっていくと分かりやすいと思います(私たちは本部循環線から降りて行ったので、ちょっと迷いました)。
 現在の木ぃ墓はセメントで閉じられていますが、もともとは木で閉じられていたお墓です。
 墓の前に三つの香炉があり、右から大村門中、上間門中、安村門中と表札があります。
 真ん中の上間門中の香炉にはまだ元気なお花が供えられていたので、前日の日曜日にでもシーミーに来たのかもしれませんね。
 あと10年後も、木の部分が残っていたらいいなあ。



 ・・・・ということで、山原ムラ・シマめぐり~その1・健堅~の報告を終わりまーす!


2011年4月21日(旧3月19日)気温:23/15天気:?(晴れ)(歴文センター:tama)

 暖かくなってきたかと思ったら、また風が冷たくなったり、テレビのお天気予報のお姉さんは、「季節外れの冷え込みです」などと言っているけど・・・・

まだ旧暦は3月!!暦通りじゃないですかぁ~!!

 さて、この時期の沖縄はテッポウユリが咲きはじめています。そして、清明祭(シーミー)ですね。
 tamaのお家でも17日(日)に"お墓ピクニック"へ出かけてきましたよ。
しかし、この日はどんより曇り空・・・「ウートートーまでは雨はふらさないでね」と、親戚一同、おじぃ・おばぁ・ご先祖様にお願いをします。

 お墓についたら、ゴザ敷いてご馳走を並べ、お線香を立てていきます。手を合わせて、ウチカビ燃やして・・・ゴロゴロ雷が・・・やはり雨に追われてしまいご馳走は帰宅していただきましたとさっ!

沖縄の清明祭(シーミー)の雰囲気が伝わりましたねぇ~。



   
 ▲御ご馳走              ▲お花やお神酒も供えます


  
▲名前と住所をいってセンコウをたてる     ▲はい、ウートォートー


   
▲雨が降ってもチビ達は元気!      ▲お家でウサンデー


4月19日(火) 天気:曇り 風強し

 昨夜から空気が冷たくなってきた山原・・・。
 今朝は冷たい風が吹いて、なかなかサブかったですね~。

 さて一昨日の日曜日は旧暦3月15日でウマチーにあたります。

 丑は日直のため出勤でした。
 セコセコと庶務関係の書類を片づけていたら、作業着姿のお館(やかた)さまが突然現れて、
 「今日今泊のウマチーだから、写真を撮ってくれないか~。
  フイ殿内で1時か、2時からだと思う。
  僕はシーミーがあって、これから草刈りだから参加できないんで」とのこと。
  お館さまの頼みとあっては断れませんよね・・・・ま~ウシはよく断ってはいますけどね・・・。

 早速公民館に電話して時間を確認したら2時からとのこと。
 食後のコーヒーを楽しもうとしたら、1時2分前に公民館から電話があり、
 「雨が降りそうだから1時からにします~~」と区長さん!
 慌ててカメラと手帳を持ち、ウインドブレーカーを着こんで現場にGO!
 
 フイ殿内は「古宇利殿内」と書きます。
 今帰仁グスクの一番外側の石垣の内にあります。
 去年、古い写真をもとに復元されました。
 今泊のウマチーはここで行なわれます。
 
  ▲今帰仁グスク内にある古宇利(フイ)殿内
 
 1時15分過ぎに、今年度新しく今泊の区長に就任した与那嶺誠区長、同じく3年前にも書記だった山里豊子さん、そして今帰仁ノロ代理の仲尾次ヨシ子さんが現場に到着。区長さんはゴザを担いで登場です。
 
 
 ▲左から書記さん、ノロ代理の仲尾次さん、区長さん
 
 フイ殿内の中には香炉と火ヌ神が三つありますが、お供えの酒、花米、お菓子をお盆に乗せて、右側の香炉の前に供えます。そして線香を立てます。
 ノロさん(代理)は神衣装はつけません。
 仲尾次さんによると、右側の香炉がムラの香炉、フイ殿内のこうろで、真ん中と左側の香炉は「ウトゥーシの香炉」なのだそうです。
 
 
 ▲右側の香炉にノロ(代理)が線香を立て、祈願する
 
 次に区長さんが線香に火をつけて、同じく右側の香炉に立て、祈願します。
 


▲線香を立て、香炉の前にお酒を注ぐ
 
 以上で今泊のウマチーが終了。所要時間約10分でした。
 終わってすぐに雨がパラパラと降り出し、全員大急ぎで退却いたしました~。
 
 
 ▲本日のお供え。ミニどらやきをウサンデーに頂きました
 
 
雨に濡れないように急ぎ足でセンターに戻り、
 「きっときっとお館さまが、シーミーウサンデーを持ってきてくれるに違いないわっ」と、

 窓口のお姉さんと一緒にお腹ペコペコで待っていたんだけど・・・・来なかった・・・・
 ぐっすん(TT)。
 
 最後に、城壁の前でポーズのノロさんで~す(^^)
 


▲ノロ代理の仲尾次ヨシ子さんよ♪


4月12日(水) 丑之介

みなさん、こんにちは。

すっかりゆら~ゆら~ともご無沙汰になっているウシです(><)。

4月ももう半ば。
今年度事業が本格的にスタートする前に、公表し忘れていたみーちゃんネタ画像をupしま~す!

みーちゃんをさがせ!
【その1】
▼歴史文化センター第3展示室の神アサギです。


▼近づいてみると・・・

・・・・だるまさんが転んだっ!

▼Zz・・・Zz・・・Zz・・・神様の膝枕で寝ているみーちゃんです。


【その2】
▼同じく第3展示室です。
 お客さんの通報により駆けつけると・・・



▼クロス張りの展示台で寝ています。
 お? よ~く見ると、みーちゃんの横に何かいる・・・?


▼歴文に生息していたヤモリの末路であった・・・・。


み~ちゃん、お仕事、お疲れさま~(^^)v


2011年4月7日(旧3月5日)気温:23/16天気:?(晴れ)(歴文センター:tama)

今日のみーちゃん。
展示してある「ハル石」と一体化・・・・

そして・・・首輪をつけてもらいました!!

小さな鈴も付いています♪女の子なのでピンクです♪

館長には「鈴が付いていたらダメじゃないか? 鳥を捕まえられないぞ!」と、言われていました・・・(^-^)

 
   画像①「ハル石」に囲まれて        画像② 
 

 画像③ ブラインドタッチ!!     画像④ おnewの首輪♪


2011年4月5日(旧3月3日)気温:20/15 天気:? (歴文センター:tama)

 今日は3月3日「浜下り」ですね。
大潮ですよ!!女性は清めに海へ行かなくちゃですよ!!
三月菓子食べなきゃ!!

 ある日、お客さんから「家の片づけしていたら出てきたんだけど/…」と、見せてくれたのは古い貨幣。

 長崎県は対馬からのお客さんで先祖は貿易口の番頭のような役人だったとかで、この他にもお宝はあるとか…

 この貨幣はさっそく館長が鑑定です!!

 1700年代の正徳帝の中国(清)の貨幣と判明!
 サイズは35.38mmと大きめのものでした。
 保存状態も良く、裏表に鳳凰と龍の紋様が入ってとても綺麗なものでしたよ!!

「対馬もいいとこよ!遊びにきてください!」と言葉を残していかれました。




2011年3月28日(旧2月24日)気温:18/14 天気:? (歴文センター:tama)

 今回、震災で被災された方々、こころよりお見舞い申し上げます。

 26日(土)に文化センターに飛び込みで「メッセージボードの設置をさせて下さい!」との要望がありました。すぐにボード設置スペースをつくりおいて1、2日でたくさんのメッセージが書き込まれていました。
 心温まりますね。皆さんの気持ち、きっと届くことでしょう!!






2011年3月26日(土)(旧2月22日)気温:16/14 天気:?(歴文センター:tama)

 タツナミソウやシークヮーサーの花が満開で、山には新緑と鮮やかな色と香りの季節ですね。歴史文化センター裏でもブラシの木が見ごろをむかえ、クボウの御嶽も新緑に包まれています♪
 
(植物の画像はどうぞ、HPをご覧ください。
 「今帰仁 グスクを学ぶ会公式サイト」→nakijingusuku.com/)
 
 さて、今日は「第18期 山原のムラ・シマ講座修了式」でした。これまで行った場所を写真でみたり、皆さんの感想をきいたり、製本した冊子を手にふりかえります。

 参加者、協力して下さったみなさん、ありがとうございました。来年度のムラ・シマ講座をよろしくお願いします♪充実したものにしていきましょう♪

 ムラ・シマ講座修了式をしていると、みーちゃんも途中から参加です♪






2011325日(旧221日)気温:17/14 天気:→☀(歴文センター:tama

  

 さて、3月も終わりに近づき新年度のスタートの前に慌ただしくしているでしょうか。
 

 今回はおとなり、本部小学校の総合学習(発表会)の見学。 

 

 大学の先輩がおり、バイトでも一時期お世話になった海洋博の海獣課(ウミガメ担当)さんが約一年を通じて、子ども達にウミガメを通し、海などの身近な自然環境やその問題点などを教え、それら学んだことを子ども達はまとめて、発表をするのです。 

 

 浦島太郎のお話しを題材に・・・太郎さんがいじめられているカメさんを助けて、竜宮城へといきます。そこで太郎さんは「はて?ウミガメってどんなものを食べたり、どんなくらしをしているのかな?」と、疑問に思います。するとお魚さん達があらわれて「私達がお教えしましょう♪」と、調べたことや教えてもらったことなどを発表するのです。

 手作りのカメの甲羅などをつけて、可愛い発表をしてくれました。 

 

 子ども達は、ひとり一頭ずつ、子ガメの担当をします。その子ガメの成長を記録し、ウミガメをより身近に感じる・・・というのはもちろん、愛着が湧くことでしょう♪ 

 

 今帰仁の子ども達にもウミガメを通じて海などの身近な自然環境について、出前授業などしてくれるとか!!


2011年3月10日(旧2月6日)気温:19/12  天気:→☁ (歴文センター:tama)

 3月9日に「ジュゴン懇談会」があり、参加してきました。

 まず、花井氏が“古宇利・屋我地の資源の保全と賢明な利用のあり方について”お話ししてくれました。

 「今は“ニューツーリズム”という言葉がうまれ、里山や里海(海岸とその地域の人の生活文化)に着目した観光である。」

 「地球上で、世界で何が起こっているかを考えるのも大事だが、自分の足元で地域で起こっていることに目を向けることが大切!」


 他にも今帰仁城跡にも言われる「文化的景観について・・・」などの話が印象に残った。

 続いて、今帰仁漁業組合の平良氏が“漁業者によるジュゴンの喰み跡モニタリング調査結果について” お話ししてくれました。

 「古宇利と屋我地の間の海域に多くの藻場があり、多くの“はみあと”を確認できた。また、小さい“はみあと”も発見。子どものものか?と期待・・・」

 「この“はみあと”を活用して、ツアーなどはできないだろうか?」

など、興味深い話しが聞けた。

 その後の車座会議でも・・・

 「赤土による藻場の減少・・・」「屋我地(済井出)でのモニタリング開始」「子どもたちへの教育」など、ジュゴンに対する思いや、ジュゴンを通して伝えられることなど、話しは尽きることなく次回へと持ち越された。



     ▲ジュゴン懇談会の様子


2011年3月2日(旧1月28日)気温:17/14 天気:☁→ (歴文センター:tama)

 急に冷え込みましたね。暖かくなるにはまだまだのようですね。


 満開だった桜も、あっという間に葉桜になり、今では可愛いさくらんぼをつけております。

 そんな中、文化センターの駐車場にて、イッぺーの花が咲いているのを発見!!

 南方系の花ですよね・・・学名は「コガネノウゼン」とか・・・

イッぺーも桜同様に葉を落してから花を咲かせます。これからどんどん黄色い花を咲かせていくでしょう♪春のおとずれですね♪


           
▲くもり空にも負けじとビタミンカラーの花を咲かせます

 ちなみに・・・「イッぺー」と「イぺー」は別の花なんですね・・・


2011年3月1日(旧1月27日)気温:21/16 天気:くもり時々小雨  文センター:tama)

3月になりましたね。
卒業式や年度末で忙しくしている方も多いかと・・・。 

さて、2月26日(土)に湧き水fun倶楽部さん主催の講演会があり、「湧き水が暮らしの中にあった頃~山原のカー(湧泉)とムラの話し~」と題して館長が講師をつとめました。参加者は20名余り。みなさん中南部からの参加です。まずは歴文センターでお話しを聞きます。

昔の生活や風景にあったカー・ハーも使われなくなり・・・井戸端会議もなく、人つき合いも気薄になってきたものですね・・・


  ▲プロジェクターでかつての風景をみます

 講演会の後は、実際に具志堅の大川(ウプガー)へ・・・。

 館長みずからマイクロバスのハンドルを握り、出発!!

 大川(ウプガー)に到着し、ハンドルから今度はマイクを握りみなさんをご案内!!キレイで豊富な水にみなさん必死にシャッターきってました♪


      ▲今も湧き出る水は見事です!            ▲透き通るカーを覗き込む・・

大川(ウプガー)の魅力に引き込まれていると、芋を洗いにやってきたお姉さん方二人。

田空の畑をかりて姉妹で芋を作っているそう。大量に収穫された芋は、よく洗い炊いてから翌日お店に並ぶとか・・・。

 なぜ、そこにパイプ椅子があったのか、これで謎がとけました(^-^)

 
 ▲「楽しくやる方法よ」と椅子に座って芋洗い

 今なお暮らしに息づいているカーの風景を目の当たりにして、参加者のみなさんも興奮気味!お姉さん方との話しもつきません。

 名残り惜しいまま、時間もきたのでみなさんで記念撮影して解散。参加者のみなさん、案内役の館長、お疲れ様でした。

 ふと、振り返ると・・・何やら顔のついた石が!!(@_@;)
  ブッ・・・ブタ??かな??


     ▲謎の石発見!!           ▲よく見ると可愛いお目め

「湧き水fun倶楽部」さんの活動内容を記録したブログでも、今回のことがアップされているので、合わせてご覧ください♪     http://wakimizufun.ti-da.net/


2011219日(旧117日)気温:20/15 天気:くもり 歴文センター:tama

昨日はお墓掃除して、ウートートゥーしましたかな?離島の方では盛大に行なわれたでしょうか・・・

十六日で綺麗な満月が顔を出していましたね♪

さて、本日のみーちゃん!!


        ▲「やっぱり新鮮なお水がいいわね♪」


平成23216日(水) 天気:晴れ 暖かい一日なり

久しぶりのポカポカ陽気。

今帰仁グスクのお客さんも、最後のお花見遠足で楽しそうです♪

初々しい新緑の葉桜を見ると、桜餅が食べたくなりますね~。

今日は文化センターで防災訓練がありました。

文科省による文化財防火デーの取り組みなのですが

職員対象の「歴文防災設備ツアー」みたいで楽しかったです(^^)




非常ベルを鳴らして火災の放送をしているところです。

「ただ今3階事務所より火災が発生しました・・・」と笑いながらアナウンスして、


ひんしゅくを買ったウシでした。



あれほど「お客さんの誘導が第一」と言っていたのに、

いち早く外に逃げ出した1階の文化財メンバー。とほほ。



防火扉の使い方を示す館長。

扉を開けたら、後ろから大量の綿ぼこりが出てきて

ウシの顔に緊張が走った!!

「やば! ここ掃除してないっ!」



2階展示室の非常口の確認。

「昔泥棒が入ってね・・・」と館長の思い出話に耳を傾ける。



排煙装置を手動で戻す寛人クン。

「ぼのぼの」に登場してきそうなキャラですね~。



左より、消防士の妻亜紀、係長、本部消防所予防課の三島課長と


若い消防士さんの玉城洋一郎さん(今帰仁今泊出身)。

洋一郎さんが内股なのはオネェではなくて、

火災報知機の包装紙を挟んでいるからですよ。

・・・・ということで、無事防災訓練が終了しました。

課長さんのお話の中で


「自分の職場だけでなく、外出先や旅先での非常ドアの確認もして下さい。

また、自分の家が火事になったとき、パニックを起こして


『早く早く!早くうちに来てください!!』としか言えない人が多いので、

自分の住所と、目印になる建物などを書いて

電話の側に貼っておいたらいいですよ」

という談話が印象に残りました。


なにはともあれ、普段の防災意識が大事。

ガスコンロやストーブ、煙草だけでなく、コンセントからの出火も多いそうなので

今度の休みには先延ばししないで、しっかり掃除しようと思いました。



201129日(旧17日)気温:22/15 天気:晴れ→曇り (歴文センター:tama

 みーちゃん・・・仕事する!?

▲受付お嬢♪


201125日(旧13日)気温:20/17 天気:雨→晴れ (歴文センター:tama

 いつも車で横を通っていて、気になっているけど降りたことがない場所・・・って、ありませんか?

いくつかある中で、ココを訪れてみた!そう、崇元寺!


 いつも石門前を通りながら“なんじゃ?”と気になっていたのですが、今回近くまで用事で来ていたので寄ってみることに・・・。

 崇元寺(そうげんじ)は名前の通り、那覇市泊にある寺跡です。寺域は1230坪余り、尚家の廟所(びょうしょ)であると同時に歴代国王の霊位を祀る国廟でもあったそう。

 石造拱門(アーチ門)は、沖縄で最もすぐれた石造建築の一つで三つのアーチ門で構成されている。境内建造物は沖縄戦により破滅、わずかに石門の重要部分が残り、1952年(昭和27)に補修され、1972年に国指定重要文化財となった。

 写真をとったりうろうろしていると、公園内でゴルフのスイングの練習をしている地元のおじさんが「写真とってあげようか?」と声をかけてくれました。

 おじさんは「ここは王様の墓があった場所」「昔は道路なんて無いからね、船でここにきて、首里へと向かったんだ」など、いろいろ教えてくれました♪

 公園内には立派なガジュマルが鎮座しています。赤い姿の主(キジムナー)には今回会えなかったけど、確実に潜んでいそうです!!

 あと、おじさんがガジュマルの樹齢も教えてくれましたよ♪樹齢60年以上にもなるとか・・・・tamaとの大きさ比べでガジュマルのデカさが伝われば幸いです。(_;)


   
   ▲現代に残る石門          ▲某番組みたく、名付けて「ブラ☆tama」リ♪


2月4日(金) 天気:曇り時々晴れたり雨が降ったり・・・

明けましておめでとうございます。
昨日は旧正月でした。
菜美路さんのおうちはちゃんと旧正をするんですね~。
エライっ!

ウシんちは新暦のお正月だけです。
夕ご飯は、朝からコトコト煮込んだ野菜とお肉たっぷりのカレー(ニンニク・ショウガ・黒糖入り)でした~(^^;)

旧正、元旦の朝。文化センターの生き物=みーちゃんはどのように年始を迎えたのでしょう?


      ▲サバニに乗っています


  ▲新年の船出を寿いでいます(多分よ・・・・)

きっと今年も福を「招きネコ~」ですねっ! めでたし、めでたし♪


2011年2月3日(旧1月1日)気温:19/13 天気:曇り、雨 歴文センター(tama)

 今日は「旧正月」ですね!

新暦だと「節分」ですね!

新と旧の行事が重なって賑やかですこと・・・

 昨日は「年の夜」ということで、tama家での様子をご紹介します。

と、言っても素朴な大晦日です。

 ご馳走はご飯とソーキ骨と畑で採れたニンニクを家族の数だけ供えます。ウサンデーしたら、ニンニクを軽くかじって家族の健康や子孫繁栄を願います。

 父曰く「昔はどこの家もニンニク供えてやってたけど、今はやるお家がなくなった・・・」とつぶやいておりました。

 美味しくいただいた後は“年の夜には、家の主にもご馳走をあげる”とのことで、ソーキの骨は片づけずに主(ネズミ)のために置いておきます!


 ちなみに・・・今日はカー御願ということでtama家はレバー用意して廻っているかとおもいます。そのカー御願、去年の様子を館長のページにて一度紹介したことあるような・・・


201121日(旧1229日)気温:16/10 天気:晴れ・曇り (歴文センター:tama

 2月になりました!

名護では“裕ちゃん”フィーバーでしょうか・・・

明日は「年の夜」ですね。旧正月にかけて寒さも増すでしょうか・・・

桜のますますの開花も気になるところです。

 1月30日(日)は今帰仁小学校にて日頃の学習成果を保護者の方々にみてもらう「学習発表会」がありました。総合学習でセンターにやってきて、各字の“宝物”について学んだ4年生の1、2組さんから可愛い招待状をいただいたので、早速みにいってきましたよ!

画像① 可愛い招待状♪

「今帰仁村の伝統と文化 ~字の宝物を伝えよう~」と題して、謝名・崎山・与那嶺・越地・平敷・玉城・仲宗根の“宝物”の発表をしてくれました。

しっかりその場所へ行ったり、区長さんへインタビューしたりなどして立派な発表をしてくれました!これで終わりではなく、これをきっかけにたくさんの“宝物”をみつけて、周りへと伝える大切さなどに繋げて、大きく成長してほしいものですね♪



画像② みんなイイ顔してます(^-^)



画像③ 仲宗根区は棒術と踊りも披露!


画像④ 壁には“宝物”をまとめたもの!


2011127日(旧1224日)気温:16/14 天気:曇り (歴文センター:tama

 今日は「ウガン解き」ですね。皆さんは火ヌ神にウートォートゥーしましたか。
昨日“湧川にハル石あり!”との情報が入り早速現場へ・・・。

縦:35㎝  横(最大):28㎝  幅:8

「ケ し由や原」


 こちらでは調査したスケッチと現場画像にてご紹介!
詳しい内容は館長の調査報告にて・・・

 原物は今帰仁村歴史文化センターの展示室にてご覧いただけますよぉ~♪


121日(金)天気:雨・小雨・曇り・・・・ (丑之介)

今日の夕方から今帰仁グスク桜まつりです。

小雨がちらついていますが・・・・雨にけぶるグスクもきれいです・・・・。

桜まつりについては後日報告いたしますが、今日のゆらゆらは、また「館長ネタ」!
(いつも新鮮なネタの提供に感謝しておりまする~)。

外勤から帰ってきたウシが自分の席に戻って、ふと向かいに座っている館長を見たら・・・。

何やらお口がモグモグ動いている・・・。

「カンチョ~、何を食べているんですか~?」と聞くと、
ジャンパーをよっこらしょと持ち上げ、ゴソゴソズボンのポケットをまさぐって、

「これ、食べるか?」と館長が出したものが、これ!


「白樺の雫 ミルクキャラメル~白樺樹液入り」でした!!
白樺の樹液が入っているキャラメル・・・・?

パッケージの裏を読みますと
「白樺の樹液はほのかに甘くさわやかな風味です。幹に10ミリほどの穴をあけ、細い管を差し込むとポタリポタリと容器にたまります。採液できるのは根っこから勢い良く養分を吸い上げる早春の4週間だけです」とあります。
ほおおお。


白樺の樹液入りキャラメルねえ。道南食品という北海道のメーカーさんのキャラメル、

館長は北山高校側のココストアで入手したそうです。

しかし、館長って、ほんっとにキャラメルが好きなんですね~。

森永ミルクキャラメルとか、ハイソフトとか、高速に乗るときは必ず買ってるもん!

山原学のエネルギーは、ぜんざいとキャラメルなんだなあ・・・。深い・・・・。

でもウシはマネしないと思います・・・・横から味見はするけど・・・(=^^=)


2011113日(旧1210日)天気:晴 気温18/13(歴文センター:tama

 ずっと寒い日が続いていたなか・・・

 ネコのみーちゃんと
 電気ストーブさん
 向き合う二人は仲良しこよしです♪

画像①


 さすがに、今日は久しぶりの晴れ間なので、ぽかぽか陽気の中でごろんごろんしてます!!

画像②



2011年1月12日(旧12月9日)気温:14/11 天気:雨 (歴文センター:tama)

 1月11日(旧12月8日)は"ムーチーの日"でしたね。皆さんも無病息災願ってたくさん食べましたかな??

歴文センターにもムーチーが♪♪

①画像:歴文センターのムーチー♪
 1月もはや10日が過ぎましたが、皆さんは初詣は行かれたでしょうか。今年は行ったことのないところへ行ってみようと「泡瀬の美津呂(ビジュル)神社」へと足を運んでみました。
 (地図に"美津呂神社"とありました。あて字なのでしょう・・・)



 泡瀬はその昔「あせ島」「あわす小離」と称され無人の小島で、自然に形成された砂州と広い干潟を有していました。泡瀬ビジュルの由来については、1768年頃、読谷山間切の在番役を退役し、泡瀬の初期開拓者(入植し、広い干潟を開墾し、農耕のかたわら塩を焚き安住の地をここに定めた)高江洲義正が、海に浮かぶ霊石を見つけて持ち帰り、ビジュルとして祀ったのがはじまりといわれています。例祭は旧暦9月9日で、無病息災、子安、子育て、旅の安全などを祈願する参詣者がたえない。

②画像:一の鳥居


③画像:二の鳥居


④画像:社 殿


⑤画像:境内にはたくさんのおみくじが・・・


⑥画像:社務所・千秋堂、御守りの売り子のおばちゃんがよかった♪



1月6日(木) 天気:曇り、時々小雨

仲原館長ご出演、「旅するラジオ」の極秘画像を、菜美路リポーターから入手!!

▼可愛いなあ・・・・仲原さん・・・の乗ったラジオカー・・・・♪



▼イケメンアナウンサーの質問を聞く仲原館長



この放送で、桜もあわてて咲くことでしょう(^^)

 今日は小雨で寒い一日ですが、この後暖かく晴れた日が数日続いたら、鮮やかな桜がパァっと開きますよ♪ お楽しみに~(^^


2011年1月5日(水)(旧12月2日)18/11 晴れ 歴文センター:tama

 歴史文化センターも何事もなく新年を迎えることができました。この「ゆら~ゆら」をはじめ文化センター、職員一同、みーちゃん共々よろしくお願いします!!

 さぁ!新年最初のみーちゃんネタ・・・。発見しました!!みーちゃんの若かりし頃の写真!!しかも可愛いかわいい仔猫たちの姿も!!

 これ・・・とっても貴重ですよ♪みーちゃんファンにはたまらないことでしょう♪

 ちなみに、最近のみーちゃんは相変わらずマイペースにやってます。今も館長の“いか天”の臭いを嗅ぎつけ、狙っていましたよ!






平成2314日(火) 天気:曇りで寒い一日

新年明けましておめでとうございます!
今年もゆらゆらをよろしくお願い申し上げます。

 今日は御用始め。
 ウシも館長も菜美路さんも、お正月疲れも見せず、元気に出勤です!

 さて今日は二つのトピックスがあります。

1.仲原館長、NHKラヂオ番組で今帰仁グスクの桜を大いに語るっ!

 数日前から、沖縄NHKのアナウンサーさんと綿密な打ち合わせを続けていた館長ですが、(1230日に今日この日の宣伝がオンエアされましたが、ウシは聞いていません)、ついに「ここはふるさと、旅するラジオ」本番の日を迎えました。

 オンエアは昼の1230分から。私はお昼にうちに帰り、大急ぎでラヂオをつけて、ご飯を食べながら待っていたら、あの「いかにもニッポンの田舎」のテーマ曲が流れ、「今日は沖縄県今帰仁村からお送りします」の言葉。途中子どもを迎えに行かねばならず、車に乗って慌ててラジオのスイッチをつけました。拍手や指笛や声援もとんで、賑やかです。

 グスク交流センターの前を通ったら、駐車場で、大きなラジオカーに乗って、30名くらいの「桜」さんたちに囲まれて、館長がしゃべってる~♪ 最後まで聞いて、私も拍手しましたよ~。館長、シバカンチラカンチラせずに話せて良かったですね!

 5時前に入館したお客さん(千葉からの観光客さんたちでした)が「ラジオ聞きましたよ~。それでここに来ました~」とのこと!

 おお! 早速宣伝効果が! おめでとうございます!!

 館長の話のあと、今帰仁スイカの話を経済課の上間哲朗さんが、そしていい睡眠のための薬草と言われるクヮンソウについて座間味ファームの久美子さんがそれぞれお話してくれて、今帰仁のいいアピールになったと思います♪

 しかし、今日の今帰仁グスクはサブかったなー。

 糖度はのっているけど、やっぱり寒くて、お裾わけのスイカには手が出なかったウシです。

2.今日は成人式

 今帰仁村では、帰省中の青年たちのことを考慮して、今日成人式が行われました。

 昨日の夕方、用事でコミュニティセンターの横を通ったら、青年たちが屋根に上ってなんかしてる・・・・・と思った次の瞬間、バサバサバサと大きな幕が降りてきて、下の写真のごとく、コミセンは成人式の晴れ姿になりましたっ!



びっくり~~~~~~でしたよ~。

写真は今日撮影したものです。幕の前に、記念撮影の台があります。


 そして、誰かの車の後ろに、今帰仁のお酒がズラ~~っと並んでいました。

 初飲酒ですね。

 おーい、飲酒運転するなよー。

 うちの係長は成人式のときに付けたネクタイをまだ持っているということなので、10年後、二人で「3回目の成人式をしよう!」ということになりました。

振袖つくらなくっちゃ(*^^*)うふ♪



5回ムラ・シマ講座(恩納村山田) (1113日・天気:雨っ!!)

みなさん、こんにちは!

ついに12月に突入してしまい、もう今月の講座のお知らせ文書を発送せねばならないというのに、更新していない山田の報告のことが気になって気になって、体重も100グラムほど落ちてしまった丑之介です・・・・。

沖縄県博物館協会の奄美研修や、沖縄県地域史協議会の久米島研修など、報告したいものもあるのですが、やっぱり山田をすませないと落ち着かな~~い!

というわけで、遅まきながら講座のご報告をいたします♪


▲雨の中を気合い入れてスタートだっ!              ▲神田跡?

これまであまり雨に当たったことのないムラシマ講座ですが、今回は珍しくザザ降りの中での開催でした。それでも今帰仁を出発するときは、「ま~、恩納村についたら晴れるはずよ~」と、気楽に構えてたんですけどねー。

現場についたら雨足が強くなってきましたが、「中止」なんてことは全然考えもせず、一同黙々と館長につき従い歩き始めます。白い背中は我らがドライバー「島隆」課長。課長の左側に見える白い長靴は、今帰仁村の文化財でお仕事しているTM城A紀さんの左足。出発直前に長靴に履き替えた彼女は「めっちゃカシコイ選択っ!スバラシイっ!」とウシと菜美路の称賛を浴びたのだった!

 

写真右は、山田ムラの神田(カミダ)跡と思われる畑の横を歩く一行です。神田はムラで最初に苗を植える田んぼであり、実ったら刈り取って祭祀に際に供えられます。田植えの季節の目印であり、稲作に関わる一連の行事の物差しとなる田んぼです。

列の一番後ろの方の左側あたりに、カー(井戸)の跡があります。

 
    ▲メーガー(メーヌカー)                   ▲バーキなどを作る竹


黙々と歩く列の先には、メーガー(メーヌカー)があります。山田の集落の前方にあるので、「前の井戸」(メーガー)なんですね。

このメーガーの手前の縁石には、なんと碇(いかり)石が使われています。説明をして頂いた比嘉信雄先生によると、長さは167㎝あるとか。いつ頃の、どんな船の碇石なのか資料はありませんが、久良波港に出入りしていた大型船に使用されていた碇石かもしれません。県内でこのような碇石が存在しているのは、ここ恩納村山田と糸満市、そして久米島の宇江(ウエ)グスクの3か所だそうです。

縁石の上にヒラウコー(平線香)が置かれています。水の神様へのウガンなので、火を点けずに置いてあるんですね~。ウートート。

メーガーの上の方に、バーキを作るのに適したナントカ竹(知っている方、名前を教えて下さいませ)が生えていました。見つけてくれたのは島隆課長です。「節が長いから、カゴなんか作るのに上等!」。課長は山学校していたせいなのか(?)こんなのを見つけてくれるのが、と~~っても上手なんです!


    神田の側の井戸の跡                 ▲護佐丸の父祖の墓へ・・・・


神田の側には井戸の跡があります。井戸の名前はわかりませんが、山田ムラが集落移動をした後も、このようにして井戸を残していく習性があります。

雨に濡れる道をすべらないようにして階段を上っていくと、護佐丸の父祖の墓があります。

 
  ▲説明して下さる比嘉信雄先生        ▲墓前の碑文


山田グスクの城主と言われる護佐丸の父祖一族の墓と言われ、「按司墓」とも呼ばれています。

 

墓の右手に碑文があり、それには「(前略)・・・この洞窟を墓とし、内側は家屋形式にして一族を葬った・・・(略)・・・年月が経って破損したので1714年墓前を修復し、石厨子に作り替えて遺骨を葬った・・・・代々お参りし、秋の彼岸には供え物を捧げ、この碑を建立することとなった・・・174010月吉日 裔孫豊見城(嶺?)親雲上盛幸」とあります。

石碑の裏には

「この碑文は1714年に作られて以来文字が分からなくなったので立て替えました」と記されています。

ここで注目して頂きたいのが、

・内側が家屋形式の墓である(原文は「内ハ屋形ニテ」)

ということと、

・「1714年」(原文は「康煕五十三年」)

という年号です。

 

1690年頃、蔡温の時代に家譜を首里に申請した際、王府より墓のことも確認されるであろうため、その後修復された墓が目立ちます。たとえば現在運天にある大北墓は、もともと今帰仁城下のウツリタマヒにあったものが1700年代に入ってから墓の修復を兼ねて移葬されたものです。それ以前のお墓は洞窟の中にそのまま骨を納めており、厨子甕にお骨を納めるのは近世にはいってからです。そして位牌を整える。つまり系図(家譜)・墓・トートーメーが一族証明の三点セットになっているわけですね。

護佐丸の父祖の墓の石碑は、この流れの中で作成されたものと見られます。

 

さて次の注目ポイントは「修復される前の墓の形が洞窟の中の家型の墓」であること・・・。

みなしゃ~ん、何を思い出しますか~?

 

そうで~す! 運天の百按司(ムムジャナ)墓ですねーっ!

百按司墓は、洞窟の中に家型の墓を作り、その中にさらに家型の木棺を安置し、遺骨を納めたものですね~。護佐丸さんちの修復前のご先祖様のお墓は、ウチのムムジャナさんちのお墓の形態によく似ていたようです。

按司墓の右奥には、崖っぷちにウナジャラ(奥方さま)のものと言われるお墓があります。

 

   ▲山田ムラの神アサギ跡地と殿(トゥン)           ▲神アサギの石柱

この神アサギは確かに屋根は低いけれど壁があり、しかも中に火ヌ神が祀られていて、「壁がなくて、屋根が低くて、火ヌ神はなく、香炉やタモト木があり・・・」という神アサギの条件と食い違っていますが、それでもこれは山田ムラの神アサギなのです。明治34年頃の様子を記した地図を見ると、現在の神アサギと同じ場所に「神アサギ」と書かれています。

今はこの辺りは一軒も家がありませんが、上述した地図を見るとメーガー周辺から山田のウタキにかけてかつては30軒近く世帯があり、特に神アサギ周辺には山田ムラの成り立ちに関わる旧家らしき屋号を確認することができます。恐らく山田の神アサギは、これら旧家の火ヌ神を合祀した、中南部でいうところの「殿(トゥン)」と、もともとあった神アサギとを合体させたものと思われます。神アサギの中には三つの火ヌ神がありますが、旧家を構成する三つの一門がそれぞれに置いたものでしょう。また恩納村史に「神アサギの隣に地頭火ヌ神が残っている」とあることから、三つの火ヌ神の内の一つがこの地頭火ヌ神である可能性もあります。

このように神アサギと殿を合体させてブロックに作り替えても、ちゃんと当時の石柱を残しているところがいいですよねー(^^)v


    ▲神アサギの手前を通る道        ▲クシガーの跡

神アサギの手前に小道があり、明治34年頃の地図を見ると、集落内へと向かう道であることが分かります。地図によるとこの道を行って突き当たりを右に行くと「神サギ根」という屋号のおうちがあったようです。左に行くと、「下ヌカー小」「前のノロ殿内小」「掟ヤー」などのおうちが並んでいたそうな。ムラの有力者っぽいですね~。

神アサギの右手を通る道向かいには、かつて「クシ」という旧家があり、水は涸れていますが、今も井戸の跡だけが残っています。このクシ家はお神酒をつくる役だったようです。またクシ家の右手に、山田グスクに上る道があります。



      
▲クラガーを覗き込む・・・・・

 久良波大主の墓に向かう途中、道の右手に5~6mほど落ち込んだ湧泉があり、クラガーと呼ばれています。クラガーとは「暗いカー」の意味で、久良波の語源では?とは仲原説。与論や沖永良部では地下を流れるカーをクラゴーと呼んでいるそうで、確かにこのクラガーは岩の下の方を流れており、山田谷川(サクガー)から旧久良波ムラ、そして久良波の津(港)へ注ぎ込みます。

実はこの写真は菜美路さんが撮ったものですが、高所恐怖症のウシには絶対立ち入れないようなところから、クラガーを覗き込む皆さんを撮影しているんです。「ひゃー、菜美路~、落ちても私は絶対に助けられないからねー。落っこちたら途中で戻っておいでよねー」と叫んでいたウシです。下を見てクラクラするからクラガーだ、とゆーのがウシの説です。

 

     ▲山田ウタキの入口                    ▲ウタキのイベ

さて写真ではわかりませんが、雨は強く降り、山田の歴史の道の全踏破はムリと判断。ここで「谷川(サクガー)の石矼(せっこう:石の橋)だけでも見たいチーム」(圧倒的多数派)と「石矼は見たから、ウタキをじっくり見たいチーム」(4人くらい・・・)に分かれ、私と菜美路さんは山田ウタキに行きました。

山田ウタキは集落のすぐ側にあり、久良波の方から見れば確かに見上げる位置にありますが、旧山田ムラからすれば、ほんのちょっと小高くなったところ。山原のウタキの概念からすると、「これがウタキ?」と思えるほど低い場所にあります。そのためここは「うとうし(お通し)御嶽であろう」と村史にありますが、山田グスクの中には拝所がないので(『由来記』にも拝所の存在は記されていない)、ここは山田ムラのウタキであり、写真の香炉の場所はイベだと考えられます。

イベには三つの香炉があり、山田ムラの三つの集団が寄進したものでしょう。神アサギの三つの火ヌ神と対応しているのかもしれません。

 

さてみなさん!このイベを始点として、【イベ→神アサギ→メーガー】という集落の軸線を確認することができるのでーす! 

これを仲原館長に教えてもらったときは感動したなあ~!(@。@)/

 

 

       ▲恩納村博物館で             ▲恩納の道の駅で食べたイカ墨のおつゆ

最後のまとめは、参加協力してくださった恩納村史編集室のみなさんの計らいで、恩納村博物館の研修室で行なうことができました。とても助かりました~☆ありがとうございますっ!

さて今回のまとめに入ります。

 

前述したように、『琉球国由来記』には山田グスク内の拝所についての記載がありません。ムラの拝所については、山田ムラ(『由来記』では読谷山村)には「オシアゲ森」(ウタキのこと)「山田ノロ火ヌ神」「神アサギ」の三つの祭祀場の記載があり、山田グスクはムラの祭祀場ではなかったことがわかります。

一方護佐丸の伝承を見ると「14世紀頃、石川の伊波按司の一族が、伊波から分かれて山田グスクを築き、山田按司を名乗ったのが始まり」とあり、その真偽はともかく、グスクの支配者は地元民ではなく外来者であったということが伺えます。

以上のことから、山田グスクは山田ムラの集落に隣接してはいますが、外から来た支配する側とされる側としての深い関わりは持ちつつも、祭祀の場としての位置付けではなかったと言えるでしょう。

 
ちなみに今帰仁グスク内には今帰仁ムラの二つのイベ、そして今帰仁ムラの神アサギがが『由来記』に記されています。グスクはもともと今帰仁ムラと親泊ムラのウタキで、外来の支配者が来た後もムラのウタキとしてムラの人達が入り込み、支配者もその祭祀に参与することで、ムラとの協調関係を作っていたと思われます。それは根謝銘グスクや名護グスクにも見ることができます。

 

山田グスクはそういった意味で、これまで訪れたグスクと性格が異なることが分かります。

 

山田ムラの集落は、現在国道58号線の西側に移動し、故地にはもうペンションが一軒だけという状況ですが、雨の中、明治34年の地図と比較しながら道をたどると、井戸の跡を見つけたり、草ボーボーではあるけれど、集落の小道がまだかろうじてあることに大感激! 山田ムラの「人の匂い」が感じられました。

これこれ、これこそが私にとって、ムラシマ講座の「めっちゃ美味しい」ところなんだよなあ~!!

おっ!

「めっちゃ美味しい」で思いだしたぞ!

博物館でのまとめが終わったあと、恩納の道の駅でお昼をとりました。

いつも那覇から参加して下さる松野さんの「美味しいですよ!」のアドバイスに従い、雨に濡れて冷えた胃袋にピッタリの、「イカ墨のおつゆ~」を頂きました。

課長が買ったイカの天ぷらと丑が買ったタコの磯辺揚げも、と~~~っても美味しく、お腹満杯になってしまい、とうとう車中での「感想発表」はせずに帰ってきました(館長寝てるし~)。

          

というところで、以上、恩納村山田の報告を終わります。

久良波を調べて、面白くて面白くて、ついついハマッてしまった話もあるのだけど・・・。

長くなりましたので、また今度(^_-)-

シドゥガフーm(__)m



2010年11月20日(旧10月15日)天気:晴れ 気温:24/19(歴文センター:tama)


 とある日のみーちゃん・・・。

 

柔らかい陽射しを浴びて気持ちよさそぉ~にしているのは、歴文センターのアイドル、みーちゃん・・・。

 そんなアイドル、みーちゃんの可愛い可愛いパーツをどーん!っと、画像でご紹介します♪

 

 ちなみに・・・最近のみーちゃんはホットミルクならぬ、ぬるぬるミルクがお好きなようです!

 猫舌ですからね(笑)それにみーちゃんはおばぁなんで、冷蔵庫から出した冷たいミルクは好まないようです。

 

①ボディーはグレイのキレイな毛並み。


②可愛い目。

 

③可愛いお鼻とお口。


 

④みーのおひげ。

  

画像⑤黒い肉球。

 


⑥可愛いお耳。



2010年11月10日(旧10月5日) 天気:晴れ晴れ 気温:23/15 (歴文センター:tama)

 

 先日、用事で豊見城まで車を走らせたのですが、ちょっと集落内に入ったらこんなん見つけました。

車窓から気になりすぐ車をとめて、写真を撮ってきましたよ!

 「龕屋(がんや)」です。

 さっそく、豊見城市史で「高安の龕屋」と「饒波の龕屋」について調べてみました。(以下、豊見城市史より引用)
 

◆高安のガンゴー(八月九日)

 「高安では、野辺送りで遺体を納めた棺を墓へ運ぶ輿である龕を字で所有しており、ガンゴーはその龕の年季祝いの儀礼である。

 12年に一度の辰年に龕の補修を行い、行列や余興などもある盛大なガンゴーが行なわれるが、それ以外の年は無病息災を祈願する御願のみが行なわれる。この日は、各家庭でもチャワキなどを供えて祖霊を拝し、ガンゴーの日に当たることを報告する。」

・通常の年のガンゴー

 「まず、ガンゴーの前日に「前日のウガンミ」と称して各門中の代表がそれぞれの属する門中の墓を拝した後、区長や字の顧問が字豊見城の<沢岻>を拝する。これは、高安の龕はもともと<沢岻>の所有であったとされているため、翌日の字内の御願に先立って拝する習わしとなっているという。

 伝承によれば、高安の龕はもともとテーラシカマグチ(寵姓平良親方長往)が唐旅の際に持ち帰り<沢岻>に与え、同家の蔵に納められていたが、蔵の中にあった獅子と龕が毎晩激しく喧嘩をしたため、龕は高安近くへ捨て、獅子は我那覇へ譲った。高安ではその龕を<西外間>の屋敷裏に保管したが、後にガンヤー(龕屋。コーヤーともいう)を建てて納めたという。」

・辰年のガンゴー

 「通常の年のガンゴーは御願のみを行うが、ジューサンニンマールー(十三年廻り)といって辰年のみは龕屋から龕を取り出して点検を行い、当日は龕を担いで字内を行列するほか、祭事の後にアシビと称してさまざまな余興を伴い、字を挙げて盛大な祭事を行う。

 ・・・・(省略)・・・龕を龕屋に納めるための道ズネーを行うが、この時字の長寿者を先頭にして、龕を担ぎ行列をして字内を練り歩く。この際、辻々で槍と長刀を先に挿した旗頭を高く揚げて気勢を上げる。」

◆饒波のコーヌ祝い(八月九日)

 「この日は、遺体を納めた棺を墓へ運ぶ龕を製作した日といわれ、龕の誕生祝とともに区民の健康と長寿を祈る。特に卯年のコーヌ祝いは、十三年マーイといって盛大に行なわれる。

 ・・・・(省略)・・・字民の健康祈願をする。これは、不幸が続いて頻繁に龕屋を開けることのないようにとの意がある。」

「饒波の龕は昭和四十年代まで使われ、平良や高嶺にも貸し出された。」
 

 高安も饒波も八月九日が龕祝いを行うようだ。ふたつは隣り同士の集落で龕屋もそんなに離れていない。

 龕の御願は山原でも行なわれていたようだ。国頭村浜では、昭和18年の龕修理についての議事録が残されている。(詳細は2005年1月の文化センターの動きで・・・)

 龕は遺体を納めた棺を運ぶためのもので、決して縁起がよいものとは言えない・・・その龕に対して字民の健康・長寿を祈願するとはなかなか面白いものである。


 

       ①饒波の龕屋                        ②高安の龕


2010年11月1日(旧9月25日) 天気:晴れ!北風吹く! (歴文センター:tama)

11月になりました。カレンダーをめくるともうあと2枚。今年も残りわずかですね・・・。しみじみ・・・。

 さて、月の始めから元気なtamaは、宜野座村立博物館の企画展「大川グシク展」へと出かけてきました。

 企画展では、グシクの歴史や出土品などが展示されていました。なによりも面白かったのは、グシク想像図と現在の場所との写真比較です。こんなん見たら、現場に行かなきゃいかんでしょ!ということで、チラシの地図と博物館スタッフさんの説明を頼りに向いました。結構近いんですね♪

 ここかぁ~!大川グシク!と、なめてました・・・。北風が吹いてさすがの沖縄も涼しいかと思っていたら・・・ガジャンだらけ!!かゆい!!かゆい!!

宜野座のガジャンに襲われながらもしっかり写真を撮ってきたので現場の様子が伝わればと思います!

大川グシク、一番ステキだったのはヤギさんが居たことかなっ♪



①大川グシクの想像図


②大川グシク跡に建つ宜野座ヌル殿内


③グシク跡



④獅子小屋内の獅子神


⑤獅子小屋内のみるく神


⑥グシクの管理人?ヤギさん♪



2010年10月30日 天気:晴れ! (歴文センター:tama)

 やんばるは、台風14号の影響なく無事でしたが、皆さんは大丈夫でしたでしょうか。
さて、台風前に調査へ出かけてきました。
諸志のウタキにて、サクラランの開花を確認しました。

可愛いですね♪
通りからはトックリキワタのピンクの花が咲いているのを最近はよく目にすることができますね。

 可愛いですね♪
台風の影響で花が散らないとよいですが・・・


写真①サクララン♪


写真②つぼみは五角形!


写真③ワタノキ♪


写真④ピンクと黄色のお花!



2010年10月26日 天気:晴れ 北風が吹く  (歴文センター:tama)

 久しぶりのみーちゃん登場。
最近のお気に入りの場所を紹介します。
色画用紙が並ぶ棚の中で丸くなる、みーちゃんです。

画像① みーちゃんはどこ?

   

画像② いた!いた!
   

画像③ くつろいでます
   

画像④ この顔!!
  

画像⑤ みーちゃん、長っ!
  

画像⑥ 寝起きです(ボケ~)。
  


2010年10月9日 天気:雨くもり   (歴文センター:tama

 南国沖縄もさすがに秋めいてきましたね!季節の変わり目、皆々様、体調には充分気をつけてください。

 さて、tamaは9月30日~10月3日まで沖縄を飛び出し、旅に出かけてきました!

 沖縄→東京→静岡→山梨→茨城→東京→沖縄

というこの凄まじい移動距離!弾丸ツアーで初めてづくしのtamaは終始みぃーぐるぐるしてました・・・。そんな旅の模様をお届けします。夜の便で東京・羽田空港へ飛びます。この日は移動日で宿泊先へ直行し明日からの弾丸ツアーに備えて体力温存です。

10月1日(2日目)

  静岡県へ向います。初めての新幹線!顔がカモさんのくちばしです!車窓からの景色はとてものどかで、稲穂が実り一面黄金色が広がり、また畔道や土手には赤い彼岸花が咲き綺麗でした。

 こちらでは等身大のガンダムみました!デカッ!

 山梨県へと移動。日頃の行ないが良いのか・・・ウガンが通ったのか・・・念願の富士山が顔を出してくれました!デカッ!

 青木ヶ原樹海や本栖湖までお散歩です。宿泊先に荷物を降ろし、近くの温泉施設でのんびりくつろぎました。

10月2日(3日目)

 さて、この日は旅のメインの日!tamaの誕生日なのです!
 河口湖を横目に北口本宮浅間神社でお参りです。鳥居も境内のスギの木もすべてのスケールが違い過ぎます!デカッ!

 おみくじは大吉。さすが誕生日♪

 境内には神の使いである鹿さんたちが居たのですが、なんと産まれたての仔鹿が!tamaと仔鹿は同じバースデーですね♪仔鹿ちゃん、おめでとー♪

 また、この日は初宮参りや神前式を行う人達で賑っていました。

 北口本宮浅間神社のある富士吉田は日本三奇祭のひとつ、火祭りが行なわれる場所でもあります!そのため本通りである道路の真中には松明を設置する場所が丸く印されています(アスファルトだと溶けるので補強されているとか・・・)。また、御師とよばれる家々もしっかりと残されており、家の前には立派な石柱が建てられていました。

 富士山を背負っている町はとても穏やかでした。

 そして!そして!夜は茨城県土浦市へ!全国花火競技大会です!

10号玉の花火に犬や河童、諜々の形の花火など日本の職人技が「これでもか!!」とばかりに打ち上げられます。一瞬にかける花火職人のプライドや技術には脱帽です。あまりの素晴らしさに花火をみて感動のあまりに泣いてしまいましたよ・・・うっ・・・。


10月4日(4日目)

 旅の最終日。東京見物です。江戸の町が残る谷根千歩き♪

 おせんべい屋さんに佃煮屋さん、金太郎飴のお店などが並びます。また、町おこしとして猫にスポットをあてたり、個性豊かな雑貨屋さんなどが並んでいて、それを見守るように根津神社がありちゃんと挨拶させてもらいました。その他、国立科学博物館(ミュージアムショップのみ)上野動物園(ショップ)を見学し足早に空港へと向い帰ってきました。

  

①初代B級グルメ王者(富士宮やきそば)

      ②栗をとらないで!


  ③白糸の滝。富士山の惠です。

   ④彼岸花と諜々

⑤青木ヶ原樹海にて・・・温度差に驚き!

  ⑥北口本宮浅間神社参道

   ⑦境内の看板がステキ!


⑧境内を流れる富士山のめぐみ

 ⑨あなたは・・・右大臣?左大臣?


   ⑩境内の中央には神楽殿


    ⑪白無垢の花嫁さん


  ⑫富士山型の御神輿

  ⑬境内の仔鹿ちゃん誕生♪

    ⑭おせんべい屋さん

    ⑮車窓からの神田川


2010929日 (歴文センター:tama

 9月23日に宜野座村松田区の豊年祭の見学に出かけた。この日は祝日であったので、15時からの道ジュネー・御願から舞台と記録にとることができたので、少し紹介したいと思います。

 

                松田区豊年祭正日プログラム 

1

舞方

15

浜千鳥

2

龍落し

16

双葉

3

四季口説

17

劇(ダンパチ屋)

4

道づね

18

下り口説

5

上り口説

19

貫花

6

長者

20

花風

7

四つ竹

21

高平万才

8

港くり節

22

カナヨー天川

9

鳩間節

23

組踊り

10

揚作田

24

舞方

11

谷茶前

25

しし舞

12

しし舞

 

 

13

ヨド天川

 

 

14

むんじゅる

 

 

 

▲正日とワカリアシビーの2日間ある。

 

 

 

獅子のムラ・松田

 松田区は伝統芸能の宝庫。その中でも「獅子加那子」というほど獅子舞いを大切にしている。伝統芸能保存会のはっぴも、こども会の看板も、マンホールのふたも獅子神様です!

  

▲はっぴに凛々しい獅子  ▲こども会のいい表情の獅子

▲水と緑と太陽の里・松田

 

 

道ジュネー・御願

 まずは公民館前から棒術を行ない、掛け声と共に道ジュネーが始まります。ビンシーセットを持って区長さんや有志の方、踊り手、御願をする方(神人?松田さんという方)などが列の先頭を歩き、その後ろを棒術や旗頭、獅子が練り歩きます。

 

▲公民館前で棒術       ▲旗頭を囲んで歩きます

 

 赤マチャーという広場(公園)で御願をします。ここはかつての芸能者達の集会場などとして使用された場所のようです。御願の後に踊りと棒術を奉納します。

 

▲お神酒とお米などを供える         ▲皆で御願

 

▲奉納踊り           ▲1982年1月吉日 赤マチャー

 

 移動して、商店前の広い道路で立ち止まり、旗頭を囲んで円をえがき掛け声と共にくるくる回ります。

▲商店前               ▲近くにある旧公民館あと

 

 神屋にて御願と棒術、踊りが奉納される。普段は閉まっている神屋内もこの日は開いていた。ここは旧家などの拝所を一カ所にまとめたものと思われる。この横に神道があり、そこを通り神屋後方にあるクシヌウタキ(後の御嶽)へと向かう。


     ▲神屋にて奉納踊り            ▲神道を通って

 

 クシヌウタキへ移動。御願を終え、小さいスペースではあるが、踊りと棒術を奉納する。

 ▲立派な門構えです        ▲記念写真をパチリ♪


    ▲すぐ横には神アサギ          ▲土帝君が祀られている

 

 旧家(幸地家と思われる)の敷地内にある祠内で御願と奉納踊りを行なう。それから移動して、ムラの中心地?と思われるところで旗頭を囲んで円をえがき掛け声と共にくるくる回ります。


   ▲旧家での御願           ▲子供たちも見に来ています

 

 舞台が組まれたアシビナーにてまずは旗頭を囲んで円をえがき掛け声と共にくるくる回ります。その後観客や演者達がアシビナー内の香炉に向かって手を合わせ、これから豊年祭が始まるのを報告します。

▲円陣を組んで             ▲香炉はクシヌウタキに向いてる

  ▲観客はスタンバイOK♪                ▲棒術が始まる

 

 舞台横には獅子神様が見守ります。広場にはシートやゴザが敷かれ、頭上にもシートが張られます。さて、ここからは舞台の部が始まります!

 松田の豊年祭の文字の周りにはクバの綺麗に編み込まれた葉が飾られています。

▲舞台に獅子神様             ▲ぞくぞくと観客が集まります

 

 ここから舞台の部。伝統芸能が次々と披露されます。新人さんの参加も多数ありますが、指導者が良いのか全くそんなことは感じさせません!でも諸先輩方の前での演武はすごいプレッシャーがありそうですね・・・。古典踊りと劇、組踊と正統派なプログラムです。何が凄いって組踊りは2時間半あるんです!!tamaはしっかりみましたよぉ!!

すべてが終了したのは12時頃でした。

 いやぁ~。これをタダで観るにはもったいないと思うほど、素晴らしいものでした!!

 松田には伝統芸能保存会が存在するので守られ続けていくでしょう!

 ▲舞方は伝統のひとつ             ▲長者の大主

▲伝統の獅子舞       ▲(ダンパチ屋)喜劇です

▲組踊「本部大主」            ▲締めは皆で・・・


2010年9月24日 天気:晴れ時々くもり (歴文センター:tama


 
922日、十五夜は奥間の大綱引きを見学。その模様をほんの少しゆる~くご紹介♪♪

 

国頭村・奥間の大綱引き

 

2010年9月22日(旧8月15日)

360年の歴史のある奥間の大綱引きが奥間小学校グランドで行なわれた。奥間の獅子舞いからの見学ができた。

 

   奥間大綱引きプログラム

600

会場開き

605

ストリートダンス

635

青年会エイサー

700

奥間エイサー

730

奥間獅子舞

840

スネー・ちょうちん行列

900

カンヌキ投入

920

エール交換

930

大綱引き開始

1020

余韻を楽しむ

1030

閉 会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆奥間獅子舞

奥間は獅子のほかにも翁・鬼・ミルク・サーミンクェーが登場する。

 区長さんや北軍、南軍の長が獅子へ杯を捧げる。獅子がお神酒を飲み干し、杯を倒さずに返すことができたら五穀豊穣が約束されるという。

 今回は倒れることなく、しっかりと杯がたちました。

  

  ▲獅子やミルク、鬼等が登場       ▲獅子へ各長から杯を奉納

 

◆スネー・ちょうちん行列

会場の照明を落とし、北軍・南軍に分かれてちょうちん行列、ガーエーが行なわれる。ちょうちんはデザインなど審査が行なわれ表彰されるようだ。

 ”サーヤ”という掛け声と共に会場中心に勢いよく駆け寄り、一回戦は若按司を担いで両陣営でぶつかり合う。5分休憩して、二回戦は北軍は綱の内側を、南軍は綱の外側を一周する。5分休憩し、三回戦は最後の激しく相手側のちょうちんを壊す勢いで、他人の陣地に入っていきぶつかり合う。

 なんだか、東北のねぶた祭りを縮小したような感じだ。ちょうちんのデザインもバラエティーに富んでいて、修了後はちょうちんの破れた残骸などが落ちていて激しさを物語る。

 

    ▲巨大ヤンバルクイナちょうちん             ▲激しいガーエー

 

◆カンヌキ投入

 カンヌキが投入されいよいよメインイベントだ。両軍が力を合わせて綱を持ちあげたりする。奥間の綱の特徴はやまかずらを編み込んでありそのため切れにくく、重いことで有名である。

  

  ▲男達が大綱をもちあげます                ▲カンヌキを固定

 

◆エール交換

 両陣営のエール交換が行なわれる。熱気が高まってくる!

  

▲北軍のエール            ▲南軍のエール

 

◆大綱引き開始

 区長さんの合図と共にいよいよ大綱引きが開始される。

 綱引きは一発勝負!力一杯綱を引く。勝利は南軍!8連勝だとか!

 北軍の敗因は・・・まさかの綱が途中で切れるというものでした。

  

▲北軍引きます              ▲南軍引きます

 

◆余韻を楽しむ

 このプログラム「余韻を楽しむ」なんて粋なものはやはり360年も続く奥間の人達の力強さなのかもしれない。綱引き終了後はカリー付けに各々綱をお土産に持ち帰ります。奥間の熱い夜もこれで終了です。

  

▲皆さん余韻を楽しんでいます        ▲綱、お持ち帰り

 

おまけ・・・

 サイズの比較をしてみた!(被写体身長:145㎝?)

 

▲北軍の綱        ▲南軍の綱

 

 綱引き開始前に南軍は景気つけに火文字!

クイナちょうちんきょだいです!北軍はひとつ。南軍はふたつ。

 

    ▲燃える南軍!メラメラ!           ▲巨大クイナと満月

 

 ガーエー後のちょうちんには穴。キャラクターなどが描かれている。

 


2010年9月22日(水) 天気:晴れ々 (歴文センター:tama)

 台風の影響でしょうか、今帰仁グスクに桜が咲いたとのこと・・・。

 今日は八月十五夜。菊酒。豊年祭や大綱引きなどでムラは賑わいをみせます。

 国頭の奥では大綱引き。プログラムによると綱引きの前にエイサーや獅子舞があり本番は21時半頃からと遅いスタート。面白いのはその後のプログラムに・・・


「余韻を楽しむ」というのがある。

何だか粋ですなぁ~♪


 さて、久しぶりにみーちゃんネタ。

今日は朝から大事なお弁当がみーちゃんに狙われています!!

やめてぇ~!私のお昼ご飯よぉ~!


  ▲お弁当が!!(くんくん)


917日(金) 天気:晴れのち曇り 時々雨 「はっさ、台風来そうだねー」の空(丑:う~し)

台風が近づいてきてますね~。
本島直撃はなさそうですが、宮古八重山が大変だ~。

さて、今帰仁中学校職場体験も昨日で終了。

久田・濱川ペアのまったりとした朝のあいさつが聞けないのが、ちょっと寂しい・・・・。
では、昨日最終日の報告です♪

 
    ▲久田君持参のアンモナイトの化石           ▲ハロビアの確認


久田君は去年「古生物学者になりたい」と自己紹介の紙に書いてあったのを丑は覚えている(うちの息子と同じクラスだったのです)。
その言葉通り化石大好きで、上のアンモナイトの化石は久田君が那覇にいるおじいちゃんからもらって大事にしているものです。
久田君のアンモナイトは外国(南米)のものですが、今帰仁ではこのアンモナイトが確認される層(中生代、2億3~5千万年くらい前)からハロビアという二枚貝の化石を見ることができます。アンモナイト、ハロビアはこの時代の示準化石と言えます。

昨日観察に行く予定でしたが、まさかの雨でキャンセル(がっくり)。
そこで台風も接近していて、午後は雨になるかもっ!と焦ったみんな(丑・なみじ・久田・濱川・豊口)は、朝のミーティングもそこそこに、スタコラサッサと現場に向かい、2億5千年前の海にタッチしてきました♪

 

     ▲展示作業                    ▲展示された調査ノート


初日、二日目と調査したノートを、今度は展示にもっていく作業です。
ノートの文字をマジックで上書きし、色用紙に拡大し、ラミネートし、カッターで端をそろえて、村内の神アサギを展示している地形模型の側に展示しました。

展示された自分のノート。
「お父さん、お母さんと見に来る?」と二人に聞いたら
濱川君は笑ってうなずいていたけど、久田君は首をかしげて厳しい表情。
「どうして~? お母さんたちに見せないの~?」

「うちのお母さんは文句言うと思う」
「なんで?」
「お母さん、絵に関してはキビシイから」

すると館長が
「それはいいことだ! 文句言われるのが学芸員の仕事だからね~」

二人のお父さんお母さん、ご家族、門中打ち揃っていらっしゃるのを楽しみにしていまーす♪

    パネル展示(左:濱川、右:久田)

ちょっと腰引いて脚立に上っているのは濱川君です。「コワイ・・・」とつぶやいていました。

モノクロの写真パネルを、展示室の壁の上から吊り下げていく作業です。

久田君は、透明なピンをパネルに差し、そこにパネルをかけていく作業です。

   ▲天底・玉城を画像で学ぶ               ▲最後のレクチャー

職場体験もいよいよ終盤。

最後はプロジェクターで天底と玉城を見ていきます。

そして写真を見ながら「今を記録する」「見たものを家族や友達に伝えていく感性」の大事さについて、館長からレクチャーを受けました。

最後に二人が書いた感想を発表しまーす!!


【久田友紀人】

四日間職場体験をやって、一番大変だったのは、パネルの展示作業です。

三日間かけてここまでなので、とても大変でした。

歴史文化センターの人たちは、こういう地道な作業をやって展示しているんだなと思いました。

印象に残ったことは、ハロビアの発掘現場に行ったことです。

化石がとてもたくさん出てきたのが、印象に残りました。


【濱川啓瑚】

四日間職場体験をして、今帰仁邪馬台国調査で、天底と玉城の公民館やウタキや神アサギに行って、自分が住んでいる玉城の字にこんな所があったことにびっくりしました。

調査をして学んだことを、周りの人たちに伝えていこうと思いました。

パネルの選び出しと展示では、自分たちだけでやると難しかったけど、風景や人々の写真、拝所などのテーマに分けて展示するとうまくできることを知りました。

一番楽しかったのは、ハロビア王国の発掘現場に行ったことです。

こんなに昔の化石が今帰仁村にあることにびっくりしました。

今回学んだ色んな事を、将来いかしていければいいなと思いました。

二人ともお疲れさまでした!
私たちも楽しかったですよ!!
また来てくださいね~。


2010年9月16日 天気:晴れはればれ 歴文センター:tama)

 9月15日。今中職場体験3日目。

午前中は清掃をしてミーティングして、作業して、それから午後は豊口氏からハロビア貝の化石についてレクチャーをうける。

さぁー!!気分も高まっていざ、化石のある発掘現場へ!!

えっ・・・えぇぇぇ?!

まさかの雨・・・・。

皆で肩を落とし展示作業室にもどる。結局この日は展示作業をすることに。

では、白い壁に自分達でパネルを選んで、自分達が考えてパネル展示にチャレンジです!


パネル選びはスムーズにできたものの、実際にパネルの配置やサイズやバランスなどを考えての作業は難しいようでなかなか前に進まず・・・

「テーマをきめてみよう!」

「ひとつパネルを展示するごとに後ろに下がって、バランスをみてみよう!」

「2人いるんだから、1人はパネルを展示して、もうひとりにそれを後ろにさがってバランスチェックしてもらうとかどうかな?」

「何か基準をきめてからパネルを展示してみよう!」

などなどを横からささやきながら、なんとか自分達の手でパネル展示ができました。

パネル展示って、センスや感性などの感覚的なものが関わってくるので指導も難しいですね。

一歩、二歩と後ろに下がって“客観性”を身につけてくれたらよいです。

 

▲化石はおもしろい!!                  ▲パネル展示完成!


9月15日(水曜日) 天気:晴れ一時雨(丑:う~し)

 そうです。
今日の朝11時、この「まさかの一時雨」に泣かされた今帰仁中学二年生及び歴文スタッフでした・・・。
詳細は明日、菜美路さんよりお伝えする予定です。

さて今中職場体験二日目の昨日は、「今帰仁邪馬台国発見の旅~玉城編」を中心に行なわれました。
 

 午前中は収蔵庫より、写真パネル70点余りを運び出し、講堂にずらっと並べていきました。
それを大まかに「水田」「子もり」「運搬」「農作業」「昭和30年代の建物」「風景」といったテーマで分類し、まとまりをつくっていきます。

午後は玉城の調査です。ここは、濱川君の住んでいる字です。
玉城は明治36年に玉城村・岸本ムラ・寒水村が合併した字です。
行政は一つになっても、神様は一つにすることはできません。
そのため玉城には三つの神アサギがあります。

 
     ▲玉城の公民館                  ▲玉城ヌルドゥンチ跡

 玉城の公民館は現在頭上に気をつけないといけない公民館です。建物が古くなり、コンクリートが落ちてきているのです。道向かいにセメント瓦の旧公民館があります。

 公民館の後ろに玉城の拝所や神アサギのあるムイ(杜)があり、右の写真は玉城ノロの屋敷跡です。サッシを開けると火ヌ神の三つの石があることから、ここは台所のあった場所、つまり人が住んでいたところだったことが分かります。

    ▲玉城の神アサギ                  ▲玉城殿堂建設記念碑

 玉城ムラの神アサギです。神アサギには香炉はあるけれど、火ヌ神はありません・・・というわけで、ここは住居ではないことが分かるんですね~。神アサギの軒が低いのは、この中に入るとき頭を下げ、ウタキから神アサギにやってきた玉城の神に対して謙虚な気持ちを表すためです。神人(カミンチュ)がムラの代表として神アサギの中に入り祈るのは「五穀豊穣」「航海安全」「村の繁栄」の三つが柱になります。

 右は「玉城殿堂建設記念碑」。裏に「殿堂社名」が彫られ、「玉城ハ元古島原ニアリシガ紀元二千五百年元治元年甲子現外間原ニ移動ス」の文と「千九百三十一年」の年号が見えます。元治元年とは1864年ですね。碑文が消えかかっているので、早く拓本を採らないといけないな~と思いました。

 

      ▲岸本の神アサギ                   ▲岸本のイベ
 岸本ムラの神アサギです。今まで見てきた神アサギは基本的に柱が4本でしたが、ここは現在ブロックになっていますが、柱の数は6本です。周辺に建て替え前の石柱が置かれていないので、もしかしたら木の柱だった可能性があります。

 右側はアサギの後ろ側にある岸本のイベ(天にいる神様がムラ人に会いに地上に降りてきた時に、最初に足をつけた場所)です。もっとも神聖な場所ですね。なんとこの神聖な場所の後方に、濱川君ちがあるのです!! 神様とチュケートネーだなんて、うらやまし~い♪

 

     ▲寒水ムラの神アサギ                  ▲アサギ右手下方にある獅子小屋

 さて三つの村が一つになり、人口が最も多かった玉城の村名をとって「玉城」となりましたが、現在も旧ムラの区分けはしっかりと残っていて、玉城組、岸本組、寒水組と呼ばれています。


 玉城はこの寒水組でのみ豊年祭が執り行われていますが、「最近は子孫(クヮーマガ)も少なく、やる人がいなくなって、10年くらいやってない」とワタンジャー(現喜納スーパー後ろ)近くに住んでいるおじいさんの言葉でした。獅子も長いこと使われていない様子でした。

 

ワタンジャーの西側にある岸本ムラのウタキと遥拝所
 

 玉城・岸本・寒水は、1862年に現在の場所に三ムラ同時に移動しました。

どんなルートをたどったのかは『なきじん研究7号』を参照して頂くとしまして、画像左は移動前の岸本ムラのウタキです。でっかいガジマルの下に二つある香炉の内の一つです。

ここは丑も初めてきたので感激っ!でした。

 右側はイベへの遥拝所と思われます。イベまで行かず、ムラの人達はここで拝むのですね。
さて、玉城邪馬台国の調査も完了。

 久田・濱川ペアがどんな記録ノートをとったのか楽しみです(^^)V

明日(9月16日)の最終日に、ノートの一部を拡大して、神アサギのコーナーで展示していく作業にかかります。

二人ともこのHPをちゃんとチェックしているかな? 最後までガンバローぜ~(・0・)9


914日(火曜日) 天気:晴れ晴れひれほれ時々雨 (丑:う~し))

 

 残暑の日差しが厳しい今日この頃ですね。

サッと降ってくれる雨が、煮立った空気を束の間冷やしてくれるのが嬉しいです(^^)

 

 さて文化センターには昨日から今帰仁中学校の二年生二名(久田友紀人君、濱川啓瑚君)が「職場体験学習」に来ています。期日は913日(月)~16日(木)までの4日間。以下のスケジュールで、学芸員業務を中心に博物館の仕事を体験してもらいます。

 

今帰仁中学校職場体験 スケジュール

 

      【午前】           【午後】

 

13

(月)

清掃・ミーティング

各職務の説明

展示室の説明

窓口業務

今帰仁邪馬台国の調査(天底)

一日の業務報告

14

(火)

清掃・ミーティング

パネルの選び出し・展示作業

今帰仁邪馬台国調査(玉城)

一日の業務報告

15

(水)

清掃・ミーティング

調査レポートの展示パネル化作業

貝の化石調査

パネル化作業

一日の業務報告

16

(木)

清掃・ミーティング

パネル作成作業及び展示作業

パネルの選び出し・展示作業

プロジェクターでお披露目

一日の業務報告

 

久田君、濱川君ともに「職場体験で挑戦したいこと」が、なぜか 

「そうじ」 

そして 

「邪馬台国を発見する」・・・・・。 

事前にこの履歴書を見たとき

「ど、ど、どーするっ!? ここには北山王国しかないってばよ!!」

とアセリましたが、

「あ~そーだそーだ。二人の住んでいる字(あざ)の『邪馬台国』を見つけさせればいいのだわ」と切り替え、昨日は久田君の住んでいる天底を、そして今日は濱川君の住む玉城の調査をしてきました。

 

しかし。。。。

挑戦したいことの筆頭が「そうじ」って・・・・。

二人はレレレのおじさんが憧れなのでしょうか?

力持ちなのでしょうか?

整理整頓の王子様なのでしょうか?

それとももしかしてあちこちの職場では、「そうじ」が中学生のメインワークなんでしょうか?

 

と、そんなこんなで迎えた初日(昨日ですね)。

館長はお休みなので丑が対応。

午前中のスケジュールをすませ、午後は天底の調査に出かけました。

 

  
▲(左)窓口業務のようす           ▲天底公民館

 

 ムラ・シマの調査でまず押さえるのは、その字の公民館です。公民館はムラの中心になるところ。行政の中心であり、村のコミュニケ―ションの中心であり、情報の中心なのです。

 

  

▲天底のウタキ                ▲天底の神アサギ

 

 画像には写っていませんが、去る台風で木が倒れ、歩きにくかったウタキ入口でした。

天底は現在の伊豆味付近から移動してきたムラですが、ちゃんと神様も連れてきて、ここをウタキと定めたので、階段を上った先にあるイベに天底の神様は下りてきます。

ウタキに降りてきた神様がムラの人達に会いに来るのが神アサギです。

   

▲根神ヤー跡                  ▲アミスガー(天底泉)

 

 移動してきた天底ムラの人達は、神アサギ周辺に集落を作っていきます。

根神は、村の成り立ちに関わるカミンチュの神役名で、根神ヤーは、その神役を出す一門の家です。天底の旧家といえます。根神ヤーの隣には、天底ノロの屋敷であったヌンドゥルチ(ノロ殿内)があります。

 

 アミスガーは県の文化財に指定されているシマチスジノリで有名ですが、天底の人達が水を汲んだ場所です。きっと伊豆味近辺に住んでいたときから事前調査をして、「お、ここにはいい水が出る場所がある! ウタキにもってこいの山もある! 土地も開けているし、日当たりもいいし、よーし、引越し決めるぜ~」とみんなでやってきたのでしょうね~♪ 

 

  

 ▲崎山の神アサギ               ▲調査のまとめ

 

 帰りながら崎山の神アサギに立寄りました。今帰仁村で唯一、もともとの形を残している神アサギです。

センターの講堂で、今日の調査のまとめをするお二人さん。報告するときは「どこに行ったか、その中でどこが印象に残ったか、それはなぜか」を具体的に書くよう注意を出しました。

それはつまり、「記録し、伝える」ことの基本と言えるからです。

 

本日14日の調査については、明日upしますね!


9月11日(土曜日) 天気:晴れすぎだぞ

 本日はあまりにも晴天すぎなり。

3時前にヘロヘロになって戻ってきました、山原ムラ・シマ講座。

今日は金武町の字金武の金武と地名にはない並里に行って参りました。

金武と並里のややこしくも深い歴史をひも解いて耳グスイし、ニーブイコーコーして戻って来たら・・・・


事務所のクーラーが全然きいていないっっっっっっ!!!!

暑いっっっっっっっ!!!!

私のお肌はパンチの効いた冷気を求めているっちゅーのにっっっっっっ!!!!

仕方ないので、サンピン茶に氷をたんまり入れて、暑さをしのいでいます。

明日の村議選の投票事務に当たっている皆さん、暑くなりそうだし、クーラーはないし、朝早くから夜まで大変ですが、頑張って下さい(私は今回はずれました)。

・・・・ということで、ムラ・シマ講座。

しっかりした内容については「ムラ・シマ講座」のコーナーでアップするといたしまして、「ゆら~ゆら」ならではのゆる~い報告をいたしましょう。

▲ターンムマンホール

 ターンムの上方空高く、シーサーの首が雲を突き抜けて飛んでいる、というシュールなマンホールです。ちょっと怖そうなシーサーですが。よ~く見ると、「あれ~、なんでオレ、こんな高い所に来ちゃったのかな~」と当惑しているようにも見えますね。ターンムとシーサーの首の、どんな物語がこのマンホールに隠されているのでしょうか!?

 

▲キムタガーのお風呂場

 キムタガーはとても大きくて広い湧泉です。水汲み用の場所の隣に、高めの塀で囲われた水場があり、ここは水浴びをする場所だったそうです。「混浴混浴うひゃひゃひゃ♪」な~んて嬉しそうに言っている隆則君には申し訳ないのですが、かなり水は冷たいので、ゆっくり肩までつかって・・・なんてヤマトの温泉のようにはいきません。ガッサナイ水洗いして、ハイおしまい、ですね。

 

▲水浴び場の道向かいには、馬を洗ったと思われる場所があります。当時の状況を残しながら、手を入れすぎずに管理されており、保存のセンスが光ります。

     ▲穴の開いた屋根

ここはキムタガーの後方のウタキの側にある旧家の屋根です。沖縄で初めて国会議員になった仲田徳三氏の家で、この穴は空気抜きの穴だとか。「昔ターンムの視察に来た時にここに案内されたことがあってね、その時に教えてもらった」と、毎回運転手をしてくれている島袋総合教育課長が教えてくれました。

家の正面と(写真右)右手の部分(写真右。ぶれててすみません)にあります。裏手にもあるかもしれません。赤瓦にこんな工夫がなされているなんて、感激~~~でした。台風の時など、雨や風が吹きこまないのかな?

     ▲キングバーガーさまっ!!

もしかしてこれを食べたいがために、今回金武にした?

金武町三人娘の内のお二人(千枝子さんと和子さん。美津子さんは今回ご用があって欠席)がムラ・シマ講座参加者全員に差し入れして下さったハンバーガーです。どのくらい大きいか、丑の顔に当ててみました。写真を撮ってくれた菜美路さん曰く「リアルアンパンマ~ン!」。写真を撮るとき「チ~ズ」と言われたけれど、にっこり笑っても見えないし!

右の写真がモーシヌムイ公園でのお昼ご飯風景です。丑はもちろん一気に全部食べました。館長と菜美路さんは半分残していました。残りはきっと今夜の夕飯です(^^)。


8月30日(月)天気:晴れのち曇り・・・・雨になりそう?

 

前回「明日より本格的に」と報告致しました広島女学院の皆さんの学芸員実習も、今日で終わり! 本当にアッという間の5日間でした。

 

 私は昨日の国頭村字与那のウンジャミ調査でしかご一緒しませんでしたが、充実した実習になったでしょうか。今朝はなきじん海辺の自然学校の広子運営委員さんのご協力で、天候のせいで延び延びになっていたシーカヤックに、ついに乗ることができたようです。詳細は。。。。誰かがアップしてくれる・・・・かな?

 

 さて、昨日は前述したように国頭村字与那のウンジャミでした。参与観察記録の概要はホームページにアップし、詳細は今年度末に発行予定の『なきじん研究』で報告する予定です。

 

 そこでこの「ゆらゆら」では、昨日の調査で発見した「どーでもいいコト」をお伝えしようと思います。

 

その1「シーサーの悲劇」 

 

与那の集落を歩いていた時に見つけたシーサーです。ちょ~~~っと分かりにくいですが、セメント瓦が崩れ、屋根の上の小石がシーサーの頭の上から降り注いでいます。きっと大雨や台風の度に、小石がバラバラと頭にゴンみかして落ちているのです。

「オ、オレは動けねーんだっ! だってオレはシーサーなんだっ! この家の守り神なんだっ! 動いちゃいけねーんだっ! でも、でも、痛いばーよっっ!」というシーサー与那太郎の叫びが聞こえそうです。

明日の夜から台風接近。与那太郎は風雨に加えて、頭上から降って来る小石にも耐えねばなりません。がんばれ、与那太郎!! 

 

その2 「与那の懇親会の痕跡を見た!」

 

下の写真が何だかお分かりでしょうか? 

 

発見者は菜美路ちゃんです。

「丑さーん。自動販売機の上、見てくださーい」と言われて顔を上げたら、何とそこには、醤油・サラダ油・胡椒・酢・灰皿・・・・と言った、いわゆる酒飲みオヤジの懇親会グッズが!! 

場所は、某共同売店の前ですが・・・・いいのぉ? いいのぉ? あんなところに、アジシオとか胡椒はともかく、油とか、醤油とか、こんなに太陽でアチリテいるのに、大丈夫なのぉ? 

しかし毎夜毎夜の懇親会のメニューが彷彿とされる調味料ですね~♪ 定番は外せませんよね~♪ いいなー、私も参加したいなー。ヒージャー刺身のときはセンターまで電話下さいな~♪


8月26日(木)天気:晴れ(丑~)

 日々興南高校の追っかけをし、お盆の支度に追われたウシの熱い夏も終わりに近づいているようだ・・・・しかしまだウークイチルダイの余韻がとれないのは、ウチカビの煙を大量に吸い込んでしまったからなのでしょうか・・・・(^^;)。ご先祖さまに持たせるお小遣いを、私が吸ってどうする!?


 さて、昨日の夕方、今帰仁で学芸員実習を行なう広島女学院のメンバー5人が到着! 今日から本格的に今帰仁・山原に向き合い、展示会準備、祭祀調査、自然観察エトセトラといったメニューでの実習がスタートします。充実した実習になるように、館長と菜美路さんがあれこれ動いてくれています。


 昨日は館長、菜美路さんと三人で、今度の日曜日に国頭村字与那で行われるウンジャミ調査の流れを確認しました。資料は1969年の琉球大学民俗クラブが調査した参与観察記録。シンプルだけど骨子を押さえた記録で、現在の祭祀とどこを比較したらいいのか、その項目がつかみやすい内容となっています。

 いつも感じるのだけど、この時代になされた大学や高校の民俗クラブの調査報告はす~~~~っごく、いい!! 何を記録するか、記録するときのモノサシとすべきは何かがはっきりと分かる、といったことの他に、な~んて言うんでしょうねー、ウガンの雰囲気や参加者の息遣い、当時の生活感なんかが行間から滲み出ているんですよねー。

 戦後一気に噴き上がってきた「郷土」への関心を、当時の教員たちがきちんと方向性を持たせて指導してくれたおかげなのでしょうか、各地域の高校生、時には中学生たちが書いた記録が驚くほど豊かで、しかも後々まで「使える」資料となっている。んー、カッコイイ! 高校の民俗クラブの調査記録を読みながら、あの当時の高校生ってデージ頭いいな~、しっかりしてるよなー、それに比べて高校生の頃のワタシって。。。。しかも今のワタシと比べても。。。。トホホ・・・・とうなだれるウシです。

 ウンジャミ自体、参加するのは数年ぶり。古宇利のそれと比較しようにも、覚えてないかも!? 今年はリハビリ年なので、気負うことなくゆるやか~に参加しながら、全体を見ることに集中しましょ♪


「旧盆」 2010825 

 沖縄では未だに旧暦で年中行事が行なわれる。お盆もそのひとつだ。
旧暦の7月12、13、14日と3日間にわたってご先祖様をむかえる。(地域によって期間はことなる)今年のお盆は新暦の8月22、23、24日と行なわれた。念仏踊りであるエイサーもこの3日間に各地で行なわれ賑わいをみせる。青年会もこの日のために遅くまで練習をしてきただろう。

 

 1日目はお迎えの日「ウンケー」

 2日目は中日となる「ナカヌヒ」

 3日目はお見送りの日「ウークイ」 

 

3日間のうち一番盛大に行なわれる「ウークイ」を画像を通して簡単に紹介する。ウチナーのグソーを大切にする気持ちが少しでも伝わればよい。

  

玉城家の旧盆(字天底)

 

1日目は「ウンケージューシー」をお供えする日。

▲玉城家でも大きな炊飯器で炊いた。

 

3日目の夜は親戚一同でご先祖様をお見送りする。


  ▲たくさんのお供え物が並ぶ          ▲一同でご先祖様に手を合わす

 

   ▲ウチカビを燃やします            ▲供え物もあの世へのお土産

  

▲サトウキビは2本。1本は杖に1本は担いでもっていかれる

 

-メ モ-

 グソーへのお土産を「チンヌク」というようだ。かつては旧盆になるとカラのミルク缶にソーローの葉と米ぬかを入れ、玄関先につり下げていたらしい。それをお土産に持たせたという。それらお土産も総称して「チンヌク」というようだ。エイサーも明け方まで行ない、お餅を御膳のいっぱいに用意して青年会に振る舞ったようだがすぐに無くなったとか・・・。

歴文センター(tama)


「今日のみーちゃん」(2010年8月20日)

今帰仁村歴史文化センターには、みんなのアイドル、ネコのみーちゃんがいます。

 性格はおっとりでマイペースで気品あふれる、猫の中の猫です。

 ここにきてはや15年くらいになります。


今日のみーちゃんは・・・

推定樹齢200年の松の木の上でくつろぐみーちゃん。

  
   ▲松の木でくつろいでます    

▲「手をふれないで下さい!」(笑)

 
                          歴文ンセンター(Tama)


79() 曇り 蒸し暑い一日 午後からお日様も

 今日は山原ムラ・シマ講座の第二回目。晴れてはいるけれど、ティーダカンカンではなく曇っていたので、蒸し暑かったとは言え、まだしのぎやすい行程になりました。

 講座の順路や場所とその説明については、後日「ゆるゆる頭」の丑がアップすることにいたしまして、今日は講座の後のお昼ご飯についてお知らせしようと思います。

 お昼を三人で食べに行くことになり(こんなことは滅多にありません)、以下私と館長の会話です。(な→館長 う→丑)

な 「僕はバスを返さないと行けないから」

う 「じゃあ、私と菜美路ちゃんとそのバスに乗って一緒に行きますから、その後館長の車で
  食堂に行きましょう」

な 「いや、だから、僕はバスを返さないといけないんで。別に車を出さないと」


う 「だから、そのバスに私と菜美路ちゃんと乗れば、車を出さずに、館長の車一台で行けるでしょう?」

な 「いやいや、僕はバスを返さないといけないわけさ」

う 「だ~か~ら~、そのバスに私と菜美路ちゃんと乗って~、一緒にバスを返して~、私と菜美路は
 バスを降りて~、館長の車に乗って~、そしたら車一台でみんなで食堂に行けるでしょ~?」

な 「は? 僕の車に乗ると言っているのか?」

う 「だーかーらー、さっきからそう言っているでしょー?」


な 「それは駄目だ!!」

う 「え? どうしてですか!?」

な 「散らかっていて乗せられない!」

う 「・・・・・・・・・・」

 とまあ、こんなゆらゆらな会話があり、無事食堂についたら定休日。くーっ、残念! 仲宗根公民館の向かいの筋を入ったところにある喫茶九年母(くねんぼ)。美味しいお昼にありつけるはずだったのになー。館長も菜美路ちゃんもまだ来たことがないというので是非食べさせてあげたかったのになー。今度必ず来ようね♪

 しかしここでへこたれる丑ではありません。

 Uターンして今帰仁道の駅そーれへと車を走らせ、これまた絶品の「そーれ定食(ジューシーご飯)」を注文しました。ちなみに館長は「白いご飯」でした。ジューシーの時は、ジューシー単品じゃないと駄目なのだそうです。

 そ~れ定食ってどうして700円でこんなに品数多く、おいしく、彩りよく、栄養のバランスがとれているんでしょう!! ドラゴンフルーツのゼリーも付いていて、もう満腹、満足~♪

 おかずも残りわずかになったとき、館長が「醤油はないか?」

 「は? 醤油? え~~っと、あっちのテーブルにあるかな」

・・・・醤油を取りに行く館長の後ろ姿を見ながら、菜美路さんと小さな声で

う 「ねぇ、醤油って、醤油、何にかけると思う?」

菜 「・・・・なんですかね。トンカツはもうソースがかかっているし・・・」

う 「サラダにはドレッシングがかかっているし・・・」

 お膳の上にはあと、ゼリーとコンブが乗っている。

 何にでも醤油をかけると有名な館長が、一体残りのおかずの何に醤油をかけたのか、怖くて確認できなかった「う」と「菜」であった。

 さてお腹いっぱいで、でもまだジューシーも残っていて「よーし、頑張って食べるぞ」と思ったちょうどその時、館長が言いました。

な 「ぜんざい食べたくないか?」

う 「は? ぜんざい? まだご飯残ってるんですよ。館長も白いご飯、残っているじゃないですか」

な 「でもぜんざい食べたいな。石野も菜美路も食べたいだろう」

・・・と決定されてしまった二人のぜんざい欲。

けれど私はとてもじゃないけど食べきれなかったので、二つ注文して、ひとつは館長が、一つは菜美路さんが食べました。私は菜美路さんの分から一口食べました。苦しかったけど、美味しかったです。

館長はぜんざいを食べながら、すっごく楽しそうに

・本部のぜんざいを凍らせることを覚えた。

・この凍ったぜんざいを電子レンジでチンするととても美味しい。

・氷がシャリシャリと、ちょうどいい具合に溶けて、いい感じになる。

・しかしこのチンの時間は非常に微妙で、間違えると大変不味くなる。

・一度うちに帰ってやってみたら、取り出すタイミングをうっかり忘れ、容器がグニャグニャに溶
  けて大変だった。

・・・・・と、「凍ったぜんざいレンジでチン参与観察記録」を報告してくれました。

研究者って大変ですね。


77日(水)

 

今日は七夕ですが。。。。やはり新暦の七夕はすっきりしないお天気が多いですね~。今泊は時々豪雨になって、まるで台風のようです。

旧暦の七夕は今年は816日。その日は彦ちゃんと織ちゃんとラブラブデートができるといいですね~。

 

さて、昨日、今度の土曜日に開催されるムラ・シマ講座の下見で、館長と菜美路さんと三人で羽地の振慶名、田井等、親川を回りました。が・・・・、頭がごちゃごちゃになって「え~~~っと、今見ているところは田井等だっけ?親川だっけ?」「え~~~っと、今聞いた話は田井等だっけ、親川だっけ?」「で、私はいまどこにいるんだっけ?」「ところで振慶名って何だっけ?」と、下見の意味が全然ありませんでした。ヤレヤレ・・・・。明日一日、それぞれのムラの歴史を地図とニラメッコしながらたどり直してみようと思います。

 

田井等のウタキへの登り口らしき道を裏手に見つけて。「あそこから登れそうだな~。ワクワクするな~」とはしゃいでいた仲原館長の(珍しく)素直な笑顔が印象的でしたよ。


  ▲デーグスク(振慶名側からみる)  ▲田井等の神アサギからみたデーグスク

7月2日(金曜日)

 歴文の玉城菜美路さんが「天底のタキヌウガン―移動村の事例―」で報告会。文化財係と歴史文化センターのスタッフが調査したことや関わったことを報告し共有化していくものです。身近にあって見えないこと、気づかないことが多々あります。このように報告会の形をとると、動きや業務の全体像が見えてきます。菜美路さんの調査した「天底のタキヌウガン」は、HPで報告してありますが、本人のことばで説明してくれると、祭祀が手にとるようにわかります。以下、本人に書き込んでもらいましょう。


 ▲30年前の祭祀と今と比べてみると、祭祀は生き物だと気づかされます。・・・。


 ▲「わたしたちも、参加してみたいね!」   ▲「ウタキってなんですか?」


630日(水曜日)

 お待たせしました。沖縄県博物館協会研修会の報告です。

1.あの仲原弘哲大館長、沖博協で顕彰を受け、美女より花束!!

 平成223月をもって退職された館長ですが、長年沖縄県博物館協会(沖博協)理事として活躍された功績により、この度の総会において顕彰を受けられました。

 沖博協の総会資料に掲載された「功績」をここに記しておきますね。「仲原早分かりマニュアル――功績編」です(^^)

(功績)
 1989(平成)年今帰仁村教育委員会歴史資料館準備室において学芸員となり、今帰仁村歴史文化センターの設置に尽力した。1995(平成7)年、今帰仁村歴史文化センターが開館すると同時に館長に就任、以来14年間館長として館の運営を行った。その間、数多くの展示会を企画するとともに、研究書である『なきじん研究』(117号)の発刊、「ムラ・シマ講座」の開催等、博物館活動を通して山原の歴史・文化の研究の深化・発展、山原学の普及に貢献した。また1996(平成8)年以降は、沖縄県博物館協会理事として協会の発展に貢献した。1993(平成5)年、沖縄県文化協会賞(金城朝永賞)受賞。

 今年3月に退職された南風原文化センターの名物館長大城和喜さんとの同時顕彰で、全くタイプの異なるお二人を壇上にお見受けしながら、博物館という動きから、大事な厚みが抜けてしまったような感じを持ちました・・・・仲原館長は嘱託として継続となりましたが。

 受賞者の挨拶はなかったのですが、思いやりと気遣いあふれるうちの長田係長が花束を持ってわざわざ読谷に駆けつけてくださり(私も菜美路さんも、花束のことなんてち~~~っとも思いつかなかったのに・・・・。長田係長ありがとうございます)、うら若き美女の菜美路さんから館長に花束を贈呈いたしました。館長、鼻の下が4割増しだったなー。


2.学芸員のやる気を大いにかき立てる男・・・
              「板橋区立美術館館長安村敏信」

 さて今回の研修会のテーマは「広報・宣伝・集客」という今帰仁にとっても(今帰仁城跡にとっても、文化センターにとっても)課題であるテーマでしたが、まず最初に東京都板橋区立美術館の館長である安村敏信氏の講話がありました。タイトルは「マスコミや人にアクションを起こさせるには」。交通アクセスが非常に不便な板橋区立美術館が、どのような工夫を凝らしてお客さんに来てもらう努力をしているか、安村館長のユーモアとインテリジェンスあふれるお話に最初から最後まで惹きつけられっぱなしで、50分があっと言う間、もっともっと学ばせて頂きたい内容でした。

 講話を伺いながら「あー仕事したいっ! 仕事したいっ! 仕事した~~~~いっっっ!!」とかき立てられるワクワク感・・・・・それは博物館の職員として、来館者が「面白かった。来て良かった、良く分かった」と満足してもらえるような展示会をしたいという久しぶりの熱い思いでした。

 結局は学芸員の腕次第。知識と遊び心を働かせて、どれだけ来館者の好奇心に火を点け、足を向けさせ、展示されているものの魅力に引き込んでいくか。見る側に責任を転嫁しないで、楽しく知恵を絞っていこうと、秋の展示会に向けてやる気ルンルンの丑。「分かりやす~い!面白~い!」と言ってもらえるようなキャプションを書くぞお(^^)9

3.山田グスクに今帰仁ソンチョウが!! 
              ~アレに見えるはコノハチョウ~

  翌19日(土曜日)は現地研修で山田グスクへ。仲原館長はお留守番。丑・菜美路・広子運営委員の三名で教育委員会の車に乗り、名護のアルテック横のベンチにボ~~っと座っている豊口調査員をピックアップしていざ恩納村へ。山田グスクの詳細は豊口さんが報告して下さった通りです(豊口さん、ありがとう~)。

  晴れてはいたものの、グスクの狭い山道は濡れて非常に滑りやすく、険しい個所もけっこうあって何回もヒヤヒヤしました。沖博協事務局の濱口さんが事前に「H22沖博協現地研修地(山田グスク)下見結果報告」で「ころばぬように注意する必要は大いにあります」と、まるでS字クランクのようコメントをFAXを送って下さったおかけで、その心づもりはできていた・・・つもりだったのですが、やっぱり濡れた山道は危なかったです。転ばないで良かった・・・・広子運営委員は最後の最後に転んだけど。でもお尻はつかなかったと自慢していたけど。

  しかし。色んな研修会に参加したけれど、「現地研修地下見結果報告」なんて初めてもらったぞ。この下見の報告が面白かったので、歴文職員だけで独り占めするのがもったいなく、運営委員のみなさんにFAXで送ったり、回覧回したりしてみんなにシェアしました。濱口さん、集客効果、ヒットですね~(^^)v

  山道行列で私はラッキーなことに豊口さんの真後ろを歩くことができたので、「これは○○ですね~」「あれは○○の幼虫ですね~」「これは○○の声ですよ~」などなど、たくさんの事を教えていただきました・・・・が、悲しいかな、ほとんど忘れてしまいました。

   覚えていることは
  1.モウセンゴケ。めっちゃカワイイ。生クリームを絞ってデコレートしたくなる。    2.枝にそっくりのナントカの幼虫がいた
  3.クロイワニイニイが鳴いていた(豊口さんはクロイワニイニイを教えてくれる
    時必ず「クロイワネエネエじゃなくてですね・・・・」と前置きしてくれます)。

  4.ルートビア草(ホントの名前は「?」)の根っこはマジでルートビアの恐ろ
    しい匂いがした。

  5.テンニンカやノボタンが山田グスクの北側に進むにつれて多くなってきた。
    それにしても、テンニンカ(天人花)の清楚で美しいことと言ったら!

  6.糸を張らずに、土の中にトラップ(罠、ワナワナ♪)を作るクモがいるという
    ことを、そのトラップを教えてもらえたことで知ることができた。トラップの
    ドアをノックしてみましたが、木村クモ太郎くんはあいにくお出かけか、中で
    息を殺してヤバイ奴らが通り過ぎるのを待っていたようです。

  7.ヤブニッケイを教えてもらう。葉っぱをちぎったら肉桂(シナモン)の匂いが
   するよ~と広子さんと豊口さんに教えてもらいましたが・・・・これはホントにシナ
   モンなの? 葉っぱの青匂いじゃないの? きっときっと私の鼻がおかしいのね。
   ルートビア草のせいで壊れちゃったのね。


   そして、本日のメインイベント!

    豊口さんがコノハチョウを発見!!

  ひゃ~、生きているコノハチョウ、初めてみました! 感動しすぎて、また列の後ろを待たせちゃいけないとの遠慮もあり、ゆっくり見る余裕がなかったのが残念でした。羽の色が美しく、豊口さんによると越冬したオスらしいとのこと。「まあ~、寒い冬を乗り越えて、こうして会うことができたのねっ、ソンチョウ! まるで冬ソナ♪」と目と目でひしと抱き合ったソンチョウとワタシ・・・・(うふ)。コノハチョウは今帰仁の村蝶。豊口さんが見つけてくれなかったら、きっと誰もコノハチョウと分からなかったかも。でかした豊口!!

  さて現場研修を終えてから、思わぬ自分の変化に気づきました。それは聞こうともしなかった虫の声、鳥の声に聞き耳を立てるようになったり、私にとって一番画期的なことは「名前を知りたい、覚えたい。この声の持ち主が何なのか知りたい」と好奇心を持つようになったということ! 今までは「カエルだー」とか「鳥だー」とか「セミだー」位で終わっていたのに(あまりにも雑すぎですね。反省)。まるでヘレン・ケラーが外側を発見することイコール名前の確認だったみたい(丑とヘレンじゃかなり差がありすぎですが)。名前を知っていると、お友達のように気持ちが近づく。お、ここにもノボタンが咲いているな、とか、今鳴いている蝉はクロイワ君かな、それともオオシマ君かな、とか。それはアサギを知り、ウタキを知り、湧泉(ハー)を知ったムラに抱く親近感と同じもの。知っていくから、好きになれるんですね~。

4.研修あとの萌え~タイム
   現地研修終了後、恩納村立博物館向かいの海産物レストランでおいしい昼食を食べ、目指すは道の駅内にあるぜんざい屋さん! ここで広子委員は「黒蜜きなこと紅イモ」のハーフ&ハーフ、菜美路さんは「抹茶」、豊口さんはは「マンゴーのスムージー」、私はソフトクリームの黒蜜きなこがけを注文しました。

   メニュー全部がテーブルの上に並ぶと、おおおお! 何とゴージャスでデリシャスな夏の甘味風景なんでしょう! それぞれのスプーンで一口づつ味見できて満足満足~♪ スムージーが予想外に美味しかったですねー。ここで理由は何故だったかよく覚えていませんが、豊口さんに「ハッピー豊口」の名前が献上された。そしてサルに似ているという某米国大統領をテレビで見ながら「ねーねー、オ●マさんって、日本人離れしてるよねー」と側にいる人に言ったら「だって日本人じゃないし」と突っ込まれたという広子委員に「日本人離れしている広子さん」という名前が献上された。

   本当に充実した意義ある研修会でした。私も菜美路さんも、笑いすぎて腹筋が鍛えられました。企画運営の労を担って下さった沖博協事務局のみなさま、ありがとうございました。


【初めに】

平成224月に再び歴史文化センターに舞い戻って参りました、丑です。新しい歴文になじんでいく日々の(どーでもいいかも知れないような)出来事をちょこちょこゆるゆるゆら~ゆら・・・と記していきたいと思っています。

 館長の内容にははるか及びませんが、どうぞよろしくお願いします。

624日(木曜日)

 先週618日(金)、19日(土)の二日間、読谷村で沖縄県博物館協会の総会が開かれました。
 今日は時間がないのでトピックだけをお知らせしておきます。

1.あの仲原弘哲大館長、沖博協で顕彰を受け、美女より花束!!

2.学芸員のやる気を大いにかき立てる男・・・「板橋区立美術館館長安村敏信」

3.山田グスクに今帰仁ソンチョウが!! ~アレに見えるはコノハチョウ~

4.研修あとの萌え~タイム

・・・以上の内容で、後日アップの予定です(明日から火曜日までカンチョーがお出かけなので、更新できないんです。ぐすん)。

 山田グスクでの現地研修については、文化財職員の豊口敬(たかし)さんが真面目な報告をして下さいました。ありがとうございます。この報告を先にご紹介いたします。それではどうぞ♪


平成22年6月19日(土)沖縄県博物館協会研修会 於 恩納村 山田グスク

石野さん、玉城さん、岩井さん、豊口(今帰仁村歴史文化センター)

「山田グスクに史跡とヤンバルの自然を見る」に参加して

豊口 敬

(講師;千木良先生、県立博物館)

 はじめに、グスクへの道に入る前に、歴史の説明を行う。その際に、これから歩く場所の特徴を説明し、また、発掘をする前なので道は最小限にしか除草していないので、歩くときには両側へは行かないように注意。

 再び集まってまとまった説明ができないので、歴史の話はここで済ます(前説明)。

 山田グスクには、護佐丸が支配していたが、座喜味グスクへと移る際に、山田グスクから岩(石)を運び城壁を築いた。・・・・など歴史の話が終わる。

自然については、随時、千木良先生が担当する、ということ。

(千木良先生)ここの地質は琉球石灰岩であり、石灰岩特性での生き物・植物がある。また、ヤンバルの特徴を残すところ(北部と南部の境界線あたり)であり、様々な生き物が確認されている。植物については、一番目にするのは「ガジュマル」。それは石灰岩を象徴する植物である。

<山田グスク遺跡周辺での説明>

 ①   グスク跡周辺(大ガジュマル)での説明。

 これが山田グスク周辺を特徴づけている植物。これ以外に、アコウ・ヤブニッケイなど。今の時期だったら、ノボタンが咲いている。うがんに来ている地元の人(おばあちゃん、おじさん)が、大ガジュマルの前で、お香をたいてお参りしていた。ウタキには、そこを特徴づける植物が、大きく生長して、奇樹となる場合があるが、山田グスクのガジュマルは、きれいな樹形で、いかにもガジュマルらしい姿であった。ガジュマルには、森の妖精であるキジムナーが棲むと言うが、神様の住むウタキと、人が祈るウガンジュ、ご神木のガジュマルが太古の昔から、伐られずに山田グスクを見続けてきたことを考えると、感慨深い。

②ガマ(地下水の流れる音)周辺での説明

 途中で、コノハチョウ(オス)が樹液にきているのを発見。

 まず、千木良先生が「今、ここにくるまでにコノハチョウ目撃した人」と聞くと、約半数の参加者が手を挙げる。「見れた人はラッキーです。山田グスクでは今、調査しているが、初記録のチョウ。食草は確認しているのでいるとは思っていた。従って、山田グスクで記録された種(動物)は263種ということになる。また、ここにはイボイモリも生息していて、多くいます。今回観察できたら、新聞にトピックとして載せる予定です。」

 天然記念物に指定されている生き物が、身近に観察できる場所というのは、大変貴重である。それも、一種のみでなく、運がいいと、複数が見れるというのは、日本全国的に見ても貴重であると思う。それも沖縄という島嶼環境の特徴である。

 ここからは森の様子が少し変わります。ノボタンが多く見られるようになります。下もよく見ましょう。また、周辺の音も聞きましょう。セミ、鳥だったらメジロ・ウグイス・ヒヨドリ。見ることも大切であるが、自然というのは、視覚だけでなく、聴覚や様々な感覚で楽しむものでもある。つまり、五感で周囲の自然を感じることができれば、より深みが増す。さりげなく、地面を見るだけでなく、周囲の音も感じましょう、とお話しされた千木良先生は、やっぱり自然が大好きなんだなと思いました。

 セミだけを見ても、今の時期だったら、クロイワニイニイ(ニイニイゼミの仲間)とリュウキュウアブラゼミ、オオシマゼミの3種が、鳴いている。姿を発見するのは難しいが、鳴き声は確実に違う。リュウキュウアブラゼミの鳴き声は、まるで鍋をカチカチするような鳴き声なので、方言で「ナービカチカチ」ともいう。鳴き声は面白い。鳥も、都市部に住んでいる普通種が中心となっていたが、よく聞いていると、サンコウチョウが鳴いた。サンコウチョウは、今帰仁村の鳥にもなっているので、地域を違えて聞いても、なんか親近感がある。しかし、サンコウチョウについては他の誰も気づかなかった。

③  しばらく進むと、片側のり面にて、キムラグモの巣を発見。田中さん(県博)が「それ、キムラグモ、それともトタテグモ?」と聞き、千木良先生が「キムラグモです。」と、原始的クモの説明を行う。自然観察会の時間に限りがあったので、詳細な説明はなかった。ここで、実際の姿を見ることができれば、クモといっても体節の名残のある原始的なクモであることが実感できる。トラップドアを形成するクモは、なかなか他では観察することができないと思うので、少し説明に時間を割いてもいいのかなと思った。

 空中に網を張っている造網性クモとの対比もできる。次に、リュウキュウハグロトンボのオス2匹を見て、「これがヤンバルを特徴づける昆虫。」周辺にはリュウキュウルリモントンボ(黄色型)も1匹いた。そこでは、なぜ、山の上に本来は渓流性で流れの近くでしか見れないトンボがいるのかの説明はなかった。私も山の上になぜ、渓流性のトンボが普通に見れるようになっているのかはよく分からないが、おそらく意味もなくそこにいることはないと思う。縄張りの範囲など、意外に広いのかもしれない。

 ミナミヤモリを千木良先生が捕まえて、「最初、トカゲモドキの子供かと思った。」と説明。先生の専門分野のようで、何とも楽しそうであった。夜間、よく一人でここを歩き、様々なトカゲを見ている。 道中、オキナワハンミョウとリュウキュウヒメハンミョウが「ミチオシエ」しながら、滑りやすい道を進む。ハンミョウについては、全く気づく人がいなかった。滑りやすい足下をより注意するのを促す手段にもなりそうである。かなり上の方へ行き、立ち止まって、千木良先生が説明。

 「ここの森がヤンバルを表している所の一つ。リュウキュウマツも周辺がヤブニッケイなどの高木に覆われると、しだいに姿を消し、ヤンバルではイタジイなどの陰樹が生えてくる。様々な地質は、様々な植物が生えるのを助け、そこにはいろいろな動物が出現し、生活する。配付資料の4ページを見て下さい。ここには沖縄市は出ていませんが、それは全ての分類群の調査が実施されていなく、比較できないからです。一番多いのは、大宜味村です。

 山田グスクもある程度は多くの種が出ていますが、あくまでも種数であって、個体数はそんなに多くはありません。沖縄島中南部での特徴で、種が多い割には個体数が多くはない。従って、すぐに姿を消してしまう危険性を含んでいます。」ここの、種が多い割には、個体数が少ない、という説明は非常に重要な事柄である。多くの人たちは、種が多いと言うだけで、安心してしまうからである。沖縄の自然は、多様であり大変整っているように見えるが、すごくデリケートで、壊れやすいということ。一度、壊れたら、なかなか元には戻らない。大切な自然保護の考えである。

④ 最後に、参加者を集めて、説明(千木良先生)。本日、集まった方々は、全てが文化財(考古)の人たちであって、どちらかというと木を切って、そこの遺跡を出す人たちです。しかし、今まで見てきたように、その上の自然は様々であり、貴重な自然が広がっています。文化財も大切ですが、自然も大切にしていきましょう。日本では、地域の文化財というと、大切に守られている場所や物以外に、緊急発掘的な物はそこの場所から移動したり、遺跡の現状が書類上に記載される(測量などの図面)のみで、そこの場所には別の建造物が建ったりと、一般には理解度が薄いように思える。

 本来であれば、貴重な埋蔵文化財が発見されたと言うことで、大切に保護することで、その後の観光資源にも利用できるはずである。歴史的価値のある埋蔵文化財的なグスク跡などは、その当時の自然環境も回想できれば、なお一層、価値が増すと思う。そのためにも、可能な限り、今の現状のまま、自然環境も大切に守る必要があると考えます。埋蔵している城壁をお客様に安全に見てもらうためには、最小限の伐採なども必要であるが、そこには皆伐的概念は必要はない。山田グスクは、そのような保存管理的計画の元で、グスクの維持を図っているように思えました。

<感想;所感>
 
山田グスクは、自然観察を実施するには、城内に広い場所がなく、また、現在も遺跡発掘中のようで、とにかく歩く道は狭い。また、起伏が激しく、滑りやすい路面も多くあり、崖も多い。今回、歴史など、細かい説明はグスク内部に入る前に終わったが、このような危険箇所の多い場所では、そのような工夫・配慮も大切だと実感した。石灰岩地質の自然環境での生物や植物の説明が、今後、今帰仁城跡周辺での自然観察を実施する際には、非常に参考になる事例だと思った。出てくる生き物の説明以外にも、地形・地質などの要素も、解説に含めていた。

 山田グスクは、非常に狭い範囲に、歴史が凝縮され、それを取り巻くように、自然環境が覆い尽くしている、という印象を受けました。山田グスクと比較して、今帰仁城跡は、歴史も古く、城壁に利用している石灰岩も、古期石灰岩と大変古い。山田グスクは、中南部地域に多く見られる琉球石灰岩を城壁に利用していたので、周辺に転がっている石はどれも多孔質で、穴やへこみが多く見られた。石灰岩一つとっても、形成過程から全く異なるんだと、実感しました。

 山田グスクへと通じる道は、今帰仁城跡ではハンタ道や馬車道などであると思うが、はるかに道幅が広い。城壁の形態は、同じ石灰岩を野面積みしたものであるが、それを取り巻く道や自然は異なり、歴史的背景も含めて、様々な比較をすると面白いと感じた。王の権力構造も、今帰仁城跡と山田グスクでは、どれくらい異なるのかなど、もっと知りたいと感じました。また、今帰仁城跡の城壁は、すごく美しいアーチ型構造をしているが、その整然とした石・岩は、伝説では妖刀で、一刀のもとで切ることができたので、多くをそろえることができたと考えられているが、それも王の権力と関係があるのではないかと考える。